8.ふたりの逃避行
流れる水の音。彼の目の前にはゆるい弧を描くように続くレンガのブロック――人工の小川を囲っているブロックだ。その小川の向こう側は、まるで密林のようにたくさんの植物が植えられている――彼はその中にまだ足を踏み入れたことはない。むせかえるほどの土と草の匂い。
慣れ親しんだ光景、彼が物心ついた頃から毎日見ている風景だ。
小川のへりのブロックを平均台のようにしてその上を歩く、五歳くらいの子供。
その向かう先には、にこやかに彼を待つ若い女性がいる。
女性はエリだ、まだ若い頃のエリ――彼女と一緒の休憩時間は楽しかった。
そして子供は、レオ自身。
そんな二人を離れた場所から眺めているのは、成長した現在のレオだ。彼の足は何故だかすくんでいる。
――ダメだ。
若いエリと子供のレオは手を繋いで上階への緩いスロープを歩いていく。広場をぐるりと囲むようにそれは大きな螺旋を描いて、白い樹脂の壁のトンネルがひとつ上のフロアへと続く。
――ダメだ。
上ったフロアには同心円状に並べられた十二個のポッド――コクーン――がある。その内部は特殊な液体で満たされ、ハンドラーらはその中に浮くような状態に横たわっている。
成長したレオは二人を追おうとする。だが、まるで自分が粘度の高い水の中にいるかのように、体が重く、動かせない。
レオは叫ぼうとして口を大きく開く。
次の瞬間、上のフロアに炎が走る。
次々とコクーンは破壊され、中にいたハンドラーの体が液体もろとも外に放り出される。炎は素早く部屋中を満たし、スロープを通じて下のフロアにも押し寄せてくる。
樹脂の白い壁はあっという間に焦げ、そして溶けていく。
そして炎はレオを包む。
「うわああああああ!」
自分の叫び声にレオは目を覚ました。カリナがその手を握っていた。心配そうな顔で覗き込んでいる。床に直接、寝袋を二つ並べただけの寝室。
「レオ、また夢を見たの?」
彼は頷いた。
「大丈夫よ、夢は単なる夢だもの」
カリナはレオの手を両手で包み込むようにしてさすった。その手を少し握り返すようにしつつ彼は、本当にそうだろうか、と考える。あれは本当に単なる夢なのだろうか――?
だんだんとイメージがはっきりとしてきた。
当初は何がなんだかわからなかった。単に炎に身を焼かれるイメージだけがあった。
あの場所を離れなければならないという強迫観念に襲われた。気づいたときには彼はただ本能に身を任せるかの如くに逃げ出していた。自分を抑えることはできなかった。
おそらくあの場を離れたことでイメージが明確になったのだ、と彼には思われた。つまり、あの場にいた頃には事の詳細が無意識の領域に抑圧された状態だった。自分が安全な場所に移動したことにより心理的抑圧が解除され、徐々に明確にその内容が意識されるようになったのだ。
もしそれが本当に起きることであれば、すぐにでも皆に知らせないとならない。だがそれを本当だと考えるような根拠は何ひとつ存在しない。何故自分がこの夢を見続けるのかもまったくわからない――。
掌からカリナの体温が伝わってくる。
こうして体を触れ合わせていると安心する。なんでだろう、幼い頃にエリに抱きしめてもらった頃のことを連想するからだろうか。
だからオレはカリナと離れずにいるのだろうか――。
レオは考えを巡らす。
彼女と一緒にいることが自分の逃亡行為への阻害要因となることは十分に理解していた。彼の演算では、単独で逃亡するのと二人でするのとでは、半年後の状態維持率に三倍もの開きがあった。それでも自分が彼女と一緒にいることを選び続けている理由が彼自身にもよくわからなかった。あえて言えば、腕の怪我を手当てしてもらったときに得た安心感がずっと尾を引いているようにも感じられた。だがそれは今後の成り行きを予測するうえではなんのプラスももたらしていない。理屈に合わない。だが現実に自分は、頭で考えたこととはまったく異なる行動をしている。不思議でしかない。
そもそもイソザキが彼女の部屋を急襲したとき、何故自分は彼女を救い出して逃げたのか。彼女はあのままにしておけば元の生活に戻れたはずである――十二天子の機密に触れたという嫌疑で多少、頭をいじられることにはなったろうが。
