7.イッサの説
こやつらは現在の日本の治安の良さを空気の如くにしか思っていないのだろうな――このところ更に数を増しているように見えるデモの群衆を見下ろしながら、ケイジュは苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
平穏な暮らしを享受しておきながら、それを生み出している源泉を懸命に枯らそうとしている連中。なんと人間とは愚かなものか――。
内憂外患という言葉が思い浮かんでケイジュの顔つきはますます苦いものになる。まずは内部の問題をなんとかせねばならない、つまりデモのことよりもレオの失踪問題の早期解決を求められているのが彼の立場だった。
レオがカリナと共に姿をくらましてからすでに一週間以上が経過していた。
カリナの職場や両親への対応に手間を取られた。表向きには、カリナは凶悪な犯罪者に目をつけられたために秘密裏にセーフハウスにて公安の保護下に置かれている、ということになっている。脱走した十二天子のハンドラーに誘拐されたなどと説明できるはずもなかった。そもそも十二天子のハンドラーなどというものは公式には存在しない。
逃走時のレオの行動について、自身が逃走するためにカリナを収容した搬送車をうまい具合に利用しただけなのか、それともそれは彼女を助けることを主眼にした行動だったのか――それについての十二天子の演算結果は珍しく拮抗した。わずかに前者のほうが確率としては高い、というのが十二天子の推論であった。
さらに謎なのは、その後もレオとカリナが行動を共にしていると考えられることだった。カリナが単独で行動しているのであればすぐにでも発見されるはずだ――生死にかかわらず。それが見つからないということは二人が共に行動しているという以外にない。
なんらかの事情によりレオは単独でいることに恐怖を感じているのがその理由であろうと推測された。それは腕の傷の経過が思わしくないためか、あるいはまったく別の事象に起因するもの――そういう報告をケイジュは十二天子側から受けている。
そうだ、レオ単独であれば探索は困難を極めるところだが、一般人であるカリナが一緒ということは我々にとってのアドバンテージだ。そうケイジュは考える。前回もそうだったではないか、我々はカリナを探せばいいだけなのだ――。
ケイジュは時刻を確認する。二時にハンドラーの元を訪れる予定だった。ネイティブのひとり、コジマ・イッサの休憩時間に合わせて。
イッサがレオの脱走の理由についてなにか独自の見解を持ってるらしい、という話をエリから聞いた。「私自身はちょっとその説に与する気にはならないのだけど」という条件付きで。ケイジュとしては直接に会って確認してみるしかない。
時間ちょうどにケイジュは十二天子の拠点のあの部屋に足を踏み入れた。
イッサは中央の密林を背に丸椅子に腰掛けていた。その様子はまるで半跏思惟像を思わせた。どう声をかけたものかとケイジュは考えてしまう。
「どうぞそこらに腰掛けてください」
バイザーに声がした。目に見えるイッサは微動だにしていない。半眼に床を見ているようである。やりづらいものだな――と思いつつ、ケイジュはそばの椅子に腰掛けた。イッサの声が続く。
「まずはスズキ・カリナの居場所についての話をしましょう」
「あ、ああ。お願いしたい」
その依頼をすでに彼らに投げたかどうかをケイジュは記憶の中に探った――いや、まだ依頼はしてなかったはず。
「結論から言うと、監視カメラの映像から四十五パーセントの確率でスズキ・カリナと思われる人物が大宮駅周辺で確認されています。それが今のところ群を抜いて高確度の情報です」
大宮駅は中央東京より幾分北にある主要ターミナル駅だ。その利用者数が国内で五本の指に入る巨大ステーションである。これはやっかいだな――とケイジュは思う。
「ほう。埼玉副都心か」
彼らが逃走に使った搬送車は宮城県内の東北自動車道を北上しているところをようやく確保された。レオらは車内におらず、医師は眠ったままだった。彼らは東北方面に潜伏したものと考えられたが、意外にもすぐ近くで車を降りていたということか――。
「推測の根拠について説明が必要ですか?」
「む……、いや、監視カメラなのだろう? それ以上の説明は不要だ」
「そうです。監視カメラ以外には有意な情報がありません。不自然なまでに」
