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姓を継ぐとき  作者: 凪理恵子
8/9

あなたを愛してる

「何やってんだよ、あいつ」

江戸は言った。彼がテーブルを拳でばんと叩くとコップに入ったアイスコーヒーが波打つ。怒りの現れだった。

私たちは美唄駅前の喫茶店で、高校卒業式後に合流し、談話した。その話の内容は大概手塚のことだった。

私は無事に志望していた大学にも合格し、四月から花の女子大生だ。受験勉強の折、手塚の行方が気になって勉強になかなか身が入らず、このままでは不合格になるのではないかと気が気ではなったが、高校時代、わりかし成績が良かったのもあり、容易に基準をクリアすることができた。ライタースクールはお金を出せば通えるような専門学校なので、 大学生になったらアルバイトしながら通う予定だ。

春から皆、新しい生活が始まる。普通なら胸うららかにわくわくするはずだが、少なくとも江戸と私にはそれがない。手塚のせいだ。

「せっかく親父にも許可とって、春から養成所通いする予定だったのによ。何も言わず失踪するなんてどういうことだよ」

私はうつろな目で、まだ反動で揺れているアイスコーヒーを見やる。

私は、手塚の父親が私の父にドラッグを推奨したことに腹を立て、手塚にひどいことを言った。私は自分が受けてきた今までの差別の内容、真理を初めて思い知った気がした。どうしようもない血の繋がり。本人には関係なくとも本能が許さない。けれど、

「心配だね」

と、私は言う。それは本心だった。私の言葉に傷ついて失踪した、なんてことはありえないだろうけれど、きっかけにはなったかもしれない。今どこで何をしてどうやって生きているのか、心配で胸が苦しくなる。

手塚の父親が薬を勧めたせいで私の父は薬に溺れた。それは紛れもない事実。絶対に許されることではない。けれど、親子の繋がりなんて感じさせないほどに、今まで手塚は優しかったじゃないか。辛いとき、励ましてくれたじゃないか。

――好きだ。私は親のことなんか関係なく彼が好きだったはずだ。

その想いがふつふつと沸き上がる。彼に会いたい。日毎にその想いは強くなる。

手塚を勝手に突き放しておいて、身勝手だということはよくわかっている。けれど……、会いたい。今すぐに。


私たちは喫茶店を出た。

相方が失踪してしまった江戸は、とりあえず、繋ぎで父親の会社を手伝うと言った。

今日は私の卒業式であり、母の退院の日だった。

思えば長い入院生活だった。美唄の学生生活で、ほとんどの時間、母は家にいなかった。本当なら、もっと色々なことを話したかった。学校のこと、勉強のこと、男の子との付き合い方。だがしかし、そのほとんどができなかった。

母がなぜ、精神病になったかは解らないが、もう二度と誰も失いたくないと強く思う。これは手塚が失踪してから猛烈に意識するようになったことだ。

手塚、今どこにいるの。そんな問いかけを何百、何千と問いかける。

彼はいつも弱さを見せなかった。強かった。頼もしかった。けれどそれは、無理して取り繕っていたのかもしれない。私は手塚を守りたいと思い始めていた。私たちは、親の二世というだけで苦労してきた仲間だったじゃないか。

手塚を突き放してしまった自分を恥じた。


どうにかして手塚を見つけたいと思い、あれこれ彼がいきそうな場所を探ったが、案の定どこにもその姿はなかった。

手塚が居候していた、彼の叔父さんの家からも、行方を探る電話が来たが、本当に見当もつかなかったので、知らないと答えた。一応、失踪届けは出したらしいが、三ヶ月経っても彼は見つからなかった。

私は気が狂いそうなほど心配した。以前母が狂いそうになると言って激怒したことがあるが、あのころの母の、ああいう風な発言をしてしまった心理がようやく理解できた。今まで弱い人間が嫌いだった。

薬に頼らなければ生きられず、結局世間から批判されるような死に方をした父 。環境が代わり、勝手に私を生み落としたくせに、育てることの大変さに疲れが溜まり、長期間の入院生活を送った母。弱さを露骨に見せる人間が嫌いだった。

