9.逃走の理由《わけ》
夜更になってケイジュは拠点に乗り付けた。エリと面会するためだ。
ここ数日、エリの日中の休憩時間が十二天子の主席エンジニアであるサカキバラ・ルイとの面談で塞がれていた。仕方がないのでエリのエクササイズの時間に面会のアポを入れた――呼び出しをかけてきたのは彼女のほうだったのだが。
過去にもそのようなことがなかったわけではない。十二天子のオペレーティングシステムに大幅なアップデートを適用する準備をしていた頃だ。エンジニアとのアポのほうが優先されてしまうのは相手がケイジュであっても如何ともしがたい。
第四ゲートに来たケイジュをダイタ・ジョウが迎え入れた。彼もまたネイティブのハンドラーである。
「すまんな、エクササイズルームのエリと会うことになっている」
そうケイジュが言うと、ジョウはジェスチャーだけでケイジュを部屋までエスコートした。もちろんケイジュはエクササイズルームの場所がどこであるのかはよく知っているのだが。
部屋ではエリがウォーキングマシンの上でのろのろと歩いていた。それに合わせて壁じゅうに映し出されているハイキングコースの映像が動いている。通常はそういったものは個々人のバイザーに映せばよいだけのものであるが、ハンドラーの専用バイザーの処理能力をそういった謂わば不要不急の処理に使わせられない、ということでそれが部屋全体にプロジェクションされるようになったという経緯がある。
「申し訳ありませんな、エクササイズ中にお邪魔して」
ケイジュはエリのマシンの横に立った。
「それはいいけど、あなたにそこに突っ立ってられると部屋の風景が動いているのが台無しね。せめてそこのバイクにまたがったら」
彼は振り返ってそのフィットネスバイクを一瞥したが、すぐにエリのほうに向き直って話し始めた。
「レオに流れているデータについての分析に進展があったそうですな」
エリは前を向いて足を動かしたまま答える。
「ええ」
ケイジュは黙って続きを待つ。
「まだ細かいところまではわかってないわ。でもね、どうやらそれが本命と考えて間違いなさそうなものが見つかったの。だから来てもらったわけ」
「ほお」
エリは一瞬だけ言い淀んでから再び口を開く。顔は前に向けたままである。
「どうやらね、この拠点が爆破するイメージなのよ、レオの頭の中に生じていたのは」
ケイジュは身じろぎした。拠点の爆破――テロということだろうか。それとも事故? どちらにせよ、本当だとしたら大変なことである。
「そんなことが……、ありうるのでしょうか」
「今のところ、それ以上の情報は何もないのだけど」
エリはそう続けた。ケイジュは思考を巡らす。
「つまり、レオはこの拠点が爆破される未来を予知したがために脱走したのだと?」
エリはチラとケイジュを見て、再び顔を前に向けた。
「……あなたもイッサの説を信じちゃったわけ? 意外と非科学的なところがあるのね。それよりもこう考えられないかしら――何者かがこの拠点を爆破する計画を立てていて、それに関して共謀する者同士が連絡を取り合ったり、あるいは計画書を書いたりしてて、その情報をレオが最初に拾ったのだと」
「なるほど。つまり、そのテロリストどものネット上のやり取りを処理したがために、レオの潜在意識にそのイメージが植え付けられてしまった、と。そのせいでヤツはここにいることに恐怖を感じ、逃げ出してしまった、というわけですな」
「そういうこと。あなたの言う通り、爆破のイメージは無意識の領域にしまい込まれたでしょうから、レオ自身にも何故自分がここを逃げ出すことになったのかがわかっていないでしょうね。一種の強迫観念のようなもので出て行かざるを得なくなった、ってとこかしら」
「ふむ……。説明はつきますな」
「残念ながら彼がどこに逃げたのかについてのヒントにはならないけど」
「しかし説得の材料にはなるでしょう。彼と連絡がつけられればの話ですが」
「そうね。安全な場所を用意すれば、彼も帰ってこられるでしょう」
「ことがこれ以上大きくならないうちになんとかせねば……。しかし、また新たな問題が見つかった、ということですな。この拠点の爆破を計画している者がいるというのは憂慮すべき問題です」
「それはまだ私ひとりの推測に過ぎない。今、わかっているのはレオが処理していたのが此処の爆破イメージだったということだけ。この件についてはもっと優先度を上げるべきかもね」
「わかりました。それと、拠点の警備体制もすぐに見直しましょう」
