1.遭遇
「飲もうよ、ファイベックス!」
この二百七十六日の間、人気ランキングのトップに君臨するバーチャル・アイドル、アナン・ミキがそう自分に向かって話しかけてくる複合現実動画。それをもう百回以上も繰り返し見ていた。様々に想定されたシチュエーションに合わせて再生しながら、その広告の出来栄えをチェックしているのだ。
ん〜、完璧ねッ――。
スズキ・カリナは満足げに頷いた。
右手の指のジェスチャーでコマンドを放つと、周囲の空間が消失し彼女はいつもの小洒落たオフィスの中にいる。もう真夜中に近いが、フロアにはまだ働いている同僚の姿がちらほらと見えた。今も昔も広告代理店というのはそういうものだ、と人は言う。
――よしよし。今日もたっくさん働いたなぁ〜。
カリナは両手を上げて伸びをした。思わず口から「ほああ」と声が出て、ひとりで可笑しくなって苦笑いした。ちょっと一息入れようと思った彼女は椅子から立ち上がり、すぐ横の窓――壁全体がガラス窓になっている――から外を見下ろした。
そこにあるのは眠らない都市、東京の夜景だ。
もちろん彼女は、今、自分が見ているのが実在しない光景であることを理解している。いや、そもそもそこに窓があるかどうかさえ定かではないということを彼女は知識として知っている。
手でガラスに触れてみる。
冷たい。
確かにそこには壁のようなものがある。それは間違いない。
指の周囲のガラスが彼女の放つ熱によってわずかに曇った。手を離すとその曇りもゆっくりと薄れていく。
彼女は再び椅子に腰掛ける――もちろん椅子は実在する。でなければそこに座ることはできない。だが、オフィスに散見される同僚のうちの何人がそこに実在するのか、それは触ってみない限りはわからない――そんなことはよほど親しい間柄にでもならない限りは実行できるものでもない。
現実にそこに存在するものを上書きするようにバーチャルが描かれる。それが突き詰められた結果、目に映るものの大半がバーチャルになった。リアルなのかバーチャルなのかはバイザーを通しての視覚では区別がつかない。それでも中に暮らす人は困ることのないように計算がされた形になっている。それが今の中央東京特殊管理エリア内の状態だ。なので複合現実の広告は実際にはバーチャルの上にバーチャルを積み重ねているだけである――皆が見る共通バーチャル層の上に個人にしか見えないバーチャル層がある。この層は幾段にも重ねることが可能だ。
このオフィスにしても設定上は三十八階にあることになっているが、実際には地下にあるのかもしれない。そして此処では〝そんなことは誰も気にしていない〟のだ。
もし、バイザーを通さずにリアルの東京を眺めたら、そこにあるのはゴーストタウンのような街だろう、とも言われる。しかし一般の人間がそれを実際に目にする機会はない。
今の中央東京エリアは、日中のバーチャルな人口二千万に対し、リアルの人口はわずか百万足らず。リアルにここに住むのは若者ばかりだと言われる。彼女もそのうちのひとりだ。
「キリもいいし、今日はもう帰ろっかな」
カリナは呟いた。終電の時間はとうに過ぎていた。即座にミントが「車の手配を完了したよ」と耳許で言った――実際にはバイザーからの骨伝導でそれはカリナに聞こえる。第三者に音が漏れることはない。その声は中性的だ。カリナは子供の頃からその設定を変えていない。