だが手塚は唯一異なった。人を気遣うあまりに弱さは決して見せなかった。だからこそ好きだったし、愛おしかったが、今になって思うと相当無理をしていたのではないかと思う。そう考えると辛い。


翌日、私は手塚と江戸と三人でやって来た、札幌の芸人養成所に来た。もしかしたら、手塚がピンで入学しているのではないかと目論んだからだ。あんなに芸人になりたいと高校生活の大半をお笑いに費やした男だ。そんなに簡単に諦めるはずがない。私は手塚を心配するあまり、この時、よく思考回路が回っていなかった。

よくよく考えれば、手塚が江戸なしで養成所に入るはずがないから、勝手に一人で入学するはずがない。けれど何の手掛かりもなしに突きつけられた現実に耐えきれず、私は何かしらの行動を起こすことでしか、生きていかれなかった。

私はレッスン生ではないため、入り口から中をじっと見つめていた。かなり怪しげだということは百も承知だが、少しでも何か手塚の手がかりが欲しかった。彼がいるかどうかも解らないのに。

そうして何度も入り口の前を行ったり来たりしていると、中から一人の男性が出てきた。おや、と思い、目を凝らした。大内だった。

「流美ちゃんじゃない。どうしたの?」

私は大内の優しい声調に触れると今まで溜め込んできたものがいっきに溢れ出てしまった。コンクリートの地面に膝をつき、うずくまり、大声で泣いた。

大内は人目を気にして、

「とりあえず、そこのカフェ入ろう」

と、言い、私を養成所近所のカフェへと誘う。

私たちはそれぞれアイスティーを頼み、しばらく無言が続いた。

「どうして北海道へ?」

私が訊くと、

「北海道にロケがあってね。ついでに養成所の講師も頼まれて来たんだよ。まさか、また流美ちゃんに会えるとはな。来て良かったよ」

大内は笑った。その笑みに注がれて、私はますます涙腺が崩壊しそうだった。

店内には気だるいジャズが流れている。静かに話をできそうな、ゆったりとしたカフェだった。

「それでどうしたって言うのさ」

大内はアイスティーに口をつけずに私に訊いた。

「手塚がいなくなりました」

「手塚って、あの江戸手塚の坊主の方でしょ?」

私は黙って頷いた。大内と対話していると、久しぶりに緊張がほぐれてきて、ぽたぽたと涙が出た。私が人前で泣くことは皆無に等しい。

「コンビって何なんですかね。あんなに躍起になって江戸手塚で天下とるとか息巻いてたのに。そんなに簡単に捨てれるものなんですか?」

大内は考える素振りをしたあと、ゆっくり言った。

「手塚くんのことは解らないけど、ほとんどの芸人は、良きライバルであり、尊敬し合える仲なんだと思う。俺もそうだった。杉崎と漫才してる時が、一番幸せだった。杉崎ばかり売れて不貞腐れたこともあったけれど……。やつは本当に天才だったからな」

「父が死んだ後、何で他の人とコンビ組まなかったんですか? まだ若かったのに」

「コンビだからさ」

大内は私の問いかけに即答した。コンビだから――ライバルであり、尊敬し合う仲間。なんて複雑でなんて素敵なんだろう。私は大内に感謝した。父のことを今でもコンビだと思っていてくれて、ありがとう、と。

「江戸くんはなんて?」

「とりあえず帰って来るのを待っているみたいです。あいつは絶対裏切らない、あいつとじゃないと漫才できないって」

私は続けた。

「もう心配で、心配で、辛いんです。もし父みたいに、どこかで死んでいたらと思うと」

胸がつまった。言葉がひどく弱々しかった。

そんな私の苦しい心境が伝わったのか、大内は落ち着かない様子で貧乏揺すりを始めた。私がどれだけ手塚が失踪してから、胸を痛めているかを話した途端、一切目を合わさなくなり、妙によそよそしくなった。私は直感的に手塚の居所を知っているのではないかと思い始めた。

