4.ケイジュの来訪
いつものように地下鉄に乗ってカリナはオフィスに向かった。電車の中はとても混雑しているように見えるが、ほぼすべてが実像ではない。椅子もパイプもつり革も。これが二〇一九年当時の東京の地下鉄の状況を模した虚像だということは有名な話だ。かの〝変化〟の始まる前の東京――そういうノスタルジーが心に響くような乗客がこの電車を利用することはもうない。実際のところ、その虚像はノスタルジーのために映し出されているのではなく、感染症拡散防止のために乗客同士がなるべく離れ離れになることを目的として導入されたものだったが、もはやその由来を知る人間らも東京から離れた。
駅から出て、オフィス街を歩くカリナ。人通りは多くない。ここでは目に付く人間のほとんどはリアルの人間である。広大な仮想空間を徒歩で自由に移動するにはバーチャルルームという特殊な施設の中から空間にアクセスする必要があり、それを個人で所有する者は余程の金持ちにしかいない。一般人は時間貸しのスタジオでそれを利用することができるが、観光地ならまだしも、わざわざそこまでしてこのありふれたオフィス街にやってくる者などいないだろう。仕事でバーチャルにオフィスへ来る者の移動方法は、ポイント・トゥー・ポイントだ。つまり、リアルの側にいる人間から見ると、いきなりその人物が机の前とか会議室に出現したり消えたりする形である。
カリナが何故、バーチャルでなくリアルに出勤するのか。それには理由がある。ここ中央東京にリアルのオフィスを構えるには従業員の一定割合以上がリアルに出勤しなくてはならないという条例があり、その割合を下回ると完全バーチャルのオフィスに移行するか地方都市に引っ越すかしなくてはならなくなる。それを回避するため彼女の会社では一部の社員らが――その必要はなくとも――リアルに出勤する形をとっていて、特に彼女のような若手にその役割が回ってくるというわけだ。だが彼女自身はそれが嫌だとはまったく考えていない。彼女らのような若者にとって中央東京は生でしか味わえない楽しみも多い街である――そういうイメージがあるからこそ一部の企業はリアルに東京にオフィスを構えることを重視するということでもあるのだが。いつもエキサイティングで何か新しいことが始まろうとしている街、東京。そのイメージは戦前から守り続けられている。
彼女がオフィスに入ると、ほぼ全ての席にすでに社員らが座って仕事を開始していた。
まっすぐに自分の席に行き、彼女も仕事を始める。
メールのチェック。アナン・ミキの広告を発注していた広告主の担当者から返信が来ていた。
『カリナちゃん、今回もサイコーの出来栄えだね。社内の承認も通ったから、なるはやで配信開始ヨロシクです』
メール受信日付は昨日の夜だ。よっしゃー、読み通りだ――そう彼女は思った。
さっそく例の動画を配信可否ネットワークに放り込む。これは広告を配信する様々なメディアから個々のクリエイティブの配信の許可を得るためのものだ。大抵の媒体には独自の広告掲載基準というものがあり、審査に通らない限りは広告を配信することはできない。ひとつひとつの媒体から許可を得る必要があるのだが、いちいち個別に審査を依頼する必要などはなくて、この配信可否ネットワークに対象の広告をアップロードするだけでよい。後は各企業のAIがよろしく判定をしてくれる。
アップロードに続いて、カリナは慣れた手つきで一連のジェスチャーコマンドを発し、判定結果一覧のグラフを開く。眼前の空間にグリーンとグレーの積み上げグラフが出現した。その脇に表示される数字がどんどんとカウントアップされ始める。
――え?
