生を紡ぐ
家に帰り、玄関を開けた。しんと静かで、誰も人がいないのかと思い、
「ただいま」
と、恐る恐る言ってみた。
一応、置き手紙は置いてきたものの、連絡は取れない状態だったし、かなり心配をかけただろうという負い目があり、私は忍び足で居間まで向かった。
居間の襖を開けると、祖父母も母も、全員その場に集合していた。
私はぎょっとして、目を見開いた。
「た、ただいま」
再び弱々しい声で皆に声をかけると、全員が、襖に佇む私を睨み付け、
「どこに行ってたんだ! 心配しただろ」
と、激昂した。
私は手塚が行方不明になったこと、そして、たまたまワライタケの、父の元相方、大内に居場所を教えてもらい、会いに行っていたと口早に伝えた。
早口で言わないと、次から次へ野次が飛んできそうな皆の勢いに、私はそうせざるを得ななかった。
私が話終わると、あれだけ頭に血を上らせて顔を真っ赤にしながら、怒りを露わにしていた皆がおとなしくなった。私は、とりあえず、胸をなで下ろし、家族と一緒になってこたつに入った。
「それで、元気そうだったの?」
祖母が言う。
「まぁ、何とか……」
私が答える。
「ところで、どこに泊まったんだ?」
温厚だった祖父が、急に思い出したというように、そう言った。眼光が鋭くなる。私は、思わずたじろぐ。
「新宿のビジネスホテルに泊まった」
「本当だろうな」
「ほ、本当よ」
私は、手塚と交わった夜を思い出して、なんとなく恥ずかしくなってきた。男性と、そのような関係になるのは、初めてだったし、色々な状況や心境が重なって、良い意味でも悪い意味でも、忘れられない夜になったのは、確かだった。
「浩之くん、早く美唄に帰ってくるといいね」
母は言った。彼女は、最近ようやく普通の生活を送れるまでに回復し、来月から新しい仕事も始めることになっている。
手塚以外の私の周りは、すべて順調だった。だから余計に強く思う。
手塚、早く帰って来て――。
帰ってきてから、江戸には、一応連絡を入れた。手塚は一人になりたくて、東京で生活し始めたというのは、解っていたが、そんな手塚の、独りよがりな思考だけで振り回され、過度な心配を寄せる江戸が気の毒だったからだ。
しかし、私が江戸に伝えたのは、あくまでも、手塚が今どうしているかという金今日だけで、なぜそのような経緯になったのかは、言っていない。東京で手塚と再会して、今自分を見つめ直すためにラーメン屋で、働いている。と、それだけを電話口で伝えておいたが、それだけでは物足りないらしい。当たり前だ。コンビなのだから。
「久しぶり」
待ち合わせ、美唄駅前の錆びれた喫茶店で、会うなり、江戸は言う。卒業式後に談話した馴染みの店だ。
「久しぶり。元気だった?」
私は言う。江戸が私を呼び出したのは、手塚について詳しく聞き出したいからであるというのは大方予想がつく。
「俺は元気。親父にこき使われてるよ」
江戸は笑った。だが、から笑い。余程、手塚のことを心配していることが、痛いほど伝わってくる。
「浩之はどうだった? 元気?」
「うん、まあ……。色々悩みはあるみたいだけど、とりあえず生活はできてるみたい」
「そっか」
江戸は注文したアイスロイヤルミルクティーをすすった。味に納得がいかないのか、定員を呼び、ガムシロップを五つ注文する。店員に運ばれてきたそれを、どばどばとコップに投入し、乱暴にストローでかき混ぜる。彼は甘党らしい。
「美唄にはいつ帰るって?」
「それはまだ解らない。自分を見つめ直したいみたい。でも、お笑いは諦めてないと思うよ」
私は生気の薄い、江戸を少しでも元気づけてやろうと、手塚のお笑いに対しての意欲を付け足す。
「まだ若いからいいけどさ……。何年も自分探しされちゃ、たまんないよな。俺は本気でお笑いやりたいし、若手はどんどん出てくるし」
一息ついて、江戸は、
「俺も東京行っちゃ駄目かな?」
と、言った。
「でも、今は一人でいたいみたいだし」
「東京の方が、お笑いやるのに最適なんだよ。地方からデビューすると、地方で売れてから上京してまた売れてって、二度売れなきゃならないだろ。その方が効率がいいんだよなぁ。俺、行っちゃ駄目かな?」
江戸は表情を明るくさせた。少しでも早くお笑いの世界に足を踏み入れたいというのが、ありありと伝わってくる。
「焦る気持ちも解るけど、今は手塚を待とう。必ず帰ってくると思うから」
