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10.レオは人を知る

「ねぇ、レオ、わたしのこと愛してる?」

「ああ」

 二人はシーツにくるまっている。カリナは腕をレオの首に巻き付けていた。

「なあに? なにか言いたさそうな顔」

「いや……」

「言って」

「なんで君は同じ質問をそんなに何度もするのか」

「……あなたのそんなとこが好き」

「回答になっていない」

「あのね、じゃあマジメに答えるけど、あなたが今、わたしを愛してると答えてくれても、次の瞬間には心変わりしてないとは限らないじゃない。だから訊くの」

「統計的に言えば、他者に対して人が抱く愛という感情はほとんど経年的な変化をすることがない。その愛に別な感情――たとえば憎しみだとか――が加わることはあるが、それでも根底にある愛するという感情には変化がないんだ、全般的な傾向として。本人自身がそのことを忘れてしまったり否定しようとしていることはあるけども」

「忘れてても愛してるって言えるの?」

「直接・間接を問わず相手との接触がなければ人は相手のことを忘れるし、接触があれば思い出す。それは相手に抱いている感情の内容に関わらず、そういうものだ」

「あなたのことが好きよ。わたしはそのことを忘れないでいて欲しいの」

「たぶん忘れられないと思う」

「一瞬もよ」

「長期記憶に限定すれば保証できる。オレの脳が活動を続けている限りは大丈夫だろう」

 カリナはレオの頬にキスをする。

「あなたが好きなの」

「そのことはもう不揮発の補助メモリーにも記録されているから繰り返さなくても大丈夫」

「わたしが言いたいだけ」

「わかった。好きなだけ言うといい」

「もう」

 カリナは身を乗り出し、唇でレオの口を塞いだ。


 昼の集合住宅は夜に見たものと全く印象が違った――レオにとって。

 ひとつひとつの四角いコンクリートの建物のその前面は整備された芝生の広場になっていて、そこで幼い子供らがかけっこをしたり、歩けるようになったばかりの赤子がよちよちと歩くのを若い母親が嬉しそうに眺めていたり。

 レオはカリナに誘われて散歩に出かける。

 外に出た彼は目前の建物を見上げた。何の気なしに、その建物からのネットの経路に意識を合わせてみる。

 ほとんど全ての部屋から住人の一人か二人程度が中央東京エリア内にバーチャルに移動しているのがレオには感じられた。

 大量のトラフィック。

 人がバーチャルに移動をするということができるようになる前には、大量の人間を物理的に移動させるということが毎日のように行なわれていたらしい。それを実現していたのが高度に発達した鉄道輸送網である。ラッシュアワーと呼ばれるその集団移動が、世界的な感染症の流行により見直され始め、その後勃発した戦争により完全に廃れることとなった。そういったことをレオは過去の文献を検索することにより知ることができる。いや、レオにとってそれは『知っている』と同義である。

 バーチャルな空間であれば、それがクラウドのどこに存在しようとも問題ではない。しかし人はバーチャルの空間を中央東京というリアルの空間とリンクさせた。中央東京というリアルの空間をリアルタイムに反映させたバーチャルの東京、その二つの空間を重ね合わすことにより、人は生身の体でバーチャルにあたかも参加している感覚になるし、リアルの人間とバーチャルの人間がその場で顔を突き合わせることもできる。バーチャル空間にすべての人間がバーチャルに参加すれば事は済むのに、なぜにわざわざリアルの空間とバーチャルとをリンクさせるのか、それがレオにはわからない。人間というのは不思議な歴史を繰り返している。戦前のラッシュアワーにしても、職場をいい具合に首都近郊に分散させてやれば全体の移動効率は何倍も良くなるのに、それをしなかった。人の心は複雑怪奇であり、理屈で推し量るのは難しい。

