3.レオ
先の戦争は世界規模で発生したにもかかわらず、第三次世界大戦と称されることがなかった。それがなぜなのか、という理由には諸説ある。そのうちのもっとも有力なものは、個々の戦争状態がごく短期間のうちに終了し、その次の別な地域での戦闘までは少しばかり間があいたから、というものだ。つまりは、世界各地で同時に戦争は起きていたのではなく単発的な戦争が順次地域を移していく形に起きたため、世界大戦と呼ぶにはふさわしくない、のだと。
世界規模群発短期戦争。
個々の戦争は短期間のうちに終了した。すなわち早期に勝敗が決したわけだ。睨み合いの状態が続いたり、泥沼の戦闘が長引いたりということはなかった。
典型的なパターンが日本であった。東南アジアの戦局にアメリカへのサポート的立ち位置からの参加をしていた日本だが、自国から離れた場所での戦いに気を取られていたという指摘はある。そんな中、某国による宣戦布告と同時に首都・東京が多数の長距離ミサイルで攻撃された。大半が迎撃されたものの、そのうちの数割は防衛システムをかいくぐって目標に到達した。首都は陥落。推定二百万人が死亡。政府は機能を失った。
沖縄、小笠原諸島、その他の島々が某国とその同盟国に、それから北海道の半分がロシアに占領された。沖縄はその直後、琉球国として独立を宣言する。
事実上の敗戦。日本には他国と関わる余裕は無くなった。
同じような形の戦争が断続的に世界各地で勃発した。それはまるで、積み重なった外交的な(あるいは民族的な)恨みをこの機に晴らしてしまおう、という一種の流行病のようなもののようにも見えた。
ひととおりそれらが過ぎ去ると、残ったのは分断化された世界であった。
インターネットは機能しなくなり、代わりにオルターネットと呼ばれるものがそれまでのインターネットのインフラを活用した形で構築された。これはほぼインターネットと同等のものだが、国家間の接続だけが以前とは異なる。そこには巨大なファイアウォールが築かれたのだった。つまり、戦後、他国とのネットワーク接続は非常に限定されたものとなった。
スズキ・カリナはそんな戦争についての実感を何ひとつ持っていない。当時すでに彼女は中学生だったが、時事ニュースなどには関心がなかった――同級生のほとんどがそうであったように――し、東京からは遠く離れた地方に暮らしていた。
戦争なんかじゃ何も変わらないというのが彼女レベルの実感だった。それは文字どおりに遠い世界の出来事でしかなかった。彼女にとってのただひとつの影響らしきものは、彼女のお気に入りだったアニメーション動画製作者が空襲により死去したため、気になっていた恋愛ストーリーの続きを見ることができなくなったことだった。ネットにはたちまちのうちに二次創作者による続編が溢れたが、彼女はそれらのうちのいくつかを観てはみたものの、どれもガッカリするような出来でしかなかった。
カリナの住んでいたのは何の特色もないということが唯一の特色であるような地方都市だったが、東京の陥落後、首都機能の主だったものがその一帯に引っ越してきた。とはいえそれは政府が物理的にどこに存在するのかなどまったく問題にならない時代の幕開けでもあった。すべてはオルターネット上で完結するのだ。ネット上のバーチャルな空間で人と人はリアル世界と同じように顔を合わせ、話をすることができた。
戦前からすでに人々はそれまでの主流であったスマートホンというデバイスから〝バイザー〟への移行を終えていた。バイザーはそれ以前にはスマートグラスと呼ばれていた機器の進化したものだ。眼鏡状のデバイス、指先につけるセンサー、それから本体(初期のものは腕時計タイプのものが主流だった)によって構成される。
バイザーは人の視界を完全にオーバーライドできる。通常はリアルとバーチャルをミックスしたものを装着者に見せる形になっているが、それを完全にバーチャルのみにすることもできる。すでに人はどこにいようとも瞬時にバーチャル世界の好きな場所に移動することができるようになっていた。