興奮気味の江戸を落ち着かせるように私は言った。私たちは、別れてからも、手塚を通して繋がっている。彼らは、コンビだから。そして、私は手塚を好きだから。奇妙な関係のようにも思えるが、人と繋がりを持てるということは、私に安心感をもたらしてくれる。決して一人ではないのだと、生きていく糧になる。
「ところで」
「なに?」
江戸は突然険しい顔つきをする。
「手塚には言ったの? 好きだって」
私はどきりとした。好意はもちろん伝えたが、それだけではない。私たちは一線を越えてしまったのだ。私は、思わず俯く。
「そりゃあ、東京まで追いかけたんだもんな。手塚も気づくだろうな。流美ちゃんが自分を好きだって」
「うん……」
何と言ったら解らず、私は頷いた。なんとなく、江戸に申し訳なかった。
「俺、思うんだけど、あいつ昔から流美ちゃんのこと好きだったんじゃないかな。俺が、流美ちゃんに好意があるの知ってたから、気遣ってたんじゃないかな。優しいやつだよ。そうやっていつも相手のことばっかり考えて、自分の感情を圧し殺すんだ」
手塚が昔から私を好きだった? 私は動揺した。確かにいつも世話を焼いて私を助けてくれたけれど、本当に私と同じ気持ちだったのかは疑問だった。だが、長年コンビを組み、私以上に、いつも手塚の側にいた、江戸がそう言うのであれば、もしかしたらそうなのかもしれない。
私は目の前の、アイスコーヒーをストローでゆっくりかき回す。江戸の顔が、なんとなく直視できなかった。
「あいつが漫才したくなったら、俺は東京に駆けつける。今、決心したよ」
江戸は言い、決意を固めたというような、たくましい顔つきをした。そこには生気がきちんとあって、私はそれを見て安心した。
「今日は呼び出しちゃってごめんね」
「ううん。私も江戸くんに久しぶりに会えて良かったよ」
私は微笑む。
「あ、その顔」
江戸は言った。
「好きなやつの前以外では見せない方がいいよ。俺みたいに翻弄される男が出てくるからね」
江戸は冗談ぽく、私の頭部を小突いた。彼と別れてから、目に見えないわだかまりのようなものがあったが、それが薄れてきているような気がして、嬉しかった。
江戸は優しい。男性としての『好き』ではなかったけれど、大切な友人として、これからも関わっていたい。
四月になり、大学生になった。七月になった。
念願の文学部哲学科のある大学のキャンパスは札幌にある。流石は第二の東京と言われるだけあって、様々な会社や学校や病院、生活に必要な機関が密集している。
私は、大学生活を謳歌していた。ライターズスクールの手続きも終え、いよいよ始まる夢への第一歩に胸を踊らせた。
私は、普通の、ごく当たり前の生活に、すんなり溶け込んでいる。大学に行きながら、将来物書きとして生きていくという夢のために通い出したライターズスクールでの、講師からの評価も上々だった。
手塚から連絡はない。
住んでいる場所、働いている場所も知っているが、あれから一度も手塚に連絡をとったことはない。
いつになったら、手塚は戻ってくるんだろう。いつになったら手塚は、弱い自分と向き合い、うまく過去を消化できるんだろう。
だが、それは私にも言えることだった。父のことを、うまく過去にできない自分がいた。もう何年も、そのことに苦しむ自分がいた。
ある日、夕食の支度を手伝いながら、母と他愛のない話をしていた。学校のこと、ライターズスクールのこと、母の新しい職場の話も訊いた。
そして、私は、思い切って訊いてみた。
「ねぇ、どうしてパパと籍入れなかったの?」
大根を切る、包丁を握る母の手が一瞬止まった。私は、魚の焼き加減を確認し、なんでもないような、素振りをした。母には、もう、余計な気は遣わないことに決めたのだ。そして、母にも、私には気を遣わないでほしい。なにもかも、解り合いたい。だから、知りたいこと――父のことを話題に出すのを、ためらうのは止めたのだ。
「私、小さいころからずっと疑問だったの。だって子供を作ったら、その子のために結婚するでしょ」
今しかない。なぜかそう思った。
私は今まで抱えてきた疑問を全て母に問いただそうと思った。でなければ、前に進めないと思ったからだ。
「流美には、いつも悲しい思いさせちゃってたね」
母は調理する手を止め、私を見た。母の真っ直ぐな視線に注がれ、思わず、顔を背ける。