 隣にいるカリナひとりの心でさえ、レオには掴みきれないものがある。

「何考えてるの?」

 レオの腕を取って歩いているカリナが訊く。

「君の心のことだ」

 彼はストレートにそう答えた。

「わたしの心? わたしの心はあなたのものよ。あなたの思うがまま」

「いや、そうであった実績はなかった。オレは君の心の動きを後追いで解析するのが精一杯で、せいぜい短期の予測しかできない。ましてやこちらの思いどおりになるなどとは」

 確かに自分はPAを通して腕の怪我を手当てするように彼女に働きかけ、それは成功したが、その後の今のような成り行きまでは予測できなかった。そのことを今でも不思議に思うレオである。

「おそらく、君の心がオレのものだというのは、君の願望だろう」

「そうよ。わたしはわたしの心をレオに所有して欲しいの。あなたに責任を取ってもらいたいの」そう言ってカリナは笑う。「だってレオのことで埋め尽くされちゃったから、わたしの心」

 人は恋というものをするとそのような状態になるという。だがそれがどのようなメカニズムに基づくものなのか、レオにはわからない。

 あるいは自分も恋をしてみればわかるのかもしれないが――、人間界の様々な事は実際に経験して初めてわかるものが多いらしいということも検索によって理解はした。もっともそれらを実際に経験することが自分にとって必要なのかどうかも判断のつかないところだ、とレオは思う。

 いくつもの同じ形の建物の横をすぎ、二人は広大な集合住宅地の中央部に到達した。そこはちょっとしたショッピングセンターとなっていて、生活に必要なものはひととおり入手できるようになっている。

 多くの人で賑わっていた。カリナは大宮での出来事を思い出したのか、「行こ」と言ってレオの手を引いてその場を避けた。彼は素直にそれに従う。

 そこを通り抜けると、その先には大きな公園があった。緑の樹々が多くある公園だ。二人はそこに足を踏み入れた。その中央に進んでいくと大きな丸い水槽のような形状をした噴水のある池があり、その近くには屋根付きの場所に幾つかのベンチが並んでいた。

 レオは噴水を眺め、人間の心の複雑性を思った。

「何考えてるの?」

「人はなんで芸術を追い求めたりするんだろうと」

「レオはいろんなことを考えるのね」

「この噴水にはどういう意味がある」

 カリナは噴水を見やった。そこからはリズミカルに水が吹き出している。短い幾つかのパターンを繰り返しているようだ。

「意味なんてない。見て楽しいなって思えばいいだけ」

 それこそがまさに意味なのだが――とレオは思う。だが議論はしない。

 二人はベンチに腰掛けた。

 幼稚園児くらいの子供が噴水目掛けて走ってきた。その後ろからゆっくりとその母親らしき人物がやって来る。

 自分の背の高さほどもある池のフチから子供は噴水に手を伸ばすが、まったく届かない。

 カリナはその子供に目を向けたまま、レオの肩に頭をもたせかけた。

 子供は母親にせがみ、母親は子供の体をよいしょと持ち上げ、池のフチに立たせた。

 レオの腕を掴むカリナの手に力が入った。

 子は母に手を持ってもらいつつ、平均台のように池の縁を歩き始める。丸い池を半分ほど進んだところで子供はフチから飛び降りた。そして母の手を離し、別なほうに駆け出していく。

