第一章 火種24
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その後、数日間は穏やかな日々が続いた。
バイトが終われば送ってくれて、その場で別れたり、泊まったり、泊まられたり。穂高さんが部屋に来るようになってから、少しずつ物が増えていくのも何だか嬉しかった。
急に泊まる時用だとネクタイや下着を置いていったり、煙草を吸うからと灰皿を用意したら、「助かるよ」と穏やかに笑ってくれたのを覚えている。
部屋の目につく場所にある灰皿は、穂高さんがいなくても妙な存在感を放っていた。それを見るだけで口元が緩む自分に少し驚く。
そんなことを考えながらバイトを終え、着替えて外に出た。
「……あれ?」
いつも停められている赤い車が、今日は見当たらない。残業になるときは無理して来なくていい、そう言い合って、連絡を取り合ってきた。今までは、ちゃんと――。
「連絡、忘れちゃうくらい疲れてるのかな……」
電話をかけても繋がらず、胸の奥がざわつく。結局そう自分に言い聞かせて、足早に帰宅した。
「ただいま……」
誰もいない部屋。テーブルの上の灰皿が、ぽつんとそこにあった。一緒に帰れないだけで、こんなに寂しいなんて。少し前の自分なら、想像もしなかった。
そんなことを考えていると、インターフォンが鳴った。覗き窓で確認して、急いで扉を開ける。
「――穂高さん」
嬉しさが込み上げたその直後、彼の様子が明らかにおかしいことに気づく。
「……中、入ってください」
躊躇する背中を押すように、部屋へ迎え入れた。
「連絡なくて心配しました。具合が悪くて、倒れたんじゃないかって……」
「悪かった……」
沈んだ声が耳に届く。顔を見上げた瞬間、穂高さんはその場に膝をつき、俺にしがみついてきた。
「……千秋」
彼の弱った姿を見るのは、これが初めてだった。
「何かあったんですか?」
「……一緒に暮らしたい。ずっと傍にいたい」
抱きしめる腕に、少しだけ力がこもる。慰めるように頭を撫でながら、慎重に言葉を選んだ。
「俺も一緒にいたいです。でも、卒業してからでも遅くないと思います」
一瞬、穂高さんの視線が落ちる。
「わかってる。現実は、気持ちだけじゃどうにもならない」
彼の腕の力が緩み、トレーナーを引かれて自然と膝をついた。
「穂高さん……困ってることがあるんですか?」
見上げた先の瞳は、どこか遠くを見ていた。
「今の稼ぎじゃ、まとまったお金が用意できない」
「……」
「昔、ホストをしてたことがあるんだ」
意外な告白に、俺は言葉を失う。嫌な予感が胸を支配した。
「千秋、俺のこと軽蔑した?」
「……しません。でも……また、やるんですか?」
俺の問いかけに、穂高さんは静かに頷いた。
「千秋と一緒に暮らすために」
反対しても、この人は決めたことを曲げないだろう。その確信が胸に重く残る。
「お金がたまったら、すぐ辞める。だから、それまで――」
そっと額を寄せられる。俺を抱きしめる腕に力が込められた。
「俺を信じてほしい」
静かな声と触れるだけの口づけ。それ以上を拒む理由を、俺は見つけられなかった。
結局この日は、穂高さんの抱える不安を深く聞き出すこともできず、ただ傍にいることで彼を落ち着かせる夜になった。
それが、正しい選択だったのかどうか――このときの俺には、まだわからなかった。




