第五章 離愁
どれほど悩んでも、時間は容赦なく過ぎていく。
答えを出せないまま、二つの仕事を淡々とこなす日々が続いていた。
「今夜もご来店いただき、ありがとうございます」
常連のお客様に丁寧に頭を下げ、隣に腰を下ろす。ふと目に入ったのは、手首に巻かれた白い包帯だった。
――千秋の心にも、こんなふうに見えない包帯が巻かれているのかもしれない。
いつもならその痛々しさに眉をひそめ、手首にそっと触れて労わる。だが今の俺にはそんな余裕すらなく、わずかに視線を逸らしながら訊ねた。
「……手首、どうかされたんですか?」
「そうなのよぅ。後ろから急に誰かにぶつかられて、転んじゃって。ひどいでしょ?」
大げさに肩をすくめ、泣き真似をしながら抱きついてくる。反射的に、その頭を撫でて宥めた。
「それは大変でしたね。早く良くなりますように」
この時は、ただ運の悪い出来事だと思っていた。でもそれだけで終わる話ではなかった。
「今夜で何人目だろうね。穂高さんのお客さん、包帯してるの」
「俺が知ってるだけでも……四人はいるかな」
柔らかな笑みを浮かべながら答える鳳が、意味ありげな視線を向けて通り過ぎていく。嘲るような足取りに、胸の奥がざわついた。
大倉さんが顎に手を当て、思案するようにこちらを見る。
「穂高さん。誰かに恨みを買うような覚え、ないかな?」
「……さあ、どうでしょう」
思い当たる節が多すぎて、曖昧に返すしかなかった。この店だけでも、俺を快く思っていない人間は決して少なくない。
『最近、周りで何か変わったことはないか?』
以前、義兄さんに言われた言葉が脳裏をよぎる。胸の奥が、ひどく嫌な音を立てた。
「少し席を外します」
了承を得て店の外に出ると、義兄さんに電話をかける。繋がるかどうかわからないまま――。
『もしもし。どうだい、決断はついた?』
わずか2コールで繋がり、いきなり核心を突かれた。
「それはまだ。それより聞きたいことがある」
『変化に気づいたってことは、多少は冷静になれたみたいだね』
からかうような声音に、思わず眉を寄せる。
「俺の客に、立て続けに怪我人が出ている。偶然とは思えない」
『物騒だね。直接的な話じゃないが、こっちで状況は掴んでいる』
声色が、ほんの少し低くなる。
『問題は、その相手がどこまでお前のことを調べているか、だ』
――嫌な予感が、確信に変わる。
「……身内にまで、及ぶ可能性があるってことか」
『さあね。お前に執着する人間なら、可能性は否定できない』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
『一応、店には注意を回しておく。でも――』
少し間を置いて、義兄さんは続ける。
『お前の存在そのものが、誰かを巻き込む火種になってるのは事実だ』
その言葉が、重く胸に落ちた。
『穂高に関わったせいで、余計な不安を背負う人もいるかもしれない』
返す言葉が、見つからなかった。
『穂高、報告ありがとう。あとはお前次第だ』
一方的に通話が切れる。耳に残る無機質な音に、手から力が抜けた。
(……迷っている場合じゃない)
もし俺が傍にいなければ……千秋は怯えることも、不安を抱えることもなく穏やかに生きていける。
たとえホストを辞めたとしても俺の過去を知った彼の心から、不信が完全に消えることはないだろう。
だから――。
「……俺が身を引けばいい」
そうすれば、千秋は解放される。俺という不安定な存在から。
胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。
それでも決めた、彼を守るために。
――千秋と別れると。