 その光景を眺め、なにかが自分の記憶を呼び起こそうとしているような錯覚をレオは覚えた。そのなにかの正体はわからない。

「レオはどんな子供だったの?」

 カリナの問いに彼の思考は中断する。

「覚えてないな」

「レオは幸せな子供だったのね」

「ん?」

「幸せに育った子ほど子供時代のことを覚えてないらしいよ」

 確かにそんな言説の書かれた本が存在したようだ。ただし科学的な根拠のある話でもなさそうである――瞬時の検索でレオはそれを知る。

「そうよね、小さい頃の記憶って、楽しかった事はせいぜい雰囲気しか覚えてないけど、嫌だった事は変に細かいとこまで記憶に残ってたりするよね」

「記憶は学習のためにあるからな。危機回避につながることのほうが強く記憶に残るのは当然だ」

「そんなのつまんない。わたしはね、楽しかったことだけ覚えていたい」

「そうなのか」

「そう。だって、自分が死ぬときになって嫌なことばかり思い出したら最悪じゃない。楽しかった思い出だけを胸に、死んでいきたいわ」

 自分の死――、そんなことをレオは考えたことがなかった。でも言われてみれば確かに自分もいつか死ぬのだ、それは明白なことだ。ただそれがいつになるかは統計的にしか推測ができないことである。

「君が死ぬのは六十年以上も先の話だ、統計的に言えば」

 アハハ、とカリナは笑った。

 それから急に真剣な顔つきになる。その目はどこか遠くを見ている。

「わたしね、信じられない。自分がこの先、結婚して、子供を産んで、育てて、子供が大きくなってやっぱり結婚して、孫が生まれて――って、そんなことになることが。なんていうんだろ、そういうありきたりの幸せ? そんなものが自分にも訪れるなんて考えられないの。そういうのはわたしとは違う世界の話のように感じるの」

「人生は人それぞれだ。ステレオタイプの人生を歩む者もいれば、奇特な人生を送る者もいる。でもその人の人生がどんなに変わったものに見えても、探せば同じような人生を送った人間は少なからずいる」