そしてカリナの行動も不合理である。何故彼女は自分と一緒にいるのか。確かに最初は彼女のPAをハックすることで自分を助けるように仕向けた。だがそれはほんの少しだけのやむを得ぬ処置だったのだ。それ以降は特にこちらから何も強制しているわけでもないのに彼女はずっと自分と一緒にいる。自分が彼女をイソザキから助けたからだろうか。それで彼女も自分と一緒にいると安心するようになったのか。だがそれ以前からすでに彼女はいろいろと世話を焼いてくれていた。それもまた不思議な話である――。
いつしかレオは眠りに戻っている。
拠点を離れて以来、彼の体に対する栄養管理が行き届かなくなった。彼自身にはそのことがバイザーを通じて警告されているが、その対処は簡単ではなかった。市販のサプリメントやら栄養補助食では期待したほど必要な栄養素が体に吸収されなかった。
結果として彼は体の重さを感じだした。
睡眠も不規則になり、時には浅い眠りがだらだらと続いたかと思えば、深い眠りでカリナがいくら彼を起こそうとしても無理な時もあった。
搬送車での脱走劇の後、漂着したかの如くに二人が居着いたのは大宮駅から徒歩数分の場所にある再開発からポツンと取り残されたような土地に建っていた古臭い二棟のアパートだった。そのうちの一番奥にある日当たりの悪い部屋。長いこと空きのままだったという雰囲気があった。
〈しばらくの間、ここに隠れよう〉
そのレオの言葉を見たとき、カリナはあらためて、ああ、わたしはもうこれまでの生活には戻れないんだ、ということ認識した。思わず彼女は、隣に立つレオの腕をつかんで抱きかかえるような仕草となった。
〈心配ない。オレと一緒にいる限りは〉
カリナは、その言葉にキュンとなった。不安と幸せがないまぜになったような不思議な感情に襲われ、めまいがするようだった。心臓がドクンドクンと波打った。
――もうわたしはどうなってもいい。ずっとこのひとのそばにいよう。
そのときそう彼女は思ったのだった。
そのようにして二人の隠れ家での暮らしが始まった。
カリナは身支度を整えて古アパートの部屋を後にした。
今彼女のつけている青いボブのウィッグはしばらく前に流行のピークを過ぎたものだが、群衆に紛れるという心理的効果はあった。そして顔の骨格を隠すという効果も――防犯カメラは主に骨格で人物を判定するから、それを隠すということが重要なのだと彼女はレオから聞いている。
そして彼女の目には新しいバイザーが掛かっている。
レオはそれを入手するために、架空の人物のデータを一式、ネットに挿入した。それは彼をもってしてもそこそこに手間のかかる作業ではあったが、結局のところネット上では十二天子のハンドラーは無敵以外の何者でもないのだ。
もちろんその事情について彼はカリナに何も教えていない。ただ一緒にバイザーショップに行って「サトウ・マリカ」という名で新しいバイザーを契約しただけだ。詳細は聞くな、適当に口裏を合わせろ、という感じに。
カリナは気にしなかった。もちろんまっとうではないことが為されていることを感じてはいたが、レオが自分のために何かをしてくれるということに酔っていた。彼女にとっていまやレオは、襲ってきた政府の手先から自分を助け出してくれたヒーローだった。
社会と自分とを繋いでいた会社という規範から突然に切り離されることとなった彼女には、何かそれに取って替わるものが必要だった。それはレオ以外になかった。自分にだけ優しくしてくれる美しい男性。彼女が恋に落ちるのは必然でしかなかった。そしてもうひとつ、先日の公安による強襲が彼女のトラウマとなっているということも彼女が無意識のうちに自分を庇護してくれる対象を求めることの大きな要因となっていた。もはや彼女にとってレオは不可欠な存在であった。彼女の不安はただひとつ――彼が自分のことをどう思っているのかがよくわからない、ということだけだった。
部屋から出たカリナは、眠りから覚める様子のないレオのために食事を調達しようと繁華街に向かう。黙って出かけると後からレオに叱られるのだが、彼は寝ているのだから仕方がない。それよりも、何を買って帰れば彼は喜んでくれるだろうかということで彼女の頭は一杯だ。
「ねぇミント、なにかお薦めはない? ご飯を買って帰りたいの」
彼女は呟く。PAが即座に反応する。
「そうだな、タカシマヤで『全国駅弁アンド美味いものフェア』というのをやってるよ。それからソゴウでは『イタリアを食べ尽くせ』というイベントが開催中だ」
その口調が昔から馴染んできたミントのそれと違うのが彼女は気に入らない。
「んー、じゃその、なんとかフェアというのに行ってみようかな」
