第1話 桜の木の下で迎えた新たな始まり
メキシコで平凡な人生を送っていた45歳の男が、ある日突然異世界に転生してしまう。週末の家族との集まり、美味しいタコス、日本文化へのちょっとした興味——そんな日常が一瞬で消え去った。目を覚ますと、そこは桜の花が舞う異国の地。しかも、自分の姿は16歳の日本人の少年になっていた!?
「もしかして、これって異世界転生?」
これは、異国での新たな人生を歩むことになったメキシコ人の男が、戸惑いながらも成長していく物語。彼の運命はどこへ向かうのか?
この物語は、普通の人間が異世界に転生し、成長していく姿を描いた、ちょっと不器用な主人公の冒険譚です。
メキシコシティ編
45歳の私が、人生の急転を予感するはずもなかった。安定した仕事、週ごとの家族団らん、そして日本文化への趣味——アニメ、漫画、ドキュメンタリー……全てが「遠くから眺めるだけの娯楽」で終わると思っていた。あの日までは。
数ヶ月待ち侘びた瞬間がきた。ミニマルな内装の高級料理店で、河豚の刺身が仄暗い照明にきらめいている。薄造りの身はまるで芸術品だ。調理を誤れば命取りになる——その危うさが、かえって食欲を掻き立てた。
『死ぬなら名残惜しいことを』と、私は心の中で自嘲した。
箸を握る手に力を込めた。一口目は繊細な味わい……そして、舌先にチクチクとした痺れが走った。
『毒素は……あるが、制御されている』。ネットで読んだ知識をマントラのように繰り返す。全ては順調だった。つもりだった。
世界が突然、傾いた。皿が床に叩きつけられ、ガチャン! という音と共に、私の体も崩れ落ちた。木床への衝撃が雷のように響く。歪んだ声が周囲で叫んでいるが、もう理解できない。
『……まさか。こんなことで』と、体を動かそうともがいた。氷のような痺れが全身を駆け巡り、視界が濁る。パニックの中、一つの確信が脳を貫いた。『死ぬ』。
声は遠のいていく。
「救急車を呼べ!」
「なんで河豚なんか注文したんだ!?」
寒さに包まれ、闇が全てを飲み込んだ。
異世界編
目を開けると、消毒液の匂いが鼻を刺した。遠くで電子音が鳴り響く。『病院か……安心した。ただの騒動だったんだ』。
体を起こそうとした時、ザザッと砂を掴む音がした。ベッドではなく——柔らかな土だった。混ざり合う花びらの感触。混乱する頭で瞼を擦ると、頭上に桜の枝が揺れていた。もどかしいほど儚い桃色。よろめきながら立ち上がると、この体の軽さが「自分のものではない」ことに気づいた。
周囲は完璧な枯山水庭園——螺旋状に配置された石、鮮やかな錦鯉が泳ぐ池、せせらぎの穏やかな音。医療機器も看護師の気配もない。ただ、不気味なまでの静寂が……安堵ではなく、恐怖を募らせた。
『何が……起きた?』
記憶は断片的だ。河豚、舌の痺れ……そして椅子が壊れた音。
『あの衝撃で死んだのか? ここは天国?』
池に這っていき、水面に映ったのは——鋭い面差し、切れ長の瞳、漆黒の髪。16歳ほどの日本人少年の顔だった。
『まさか……異世界転生? マジか』
苦笑が漏れたが、すぐに消えた。『王国を救う役目か? たわけが……』。
冗談半分、手を前に突き出し集中した。『火の玉くらい出ろ!』
何も起きない。風が桜の花びらを散らし、石を掃く音だけが響く。『選ばれし者じゃなくてよかった……』。
ふと、灰色の衣をまとった僧侶が目に入った。石畳を黙々と掃いている。かすかな日本語の記憶(3週間で挫折したオンライン講座)を頼りに、近づいた。
「こんにちは……私、レオです。ここはどこ?」
僧侶は動作を止め、驚いたように目を見開いた。『……そなたは』と呟くが、言葉は空中に消えた。
「えっと……日本語、あんまり……」と手振りで伝えると、彼は首を傾げた。
その瞬間——バシン!
木杖が私の膝裏を直撃し、崩れ落ちた。振り向くと、厳つい若い僧侶が仁王立ちでいた。
「ちょっと!」先の僧侶がたしなめる。『なぜそんなことを!?』
『この者は……消すべき存在です』
「何……?」
問いかける前に、意識が遠のいた。
遠くで囁く声が、闇の中を漂っていた。何も見えないが、肌を撫でる温かい風を感じる。何か柔らかいものが降ってきた——灰のように軽い。桜の花びらだ。周囲にはかすかな声が響く。
「レオ…」
体を動かそうとしたが、反応しない。深い闇に囚われたようだった。
「レオ…」 またその声。懐かしい、しかし壁越しに聞こえるような曖昧さ。
瞬きをすると、目の前に広がったのはメキシコシティの夜景——人工の星々のように瞬く光。高いマンションのバルコニーに立ち、コーヒーカップを握りしめていた。昔の自分の世界。
ポケットの携帯が振動した。無意識に取り出すと、画面に一文。
《日曜の夕飯、来る? ママがエンチラーダ(唐辛子料理)作るって》
返信を打とうとした瞬間、携帯がパリパリと音を立てて崩れ、塵となり風に消えた。街の光もまた、それに従って消散した。
代わりに現れたのは、一本の満開の桜。枝は空の果てまで伸び、その根元に立つ少年が私を見つめていた。漆黒の髪、切れ長の瞳——もう自分のものではない顔。
「……誰だ?」 声は出ない。
少年——かつての私——は一歩踏み出した。
「目を覚ませ」
世界が砕ける音。割れた鏡のように、闇へと落ちていった