「大内さんは知りませんか? 手塚の居場所」

私が訊くと、大内は落ち着かない様子で煙草に火をつけた。相変わらず目線は合わせない。白い煙が天井に向かってゆらゆらと延びていく。

「私もう心配で死んじゃいそう」

私はスカートの裾を、ぐっとつかんで思いの捌け口にした。涙がまた、こぼれ出す。私が本当に辛いということが伝わったのか、大内は、渋るように、

「あいつには、秘密にするよう頼まれているんだけど」

と、言い煙草を灰皿に押し潰して続けた。

「あいつ今歌舞伎町のラーメン屋にいるよ」

「歌舞伎町って、東京ですよね? 何で知ってるんですか?」

私が訊くと、

「仕事の打ち上げで、歌舞伎町の飲み屋に行って、締めにラーメン食べに行ったんだよ。そしたらたまたまあいつが働いてた。で、あいつはすぐに俺に気づいて挨拶して、流美と江戸には、ここで働いてるのを秘密にしてくれって念押されたのさ」

 と、大内は答えた。

「何で歌舞伎町のラーメン屋なんかに……。卒業後は札幌の養成所入るって、言ってたのに」

私は氷が溶け出して、水滴が増え、流れ落ちていく、コップ表面のいくつもの雫を見つめた。なぜ東京なんかに――。そして、ふと思い出した。私が美唄に越してきたばかりのとき、手塚は私に東京はどんな街か訊いた。それに何か関わりがあるのか。でもなぜ今なのだろう。色々な思いが交差するなか、大内は言った。

「彼も自分なりに考えたいことがあるんじゃないかな。君らを捨てたわけじゃないと思うよ」

大内は穏やかな声で私に言う。それは私の緊張を解き、心拍数を下げ、安心を誘う。束の間でも大内と話せたこと、なにより手塚の居場所が解って良かった。

私は大内に、手塚が働いている歌舞伎町のラーメン屋の住所と店名を聞き、しばらく談笑したあと、別れた。


大内と別れ、家に帰った後、いても経ってもいられず、私は千歳―東京間、羽田空港行きの航空券を、インターネットで予約した。時刻は早朝。早朝の方が、値段が遥かに安いのだ。金のない学生には助かる。

翌日、居間のテーブルに置き手紙をして、家を出た。

空港まで向かう列車の中で、まだ雪の降り積もる四月の美唄の地を見て、この土地にも随分慣れたものだなぁ、と思った。東京で四月といったら、もう、上着は入らないのではないか。私は、もうすっかり雪国の人間になっていたのだ。

空港に着き、飛行機に乗る。格安の飛行機は、シートが狭く、座り心地は最低だ。だが、そんな文句を言っている暇はない。

手塚に会いたい。どこにいるか知ってしまったからには、会わずにはいられない。

江戸に、手塚の居所を言うのもすっかり忘れていて、それだけ私の気持ちは、手塚に早く会って安全を確認したい一心だった。まっすぐだった。

なぜ、出て行ってしまったの?

約一時間半のフライトを経て、すぐに羽田空港に着いた。予想通り、東京は温かかった。上着を脱ぎ、とりあえず一週間分の衣類を押しこんだキャリーバッグを引きずりながら、歌舞伎町に急ぐ。東京に住んでいたときも、歌舞伎町なんて繁華街には行ったことがなかったため、内心どきまぎしていた。悪いイメージしかない。欲望と金の街、という、なにかのテレビで見た、そんなあくどいイメージだ。

そんな街で手塚は働いているのだから、大丈夫なのか不安になる。私は、急いで、モノレールから浜松町に向かい、手塚の店へ足を運ぶ。

しかし、ふと思ったのだが、今この時間で開店しているのだろうか。格安の早朝の飛行機でやって来たから、時刻はまだ午前九時だ。大内は、飲み屋の二次会に使用したと言っていたから、かなり遅い時間からやっているのかもしれないと思い、私はとりあえず、新宿の、ビジネルホテルで寝床を確保することにした。