彼女は自分のPAのAIをミントと名付けた。PAの実体の大部分はクラウド上にある。それ以外の部分はバイザーのローカルデバイスに常駐していてクラウド側と協調動作する。PAはその持ち主の行動パターンを完全に把握した上で常に最適なアドバイスをすることができるのだが、人間の自発意思を損ねるとの配慮から持ち主への過度な干渉はしないような設定がされている――犯罪者や精神的に問題を抱えた人間に対してはその限りではないが。裁判所の判断ぬきにその設定が変更されることはない。
カリナはふわりとした水色のスプリングコート――今シーズンの流行のもの――を身にまとい、バッグを肩にオフィスを後にする。
廊下に出てエレベータホールへ。すでにミントが呼んでいてくれているので、四つ並ぶエレベータのうちのひとつの扉が開いていた。カリナは小走りになって中へと乗り込んだ。その内側からもガラスの壁ごしに東京の夜景を見下ろすことができる。その地表は徐々に迫ってきて、やがてエレベータは一階に到着する。もちろん実際にそれが起きているのかどうかをカリナは知ることはない。そのような映像を見せられるから、そのようなことを体験しているような気がしているだけである。だがそう理解はしていても、それがリアルかどうかについて彼女が疑念を抱いたりすることはない。通勤にともなう通過儀礼のひとつと見做しているだけ。
広いエントランスを抜けて、車寄せへ。春先の深夜の肌寒さは彼女を足早にさせる。二台停まっている無人タクシーの片方には、カリナの予約がなされていることを示すサインがフキダシ状に表示されていた。
そばまで寄るとタクシーのドアは自動で開いた。彼女はその中に滑り込む。
――ゴー・ホーム。
彼女がそう囁くと、ドアは閉じられ、車はゆっくりと動き出した。
タクシーは大通りへと滑り出す。たちまちスピードは上がり、カリナの眺める窓の外の風景が後方に流れてゆく。
ふう、とカリナは息をついた。今日も一日頑張ったな、と思う。実際にはもう日付は変わっている。
少しして車は減速し、交差点を左に曲がった。
あれ、とカリナは思った。いつもと道が違う、気がした。
彼女がそのことについてミントに確認しようとしたとき、逆にPAのほうが彼女に声をかけてきた。
「カリナ、よく聞いて」
ん? と彼女は訝しんだ。ミントがそのように自分から声をかけてくることなど普段ではありえなかった。
「なぁに?」彼女は口にする。ミントは続けた。
「今からこのタクシーに乗ってくる人のことを助けてあげて」
カリナは混乱した――いったい、ミントは何を言っているの? このタクシーに乗ってくる人って? 使用中のタクシーに誰かが勝手に乗ってくるわけないじゃない。それともわたしが降りた後でこのタクシーに乗る人って意味? でもそれじゃわたしがその人を助けられるわけないし――などといった考えが瞬間的に頭の中を駆け巡った。
だが次の瞬間、カリナの混乱に拍車がかかる。
車が急停車し、外部が真っ暗になったのだ。
思わず彼女は窓の向こう側に視線を向けた。
その目は驚きに見開かれた。
車の外に広がっているのが、虚無のように感じられた。
しだいに目が慣れ、タクシーの停止灯にわずかに照らされる形に外部の様子がおぼろげに見て取れるようになった。
連なるコンクリートの廃墟――。
見たこともない光景にカリナは慄然とした。
そのとき、彼女が顔を向けていた窓とは反対側のドアがいきなり開いた。
同時に隣のシートに投げ出されるようにドサリと大きな荷物が放り込まれる。
心臓が止まるか、というほどに彼女は驚いた。実際にその体が数センチほどシートから飛び上がった。
振り向いた彼女が目にしたものは、荷物、ではなかった。
人、である。