「なるほどな――。ではすぐに捜査員を大宮駅周辺に派遣しよう」
ケイジュはすぐにでもそれについての指示を部隊に向けて出したかったが、この部屋からは外部への通信が一切できないようになっているため後回しにせざるを得なかった。なお、この部屋では情報の記録も不可になっている。彼自身がそのような仕組みを導入したのだった――機密保護のために。ハンドラーから直接に得た情報は人間の脳味噌という信頼性の低い記憶デバイスに保存するしか手段がない。
イッサの表情はピクリともしない。この話題が終わったのかどうかの判断に悩むところだが、ケイジュは本題に入ることにする。
「ところで、レオの件だが」
一旦そこで言葉を切った。話を進めていいものと判断し、ケイジュは続ける。
「ヤツの失踪について見解をお持ちと伺った」
そこで初めてイッサの体に動きがあった。彼は椅子に座り直し、また元の姿勢に戻った。
「ええ」
その返事だけでイッサは沈黙したが、ケイジュはそのまま続きを待った。しばらくしてようやくイッサは話し始める。
「私たちは日々、膨大なデータを処理します。ディープダイブ時の一日におおよそ十六時間がその主たるもので、それ以外の八時間の処理量は圧倒的に少ないですがそれでもそれなりの量はある。今、ここでこうして休憩をしている間にも微量のデータが脳内では処理されている。それは何故かというと、十二天子のディスパッチャはある程度、個々のハンドラーを指名した形でデータを振り分けることがあるからです。過去に特定の事案に関連するデータを処理したハンドラーにその後も同じ事案の関連データを処理させることがある。過去の事情を〝知っている〟ハンドラーとそうでないものとで異なる結果が得られることがあるからです。この場合、公平を期すために双方の意見を聞かねばならないわけです。そういう事情があるので、私たちは休憩時間であっても十二天子との接続を完全にオフにはできず、微量のデータ処理を続けなければなりません――とはいってもそれは完全に無意識の領域で行われるので、私自身にもそれを感じることはできません。まして休憩時は完全に意識のほうが主になっていますから」
「ふむ」
「ディープダイブ時の私たちについて『夢を見ている状態』とよく言われますが、それは正しくもあり、そうでなくもある。ディープダイブ時の私たちは確かに夢を見ている状態なのかもしれないが、その夢を意識することは絶対にできないのです。人は寝ていて夢を見ているときにその夢を意識していて起きてからもその内容を覚えていたりすることがあるわけですが、ディープダイブ時の夢にはそれがない。ほぼ完全に脳味噌を他人に貸しているような状態と考えていただければいいでしょう。ただ、もちろん、それは自分の脳なので、他人が自分の部屋で開いたパーティーの後始末を自分がさせられるということは頻繁にあります」
フ、とケイジュは笑った。「なるほど」
イッサは表情を変えることなく続ける。
「つまり、脳には何がしかの影響というのは常に残る、それを私たちが意識しようとしまいと。それは言い換えれば、私たちは総体としてのこの国のありようから常に影響を受けているということでもあります。国のすべてのオンラインデータを私たちは処理するわけですから。特に、私たちハンドラーも人間であるがゆえに、感情面においてその図式が顕著になります。要は、私たちは国民感情の影響をもろに受ける立場にある、ということです」
「ふむ、それはありうる話だな」
「ここまではほんの前置きです。次にその国民感情というものの不思議な動きについてお話ししましょう」
ケイジュは頷いてみせた。イッサの視界に自分が入っているとも思えなかったが。
「この話はおそらくイソザキさんには、オカルトめいた、眉唾なものに聞こえるでしょう。ですが事実なのです」
ケイジュはもう一度、頷いた。それが見えていたのか、イッサも呼応するかのように小さく頷く。
「私たちは常に国民感情というものをモニタリングしている――というよりも、さっきの話でご理解いただいたように、私たちの感情そのものが総体としての国民感情を映し出したもののようになっている――これについて私たちは度々不思議な体験をしています。私たちが、なんとなく悲しいな、と感じているときに、まるでそれに反応するかの如くに世の中に悲しい事件が起きる。喜ばしいな、と感じているときに、日本人のノーベル賞受賞といったニュースが舞い込んできたりする、ということが起きる。つまり、そこでは順序が逆転しているわけです」