すぐに視界の中にナビゲーションサインの矢印が浮かんだ。彼女はそれを追う形に歩く。
駅に近づくにつれ、信じられないくらい人が多くなる。これ、全部バーチャルじゃない人なの? と彼女はいつも思う。
駅の東西を繋ぐコンコースに上がる。信じられないくらいに広く長い通路にぎっしりと人、人、人――。
「飲もうよ、ファイベックス!」
商品を手にしたアナン・ミキが人混みの中からいきなり話しかけてきた――広告だ。他にもいろいろな広告が彼女にアプローチしてくる。
――こういうのに関わる仕事をしてたなんて、すんごい昔な気がする。
カリナはもうその頃のことをよく思い出せなかった。もはやどうでもよかった。自分がやらなければその仕事は誰か他の人がやることになるだけ、ということに気づいた。スズキ・カリナがいなくても世界は回ってる。今のわたしはサトウ・マリカなの、実在しない架空の人物よ――。
駅の反対側に抜け、ナビに促されるままに大きな建物に入る。エスカレータで地下へ。どこまで行っても人混みは続く。
フェアの会場は人の間を縫って歩くのが精一杯、という状況だった。だが、そこに並べられた色とりどりのパッケージとかロボットによる弁当製作の実演などを目の当たりにして彼女もウキウキとしてくる。
これ、全部リアルなんだぁ、すっごい――。
見ているだけで楽しかった。あちこちから食欲を誘う匂いもしてくる。
レオが喜びそうなものを探しながらカリナは歩く。
ぐるっとひと回りしたあたりで、彼女と体が触れるくらいに隣へと来たスーツの男性が急に声を掛けてきた。
「スズキ・カリナさんですね」
カリナは身を引いた。
「違いますっ」
人混みの中、彼女は足を早める。男はついてくる。
「ちょっと、お話を」
「人違いです。ついてこないでっ」
彼女は売り場の出口へと向かった。その行手を遮るように左右から怪しげな男女が間合いを詰めてくる。
カリナは走りだした。
誰も追っては来なかった。
エスカレータを駆け上がり、ひとつ上のフロアでカリナは息をつく。すぐにそばに来た若い女性が口を開く。
「スズキさん、公安です。ご同行願います」
その隣に連れらしき男性も立っている。どちらもさっきとは別の人物だ。
「わたしはスズキじゃありません!」
カリナは足早に建物の出口に向かう。しかし前方から彼女をまっすぐに見ながら二人の男性がやってくる。明らかに普通のデパート客の顔つきではない。彼女はその場で曲がって売り場の中を別な通路に進む。
「助けて」
彼女は呟いた。万が一の際にはそれだけで即座にレオに連絡がつく手筈になっていた。だが寝ている彼が目を覚ましてくれるかどうかは彼女にはわからない。
前から別な男性が向かってきた。もう逃げ場がない。彼女は振り向く。さっきの男女らが後ろからやってくる。
――もうダメかも。
彼女がそう思った瞬間、突然に前の男性が苦しげに自分の頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「走れ」
バイザーからレオの声がした。カリナは走り出す。
「右だ」
小さなブロックに区切られた売り場が続く中を彼女は右に折れる。
そこらをゆっくりと歩いている客の間を縫うように走る。後ろは振り向かない。
「そこを左」
左に進む。
「正面のエレベータに乗れ。真ん中のやつの扉が開く」
言われるままに、三つ並んだうちの真ん中のエレベータの扉を目がけて走る。後ろから自分を追ってくる足音がした。
彼女がすぐ近くまで来たときに扉が開きだした。彼女は強引に中に身をすべり込ませる。扉は開き切る前に再び閉まった。そのフロアで降りるつもりだったであろう客のひとりが「どうなってんだよ」と呟いた。エレベータは停止すべき階をことごとく通過して上昇し、満載の客からは不安げな声が漏れ始めた。
七階でエレベータは停まった。
「降りて右に進め。走らなくていい」
扉の開いたエレベータから一斉に降りようとする客らに押されながら彼女はフロアに出た。そして言われた通りに右へと歩き始める。
「右手にトイレがある」
その通りであることが目に見える。
「その脇に従業員用の通路がある。そっちに進め」
彼女はその通りにする。
「そこの従業員出入口の脇に立って、オレが迎えに行くのを待て」
カリナは大きく息をついた。