ドアが閉じた。同時に車は走り出す。窓の外にいつもどおりの夜景が流れ出した。眠ることのない東京の街並――だがカリナはそれどころではない、突然に出現した人物から目を離すことができずにいた。
その男――そう、それは男性だ――は上半身をシートに横たえる形になって荒い息を繰り返していた。左手で右の二の腕を押さえているが、その指の隙間からは血が流れているように見えた――車内は照明が落ちているのでよく見えない。そして、男のバイザー越しに見える、その目。
そのような目をカリナはこれまでに見たことがなかった。これまでに彼女が見たことのあるどのような目ともそれは異なっていた。
獣の目、あるいは、神の目、か――。
彼女の受けた印象を言葉にすればそうなる。
「止血が必要だ」
ミントが言った。
シケツ――? シケツ……、ああ、止血か。
あらためて男の押さえている腕に目を向けた。暗いけども、確かにそこに見える黒いものは血のようだった。
「ちょっと電気をつけて」
カリナが早口に呟くと、車内が明るくなった。シートの男が苦悶の表情を浮かべているのが明らかになった。変わった服装だ、アスリートか何かのような? だが男の体が鍛えられたものでないことは一見してわかる。
「でも、どうすればいいの?」
彼女はミントに質問した。
「ハンカチかベルトで傷口より心臓に近いところを強く縛るんだ」
――まるでミントじゃないみたい。
カリナはそう感じる。緊急事態だからなのか、と思いつつも、子供の頃からの付き合いであるPAのその態度に違和感を覚えた。普段のミントなら「縛るといいよ」くらいの口ぶりだと彼女は思う。
バッグからハンカチを取り出した。ファッショナブルで大ぶりなものだ。
――お気に入りなのにな。
止血に使えば血で汚れるのを避けられず、そうなればもう台無しだろう、そう思いつつ彼女はそのハンカチの対角線上の角を持ち、軽く捻って細長く丸める。
男に視線を下ろした。
「大丈夫かな……。止血するから腕を縛らせてね」
なんとなく男に言葉が通じるような気がしていなかった彼女は子供相手に話すような口ぶりとなった。だが男は傷を押さえていた左手を離した。タクシーのシートの上に濃い赤いシミが急速に拡大していく。
カリナは男の脇の下あたりにハンカチを通し、それから、両手に力を込めて縛った――そういえば自分は止血の仕方を知っていた――記憶が脳内に浮上してくるのを彼女は感じていた。
「うぅ」
男の口から声が漏れた。
彼女は男の表情を確かめる。すでに彼の目は閉じられていた。力のこもっていた眉間が緩むのが彼女の目に映った。
「これでオッケーかなぁ」
彼女は呟く。
「大丈夫だと思うよ。お疲れ様」
PAがそう返してくる。いつものミントに戻った。
彼女は、遠い昔に――といっても彼女はまだ二十代前半だが――看護師になろうかなと考えた時期があって、ほんの少しだけその方面の勉強をかじっていた。このときになってようやくそのことを思い出していた。
カリナは改めて男の顔に目を向けた。年齢は自分よりも若く見える。痩せ型で背は高いほうだろう。色白に見えるのは出血してるせいなのか。そして、さっきは目の印象が強すぎて気がつかなかったが、その顔の造形は人間とは思えないほど整っていた。
――なんて美しい人なんだろ。
男の姿を眺めているうちにカリナは自分の心臓がいつもより早く鼓動を打っていることに気づいた。ふと我に返る。
「そうだ、病院に連れてかなきゃ」
思いついたように彼女は言った。
「ダメ」ミントが即答する。
その意外な返答に彼女はキョトンとする。病院に連れてっちゃダメって……、どういうこと?