カリナたちはバーチャルネイティブ世代とも呼ばれた。子供の頃からバーチャルの世界が普通に存在し、日常的にリアルとバーチャルが重なり合って見えることを当たり前として育ってきた初の世代ということである。
彼女は大学を出て広告代理店に就職したが、バーチャルネイティブ世代であることで会社には重宝された。会社はまだスマホが世間の主流だった戦前の頃にバイザー向けの広告に力を入れはじめ、その後のバイザー普及とともに一気に売上を拡大させた。今では中堅どころの広告代理店として業界に確固たる地位を築いている。そんな会社がバーチャルネイティブの感性を高く評価するのは当然と言えた。
会社は戦前から今に至るまで東京にオフィスを構えている。首都でなくなった今でも依然として東京は文化の中心地であり、そして働く人々の心の拠り所でもあり続けている。
***
男が目を覚ましたのは夕方近くのことだった。
カリナはソファに座ってウトウトとしていたが、ミントの「起きたよ」というひとことで目を見開いた。
彼女は横たわる男のそばに行って膝をついた。その頭の下には枕がわりに彼女が置いたクッションがある。上半身はグレーのTシャツ――寝たままの彼にそれを着せるのに彼女は結構な苦労をした。
男は目だけをキョロキョロと動かして部屋の内部を観察していた。その視線がそばに来た彼女にまっすぐ向けられた。
彼の表情がわずかに笑みを示す――カリナはドキリとしてしまうが、それを誤魔化すように「大丈夫かな」と言いつつ彼の額に手を当ててみた。すぐに視界には「体温:37.2、脈拍:67、血中酸素濃度:98」という数字がポップアップした。
「大丈夫みたい」
ミントが言った。
男の視線が再び部屋の中を探るように動く。その顔の作りそのものは明らかに日本人ぽいのだけど、表情の動きにはなにか普通じゃないところがある。ずっと外国に住んでいた人なのかな――そう彼女は感じた。
「ここはわたしの部屋よ」
はたして日本語が通じるのかどうか疑問に思いつつカリナが告げると、男の視線は再度彼女に向いた。その表情が微笑を形作った。彼女は今度は自分の顔が赤らむことを自覚せざるを得なかった――それほどまでに男の微笑には魔力のようなものがあった。
「わ、わたしはスズキ・カリナ。み、みんなカリナって下の名前で呼ぶの。だいたいドコに行っても同じ苗字の人がいるからね」
微笑を浮かべたまま男は頷いた。どうやら言葉は通じるようだ。
「あなたは? あなたの名前」
カリナがそう尋ねると、ミントの声がそれに答えた。
「ユダナカ・レオ」
彼女は混乱する。
「え、ミントはこの人の名前を知ってたの? 有名な人? それならもっと早く教えてよ」
男が真顔に戻った。ミントが続ける。
「ごめん、ボクは今、君のPAの会話モジュールを借りて話をしているんだ。つまり今、君に話かけているのはミントではなく目の前にいる人物」
カリナはレオと名乗った男の顔を見返す。
「そんなことができるの? でも普通に話したほうが早くない? あ、あなたはひょっとして喋ることができないとか――」
昨夜のタクシー内で聞いた奇妙な唸り声のようなものを彼女は思い出していた。
「そう。そういうトレーニングをまったくしていないからね」
「ふーん……」
カリナは少し考える。
「えっと、レオ。でも、それじゃあ、さ。わたしはどうやってあなたとミントの区別をしたらいいの」
「それを区別する必要ある? 何故?」
「えーっ、区別できなきゃ困るでしょ、普通。逆になんで区別しなくていいと思うの?」
「これまでにそれを区別してもらう必要性を感じたことがない」即答。
「わたしは区別できなきゃ困る」
「伝えられる情報は同じなのに、その情報の伝達元の主体が誰であるかに意味があるのか」