「なにそれ。フフ、ほんとにレオは面白いね……」

「事実を伝えたまでだが」

 カリナはレオの手を取った。それを自分の口元に持っていく。

「今、わたしが何考えてるかわかる?」

「いや、わからない」

「わたし、今すぐあなたとセックスしたい」


 白く無機質な樹脂の壁。緩くカーブする勾配のある通路をレオは歩いている。その姿は五歳の子供の頃のものだった。

 通路を上り切る。

 見慣れた部屋の様子がいつもと違う。

 ――だれもいない。

 こくーんのふたがみんなあいたままだ。

 こんなの、はじめて。

 みんなはどこにいるんだろ。

 あ、あそこにだれかいる――。

 五歳のレオは十二個のコクーンの中央に位置するハブ装置の影にうずくまる作業着姿の人物に後ろから近づく。その男の手には何かの装置がある。

 男はレオに気付いて振り向いた。やけにびっくりした様子である。

「な、なんでしょう。驚かさないでください」

〈なにしてるの?〉

 反応がない。

〈あなたはだれ?〉

 やはり反応はない。

 ――ぼくのことばをきけないみたいだ。

〈それはなに?〉

 レオは男が手に持つ装置を指差した。

「あぶないからさわっちゃだめだよ」

 男は慌てたように言った。

「何をしてるの」

 レオの後ろから女性の声がした。レオは振り向く。それはエリだ。若いエリ。

 男はさらにうわずった声を出す。

「て、点検です」

「ちょっとあなた、それ、爆弾じゃない!」

〈ばくだん?〉

 突然に男は立ち上がり、エリを突き飛ばした。彼女はその場に尻餅をつく。その隙に男は走り出した。レオは彼女に駆け寄る。

 ――わるいやつだ、エリをおすなんて。

 エリは即座に立ち上がり、男を追った。二人はスロープを下っていった。レオは立ち尽くしている。

 ――ばくだん。しってる。どっかんてなるやつだ。

 レオは男のしゃがんでいた辺りにそろそろと近寄る。

 彼の視線の先で、男が手にしていた装置が置かれたままになっている。

 ――どこかにすててこなくちゃ。

 レオは爆弾を拾い上げる。

 それを両手に持ったまま、そろりそろりと歩く。スロープを下っていく。

 ――どこにすてよう。こわいからすぐのところがいい。ごみばこにすててしまおう。

 レオは休憩室を横切ってフロアの隅のパントリーに向かった。だが、その途中で横から声をかけられた。

「それ、返してくれるかな」

 見上げると、さっきの作業服の男だ。

〈だめだよ〉

 レオは爆弾を男から隠すようにする。

「それはボクのじゃないだろ? いい子だから返すんだ」

 男は手を出し、レオは後退りする。

「それとも、痛い目に合いたいのかな」

 レオは身を翻して走り出そうとする。だがその瞬間、足がもつれ、転んでしまう。

 爆弾は彼の手を離れ、宙に放り出される――。


 レオは目を覚ました。まだ夜中だ。

 汗をびっしょりかいていた。

 隣ではカリナが寝息を立てている。

 ベッド――カリナがそれだけは欲しがった――があるだけの部屋。

 レオは深く息をつく。

 ――まただ。

 このところずっと、同じような夢のバリエーションを見せられていた。

 登場するのはいつも、十二天子の拠点に爆弾を仕掛けようとする何者か。大抵はひとり、時には複数。若い男のこともあれば、筋肉隆々の大男だったり、絶世の美女だったりもする。常に爆発の寸前で目が覚める。

 手の甲で額の汗を拭う。

 ――なんなのだろう。

 なにか自分に課題が出されているような感覚があった。自分がやるべき、なにか。

 だがそれがなんなのか、レオにはわからない。

「どうしたの?」

 カリナの目を覚まさせてしまったようだ。

〈夢を見ただけ〉

 だが彼女はバイザーを外しているので彼の言葉を受け取れない。

「夢を見たのね」

 彼女は彼の体に寄り添う。柔らかい胸が彼の腕に押し付けられる。細い腕が彼の体に巻きついてくる。

「安心して。夢はただの夢だから」

 いつものセリフを彼女は口にする。

 ――本当にそうだろうか。

 いつもの疑問が彼の頭に浮かぶ。

 彼女の愛を感じるたびに、その愛情の対象は本当の自分ではなく、彼女がレオだと思い込んでいる別の誰かなのではないかという奇妙な思いに苛まれる。

 ――自分とは誰なのか。

 この世のあらゆる知識を瞬時に検索でき、スーパーコンピュータを超える演算能力を駆使することができるのに、自分自身のことはよくわからなかった。

 彼には自分がまだ五歳児のように感じられた。

 なにもわかっていない子供。

 自分のすべきこと。

 それはなんなのか。

 自分とはなんなのか。

 逃亡者――いや、違う。

 なにかすべきことがある。

 それはおそらく、自分にだけできること――。


 朝になる。

 レオは目を覚ます。体はいつになく重く感じられた。

 カリナはベッドにいない――コーヒーの香りがするので彼女は台所にいるのだろう。

 彼は起き上がる。

 窓から外を眺める。見えるのは団地の建物ばかりだ。

 正面には、自分のいるこの部屋のある建物と全く同じ形の建物がある。右を見ても同じ形の別な建物。そして左にも。ひとつひとつの窓からはいろいろな人の生活がわずかに垣間見える。これまでは単なる膨大なデータとしてしか認識していなかったものの一端が、リアルに目の前にある。

 このひとつひとつの部屋では男女が自分とカリナのように愛し合ったり子供を作って育てたりとかしているわけで、逆に言えば、自分らもそれらの中のひと組でしかない。

 なんという感覚――自分が夜空にある無数の星のひとつにすぎず、砂漠の砂の一粒にすぎないとは!

 自分とは、なんなのか。

 拠点にいたときは、自分というものを感じることがほとんどなかった。その必要もなかった。自分とは頭の中を大量のデータが通り過ぎるだけの存在でしかなかった。

 今は違う。

 自分は愛される対象オブジェクト

 自分は愛する主体サブジェクト――たぶん。

 そして自分は、生きる主体。

 そう、かつての自分は、自身が生きているかどうかすらわからなかった。

 このようにしてひとりひとりの人間が生きているものだとは!

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