彼女の表情が曇った。思ったよりもグレー、すなわち配信不可と判定したメディアの数が多い。仮想キーボードを叩いて、配信不可としたメディアのリストを表示させる。その中から目についたひとつ――『渋谷駅東西を繋ぐコンコースでの複合現実動画配信』――について詳細を開く。掲載可否判定結果についてのコメント欄に目を向けた。
『当該クリエイティブにおける主要登場人物のEH判定による数値が基準を超えたため、当媒体においての配信を不可といたします』
げ、とカリナは呟いた。
プロである彼女にはもう見ずともわかるのだが、それでも「EH判定」と書かれている部分にタッチしてその説明を表示させてみるしかない気持ちとなった。
『EH(エルウィン=ホープ)判定とは動画における人間の表情からその性的な印象を与える度合いを数値化するものです。審査対象のクリエイティブの数値は2.37でした。当媒体ではEH数値が2.0以上のクリエイティブは掲載の対象外とさせていただいております』
――チッ、あの動画のどこが性的だって言うんだよ、クソAIめ。
カリナは天井を仰いだ。
ああ、そういや以前、アナン・ミキは頬の色のピンクが濃いから広告では使いづらい、って先輩が言ってたな。これのことだったのかぁ――。
カリナは考えを巡らす。
許可の下りたところだけで配信させるか、クリエイターに差し戻して頬の色合いを調整してもらうか。しかし差し戻せば広告主の承認をもらい直す必要がある……。なんにせよ審査結果の最終状況を見てからの判断になるだろうけど――。
ため息とともに彼女は眼前のグラフをスワイプして、椅子の背もたれに寄りかかった。椅子は自動的にリラックスモードに切り替わり、彼女の体は深く椅子に沈み込んだ――自宅の椅子にはできない芸当だ。彼女は目を閉じた。
――レオはまだ寝てるかな。
彼のことが気になる。その体を抱くようにして自分が寝ていたことを思い出してカリナは顔を赤らめた。
「カリナ――」ミントが声をかけてきた。彼女は目を開く。「社長が呼んでるよ。社長室に来いって」
えっ? と彼女は思う。社長室に呼ばれるなど、入社以来初めてのことだ。なんだろ、なんかやらかしちゃったかな、自分――。
フロアの中央部にある半円形の部屋に向かう。いつもは透明な壁で中の様子がわかるのだが、今はそれが乳白色になっていて内部は見えない。それで彼女の緊張はより高まった。ドアを軽くノックする。「どおぞぉ」という社長の声。少なくとも機嫌は悪くなさそう、と感じられて彼女は少しだけ胸を撫で下ろす。
ドアが開く。中には社長と、もうひとり中年男性がいた。二人は応接セットに向かい合わせに座っていた。カリナを見て社長は口を開いた。
「ああ、カリナちゃん、悪いね、仕事中。ちょっとこちらの方が君にお話があるそうだ」
そう言うと社長は立ち上がった。
「さぁさ、ここ座って」
社長はそれまで自分が座っていた場所を手で指し示した。カリナは言われた通りにする。椅子は冷えていた。
「それじゃ、僕はオフるから。話が終わったら知らせてね」
そう言ってウィンクを投げてよこすと社長の姿は消失した。彼女は目の前の男性に頭を下げた。
黒いスーツの男――今時、そんな格好をするのは銀行員くらいなものだが、目の前の男はどう見ても金融ビジネスに携わっているような雰囲気ではなかった。彼女は自分の感じているそれが何であるかについて疑問を抱く――なんだろう、ひと言で言えば、殺気?
