表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/20

1 クレアと狼

 日陰で丁寧に洗った薬草を干していると、恰幅のいい薬屋のおじさんが「おーい、クレア」と手を振りながらこちらに向かって歩いてくる。

 私の作る薬を置いてくれる、優しくて頼りになる人だ。


「こんにちは。いつもありがとうございます」


 納品する薬と、グラスに注いだ水を渡す。おじさんは水を一口含んで、ふぅと息を吐き出した。


「クレアの作る薬は評判がいいからね。こちらこそいつもありがとう」


 おじさんは背負っているリュックに薬をしまった。


「そうそう、妻がクレアにって、クッキーを焼いたんだ」


 おじさんは思い出したように手をパチンと叩いた。


「嬉しいです! おばさんのクッキーは絶品です」


 可愛らしいピンクの袋に包まれたクッキーを受け取る。


「また十日後に来るから、よろしくね」

「はい、お待ちしています」


 おじさんが帰るのを、手を振って見送った。

 私の住む森は、街から歩いて三十分ほどかかる。

 家の隣で薬草を栽培しているため、少し不便だけれどずっとここで暮らしている。


「キリもいいし、おばさんのクッキーで休憩しよう」


 腰まで伸びた金の髪を束ねた。

 美味しいクッキーには美味しいハーブティーがピッタリだから、森の奥に生えているハーブを採りに向かう。


 雲一つない晴れ渡った空が、森の明るさを一層引き立ていた。ポカポカとした春の陽気が心地良い。

 葉擦れの音とともに木漏れ日がそよぐ。


 しばらく歩いていると、細い道を灰色のものが塞いでいた。なんだろう? と不思議に思って近付くと、傷だらけのとても大きな狼だった。


 目は硬く閉じられていて、呼吸は浅い。

 ずっと住んでいたのに、絶滅危惧種の狼がこの森にいるなんて知らなかった。

「治療しなきゃ」



 噛み付かれないだろうか、と少しの不安がよぎるけれど、このままだと狼が危ない。

 すぐに家へ駆け、台車を持ってくる。


 狼を抱えようにも重くて持ち上がらず、引き摺りながらなんとか台車に乗せた。

 大きく息を吐いて、手の甲で額の汗を拭う。

 台車を押して、急いで家に連れ帰った。


 キッチンの水道にホースを取り付けて、外まで引っ張っていく。

 お湯で少し硬い毛にこびり付いた泥を落とし、傷も洗う。


 微かに唸り声が聞こた。傷が沁みるのだろうけれど、生きていることが実感できて安心する。

 洗い終わると、家にある一番大きなタオルを被せた。


「ちょっと待ってて。今から寝る場所を準備するから」


 狼に声をかけるけれど、なんの反応もなかった。

 早く治療しなきゃ!

 家に入ってリビングのテーブルとソファを壁際に寄せ、空いたスペースにリネンの大きな布を敷いた。


 台車ごと家に入れ、狼をまた引き摺るように抱えて布の上に寝転がらせる。

 タオルで丁寧に水気を取った。

 消毒液を脱脂綿に浸して塗っていくと、狼は歯を剥き出しにした。


「ごめんね、痛いよね。もうすぐ終わるからね」


 消毒をし終えると、体に傷薬を塗った。


「早く良くなってね」


 狼の頭を撫でる。

 濡れた台車を片付けて、台車で汚れた部屋を掃除した。

 泥だらけになった服も着替える。


 狼はよく眠っていた。

 様子を見ながら薬草を擦り潰したり、料理をしたりと音を立てても狼は起きない。

 起きたときにすぐ飲めるよう、近くに水を注いだ器を置く。


「今日はここで寝ようかな」


 狼の容体が気がかりだ。

 端に寄せたソファで横になり、ブランケットを被る。

 狼を見守りながら、眠りに落ちた。





 窓から差し込む光が眩しくて目が覚めた。

 瞼を擦りながら起き上がる。

 狼に目を向けると、吸い込まれそうなほど綺麗な金眼が私を凝視していた。

 心の底から安堵が込み上げ、胸をホッと撫で下ろす。意識が戻って良かった。


 リビングの奥にある薬を保管している部屋に行き、痛み止めを持ってくる。

 粉末の痛み止めを水に解いて、狼の前に置いた。

 狼は匂いを嗅いでそっぽを向く。


「えっと、痛み止めなの。お薬、飲んでほしいな」


 狼に通じるとは思っていないけれど、他にどうすれば良いのかわからなくて話しかける。

 狼は私の顔を見上げた。不満そうに眉間を狭めている。


「ちょっと待ってて」


 私はキッチンからスプーンを持ってくる。

 痛み止めを少量掬って、自分で飲み込んだ。


「私も飲んだから、危ないものじゃないよ。飲んでみて」


 狼はこわごわとスプーンを舐めた。

 飲ませてあげれば良いのかな?