ケイジュは眉をしかめた。「国民感情が未来を予知していると?」
「それか、国民感情が未来を呼び寄せている、ということになります。悲しい感情が悲しい事件を引き起こす要因となっている、というのはあながち起こり得ない話ではない」
「ふむ」
「嬉しい・悲しいといった割合に単純な感情についての分析だけでは、なんら断定しえない面があるとは思います。そこで、もう少し複雑な感情について調査を進めてみました。例えば『弔いの感情』というものがあります。戦後の九年間で国民の『弔いの感情』が最も高まったのは、先の上信越大震災の起きたときのことでした。このときの『弔いの感情』のピークはいつだったと思われますか?」
「むう。常識的に考えれば、震災の被害状況の明らかになる二、三日後となるだろうと思うが……」
「ええ。実際、第二のピークはそこに来ます。しかし、最大のピークは震災の前日、時間にすれば六時間ほど前なのです。その感情は一ヶ月ほども前から顕著に目立つようになり、そこから徐々に増加を続け、震災当日に近づくに従って飛躍的に増え、前日にピークを迎えるわけです」
「にわかには信じられん話だな」
「単一のケースであれば、偶然だった、という見方もできるでしょう。私は、様々な感情と実社会での出来事について、その関係性を調べてみました。その結果、国民感情が出来事に先行して生じるパターンというのは明らかに無視できない確率で発生しているという結論に達しました」
「なんと……」
「このことについては今後さらなる調査が必要と思われます。しかし今日のお話の主眼はそこではありません」
「ああ、そうだった。そのこととレオの失踪には関係がある、ということなのだな?」
「ええ。最初にお話しした、特定の事案についてのデータが特定のハンドラーに振り分けられるという話を思い出してください。これは私の仮説です――これから起こる何らかの〝重大な出来事〟によって引き起こされる国民感情にまつわる処理がレオに割り振られた。その結果、彼はその出来事が遠くないうちに発生することを知ってしまった。そして、例えばですが、身の危険を感じ逃亡――といったような何らかの対処をせざるを得なくなった」
ケイジュは唸った。十二天子に対する抗議活動のことが頭をよぎる。
「例えば東京に大地震が発生するとか、か?」
イッサは反応しない。肯定ということだろう。
確かに話としては筋が通っているとは思うが、その前提が未検証のオカルトめいた事象ではな――エリが「与することができない」と言うのも肯けるといったところだろう、と彼は考えた。
「なるほど理解はできたが、その『これから起きる何らかの重大な出来事』というものの内容を知る手立てはないのか。それがわかればレオの行方を探るヒントにもなるだろうが――」
「さきほどディスパッチャの話をしました。その出来事に関するデータは今もレオに割り振られ続けています。私の仮説の通りであれば、これからそのXデーに向けてそのデータはさらなる増加を続けます。そのデータを解析すれば、その出来事も明らかになるものと思われます。問題は解析がXデーに間に合うかどうか、という点かと思われますが」
「むう、十二天子の扱うデータ量の全体からすれば、ごく一部と言っても相当な量にはなるだろうな――。たしか戦時中に十二天子の一部データを解析する必要があってその際は半強制的にT大の所有するスーパーコンピュータをフルタイムで借り受けたが、それでもひと月以上がかかった。むろんデータ量がわからないと比較はできないし、ハードの性能も当時より向上しているわけだが……」
「十二天子自体にそれをやらせるという手段もあります」
「なっ、……いや、それはどうだろうな。とてもそんな余裕がリソース上あるとは思えん。ただでさえ処理すべきデータ量は増加の一途だというのに」
「優先度付けだけの問題かと。今でもAIサイドで優先度が低いと判断されたものは処理に回されずに捨てられていますから」
「それはそうだが……」
とはいえ、それは簡単な話ではないぞ、とケイジュは内心に思った。
しかし、イッサの言うその「重大な出来事」というのは本当に起きるのだろうか、だとして、なぜレオは逃げ出したというのだろう、いったい何から逃げたというのか――?