男は十分に時間を置いてから口を開いた。
「スズキ・カリナさん――で、よろしかったかな」
「はい」
おずおずと彼女は返事をした。そうさせる圧のようなものが自分にかかっているのを感じていた。
「私は公安局のイソザキという者です」
「はあ」
公安局。警察の上部組織である公安がいったいわたしに何の用だろう……。
いいしれぬ不安を抱く様子のカリナをケイジュは観察している。公安を名乗った時の市民の反応というのはだいたいが似たようなものだ、と彼は考えている。戦時中の記憶がまだ色濃く残っているのであろう、と。
彼の前に座った人物は、どこにでもいるようなごく普通の若い女性だった。ただ、そのまっすぐな眼差しには芯の強さのようなものが感じられた。
ケイジュは十二天子のサブシステムを用いてその膨大なデータからマイニングを行った結果、カリナに行き着いたのだった。レオがいくら自身の痕跡をネット上から消すことができるとしても、レオを助けるその誰かには必ず普段とは異なる挙動が見られるはず。それがエリの与えてくれたヒントの意味だと彼は考えた。
「スズキさん――、あなたは『十二天子』というものをご存知ですかな」
ケイジュはカリナに問うた。目の前の女性の困惑の眼差しが少し緩んだ。
「十二天子。ええ、もちろん知ってます。政府の運営する犯罪検知・防止のためのシステムのことですね」
「その通り。お若いのに時事をよく勉強されておられるようだ」
「仕事上、必要ですから。私どもも広告を扱う上でオルターネット上を流れるデータの取り扱いなどについてはきちんと理解してないとなりませんし。社内では毎月、勉強会が開催されています」
「ほう、感心ですな。それでは是非、あなたの理解されている十二天子についてもう少し踏み込んだ説明を聞かせていただきたい。民間の方々にアレがどのように受け止められているのか、我々としても非常に関心がある」
「はあ……」
ひと呼吸を置いて、彼女は話し始めた。
「えっと、通常、バイザーからネットに流れるデータは暗号化されていて、そのバイザーの持ち主である本人と通信事業者以外にはその内容は閲覧不能とされています。それを第三者に開示したり、改変を加えるには裁判所による命令が必要。警察といえども裁判所の発行する令状なしに通信事業者からデータの開示を受けることはできません、たとえ持ち主がどのような重大な犯罪に関わっている疑いがあるのだとしても。しかし十二天子はその枠組みからは完全に外れた存在です。通信事業者にはすべての暗号化キーの提出義務があります。それは戦時中に大幅改正されたテロ防止法に基づいています。その法の認める範囲内で十二天子にはデータの閲覧と改変の権限が与えられています――そんなところでしょうか」
カリナが言い終えると、ケイジュは音を立てずに拍手をした。
「よく勉強なさっている。バイザーに関する側面に偏った説明になってはいたが、少なくとも間違いはひとつもない」
「ありがとうございます」
儀礼的とも取れるカリナの返事だった。
男は続けた。
「そこまでご理解いただいているなら話は早い。今、我々はひとりの人物の行方を追っているところでしてな。捜索するにあたり、その人物の国益との関与から特例的に我々には十二天子の使用が認められている」
カリナにはピンとくる――この男はレオを探しているのだ、と。でも国益に関与するってどういうこと? いったいレオは何者なの?
そして次に彼女が思うのは、なんとかしてレオを守らねば、ということ――けど相手が公安となれば簡単な話じゃない。へたなウソをついたとしてもすぐにバレてしまうだろう。まして相手に十二天子の利用が許可されているとなれば、なにもかもを把握したうえでこの男はここに来ているということなのでは? いや、そうとも限らないかも。すべてがわかっているのなら直接にわたしの部屋に来てレオを捕まえればいいだけのはず。それをしてないってことは向こうにも確信が得られていないということでは――。
ケイジュには目の前の女性が防御に入ったことが手に取るようにわかった。長年、捜査の現場にいた経験に基づく勘というものが彼には備わっている。どうやら正しいターゲットに導かれたようだと彼は確信した。実際のところ彼が手にしていた情報は、彼女が昨日の朝に男物の下着を二セットと普段の彼女の買い物傾向と明らかに異なる内容の食料を購入したことと、仕事を休んだということだけだったのだが。それともうひとつ、撃たれた後のレオが姿をくらましたのとほぼ同時刻に程近い位置で彼女がタクシーに乗っていた、という事実――。