「どうして?」ようやく彼女はその疑問を口にする。
「危険だから」
「どういうこと?」
「この人と関わりを持ったことが知れるとカリナにも危害が及ぶ可能性がある」
「ちょっと待って。なにそれ」
声が固くなった。事態が思っていたよりも深刻に受け止めるべきものであることに気づきつつも、このときの彼女はまだそれを疑っていた。
「じゃあ、警察に連絡して、今すぐ」
「それもダメ」再びミントは即答。
「なんでよ」
不平を伝えるかのようにカリナは口を尖らせる。
「警察は味方してくれないから」
「ちょっ、どういうことなのよ」
「とにかくカリナはこの人を連れて帰るしかないんだ。手当てするために」
「ええーっ、わけわかんない」
「この人を助けてあげて、カリナ。ボクからのお願いだよ」
ミントにお願いされるなんて――。いったい何がどうなっているのか、カリナは困惑しながらも再び男に視線を戻す。先ほどまでの苦悶の表情が一転して、疲れ果てた感じに男は寝ていた――あまりにも無防備な。再び彼女の心臓はドキリとする。
――ひゃ〜、ヤバい……。
その芸術品のような顔立ちを眺めつつ、彼女の心は揺れ動いた。
この見知らぬ男を自分の部屋に連れて帰る。それは彼女にとって未知の領域に属する行為だ。彼女はこれまでに自分の部屋に男性を入れたことはただの一度きりしかない。その同僚の男性とはある時期イイ関係になりかけていたものの、結局はうやむやのままに終わった。いくらミントのお願いとはいえ、見も知らぬ男性を部屋にあげるなどとは。普通ならあり得ないところだが、男の端正な顔立ちを見るうちにカリナ自身の内にそれを望む気持ちが芽生え始める。それは母性本能というものなのか、それともペットか何かを愛玩する気持ちに近いのか、はたまた美しいものを手元に置いてゆっくりと眺めたいというような耽美心か――。
ハイセンスさを感じさせる集合住宅が連なる区画でタクシーは減速し、それらの建物のひとつの前でゆっくりと停止した。
カリナの視界に『清算完了』の文字が浮かび上がる。しかしその金額がいつもよりだいぶ高い。いつもと少し違うルートを走ったせいにしても高すぎる。そう思った彼女が内訳を見ると、車内の清掃料金がチャージされていたのだった。どうやら男の血のせいで清掃が必要になったようだ。ロボットが出てきてチャチャっと拭くだけなのにそんなに金を取るのか、と彼女は軽いイラつきを覚えた。あるいは清掃している間は客を乗せられないことに対する補填なのかもしれないが――。
カバンを肩にかけ、いったんドアから外に出た彼女は、半身だけを車の中に戻し、男の肩を揺すってみた。
「ねえ、大丈夫? わたしの部屋でちゃんと怪我を見てあげるから、車から降りて欲しいんだけど」
男は目を開けた――おびえた獣の目、それがカリナを捉えた。
「うぅぅぅ」
低く唸るような声。いったい人間のどこにそのような音を発する器官があるのか、と不思議に思えるほどの奇妙な音。だがカリナは本能的に、その音から男の抱いている感情が『不安』であることを感じ取った。とっさに彼女は男に手を差し伸べていた。
「安心して。誰もあなたを傷つけたりしない。でも傷を手当てしないと膿んで大変なことになっちゃうから。こっちに来て」
男は怪我をしていない左のほうの手をそろそろと出した。わずかに震えている。カリナはその手を掴んでそおっと引いた。男はゆっくりと這い出るように車から出てくる。最後はドアによりかかりながら立ち上がろうとするが、その膝が崩れそうになる。カリナは即座にその体を支えた。
彼女の肩を借りるようにして男はなんとか立った状態を保った。その息は荒い。
「頑張って」
カリナはそう言いながら、男の体を引きずるように目の前にあるマンションのファサードに足を向けた。彼らを迎え入れるようにその自動扉が開いた。
なんとかエレベータに乗り込み、六階へ。そこからまた男を引きずりがちに一番奥の部屋に向かう。その角部屋が彼女の借りている1LDKだ――女性の独り暮らしにしては広いが、高い給与をもらっていてもそれを使う時間のない彼女からしてみれば良い部屋に住むくらいしかやりようがないのだ。
ようやっとドアの前に到着。ミントがドアを解錠させた音がした。カリナは男の体を支えたままのポーズで無理くりドアを開けた。
