第一章 火種26
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「千秋、……千秋、大丈夫かい?」
頬に触れられる感触で、ゆっくりと意識が浮上した。
「……あれ?」
「よかった。急に意識を失ったから驚いたよ」
穂高さんの声は、いつもより少しだけ低くて慎重だった。未だに頭が重く、視界がまだ定まらない。
「俺……意識を……失った、の……?」
自分の言葉に、胸の奥がじわりと痛んだ。
(そうだ――あの光景を見て、あの言葉を聞いて、心が追いつかなくなって。浮気かもしれないという疑念と、否定したいのに否定しきれない現実をつきつけられたんだった)
俺の中にいろんな感情が溢れすぎて、身体が先に音を上げただけだった。
ベッドに横になったままの俺に、穂高さんがそっと腕を回してくる。
「……ごめん。怖がらせるつもりはなかった」
謝罪の言葉に、胸がちくりとする。でも簡単に許せるほど、心は整理できていなかった。
「……らしくない顔、してますか」
「ああ。いつもの千秋は、もっと柔らかい表情をしてる」
そう言って、頭を撫でる手つきは優しい。それが余計に俺の胸をかき乱す。迷うことなく、その腕を外して背を向けた。
「……そんな顔にしたの、誰だと思ってるんですか」
小さく零れた本音に、穂高さんは何も言わなかった。代わりに少し間を置いてから、静かに囁く。
「……俺は千秋が好きだ。君だけだよ」
いつもなら救いになる言葉。だけど今は、確かめずにはいられない。
「それ……本当に?」
視線を合わせると穂高さんは一瞬、言葉に詰まったあと、ゆっくり頷いた。
「だから……証が欲しいんだ」
「証?」
「千秋のものだってわかる印、君につけてほしい」
穂高さんの指が、自分の首筋に触れる。誘導するような仕草だけど、無理やりではなかった。
「……嫌ならやめる。選ぶのは千秋だ」
その一言に胸がざわついた。毎回穂高さんに選ばされているのに、いつも選んでいる気がしてしまう。
「だったら噛みます……」
小さく問い返すと、穂高さんは静かに頷く。俺は少しだけ躊躇ってから、目の前にある首元に顔を寄せて歯を立てる。確かに、そこに“自分が選んだ感触”があった。
「……んっ」
穂高さんの息が詰まる。抱きしめる腕に力がこもった。顔を離すと、そこには赤く残る痕。そっと触れて確かめてしまった。
「……これで、少しは安心できるかい?」
そう訊ねる穂高さんの声は、どこか不安定に俺の耳に聞こえた。
「……うん」
答えながら思う。これは安心なんかじゃない。でも今は、これしか縋るものがなかった。
穂高さんの腕に身を預けながら、胸の奥で静かに芽生える感情を見ないふりをする。
(――離れないためには、どうすればいい)
その答えを、まだ言葉にはしなかった。




