第五章 離愁3
ずぶ濡れのままマンションに戻り、服を着たままシャワーを浴びた。
頭から熱い湯を浴びているのに、身体の芯はいつまでも冷えたままだ。
シャワーを止め、鏡を見る。そこに映っていたのは、ひどくくたびれた男だった。よれた服、力の抜けた目元――こんな姿で千秋に会っていたのかと思うと、思わず苦笑が漏れる。
ホストのスーツを着ていれば、きっと彼の目を惹いただろう。それでも――。
「……これが、本当の俺の姿だ」
取り繕っていない、偽りのない姿。
胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に、鏡の中の顔が歪んでいく。胸に穴が空く、とはよく言ったものだ。こんなにも、息苦しい。
(千秋……今頃、泣いていないだろうか)
考えた瞬間、身体が鉛のように重くなった。その場にしゃがみ込み、濡れた服を脱ぐ気力すら湧かない。
「……幸せになってください、か」
あんな大切な言葉を向けられて、何ひとつ返せなかった自分が情けない。差し出された温もりが、指の隙間から零れ落ちていく感覚を覚える。
――その四日後。入院していた母の危篤の知らせを受けて病院に駆けつけたが、そのまま帰らぬ人となった。
悲しみが大きすぎて、涙は出なかった。
気づけばすべてが滞りなく進み、母の身体は灰になり、煙となって空へ昇っていく。ひとり残された自分は、これからどう生きるべきかを考えていた。
父から、仕事を続けるのか辞めるのかを問われたばかりだった。
砂利を踏む音がして振り向くと、義兄が隣に立っていた。長い髪を揺らしながら静かにこちらを見るその表情は、驚くほど優しい。
中学生のときに母を亡くした人だ。今の俺の気持ちを、きっと誰よりも理解している。
「穂高、煙草吸うか?」
その一言に、心が微かに揺れた。
母の死よりも、別れの方が深く抉っている。底の見えない傷口が、じくじくと痛む。
「……悪い。やめたんだ」
一瞬、義兄が目を見開き、すぐに煙草を引っ込めた。
「煙草だけじゃなくて、紺野千秋とも別れたんだろ」
「……ああ。二兎追う者一兎も得ず、だった」
「違うな。追いかけてもいない」
義兄は俺の顔をじっと見つめる。
「その作り笑いが、答えになってる」
言われて初めて、自分が笑っていることに気づいた。
「反対してたんじゃなかったのか?」
「本気で反対してたら、もっと汚いやり方で別れさせてるよ」
やけに淡々とした声が耳に落ちる。
「あの子な。お前の話を聞いても、信じたいって顔をしてた。それが気に入った」
「……」
「だから、今回も裏から手を回したんだよ。もう誰も怪我しないようにな」
義兄は腕を組み、深く息を吐く。
「それなのにお前は、自分で全部壊しに行った」
「だって……俺に関わると、みんな傷つく気がして」
「俺は傷ついてない。お前につけられたこの顔のキズだって、キレイにすることのできるものだしな」
即答だった。
「お前が幸せになれば、周りも勝手に幸せになるんだよ」
言葉がストンと胸に落ちて、声が出なかった。
「穂高、母さんが亡くなって、お前を縛ってた鎖は全部外れた。さて、これからどうする?」
(やりたいこと……)
「まずはイタリアに行く。父に、母のことを伝えたい」
「わざわざ?」
「……二人が出会った場所の空気を、吸ってみたくなった」
仕事を辞める前の今だからこそ、行ける気がした。
「そのまま向こうで暮らすのか?」
「いや。帰ってくる。日本にいたい」
――千秋が、この地で生きている限り。
「仕事は?」
「ん……修行、かな」
「まさか、あの頃揉めた“アレ”か?」
図星だった。
「昔は逃げたけど自由になった今なら、挑戦してみたい」
「だが、実際体力的にきついぞ?」
「それは……否定できないね」
苦笑すると、義兄に背中を強く叩かれた。
「弱音を吐くな。お前が稼いだ分は現金で渡してやるからさ」
「義兄さん……?」
「それとも現物がいい?」
「そうだね。だったら名前は『昇丸』で」
「それ、ないわー」
義兄は呆れながらも、どこか楽しそうだった。
「修行先、俺が世話してやろうか」
「義兄さん……何か裏がある?」
「最後くらい、兄貴面させろよな」
しばらく沈黙した後、俺は頷いた。
「……頼むよ」
「よし」
義兄は煙突から立ち上る煙を見つめる。
「穂高と兄弟になれた証、是非とも残させてくれ」
その背中が、いつもより大きく見えた。
「ありがとう。義兄さんと兄弟になれてよかった」
「俺もだ」
固く握られた手は骨ばっていて、とても温かかった。
失ったものは大きい。それでも、すべてを失ったわけじゃない。
とりあえず四十九日まで日本に滞在し、仕事の引き継ぎと別れを済ませた。
そして、イタリアへ旅立つ日。誰にも見送られず、静かに日本を離れた。
――その日、義兄が千秋に会いに行くことを、俺はまだ知らなかった。