 スプーンで掬って狼の前に差し出す。狼のピンクの舌がスプーンを舐めた。私はなくなるまでスプーンで掬って飲ませる。


 全て飲み終えると、体に傷薬を塗った。

 狼は噛みつきも引っ掻こうともせず、おとなしく私に身を委ねている。


「早く治ると良いね。食べ物はお肉でいいのかな? 今は鶏肉しかないけどいい?」


 鶏肉を一口サイズに切って狼の目の前に置くと、ペロリと平らげる。

 私は昨日もらった、おばさんのお手製クッキーを齧った。


 ハーブを採ってこられなかったのは残念だけれど、やっぱりおばさんの作るクッキーはとっても美味しくて至福の味がする。幸せを噛み締めて食べていると、狼がクッキーを見つめていた。


「狼ってクッキーを食べていいの? 人間のものってあまり食べちゃダメなんだよね。ごめんね、これはあげられないんだ」


 欲しいと目で訴えられて、ここで食べるのを諦める。ポシェットに入れて、仕事が一息ついたら食べよう。


「私は仕事をするから、ゆっくりしていて。まだ動いちゃダメだよ」


 私は外に出て、薬草に水をまく。

 今日は傷薬を作ろう。大きな緑色の葉を選んで摘んだ。

 充分な量を摘むとクッキーを食べて、窓から家の中を覗く。狼は眠っていた。

 音を立てないようにそっと扉を開くけれど、狼は耳をピクリと動かして顔を上げる。


「起こしてごめんね。まだ寝ていていいよ」


 私はキッチンで薬草を綺麗に洗い、清潔な布で水気を取る。

 鍋に薬草とオイルを入れて火にかけた。

 弱火でじっくり煮詰めていくと、清涼感のある香りが部屋に充満する。ときおり木べらで混ぜながら、薬草の成分が油に溶け込むのを待った。


 振り返ると、狼は私を見ていた。

 これは食べ物じゃないんだけどな。

 薬草から充分成分を抽出できると、耐熱容器の上に網を置き、オイルから薬草を取り除く。

 ミツロウを加えて混ぜ合わせ、小さな容器に流し込んだ。

 あとは固まるのを待つだけだから、ゆっくりしよう。


 再び振り返ると、狼はまだ私を見ていた。ずっとこっちを見ていたのかな? 

 狼の傍で膝を付いた。

 ずっと私の目を見ている。

 そっと頭を撫でた。抵抗する素振りはない。気持ちよさそうに目が細くなった。


「かっこいいのに可愛いかも」


 大きくて立派な狼は、精悍な顔つきをしている。見た目は間違いなくかっこいい。

 アニマルセラピーってこういうことなのかな?

 狼に癒されて、心の中がポカポカと温かくなった。


 怪我が治ったら野生に返さなきゃいけないのに、離れがたくなってしまう。

 動物を飼うことを検討しようかな。一人で住んでいると、寂しい時もあるから。





 狼は脅威的な回復スピードで、二日後には歩き回るようになった。

 私が薬草の世話をする時も、お掃除や料理といった家事をする時も、私の後ろをついてくる。

 振り返ると狼と視線が絡み、可愛くてたまらない。


 我慢ができるわけもなく、頭を撫でたり顎をくすぐったりすると、狼の尻尾がパタパタと揺れる。

 懐いてくれてるってことだよね?

 愛着が湧きすぎて、離れるのが寂しい。


「お散歩に行こうか」


 仕事に区切りがつくと、狼と森をのんびり歩く。

 爽やかな風が吹き、狼は気持ちよさそうに「わふっ」と吠えた。





 狼の怪我は九日後には完治した。

 夜になって二階にある自室に入る。

 ベッドとその傍にサイドチェストが配置され、他には本棚があるだけの質素な部屋だ。本棚は小説なども並んでいるが、ほとんどが薬草に関するもの。


 ベッドの横には狼が寝るために大きな布を敷いている。動けるようになってからは、私から離れないからこの部屋に寝る場所を作った。


 いつものようにベッドに横になり、狼は布の上で寝転がる。

 怪我が治ったなら、野生に返さなきゃ。いつまでも一緒にはいられない。

 私はベッドの端に寄る。


「ねえ、今日は一緒に寝ようか?」


 布団を捲ると、狼はピクリと耳を動かしてこちらに顔を向けた。

 しばらく狼に熱い視線を送られる。

 狼はゆっくりとした動作でベッドに上がった。


 狭いベッドだから、大きな狼と並ぶと寝返りが打てないほど狭い。でも、温もりがひどく落ち着く。

 誰かと一緒に寝るのは、小さな頃におばあちゃんと寝て以来だ。

 布団を被せて狼の体に腕を回す。

 今日だけ、と自分に言い聞かせて眠りについた。





 翌朝目を覚ますと、至近距離に狼の顔があって思わず口元が緩んだ。

 カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋に暖かな光が入る。

 体を起こすと狼の瞳が開いた。


「起こしてごめんね。まだ寝ていていいよ」


 頭を撫でると狼も起き上がり、私にピッタリと寄り添って座る。

 そして狼は顔を前に突き出して、私にキスをした。

 大きな『ボン!』という音と共に狼が煙に包まれる。


 何が起きたのか分からず目を見開いていると、煙が晴れて出てきたのはスッキリとした銀髪と吸い込まれそうなほど綺麗な金眼が目を引く、精悍な顔つきの男性だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