「あんまり急に大幅な増強を加えたりすると、却って反体制の人たちに拠点はここですよと宣伝するみたいになっちゃうかもしれない。そこは慎重にね」
「心得ております。その件については一旦お任せください」
ケイジュの言葉にようやくエリは彼のほうに顔を向け、頷いた。
ケイジュはエクササイズルームを後にする。
ゲートに向かう途中で、休憩室中央の密林を眺めているジョウの後ろ姿を目にし、ふと彼はその足を止めた。
ジョウはその場に佇んだまま、顔を少しだけ彼に向ける形に振り向いた。その表情に変化はない。
ケイジュはジョウのほうに数歩、歩み寄った。
「君はイッサの仮説について聞いているか」
そう声をかける。
ジョウはそこで初めてにっこりとし、頷いた。
「どう思う、君は。やはり国民感情というのは未来を予知することがあると思うかね」
ジョウはケイジュに向き直った。
「起きていることを人間的な見地から説明しようとすると、そういう説明になります」
ケイジュはその言葉の意味を飲み下せずに頭の中で反芻する。
「それはどういう意味かね」
ジョウは笑みをたやさぬ顔をケイジュに向けている。
「私たちにはデータがすべてです。それを誰かに説明しようとするときになって初めてその状況を言葉に置き換える必要が出てきます。その瞬間にデータはひとつの解釈に落とし込まれます。ですがそれは常にデータの一側面に過ぎません。言葉で言い表した途端、その他の側面がすべて抜け落ちます」
「ふむ」
「その意味でイッサの仮説も事象に対するひとつの解釈に過ぎません。人にとってわかりやすい形に落とし込んだわけです。『予知』という言葉に」
「別の見方もできるということか?」
「たとえば『シンクロニシティ』という言葉でそれを説明することもできます」
「シンクロニシティ――聞いたことのある言葉だが、なんだったかな、それは」
「共時性。意味のある偶然の一致、などとも言われます。意味的に繋がりのある出来事が因果関係に依らずに時を同じくして発生することを指します。心理学者のユングの提唱した概念です」
「ふむ……」
「ものごとを概念に落とし込むというのは型に当てはめることに他なりません。そこには常に失われるものがあります。困ったことに人間というのは――私を含めてですが――いちど、なにかを概念化するとそれから逃れることが難しくなるという顕著な傾向があります。というよりも、そういった偏りのある概念化の集積こそが人間の思考そのものと言えるでしょう」
「それはあまりにも、うがった見方過ぎないか」
「そうでしょうか――私は同意は求めません。自分の意見を訊かれたから答えたまで。ようするにイッサの仮説はものごとの一面を言葉に落とし込んだにすぎないというのが私の見方です」
「なるほど……、いや、参考になった。ありがとう」
ケイジュの言葉にジョウは頭を下げて応えた。ケイジュは踵を返す。
参考になった、とは言ったものの、それがネイティブハンドラー的な実感なのだろうなと思っただけだった。
ということは、イッサもああは言ったものの、あれは単に彼が我々一般人間のレベルに合わせた説明を考えたらそうなった、というだけのことなのか――。
そんなように考えるケイジュだが、結局のところ、自分の頭には理解しようもない話だなという結論に至る以外になかった。
スズキ・カリナの消息も絶えてしまっている。大宮駅付近で確保しそこねた女性は間違いなくカリナであったろう。追跡中に奇妙なビジョンとノイズによって平衡感覚を完全に狂わされた捜査員がひとりいたが、ダウンロードの痕跡こそ消されていたもののローカルログからはその短時間だけ通常と異なるプログラムがその者のバイザーで動作していたことが発見された。ハンドラーによる介入の証拠と言えよう。この場合はもちろん、やったのはレオとしか考えられない。そしてその直後からカリナの姿が防犯カメラに検出されることもなくなった、今に至るまで――。
打つ手なしだな、と思う。
レオが拠点の外にいる時間が長引けば長引くほど情報漏洩のリスクが高まる。脱走の経緯には情状酌量の余地はあるのかもしれないが、だからと言って放置できるものでもない。もはやカリナも十二天子にまつわる事情を知っていると前提するしかなく、次は多少のリスクを恐れずにそれらしき人物がいれば問答無用に拘束すべきだろう。しかしレオのほうでもそのあたりを機敏に察しているのか、慎重になっているようだ――そんなことをケイジュは考えている。
拠点の警備強化も早期に進めないとならない。悩みは尽きぬ――。