「一昨日の晩、その人物は腕に怪我を負った状態で逃走していた。たまたま近くにいたあなたはその人物を助けたのではないですかな。違いますか」
公安はどこまで把握しているのだろう、そしてわたしはどこまで本当のことを話すべきなのか――カリナは迷うが、返答に時間はかけられない。
「ええ、そうです。わたしの乗っていたタクシーがなぜだか急停止して、突然にその男が乗り込んできました――信じてもらえないかもしれませんが、そういうことが起きたのです」
公安の男は表情を変えることなく小さく頷き、続きを促した。わたしの話を荒唐無稽なものとは受け止めていないようだ、と彼女は思う。
「男は怪我をしていたので、わたしは止血しました。PAがそうしろと言ったので」
「それから?」
「男を自分の部屋に連れて帰りました。きちんと手当てをする必要があると思われたので」
「救急車を呼ぶか、病院に連れて行けば良かったのでは」
「ええ、わたしもそう思ったのですけど、PAがそうしないほうが良いと言ったので、その指示に従いました、特に疑いもせず。少し気が動転していたのかも。今から思えば病院に連れて行ったほうが良かったように思います」
「ふむ……。なるほど」
「男の怪我が酷かったのと、熱もあったので、そのまま男を部屋に泊めました」
「スズキさん、あなたはその翌朝、コンビニで男物の下着の上下を二セット購入されているようだが、それはその男のためということですな」
そんなことまで調べがついているのか、ウソをつかないで良かった、と彼女は内心に考えるが、それを表情に出すことなく返す。
「そうです。万が一を考えて二着ずつ買いました」
「そしてあなたは昨日、休暇を取られた」
「はい――。なにせ夜遅くに男の手当てをしたりなんたりで大変でしたし、それに緊張であまり寝れなかったんです、怪我人とはいえ見知らぬ男性が部屋にいるわけですから。それで昨日は休みを取りました」
「なるほど。それで、男のほうはどうなりました」
カリナは一計を案じた。
「ええ、昨日の朝、わたしがコンビニに行った時には彼はまだ部屋にいたのですが、そのあとでわたしがもう一度寝直していたところ、目が覚めた時にはいなくなっていました」
「ふむ……。目が覚めたというのは何時くらいのことですか」
彼女は記憶を辿る――フリをする。
「うーん、もう夕方くらいだった、かな……」
「男とはなにか話をしましたか?」
「いえ……、なんか彼は口がきけないようでしたし」
そう言いながら彼女はケイジュの表情を探るが、そこからは何も読み取ることができなかった。はたして自分のウソを信じてもらえているのだろうか――まったくわからなかった。だがウソがバレていると思えるような反応もなかった、とも言えた。
「なるほど、大変、参考になりました。最後にもうひとつ、スズキさんの住所を確認させていただきたい」
ようやく胸を撫で下ろしつつカリナは自分の住所をケイジュに告げた。実際のところはケイジュが既にそれを知っていて、彼女が本当のことを言うかどうかを試すためだけに尋ねたのだということなど疑いもしなかった。
「では私はこれで失礼させていただこう――。そうだ、もし、その男が部屋に戻ってきたり、近所で見かけたりなどすることがあったら、すぐに私に連絡をいただきたい」
そう言ってケイジュが右手でジェスチャーをすると、彼女の視界の隅に連絡先が送られてきたことを示すサインがポップアップした。彼女はそれに応じて自分の連絡先を返した。
「あの、ちなみにその男は、なにか犯罪のようなことをしでかした、ということなんでしょうか?」
彼女はそう問いかける。ケイジュの口の端が少し持ち上がった。
「それは捜査上の秘密というものになりましてな。恐縮だが申し上げかねる」
「はあ……」
ケイジュは立ち上がった。すぐにカリナも同じようにする。
「それでは」
彼は軽く頭を下げ、彼女は深々と。
顔を上げたとき、すでに男の姿はなかった。視界の隅のポップアップに『公安局 イソザキ・ケイジュ』という新たに追加された連絡先が表示されているばかりだ。
彼女はへなへなとその場に座り込んだ。
定時に仕事を終え、カリナはまっすぐに帰宅の途に着いた。