それから彼女は壁に寄り掛かった格好でそれとなく売り場のほうを見ながらレオを待った。一度だけ、見覚えのあるような男女が通路を歩いてくるのが目に入り、彼女の鼓動は早まったが、彼らは彼女には一瞥もくれずに通り過ぎて行った。
レオがその場にやってきたとき、カリナは人目も憚らずに彼に抱きついて泣き出した。彼は彼女の背中をさすった。
「だから勝手に出かけるなって言ってるのに……」
「ごめんなさい」
「でも、よかった、捕まらなくて」
普段彼女が出かけるときはその裏でずっとレオがネット上から彼女の痕跡を消していたのだが、寝ている間にそのような対応ができるはずもなかった。そのため、これまでにも彼女の映った監視カメラの情報は消されずにいたことが度々あった。そういった成り行きがもたらした結果がこれである。彼女が助けを求めたときにレオがすぐに痕跡を消したので公安の捜査員らはそれ以上彼女を追うことはできなかった。
「ご飯、食べようか」
「えっ」
意外な提案にカリナは驚きを隠せない。レオは彼女の肩を抱いて歩きだした。
二人はエスカレータでフロアを上がり、レストランを見つけて中に入った。レオと店で食事するなどとは彼女にとって初めてである――レオのほうはレストランに入ること自体が生まれて初めての経験であったが、情報としてはよく知っているので戸惑うことはない。
レオとしてはカリナの移動データがマイニングにより検出されないようにする必要があった。もちろん彼はそれをすべて書き換えることができるのだが、長時間のデータを書き換えるのにはそれなりの手間がかかる。とりあえず自分が寝ていた間の彼女の移動データの書き換えは終えていたが、その後の移動データは捏造せずに済ませたい。そしてもちろん彼はもうあのアパートには帰らないつもりである。別の街に移動しようと考えている。しかし電車や車で長距離を移動すればそれもマイニングでの検出対象となってしまう。裏をかいて少し時間を置いてから徒歩で移動しようと彼は考えた。そして今しばらくはこのデパート内にいたほうが逆にマイニングの対象から早期に除外されることになるだろう、と踏んだ。そのための食事である。
カリナは単純にレストランでの食事を喜んだ。デパート内の店舗であることが残念ではあったが、ちょっとしたデート気分である。
二人がオーダーしたのは牛丼と呼ばれるものだった。戦争によって失われた幻のメニュー。出されたものは当然、本物の牛丼ではなく、そのイミテーションである。代用の食材で作られたものだ――先の戦争によってこの世から消えたものは少なくない。
幸せな気分で彼女は食事を終えた。
その後二人は、程近いところにある体験型ムービーシアターに行き、それから個室のカフェでお茶をした。まったくの典型的デートコースであった。
カリナは嬉しくはあったが、どことなく不安を感じていた。あんまりレオが優しいからだ。
「もうあのアパートには帰らない」
バイザー経由のレオの声がそう告げると、どこか腑に落ちるものを彼女は感じた。
「ごめんなさい、わたしのせいね」
「いや」
彼は彼女をまっすぐに見た。そして続ける。
「どのみち一ヶ所に長くはいられない」
カリナはテーブルに置いた自分の手を見た。
「次はどこに行くの」
「決めていないけどもそんなに遠くに行くつもりはない。特異な動きをするほど彼らに検知される可能性が高まる。しかし動かなければそれはそれで見つけられやすい――」
「わたしは一緒に行かない」
話を遮るように彼女が言った。
「え?」
人のセリフを聞き返すような態度をとったのはレオにとってこれが生まれて初めてだったかもしれない。
「だって一緒に行けばレオに迷惑をかけるもの」
そう彼女は続けた。
たしかにそれはその通りだと彼は思ったが、何故今になって彼女がそんなことを言い出したのかは理解できなかった。
「一緒に行ったほうが良くないか」
「なんで?」
「いや、だって、そのほうが安心だろ?」
「わたしはそうだけど、レオにとっては違うじゃない」
「いやそんなことはない」――それは評価項目による。
「レオの足手まといにはなりたくない」
レオは困惑した。
「オレと一緒に行くかどうかを決めるのは君の自由だ。一緒に行くのが嫌だと言うなら、君は君で――」
「一緒に行くのがヤだなんて言ってない!」
レオの演算ではカリナのこの反応はどうやら女心と呼ばれるものが作用している所為であるという結果が出ていた。そしてそれへのしかるべき対処はレオ自身の彼女への気持ちに応じて分岐すると。しかし、自分の気持ちとはなんのことなのか――。