そこまでなんとか保っていたバランスが崩れてしまう。
「あらららら」
口に出してみるものの、どうにもならない。
二人で玄関に転げ込む形となってしまった。
男は怪我をしていないほうの手を床について荒く息を繰り返すばかりである。カリナはとりあえず自分だけ立ち上がり、靴を脱いだ。カバンもその場に放り出す。
台所に行って、コップに水を汲んだ。
一気に飲む。
それから大きく息をついた。自分の息も荒くなっていることを自覚する。それが落ち着いてくるのを待った。
「どうすればいい」
カリナは呟く。ミントが答える。
「まずは怪我の状態を確認して」
コートを脱いで、そばの椅子の背にかけた。彼女は玄関に戻る。
男は仰向けになっていた。その目は閉じられている。さっきよりも息は落ち着いているようだ。
あらためて男を眺めてみて、カリナは彼の装着しているバイザーに目を奪われた。それはカリナがかけているような単なるメガネ状のデバイスではなく、側頭部のほうにまでメカニズムが続いている、彼女がこれまでに目にしたことのないタイプのものだった。
とにかく玄関に寝かしたままにするわけにはいかない。彼女は男の靴を脱がし――それも彼女が見たことのないようなデザインのものだったが幸いにも簡単に脱がすことができた――それから男の頭のほうにまわり、両方の脇の下をひっかけるようにして上半身だけを持ち上げ、その体を引きずった。
――まさかわたしが自分の部屋に見も知らぬ男を(文字どおり)引きずり込むなんてね……。
そう考えてカリナはひとり苦笑いする。男は気を失ったのか、なされるがままだ。
フローリングの床の上をリビングまで引っ張ってくる。カリナは男の右側にまわって止血のために巻いたハンカチをおそるおそる外した。もう出血はしていなかった。それから怪我の箇所を観察してみる。血で汚れているためによくわからない。その部分は服が焦げたようになっているようにも見えた。
形状としては長袖のTシャツのような黒っぽい服だ。手当てのためにはそれを脱がす必要があると思われたが、男が気を失っている以上、それはハードルが高い。タイトな感じの服なので袖をまくるというのも難しく思えた。よし、どうせ焦げてしまっているのだし、怪我の周囲だけ服を切り取ってしまおう、と彼女は考えた。
カリナは台所の引き出しからハサミを取ってきて、男の横に座り、その袖にハサミを入れた。だが、なぜだかうまく切れない。それは奇妙に伸縮性のある素材で、なおかつ強靭さを備えていた。それでも彼女は一分ほど頑張ってみたが、一センチも切り進めることができなかったので、諦めて服を脱がす作戦に切り替えた。
再び男の頭側にまわり、そのウエストあたりからめくっていく感じに男の服をずり上げた。意外にすんなりとできる。最後には男の両腕をバンザイさせる形にして、服を抜き取ることに成功した。
上半身ハダカの状態で男が床に横たわる。その体は痩せているにもかかわらず筋肉質なところがなく、まるで子供がそのまま大きくなったかのような無垢さを感じさせた。
カリナは男の腕の怪我を確かめる。タオルを濡らしてそっと周囲の汚れを拭った。
その部分は、横一直線に肉がえぐれたようになっていて、全体に火傷のような状態だった。いったいどのようにしたらこんな怪我をするものなのか彼女にはまったく想像がつかなかった。当然、手当ての方法などもわからない。
「んー、どうすればいいのかな」
彼女は呟いた。すると即座にその言葉にミントが反応し、彼女に手当ての方法を指示し始めた。
消毒液と化膿止め、それから化粧用のコットン、さらには食品用のラップ――どれも部屋にあるもの――を用いての怪我の処置をステップごとにミントは提示し、カリナはこんなんでいいのかと疑問に思いつつも、ほんの五分ほどでそれらしく作業を終えたのだった。
――ふぅ〜。これでひと安心、かな……。
夜中の一時を過ぎていた。
さすがにカリナは疲労を覚えた。食事用のテーブルの椅子に腰掛け、横たわる男を呆然と眺めた。空調が効いているとはいえ、さすがに上半身ハダカのままに放置しておくこともできないので、彼女は寝室から毛布を持ってきて男をそれでくるんだ。それから自分も寝支度をする。もはや気力もないのでシャワーは断念。いつものスウェットの上下に着替えた。