電車の中から自宅のイベントログを確認した。家のドアはもちろん、窓すら開閉された形跡はなかった。自分の不在中にレオが部屋を出て行ったということはなさそうだ。
夕食に弁当でも買って帰ろうとコンビニに寄った。
棚から二つ目の弁当を取ろうとしたところで彼女はケイジュとのやり取りを思い出した。
――二人分の弁当なんて買っちゃったら、まだ部屋にレオを匿っているのがバレバレじゃん。
弁当はひとつだけにした。そして朝食用のパンと栄養補助食を買った。
ああ、そういう意味では定時で帰宅する、ってのもマズかったかな、と彼女は考える。いつも遅くまで残業しているのに今日に限ってさっさと帰っちゃったのはAIに不審に思われるかも――。
もちろんカリナも十二天子とはAIの集合体のようなものであると受け止めていた。
まあ、昨日は仕事を休んだのだし、今日もまだスズキは体調が悪いのだとAIは考えてくれるだろう――そう彼女は期待することにした。
店を出て急ぎ足になりかけ、おっとヤバい、と彼女は思う。体調が悪いってことにするんだから移動速度が早すぎるのは不自然だよね――。
ようするに彼女は公安の自分に対する嫌疑が晴れたものとは考えていない。おそらく自分が証言した「レオは昨日の夕方までに部屋を出て行った」という内容について公安側で裏付けが取れない限りは彼らの自分に対しての疑いは残るだろうと踏んでいた。そしてもちろんレオが部屋を出たという裏など取られるはずもない、実際には出て行ってないのだから――。
はやる心を押さえつつゆっくりと歩いてマンションに帰宅。イベントログで確認しているにもかかわらず、彼女はドアを開けるときに微妙に緊張する――もしかしてレオはいなくなっているのではないかと――。
「ただいま」
玄関ドアを閉めて彼女は小さくそう言ってみた。反応はない。靴を脱いで短い廊下を歩いてリビングへ。
ソファにレオの姿があった。洗濯しておいた彼の黒いシャツを着ている――腕に空いた穴からはグレーのTシャツの袖が見えていた。
「ただいま」もう一度、カリナは口にした。「おかえり」バイザーからのレオの声――実際の彼の声というわけではなく単にそれがPAにプリセットされていたものでしかないことは彼女にもわかっているが――がそう返した。だが、ソファの上のレオは目を閉じて座ったままだ。まだ体調が悪いのだろうな、と彼女は考えた。
「ご飯買ってきたよ。食べるでしょ?」
彼女はコンビニの袋をテーブルに置き、台所で手を洗う。シンクにはヨーグルトの空容器とそこに入れられたままのスプーンがあった。レオが食べたのだ、と彼女は受け止めた。
レオは黙っている。
彼女はテーブルのコンビニ袋を取り上げ、レオのいるソファの横に行き、買ってきたものを彼の前のローテーブルに並べ始めた。弁当、パン、栄養補助食。
「好きなものを食べて」
レオは目を開いた。
「これをもらう」
彼が手に取ったのは栄養補助食だった。
「じゃあ、お弁当はわたしが頂くね」
彼は彼女のそのセリフには反応しない。
「隣に座っていい?」
彼女は彼に訊いてみる。
「これは君のソファだ」
そう返ってきた。オーケーということだろうと受け止め、彼女は彼の隣に腰掛けた。
レオは補助食のパッケージを開け、そのうちのひとつを口に放り込んだ。彼女は弁当の蓋を取り、箸をつける。
少し食べ進んだところで彼女は話す。
「今日、わたしの職場に公安局の人が来た」
彼は無言だ。
「イソザキって人。レオのことを探しているみたいだった」
「ああ」――よくわかってる、といった感じの返事だった。
「あなたのその腕もあの人とかにやられたの?」
「まあ、そんなところ」
「ひどい」
「彼らは自分の仕事をしただけさ。けど、こっちにはこっちの都合がある」
「レオ、あなたは何か悪いことをして逃げているの?」
「悪いこと? ああ、犯罪という意味か。いや、オレは何もしていない。彼らからすればオレが何もしていないということこそが問題なんだろうがな。仕事を放棄していることになるからな」
「仕事? あなたは彼らと仕事をしてたわけ」――そんなに若いのに、とは続けなかったが彼女は心の中でそう考えていた。
「カリナさん、その話はこのへんでやめにしよう。君は知らないほうがいい。世の中には知らないほうがいいこともある」
彼女は不服だった。それは事情を説明してもらえなかったこと、ではなく、レオが自分のことを『さん』付けで呼んだこと、に対してだった。