「あるに決まってるじゃない。じゃあ、あなたが『お腹が空いた』と言ったとして、それを言ったのがあなたなのかミントなのかわたしにわからなかったら困るでしょ」
「その場合でいうと、そもそもミントは空かす腹というものを所有していないから、腹が空いているのはボクのほうだと即座に判断がつくだろう」
「それは屁理屈じゃ――」
「そんなことはない。話している主体がPAなのかボクなのかは内容によらず分析さえすれば君のほうで常に判定可能だ」
話のテンポがあまりに早いのでカリナは考えるのが面倒になる。
「とにかく困るものは困るの。最初から区別できるようになってればわざわざわたしが判定なんてしないで済むでしょ」
「なるほど君の言いたいことは、ボクら側だけでなく君の頭脳という処理系を含めた全体最適化のことか」
意味ありげな目つきでレオは彼女を見た。
「まあ、そんなところかな」
男の言葉の意味はよくわからなかったがカリナはそう返した。
「では、これでどうだろう」
バイザーから伝わってきたその声は、それまでのミントの中性的なそれではなく、低くてハスキーな男性のものだった。
「性別・男性、年齢・オーナーの年齢プラスマイナスゼロ、一人称・オレ――君のPAにデフォルトでインストールされている音声モジュールにはパラメータが少ないな。だがこれで君がミントとオレの区別をつけられないケースの発生する可能性は予測値で0・001パーセント。十分だろう」
そんな可能性をなんでわざわざ予測するの――とカリナは呆気に取られる。
レオは急に疲れたように目を閉じた。カリナは彼のその芸術品のような顔から目が離せなくなる。自分の鼓動が脈打つのが感じられた。
――ど、どうしようかな。
意味不明の疑問が頭の中に生じてくる。もちろん答えも見つからない。
じっと見つめていると、再びレオが目を開いたので、彼女はまたもやドキリとしてしまう。
「水分補給が必要だ」
さっきと同じ声がバイザーから聞こえた。慌ててカリナは返す。
「あ、あ……、何か飲む? 何がいい?」
彼は視線だけを彼女に向けた。
「君の冷蔵庫の中にあるスポーツドリンク150ccを200ccの水で希釈したものを提供してほしい」
へ? というセリフをカリナは口にすることは防げた。だが表情には間違いなく同様の反応が出ていただろう。だいたい、スポーツドリンクったっていつも冷蔵庫に入っているわけじゃないし。たまたま今朝買っておいたからよかったものの――などということを思いつつ彼女は立ち上がって台所に向かった。言われた通りのものを計量カップを使って大きめのコップに注ぐ――うーん、自分ではやってみたことないからわからんけど、水で薄めたスポーツドリンクなんて間違いなくマズそう……。それを手にレオのところに戻る。
「はい、どうぞ」
コップを差し出され、レオは上半身を起こそうとする。その顔が歪んだ。腕の傷が痛むようだ。起きる手助けをしてあげなきゃとカリナは考えたが、それをする前に彼は自力で起き上がった。
怪我をしていないほうの手でコップをひったくるように受け取り、彼はそれを一気に飲んだ。
カリナは男の喉仏が上下するのを呆然と見つめた。
飲み終えるとレオはコップをカリナに渡し、すぐに元のように横になった。そしてその目は再び閉ざされた。
「今から二十四時間は安静にしていないとならない。五時間後に再度、水分補給をする」
バイザーからそのセリフが聞こえてくると、それきりなんの反応もなくなってしまった。カリナは手にしていた空のコップに視線を落とした。なにか、夢から覚めたときのような感触が彼女にはあった。
「ありがとう――どういたしまして」
カリナはそう口にしてみた。
彫像のような横顔はなんの反応も示さない。
「うわああああああ!」
人のものとは思えぬ叫び声でカリナは目が覚める。夜中だ。またしても一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。彼女はリビングのソファで寝ていたのだった。