血に汚れた男の服をハンカチと一緒に洗濯機に放り込んだ。朝には乾燥まで終了するはず。寝室のベッドに潜り込む。バイザーを外すと、とたんに部屋はなにもかもが無地の殺風景な空間になった。ホルダーにバイザーを置く。部屋は暗くなる。
――はぁぁ……、大変な目にあったな。
それにしても男は何者で、なんであんな怪我をしてたのか、どうしてわたしのタクシーに乗り込んできたのか――彼女の頭の中で疑問が渦巻き、なかなか眠りにつくことができない。だが、疲れていたことが幸いしたのか、いつしか彼女は寝息を立て始めた。
「うわああああああ!」
突然の叫び声にカリナは目を覚ました。一瞬、状況が理解できなかった。男の存在を思い出した。声は隣のリビングからだ。彼女はベッドを飛び出し、リビングに続くドアを開けた。
男は毛布の上にのけぞるようになっていた。その顔が歪んでいた。
とっさに彼女は横から男の体を取り押さえるように抱きついた。そうしないと彼の体がどうにかなってしまうような気がした。
その体は汗でびっしょりと濡れていた。ものすごい高熱もある。
「落ち着いて。大丈夫だよ」
カリナは声をかける。大丈夫という言葉にはなんの根拠もない。だがとにかく彼を安心させるべきと思った。
男は目を開いた。至近距離で視線が合った。男の瞳が揺れた。彼女を認識しようとしているようだ。
不思議な目――そのどこが不思議なのか彼女にはわからない。男のバイザーの奥に見えるそれはただの茶色い瞳の目でしかない。だが違う、そこにある何かが。それは常人のものではない――。
フッと男の体から力が抜けた。そしてその目は再び閉じられた。
ふぅ、とカリナは息をついた。
洗面所に行き、濡らしたタオルを絞り、男のそばに戻る。そっとその額の汗を拭いた。
顔も拭いてあげようと彼女は男のバイザーを外そうと試みたが、できなかった。それは頭のどこかに固定されているかのようだ。いったいどうなっているのだろう、と彼女は思う。
時計は午前三時過ぎを示している。
ため息をついて彼女はベッドに戻った。
午前五時前にほぼ同じことが繰り返された。そしてその次に目が覚めた時にはカリナは自分がリビングのソファに寝ていることを発見した。どうやら疲れてそこに腰掛けた瞬間に眠りに落ちたらしかった。変な寝方をしたため、首が痛い。
部屋はすでに明るかった――マンションでは窓が遮光モードであっても外部の状況に応じて部屋の中の明るさや気温・湿度が自動調整される。
男に動きはない。ようやくの深い眠りについているかのように見えた。
カリナは彼の額にそっと手を当ててみる――まだ熱があった。
冷たい水で濡らしたタオルで彼の額と顔の下半分を拭った。それを終えて彼女は、大きなあくびを、ひとつ、した。今日は仕事を休もうと彼女は考える。ほとんど寝れてないし、疲れも取れてない――と。それにこの男をひとり部屋に残して仕事に行くというわけにもいかない。
カリナは寝室に戻り、枕元のホルダーからバイザーを手に取って装着した。いつもの部屋の光景が戻った。
「おはよう、カリナ」ミントが毎度の挨拶をしてくる。「よく眠れた?」
「残念ながら」
彼女はバイザーのセンサーユニットを両手の指先にひとつひとつ装着しながら返事をした。
「今日は休むって会社にメッセージ入れといて」
「オーケイ」ミントはそう答えてから、「彼の様子は?」と訊いてくる。
「どうなのかな」
カリナはそう口にする。そして思う――ミントが自発的にわたし以外の誰かのことを気にするなんて――。
彼女は簡単に着替えを済ませ、リビングで寝ている男のところに行った。ミントに診てもらうためである。
「良好だね」
すぐにミントは言った。
「でも服は着せたほうがいいな」
そりゃそうよね、とカリナは思った。
洗面所に行って洗濯機から男のシャツを取り出した。目の前に広げてみると、血は綺麗に落ちていた。が、袖の怪我の部分は焦げて大きく穴が開いていた。着れないことはないだろうけど――カリナは考える。リビングに戻ってシャツを綺麗に畳み、ソファの上に置いた。
寝ている男の姿に目をやってから、部屋を出た。近くのコンビニに向かう。下着程度なら売っていたはずだ、と。
マンションの外に出た時、一瞬、昨晩のタクシーの窓から見えた異様な光景が頭の中にフラッシュバックした。彼女は思う。
――もしかして、あれこそが本当の街の姿なの?
