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残り火  作者: 相沢蒼依
第四章
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第四章 守るべきもの3

***


 ここ最近の状況を報告しようと、義兄さんの携帯に何度も電話をかけていた。


「毎日の売り上げ報告は大倉さんが上げているから把握しているだろうけど……それにしても、このままあの人が俺を放置するとは思えない」


 経営者として先を見据えるなら、何らかの指示があってもおかしくない。それなのに、あまりにも静かすぎる。


 裏で何かを進めている――そんな予感が胸をよぎり、嫌な胸騒ぎがした。


 急いで本店のパラダイスに電話をかけ、義兄さんの所在を確認する。


『オーナーでしたら、この三日ほど日中は地方の支店を回っていて、夕方以降はフリーで動かれているようです。○×大学で、大事な方とお会いになるとか……』


 その大学名を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。千秋が通っている大学だった。


「そうですか。ありがとうございます。連絡しても繋がらなくて」

『こちらも捕まらず困っているんです。連絡が取れるといいですね』


 礼を言って電話を切る。


 喉が一気に渇いた。


 義兄さんが千秋に接触しようとしている――その事実だけで、視界が揺らぐ。何を話すつもりなのか、想像することすら怖くて、冷や汗が滲んだ。


「あれ、井上さん? 顔色悪いけど大丈夫?」


 隣の席の同僚が心配そうに声をかけてくる。


「ちょっと……風邪気味みたいで。咳も出るし、寒気が」

「じゃあ残りはこっちでやるから、今日はもう帰りなよ。無理しないで」


 その一言で帰宅が決まり、病人らしくふらついた足取りを装って職場を出る。


 そして駐車場に出た途端、一目散に車へ向かった。


 その間も何度か義兄さんに電話をかけたが、やはり繋がらない。


 額の汗を拭い、車に乗り込んでエンジンをかける。

 本当なら一服して気持ちを落ち着けるところだが、そんな余裕はなかった。


 アクセルを踏み込むと、タイヤが短く悲鳴を上げる。


「……どうして、こんな時に限って」


 信号、渋滞、進まない前方車両。ハンドルを強く握り、苛立ちを抑え込もうとするが、逆に指先に力がこもる。


「千秋……」


 脇道に入れば住宅街で、余計に時間がかかる。焦りを押し殺し、道なりに進むことを選んだ。


 二十分後、大学前に到着する。門の近くに停められた白いベンツが目に入り、胸が強く締めつけられた。


「……やっぱり」


 車を降り、周囲を見渡す。少し離れた場所――塀のそばに、二人の姿があった。


 顔色を失い、口元を押さえて立つ千秋。その前に、長い髪を揺らしながら立つ義兄さん。距離があっても、空気の重さははっきりと伝わってきた。


 胸の奥が、ぎりぎりと痛む。


 息を切らして近づくと千秋がこちらに気づき、大きく目を見開いた。肩にかけていた鞄が、音を立てて地面に落ちる。


「千秋、大丈――」

「来ないで……イヤ……」


 拒絶の言葉に、思考が止まる。


「千秋……?」


 彼は鞄を拾うこともせず、塀伝いに後ずさった。その背後に回り、義兄さんがそっと肩に手を添える。


「穂高、この子に近づくな。お前が来ると、余計につらくなる」


 拳を強く握りしめる。近づきたい気持ちを、歯を食いしばって抑えた。


「……何を言ったんですか」

「決まっているだろう。お前のことだよ」


 義兄さんは千秋の頭に手を置き、ゆっくりと撫でる。千秋の瞳から、静かに涙が溢れた。


「……触らないでください」


 一歩踏み出すと、千秋は怯えたように義兄さんのほうへ身を寄せる。


(……千秋?)


「汚い手は俺だけじゃない。お前も同じだ、穂高」


 言葉が喉に詰まって真顔をキープする俺とは違い、義兄さんは愉しそうに笑い、千秋に語りかけた。


「君も、どこかで分かっていたんだろう? 穂高がそういう人間だって」


 千秋は背を向けたまま、小さく頷いた。


「……怖かったんです。知ってしまったら、不安しか残らないから」


 その声が、胸に深く突き刺さる。


「義兄さん、もうやめてください」


 義兄さんは一瞬だけ真剣な目を向け、言葉を続けた。


「君は、見たいものだけを見ていた。穂高の“都合のいい姿”を愛していたんだ」

「俺はちゃんと、愛していた……つもりでした」


 千秋が意を決して俺の顔を見つめる。涙を拭いながら、かすかな笑みを浮かべて。


「……でも、つもりだったんです」


 静かに告げられた言葉が、深く胸に突き刺さった。


「千秋、俺は浮気なんてしていない」

「お願いだから……嘘をつかないで」

「本当だ、信じてくれ」

「じゃあ、背中についたあの傷は何?」


 言葉を失う。背中に傷がついていたなんて、全然――そう思った瞬間、お客様である彼女が冗談を言いながら引っかいたことが脳裏に流れた。


「あの日、女の人が部屋に来ていたでしょう。抱き合った時に気づいたんです」


「誤解だ。何もなかった」

「……それを、どうやって信じればいいの?」


 千秋の大きな瞳から、涙が静かに落ちた。


「彼女に聞けばわかる」

「客の証言? 信用できるわけがない」


 義兄さんが肩をすくめる。


「誰とも関係を持っていない」

「穂高さんを信じたい。でも、信じられない自分もいる」


 千秋の瞳が悲しげにゆらゆら揺れる。


「仕事を始めた理由も全部聞いた。だから余計に、不安になったのもある」


 胸を押さえ、苦しそうに息を吐く。


「だから……お願いがあります」


 再び真っ直ぐこちらを見る。


「ホストの仕事、辞めてください。一緒に暮らせなくてもいい。ただ、前みたいに――」


 言葉を失った。


「答えが出るまで、俺に会いに来ないでください」


 鞄を拾って義兄さんに一礼して、千秋は背を向けた。


――それが、最後通告だった。


「さて、どうする?」


 義兄さんの声が背後から届く。


「二兎を追うのは、賢くない」


 肩を落とした俺を見て、義兄さんは静かに去っていった。


 残された静寂の中で、俺は立ち尽くす。


「千秋……」


 選べない。千秋と母親、どちらも俺にとっては失えない存在だから。


 泣き出しそうなあの笑顔が、いつまでも瞼の裏に焼きついて離れなかった。

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