「お蕎麦屋さんもあんなことになって、優くんは手塚くんとも仲良かったから、交際してる時から、猛反対されてたの。私と優くんて、親の許可もなしに、美唄を飛び出して駆け落ちしたでしょう。でも、彼、あとから考えると申し訳なく思ったみたいでね、流美も生まれたことだし、きちんと私の両親の許可を取ってから籍を入れる予定だったのよ。だけど、若いって愚かね。優くんはあっという間にスターになって私とは全く違う世界の人になってしまった。それが彼の夢だったから、仕方ないけど寂しくなっちゃって、別れを切り出したの、私から。その後、どうして薬なんかに手を出したのか解らないけれど、パパはいつも人の期待に応えるために必死だった。求められる以上のことをやろうと躍起になってた。人って頑張りすぎると、空回りしちゃうのね。パパはその典型よ」
母は私を見て微笑んだ。
「パパはあなたのことを愛してたわ。一度、パパの著書を読んでみるといいかもね。あなたについてたくさん載ってるわ」
母は台所に向き直り、再び調理を再開する。私は以前、手塚の誕生日プレゼントに買った父の本を思い出した。おそらくまだ取っておいてあるはずだ。私は夕食の支度をしながら、夜、風呂上がりにそれを読んでみようと思った。
『僕の娘は、流美と言います。僕が名付けました。少し変わった漢字でしょう。色々な意味を込めてつけたんです。弱さに負けず、強く生き抜いてくれ、という意味です。人は誰しも弱さを持っています。それは仕方ないし、逆に愛しくなることもあります。弱さは時間の流れと共に変化すると、僕は思っています。時間が流れれば、ずっとその時と同じ悲しみを背負うことはないのです。だから『流』という漢字を使いました。
彼女は、とても可愛いです。仕事で疲れている時でも、彼女の笑顔を見ると力がみなぎります。
彼女は、僕の名字ではありません。事情がありまして、まだ正式な形で親子ではないですが、いずれ流美のために、そしてもちろん僕のためにも、流美に杉崎を名乗ってもらいたいと思います』
『僕は考えすぎてしまう性格で、今までそのせいでたくさんのことで失敗してきました。だけど、お笑いだけは誰にも負けたくないんです。僕は、僕が一番面白いという、絶対的な自信があります。この世の誰よりも面白い。そのためなら魂を捧げるのも容易です。僕は愛娘、流美と、お笑いに魂を売ります』
風呂上がり、ベッドにうつ伏せになりながら、初めて父の本を読んだ。
あのとき、手塚の父親に、頭に来て、勢いあまって捨ててやる、弱い父もろとも忘却してやると息まいていたのに、結局それができなかったのは、父への確かな未練があったからだった。
父の本には、父流の仕事の流儀や、私や事実婚状態だった母への途方もない愛が延々と綴られていた。私は、読みながら泣いた。その内容は、多分、私のような血縁者でなくとも涙を誘うような文面だった。彼の本がベストセラーになった理由が解った気がした。もちろん、話題の人物が執筆したからという理由もあるだろうが、確かな文才と構成は、彼の才能がお笑いだけではないということを明確に記していた。
私は父から確かな愛情を受けていたことを確信した。人は誰しも弱いところがある――。父は薬に逃げてしまった愚かな人間だが、今なら人の弱さが少しだけ解る気がした。
そして、父の記した通り、弱さが逆に愛しくなるのも、解りかけていた。
時は流れ、一年が経った。年が明け、雪が降り、毎年繰り返される寒い季節の真っ只中だ。三月。私は、大学一年間の講義を終了し、四月から大学二年生になる。
毎年繰り返される、北海道の銀世界に包まれ、私は、美唄駅から電車に乗って、ライターズスクールに向かった。
「時岡さん、お父さんのことを、書いてみたらどう?」
講義終わり、男性講師が、私に声を掛けてきた。
ライターズスクールでは、頻繁に、提出しなければならない課題があり、それは、講義で学んだことを活かして、自由な題材で執筆していいものだった。
私は、先週の講義終わり、父のことを題材に取り上げ、提出した。それが、講師の目に留まったらしい。もちろん、私の執筆能力だけを評価しているわけではないということは解っているが、悪い気はしなかった。
「驚いたよ。君のお父さんが、杉崎優だなんて。僕も、若いころは、憧れたよ」
眼鏡越しから、注がれる、講師の優しい眼差しに注がれ、ほっとする。この人は、父に、悪い評価をしていないのだと思えるから。