この建ち並ぶマンションのうち実際に人が住んでいるのはどれだけあるのか、いや、あるいはほとんどの建物は存在すらしていないのかも。バイザー越しにわたしが見ているのはデベロッパーの創りあげたイメージ。バイザーを外して見れば、そこにあるのはわたしの住むマンションだけが瓦礫の中にポツンと立っている光景だったりして――。
ふとカリナは自分のバイザーに手をかけた。だがそれを外すことはできない。それは条例で禁止されているし、違反すればたちまち通報が飛んで中央東京から永久に退去させられてしまう。バイザーを外すことができるのは自分の部屋で窓を遮光モードにしたときか、病院などの施設の窓のない個室の中のみだ。
先の戦争で甚大な被害を受けた東京は、バーチャルとマッシュアップされた都市として復興された。ほとんどの人々は今も疎開先に住み続け、郊外からバーチャルに東京にやって来て仕事をしている。大多数の人は地方の自宅からピンポイントで職場にログインしてくる形をとっているが、もしそうしようとさえ思えば――そしてそのための装置を用意するだけの金銭的余裕を持っているのなら――かつての戦前の東京での暮らしを完全にバーチャルに再現することもできる。そんな酔狂な人間は世に存在しないであろうけども。そして、ごく一部の人間は、今現在もリアルに東京に暮らしている――バイザーによる拘束を受けるという条件のもとで。いや、それを拘束だなどと思っている者などいないだろう、それで何ひとつ困ることなどないのだ。むしろ恩寵とさえ言える。バイザーにより快適な暮らしが提供される。それなしで生きていくことなど考えることすらない――今やそれは東京以外でもそうであろう。現代の日本においてバイザーを使わないのはごくひと握りの自然主義者だけだ。
二、三ブロックを歩いてカリナはコンビニに着いた。中には数人の客の姿が見える。
「下着はどこ」
彼女は囁く――自分の下着はいつも通販で買うのでコンビニ内での陳列場所は知らなかった――と、視界の中に宙に浮く半透明の矢印が表示された。ナビゲーションサイン。それを追って彼女は店内を進む。奥のほうの陳列棚の下段にシンプルな下着が数種、置かれていた。男性ものは無地で色が白かグレーだけ、サイズはS、M、L、LLの四種だった。当然、彼女には男性もののサイズの見当などつかない。
「サイズはどれ」
「Mだね」とミント。
彼女はグレーのMサイズのTシャツを手に取った。男の顔を思い起こし、白のほうも手に取ってみる。はたして彼がどれくらいの間、自分の部屋にいることになるのだろう、と考えを巡らす――もちろん答えは見つからない。結局彼女はMのTシャツとボクサーパンツとを白とグレー、ひとつずつ袋に入れた。
ついでに食料を調達しようと考える。
男が目を覚ましたとして、熱があるから当然、食欲などもないだろう。しかし栄養と水分は補給せねばなるまい。
自身では普段飲むことのないスポーツドリンクとビタミン入りのゼリーを数個。それから自分用にパンとヨーグルトを袋に詰め込む。
足早に店外へ。ドアを出た瞬間に視界の中に領収書がポップアップしたが彼女は確かめもせずにそれを右手でスワイプした。
――ま、コンビニの経営が成り立ってるってことは、この近辺にはそれなりに多くの人がリアルに住んでいるのだろうなあ。とすれば少なくとも人が住んでいるのがわたしのマンションだけってことはないよね――などと彼女は考えるともなしに思う。
部屋に残した男のことがわけもなく心配になってくる。家に向かうカリナの足は自然と早まった。