ケイジュの頭の中では疑問が増殖するばかりだった。
翌日、ケイジュは拠点を再訪し、イッサの提案についてエリに相談した。
「そうねぇ、だったらディスパッチャがレオに流すデータを頑張って全部解析に回すのではなくて、あくまでそのタイミングで空いているリソースのみを使って処理できる量だけを処理させるようにしてみたら? それなら現在の優先度を変更しないで済むし、仮にイッサの説が正しいとするならばそれでも結果は得られるでしょ、それなりには。サンプリングとしては十分な量の処理はできるはず」
エリは言った。
「なるほど、それはいい考えですな」
コンフィギュレーションをそのように変更する権限はケイジュのみにある。
「では、さっそくそのように手配しましょう」
彼はそう言って踵を返そうとした。それをエリが呼び止める。
「あ、ちょっと」
ケイジュは顔を上げた。
「レオの探索のほうはどうかしら。大宮駅近辺を捜索しているのよね」
「ええ、捜査員五十名を現地に投入しました」
「気をつけてね、彼に気づかれればすぐに別な場所に移動されてしまうわ」
「……心得ております」
言われるまでもない、と彼は思った。それとも何か特別な意味があるのだろうか、あえてエリがそれを口にするということは――。
ケイジュが去った後、エリは物思いにふける。
なぜレオとカリナは共に行動しているのか、それはつまり、二人が男女の仲になったためではないかと考えることの妥当性について――。
ネイティブのハンドラーとして育てられた彼らとて、人間の、いやあるいは生き物としての、本能はある。しかし彼らの精神に普通の恋愛が可能であるとは考えられなかった。彼らはいわば神の視点から人間というものを観察している立場なのだ。恋愛以前に、自我というものを感じることすら、ほとんどないはず。それは他のネイティブを観察していても明らかなことだ。はたして二人が恋仲になるなどありうるのだろうか……。
それを考えるうちにいつしか彼女は自分自身のかつてのパートナーとの関係について思いを馳せている。若い頃は研究者としてひたすら自分の学術的興味を追い続けて仕事に没頭した。十二天子の開発において自らを実験台にすることで超越的な体験をすることにハマり、そのままハンドラーとなる道に進んだ。それはパートナーに対しては裏切りでしかなかったのだが彼は彼女の選択を尊重してくれた。自分の選択について後悔はしていないが、それは彼と自分自身に対しての様々な〝言いわけ〟の上に成り立っていた。いわく、自ら選んだ道を自分が進むことを彼も望んでいるし応援もしてくれている、ハンドラーになれば密かに彼の将来を背後から支えることができる、自分のような仕事人間よりもふさわしい誰かが彼と共に人生を歩んでくれるに違いない、などなど。
しかしその彼はその後の生涯において彼女以外の女性と付き合うことはなかった。そして戦争の際の首都空襲により亡くなったのだった。
エリは小さくため息をついた。
自分は間違っていたのかもしれない――そんな思いが彼女の頭の中をよぎる。間違っていないというのであれば、あのような言いわけは不要だったはずだ。自分は自分の信じる道を淡々と進めばよかっただけだし、実際に自分はそうしてきた。
だが、あれらの言いわけはなんだったのか。
なぜそんなものを自分は必要としたのか――。