「嫌じゃないなら一緒に行こう。オレは君に一緒に来て欲しい」
レオはそう言った。
「わかった」
カリナは返した。レオはほっとする、意外にあっさりと彼女が前言を撤回したことに。だが今度はそれで自分が「ほっとした」という事実に不思議な感じを覚えた。
彼女のほうは、自分自身でも自らの発言に驚き呆れつつもそれを抑えることができないでいたのだが、結果として得られた「オレは君に一緒に来て欲しい」という言葉に一旦は満足した。
日が傾いてから二人は徒歩で移動を開始した。東へ。
カリナはレオの腕をとって歩いた。歩きづらいなと彼は思ったが、彼女の好きなようにさせた。
一時間歩いて公園で休憩し、さらに一時間歩き、ファミレスで夕食。それを終え、また東へとひたすら歩く。ふたたび公園で休憩。
ベンチに並んで座った。カリナはレオの腕にしがみついたままだ。彼女は疲れていた。呟くように言葉が漏れる。
「わたしたちっていったいなんなの?」
もちろんレオも疲れていないわけではない。彼はスタミナというものとは縁がない人生を送ってきた。
「逃亡者」
彼は返した。
「そういうことを訊いてるんじゃないの」
レオはカリナの質問が、彼と彼女の関係性を問うているのだと判断した。
「じゃあ、協力者同士」
「……意地悪」
カリナはレオの肩に頭をもたれさせかけた。レオは類似するシチュエーションを検索する。ヒットしたセリフをそのまま口にしてみるほどに彼も疲れている。
「『ひょっとして……、恋人同士と言わせたいのか』」
「……ほんとにレオは意地悪ね」
「そんなつもりはない」
「そういうところよ」
もちろんレオは人のあらゆる感情についての膨大な知識を瞬時に検索することができるのだが、いかんせん、それを自分自身のものとして捉えることには長けていない。そもそもこれまでほとんど「自分」というものを意識する必要も機会もなかったのである。彼女に対して自分が愛着のようなものを感じているのは認められたが、それ以上でも以下でもなく、彼女の気持ちに自分がどう対処すべきなのか、答えが出なかった。
「そろそろ行こう」
「わたし、もう歩けない」
悪くない位置にまで来ているとは考えられた。レオは瞬時に近隣の空き部屋を探した。近くにある集合団地の中にそれは見つかった。
「あと十五分だけ頑張ってくれ」
そう言ってレオは立ち上がった。
カリナはレオの手を離さなかったが、体は離して歩いた。つまり、繋いだ手を伸ばした形に横に広がった形である。すでに真夜中近いので道路には彼らの他に誰もいない。
やがて、同じ形をした巨きな四角い建物がいくつも並んでいる場所に来た。団地である。レオは拠点の地下フロアで見たことのある無数のサーバーラックが並ぶ光景を連想した。一方、カリナは、
「なんだか巨大なお墓みたいね」
と感想を言った。たしかにそれは連なる黒い墓標のようにも見えた。
一棟の建物の入り口にやってきた。そこの一階の端から二つ目の部屋が空き部屋だ。レオは部屋を管理するコンピュータに介入して鍵を開けさせた。それと同時に架空の賃貸契約をデータベースにインサートする。
金属製の重い扉をそっと開く。ギイイと音が鳴った。
二人は中に入る。カビ臭い。中は2LDKで、ひとつは和室だ。明かりをつけることもなくレオは和室の畳の上に倒れ込むように寝転んだ。それだけ彼も歩き疲れている。カリナはその隣にへたり込んだ。
仰向けになっているレオの顔を真上から覗き込む形にカリナは両手をついた。
「レオ」
カリナはバイザーを外した。部屋は暗かったが高精度のバイザーが補正したのでレオには彼女の頬がわずかに上気しているのがわかった。EH判定の数値が急上昇していることが視界の隅に警告された。彼は目を見開いた。次に起こることの予測ができたが、身動きはできなかった。何かを言おうにもバイザーを外した彼女にはもはや伝わらない。
彼女が青のウィッグを無造作に外すと、カリナ本来の黒髪がはらりと彼女の肩に届いた。それとともに彼女の汗の匂いが部屋の埃に入り混じってレオの鼻腔に届いた。カリナはレオの体にのしかかるようにして彼の唇に口づけをした。彼は彼女の背に片手を回した――だが彼女を落ち着かせる効果は無かった。
彼の唇の弾性をテストするかのように彼女は様々に口を動かした。
「わたしたちは逃亡者」
ようやく顔を上げた彼女はそう呟いた。