「父のことを書くのは、実は勇気が入りました。先生もご存じだと思いますが、私は、父と一度も、正式な家族になったことはないし、しかも、父の死に様は、当時、大変騒がれましたから。そのせいで、私も、たくさん嫌な思いをしました。でも、なぜか、今、父を恨んでいないんです。あのころは、何度も父を憎みました。今になって考えると、それも、本当の気持ちではなかったんだろうな、と感じます」
次々に帰宅していく生徒たち。教室内には、気付けば、私と男性講師だけになった。窓の外では、雪がちらつき始める。空は灰色で、外界は冷気に包まれているだろう。
「今なら、穏やかな気持ちで、お父さんのことが書けるかもしれませんね。実際、時岡さんが先週提出したものは、素晴らしかった。文章に滲み出ていましたよ。あなたの、優しい気持ちが」
講師は、微笑んだ。私は、ありのままを、ただ書いただけに過ぎなかったが、そういった評価を受けたことに、少し驚いた。文章には、その人の人格や、考え方、生き方が反映されるものだとは、以前から思っていたけれど、父に対する優しい気持ちが滲み出ているなんて、自分では、いくら読んでも解らない。けれど、他者が読んで、そう感じ取れるというのなら、それが、真実なのだろうと、思った。
私は、一冊分の本を書き上げる意気込みで、父に関することを執筆することに決めた。そこには、嘘偽りのない、正直な自分がいた。そして、杉崎優の娘であることを、隠し続けていた、弱い自分もいなかった。
私は、驚くほど早く、それを書き上げることに成功した。内容のほとんどは、父との少ない思い出を回想したもので、それらを通して、培った、私という生き方を書いてみた。そこには、手塚浩之という少年に出逢い、長い時間を美唄で過ごしたことも、明記した。
すべての経験が、今の私を作り上げている。余分なものなど、一切なく、私自身を形成している。
出来上がったばかりのそれを、講師に見せると、彼は、知りあいの出版社の編集者に、この原稿を見せてもいいかと、訊ねてきた。
「これは、色んな人に、活力を与えると思うんだ。もちろん、君のお父さんのファンだった人だって、こういう著書を待っていただろうし」
私は、素直に嬉しかった。印刷された、出来あがったばかりの原稿を、彼は何度も読み直したらしい。
「特に、ここ。手塚くんと出会って、彼が芸人を志して、それを父親の、在りし日の姿と重ね合わせているところなんかもいいよ。この本は、君のお父さんが主役のようで、実は、そうじゃないんだなぁ。その父と、関わって、君や周りの人たちがどうやって変化していったのかが、醍醐味なんだ」
少し興奮気味になって、熱弁ふるう講師を見て、私は、父のことを書いて良かった、と心から思った。
「よろしくお願いします」
「はい。責任持って、預からせてもらいます」
私は、頭を下げた。いつか、自分の本を出すことが夢だった私にとって、願ってもないチャンスだった。
『私の父親は、杉崎優です。父が、亡くなるまで、彼は本当に理想的なお父さんでした。よく思い出すのは、幼いとき、一緒に絵を描いて遊んだこと。父は絵がうまく、それが影響して、最初は漫画家を志していたころもありました。
父が、有名なお笑い芸人であるということは、私もよく理解していたし、それを自慢してしまう癖もありました。苗字が違うことを、同級生に指摘されると、傷つくこともありましたが、実の娘であることに変わりはないという事実が、私の不安を紛らわしてくれました。
しかし、父は亡くなりました。薬物を使用しての、突然死でした。部屋に一緒にいた女性と、全裸になって発見されたというニュースは、同級生たちの好奇心を触発し、私は、ひどい苛めに合いました。様々な苛めを受け、私は、父のことを、深く憎むようになりました。私だけではなく、母をも、裏切ったような気がしたからです。
なにが、お笑いだよ。なにが、人を笑顔にするだよ、と、何度も心の中で、父を罵倒しました。
やがて、苛めが最高潮にひどくなったころ、母が美唄への帰郷を提案し、私は、父と母の故郷である、北海道美唄市に引っ越しました。
そこで、出逢ったのが、手塚浩之という少年でした。』
それは、突然のことだった。