ベッドをレオに占領されてしまっていた。硬い床にずっと寝させておくわけにもいかないし、背の高い彼が寝るには彼女の部屋のソファは小さすぎた――彼女でさえ体を丸めないとそこでは寝れないのだ――怪我人の彼に譲るしかなかった。
飛び込むように寝室に行く。
ベッドの上でレオが横たわったまま叫んでいる。カリナはその両肩を押さえるように手を乗せた。叫び声が止まった。
「大丈夫⁉︎ しっかりして」
レオは目を開いた。その顔は恐怖に歪んでいた。視線が揺れる。自分がどこにいるのかわからないかのようだ。彼女はもう一度言う。「しっかりして。大丈夫だよ。ここはわたしの部屋」
ようやく彼の視線が彼女の顔を捉える。同時に彼は両手で彼女の左腕を握った。
彼の表情は苦しげなままだ。荒い息を繰り返している。
彼女は空いている右手で彼の額の汗を拭った。
「大丈夫。ただの夢」
彼はまっすぐに彼女の目を見ている。なにかを言いたそうだ。その時になって彼女は自分のバイザーをリビングのテーブルに置いたままであることに気づいた。それを装着しないことには彼の言葉を聞くことはできない。
バイザーを取ってこようかと彼女は考えたが、彼は彼女の腕を握ったまま離そうとしなかった。彼をなだめようと彼女は、怪我をしていないほうの彼の二の腕をゆっくりとさすった。
暗闇の中で恐怖に怯えるレオの目は完全に獣のものだ。少なくとも常人のものではない。それを見つめるカリナにまでその恐怖が伝搬してくるように思えた。
背筋に少し寒いものを覚えた。
いったいどんな生活を送っていれば人はこのような表情を得るようになるのか――もちろん彼女にはまったく想像もつかない。
祈るように彼女は彼の腕をさする。
そのうちにようやくレオは目を閉じ、その表情から恐怖の色が消えた。だが依然として彼はカリナの手を離さなかった。
安堵とともに彼女は眠気を覚えた。仕方がないので無理に彼の手を振り解くことはせず、そのまま彼に添い寝をするように自身も横になった。彼の横顔を間近に見る形になる。不思議と緊張はなかった。ただ彼を守ってあげたいとだけ思った。
すぐに彼女は眠りに落ちた。
その次に目が覚めた時には部屋は薄明るく、レオの手は離れていて、逆にカリナが彼の体を何かから守ろうとするかのように半ば抱きかかえるかのようなポーズになっていた。
気づいたとたんに恥ずかしくなり、彼女は跳ね起きた。
レオは深く眠っているようだ。
連続で仕事を休むわけにいかないので彼女はベッドから起き上がった。
リビングに行き、テーブルの上に置いたバイザーを取り上げ、装着する。
「おはよう、カリナ。いつもより十分遅いよ、ねぼすけさん」
ミントが言う。少し離れていたのでバイザーのアラーム音に気付けなかったのだろう、と彼女は考えた。アラームは十五分が経過すれば部屋のどこにいようが気づけるほどの音量になるよう設定されている。その前に起きられてよかった、そうでなければレオも起きてしまうところだったろう――。
彼女は急いで身支度を整えた。
朝食を摂る時間がないので栄養補助食を口に放り込む。
出かける段になってレオに伝言を残さねばならないことに気づき、はたと困った。
連絡先を交換していないので、メッセージを送ることができない。
彼は寝ている。一度起こすか、それとも――。
彼女はロケーションメモを残していくことにした。絶対空間座標上に貼り付ける仮想的な付箋である。彼女自身はそれを使うのが実に十年ぶりくらいのことだ。連絡先を知らない相手に何かを伝えるという必要性は実のところ滅多に生じるものではない。
『わたしは仕事に出かけます。夜には戻ります。部屋にあるものは好きに食べちゃって構いません。それと、テーブルに置いてある化膿止めを使ってください。カリナ』
ふと、昨夜、しがみつくかのようにレオに握られた左手の感触が蘇った。
後ろ髪を引かれる思いで彼女は部屋を後にした。