第五章 離愁2
スマホを握ったまま呆然と店内に戻ると、大倉さんが慌てて駆け寄り、俺の額にそっと手を当てた。
「穂高さん、顔色が随分悪いよ。無理しなくていい。今日は上がって」
「……ありがとうございます。お先に失礼します」
深く頭を下げ、ロッカールームへ向かう。
着替えたのは、いつものくたびれたスーツだった。
酒を入れてしまった以上、歩いて帰るしかない。
だが、それはむしろ好都合だった。
この時間に店を出れば、千秋のバイト終わりと重なる。
――別れを告げるなら、今しかない。
夜道を歩きながら、言葉を探す。
「……どう言えば、いいんだろうな」
なるべく傷つけない別れなんて、あり得ない。それでも、もし選べるなら――俺を嫌いになってもらう形がいい。
中途半端な情や未練を残すより、徹底的に拒絶される方が彼のためだ。
「……俺の裏を見せればいい」
そうすれば、きっと軽蔑される。あのとき義兄さんの話を聞いた後に向けられた、怯えた視線のように。
スーツのポケットから煙草を取り出し、火を点ける。冷たい風が吹き抜け、思わず肩を竦めた。
隣に千秋がいれば、それだけで救われたのに。彼がいるだけで、心の奥まで温められるのに。
「……っ」
視界が滲む。感情を押し殺そうとするほど、煙草の味が苦くなった。
「……煙草も、やめないとな」
出逢いのきっかけだったもの。それを口にすれば、楽しかった時間も苦しかった時間も、すべて蘇る。
「一緒に……やめる、つもりだったのに」
堪えていた涙が、静かに頬を伝った。まるで千秋が、そっと触れてくれたみたいで。
月のない夜空を見上げる。濁った闇は、自分の心の中そのものだった。
抗えない未来へ向かって、ただ歩く。
気づけば一時間近く経ち、コンビニの明かりが見えた。腕時計を見ると、もうすぐ彼が出てくる時間だ。
物陰に身を潜め、様子を窺う。怪我をしていないか、それだけを確認したかった。
「……大丈夫。これは仕事だ」
千秋を守るための、最後の仕事。
自分に言い聞かせた、その直後。ドアが開く音がした。
明かりの中に現れたのは、細身のシルエットと見慣れた黒髪。寒さに一瞬肩を竦めてから歩き出す――愛しい人。
「……千秋」
無事な姿に、安堵の息が漏れる。
後ろ姿に、思わず手を伸ばしかけて止めた。
――触れてしまえば、離せなくなる。
拳を強く握り、爪が食い込む痛みで自分を保つ。
「千秋っ!」
呼びかけると勢いよく振り返り、嬉しそうに笑った。その笑顔に、胸が締め付けられる。
それでも、俺も微笑んだ。
「バイト、お疲れ」
「穂高さん……ホスト、辞めたんですか?」
「いや。辞めてない」
その瞬間、千秋の表情が凍りついた。
「……辞めるまで、会わないって」
「覚えてる。でも、答えを先延ばしにするのは違うと思った」
「答え……?」
「別れだよ」
言葉が、彼を切り裂くのがわかった。
「義兄さんから聞いただろ。俺の本性を」
「……」
「ホストを続けてるのも、君だけじゃ足りなくなったからだ。最初から、軽い気持ちだった」
煙草を取り出しかけて止める。そのまま手の中で握り潰した。
「だったら……どうして、あのときすぐに切ってくれなかったんですか……」
揺れる千秋の瞳に、涙が滲む。
「……俺は最低な男なんだ。人の気持ちを踏みにじることに、何の躊躇もない」
これ以上、言わせるな。そう願いながら、敢えて続ける。
次の瞬間、頬に鋭い痛みが走った。千秋は震える手を胸の前で握りしめ、俺を睨んでいた。
「……ひどい。そんなこと言える人、俺……大嫌いです」
その言葉が、深く胸に突き刺さる。
「穂高さん、今までの言葉も……全部、嘘だったんですか」
「……そうだ。作り物だ。愛してなんて、いない」
大きな瞳から涙が零れ落ちる。まるで、俺の代わりに泣いているみたいだった。
そのとき、冷たい雫が頬に落ちる。雨だった。
ジャケットを脱ぎ、千秋の頭に被せる。腕を引く瞬間、そっと涙を拭った。
「……返さなくていい。じゃあな」
背を向け、歩き出す。
雨が、俺の涙を隠してくれる。きっと、彼は俺を嫌いになっただろう。
「穂高さん!」
振り返ると、千秋がなぜか笑っていた。泣き顔のまま、必死に。
「俺は本当に、貴方が好きでした。こんな気持ちを教えてくれて、ありがとう」
「……」
「出逢えてよかった。幸せになってください」
どうして、そんなことが言える。
「穂高さん……だから、泣かないで……」
声が震えそうになり、顔を覆って走り出した。
冷たい雨が、思考を奪っていく。
最低な別れだったはずなのに。未練を断ち切るはずだったのに。
「……千秋」
こうして、俺の心に残り火が灯った。どんなことをしても、消えない残り火が――。