平日、大学の講義もなく、祖父母も母も、出払っていて、居間でテレビを見ていると、家のチャイムが鳴った。私は、下はジャージ、上はトレーナーを着て、さらに上からちゃんちゃんこを羽織った状態で、急いで玄関に向かう。どうせ、大した用事でもあるまい、回覧板かなにかだろうと、引き戸を開けた。
「よぉ」
そこには、喪服に身を包んだ手塚が立っていた。驚いて、思わず腰を落としそうになる。そして、瞬時に、自分の格好が、あまりにも色気がなく、ださいということに恥ずかしくなり、我に返った。
「ど、どうしたのよ」
「いや、なんとなく」
手塚は、所在なさげに、玄関先に立っている。私と、視線を合わせようとしない。気まずいのだろうか。それも無理はない。皆に心配をかけたのだから。
「その服は?」
「親父の葬式」
死んだんだ、手塚のお父さん。もう息をしていない手塚の父親の亡骸を想像して、今までの色んなことが思い出された。手塚を、苦しめてきた、彼の父親。そして、そんな父親と親しかった、私の父。親子の繋がりに悩み続けた私たち。
「このたびは、あの、非常に残念な……」
上手い言い回しが思いつかず、しどろもどろになる。
「いいよ、無理してなんか言おうとしなくても」
手塚は笑った。私が長年、愛しいと思い続けてきた笑顔がそこにあった。
「親戚の人と、連絡取ってたの?」
「ああ。お前が東京を去って、すぐに連絡入れといた。俺が訳を言って、何で東京にいるのか胸の内を明かしたら、お前の好きにしろって言ってくれたよ。ほんと、良い人だよな」
「そっか」
「それで、報告なんだけど」
手塚は改まって、私に向きなおった。わざとらしく、咳ばらいをして、
「俺、東京に行くよ。江戸と一緒に」
と、言った。
「そう。本格的に、お笑いやることにしたんだね」
私は、嬉しい反面、また、彼と、離れ離れになるのだと思うと、少しだけ淋しくなった。
「江戸が、すげえ乗り気でさ。今、一緒に物件探してるんだ。育成所に提出する入学届けも出した」
夢に向かって、走り始めた手塚。確かに、淋しい。淋しいけれど、彼が幸せなら、それでいい。私は、素直にそう思うことが、できる自分が誇らしい。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて!」
私は、踵を返して自室に向かう。
手塚に、私の本をプレゼントしようと思った。まだ、出版前の、私の処女作を、この前、出版社の人にもらったのだ。出来たての紙の匂い、表紙に明記されている私の名前。なにもかもが、初めてであり、私もきちんと前を向いて、歩き始めたということを、彼に知ってほしかった。
玄関まで持っていき、手塚にそれを差し出す。
「これ、書いたの」
本を受け取った手塚は、そこに明記されている私の名前を見て、顔を上げる。
「お前……」
手塚は、ずっと長い間、私のことを側で見てきた。私が、どんな人間なのかも、よく理解しているはずだ。だからこそ、驚いたのだろう。著者名は、杉崎流美と、記載されているから。
「タイトル、色々迷ったんだけど、『姓を継ぐとき』にしたの。なんか、未だにしっくり来ないんだけどね。今、まさに今の私のことを書きたかったの。だから、そうした」
手塚は嬉しそうに、表紙を見入ったあと、顔を上げて私を見た。
「俺、もう、落ち込んだりとか、悩んだりしてるところ、お前には見せないよ」
「なんで? 別にいいのに」
私は、手塚の言っている意味がいまいち解らなくて首をかしげた。私は、むしろ、弱いところも、全部見ていたいと思っているから。
「いや、だって、お前、そしたら、また泣くだろ」
東京で、私は確かに手塚の傷つくところは見たくないと言ったけれど、あんな感情任せで吐き出した言葉を覚えていたことに、少し驚いた。
「とにかく、俺、頑張るよ。江戸と一緒に、最高に面白い、お笑い芸人になるから、そしたら……」
私は、その先の言葉に期待して、身構える。息を殺して、次の言葉を待っていた。
「いや、なんでもない。また、連絡するよ。寒いから、お前も早く部屋戻れよ。じゃあな」
「あ、う、うん。じゃあ、またね」
手塚は、満面の笑みを称えて手を振った。私も、白い息を吐きながら、手を振る。それは、別れの挨拶ではなくて、きっと、これからもずっと続いていく始まりの言葉だろうと、信じて。
彼は、きっと、立派な芸人になって、人々を笑顔にしていくだろう。そして、私も、色々な本を書いて、誰かを幸せにしたい。私は生を紡いでいく。