いよいよ始動である。午後十時。この時間なら、いくら遅い時間からの開業といっても、開店しているに違いない。私は大内に書いてもらった、簡素な地図に目を通す。

「ねぇねぇ、お姉ちゃん、キャバクラとか興味ない?」

 新宿東口を歩いていると、そういった低俗なスカウトに声を掛けられるが、勿論無視する。

 私は、ネオンが立ち並ぶ歌舞伎町を歩いて行き、市役所通りを少し過ぎたところに、一軒のラーメン屋を見つけた。外観は古びて見えた。客入りもあまり良さそうに見えない。とりあえず、私はなかに入ってみることにした。

「いらっしゃいませぇ」

 私が来店すると同時に、一人の青年が威勢よく呼びかけをした。実に気持ちの良い、透き通った声だ。漫才をやるのには、もってこいだろう。

「こちら、メニューになります」

 私はその時、帽子を深く被っていた。東京の喧騒に、長い間身を置いていなかった私は、ちょっとした人見知り状態だったため、これくらいの防御がふさわしい。

「ご注文、お決まりでした?」

 やがて、さっきの青年が、伝票とボールペンを手にして、私のテーブル横にやって来た。

「ラーメン、ひとつ」

「ラーメン、一丁ー」

 私が注文すると、青年は、厨房の店長に聞きとれるように、注文内容を大きな声で伝えた。

 私は確信した。手塚だ、と。

 やがて、熱々の湯気を上げながら、美味そうなラーメンが一つ、盆の上に置かれて運ばれてきた。私は顔を上げた。手塚はいまだに私に気づいていない。私は帽子を取った。

「久しぶりね」

 手塚は私に気づくと、ぎょっとした顔をした。それからすぐに無視して、厨房に向かおうとする。

「ちょっと待ってよ。久しぶりの再会なんだから、座りなさいよ」

「今、仕事中だから」

「私以外に誰も客いないじゃない」

 手塚は店内を見回した。店内は、テーブルが四個と、カウンター席が三つあるだけの小さな造りだった。椅子もテーブルも木製で、私が少し動くだけで、椅子が軋んだ。

 手塚は、渋々と言った感じで、私のテーブルの真向かいに座った。

「一体どういうことなのよ」

「どういうことってなんだよ」

 私は手塚のその態度に頭に来て、思わず声を張り上げる。

「どういうことってなんだよ、じゃないでしょ! いきなり、いなくなって、出席が足りてたから何とか卒業できたのはいいけど、江戸くんも私も本当に心配したんだから! 江戸くんなんてどうするのよ! あんたと養成所入るって進路決めてたのよ! 本当に勝手ね! 見損なった!」

 口早に、私は言った。手塚はぎろりと私を睨みつけ、

「もう私に話しかけるな、関わるなって言ったのはお前だろ。そんなお前がなんで心配なんてするんだよ」

 と言った。確かに手塚の言い分は最もだ。私は彼を傷つけるようなことを言ってしまった。けれど、江戸は別だ。これからの長い人生を、手塚と共に歩んでいくと決めていたのに、勝手に失踪されて、この先どうするというのだ。

「それは……、ごめん。色んなことを知ってしまったの。だから正気じゃいられなかった」

「解ってる。どうせ、親父絡みだろ」

 手塚の言葉に目を丸くした。なぜ知っているのだろう、と思った。が、すぐに、なぜ手塚がそう見抜いたのか解った。きっと、これまで何度もそのように、父親のせいでとばっちり食らってきたのだろう。

「お前と俺は仲間だと思ってた。俺は、お前がこれまで受けてきた差別を、可哀想だと思って、二度とそんな風にさせないように、労ってきたつもりだったけど、お前は簡単に俺を裏切った。そういうことだろ」

 私は、何も反論できずに黙っていた。自分のことを、最低だと思いながら。

「で、でも、江戸くんは本当に心配してるよ」

「俺な、東京に来たの、お袋から連絡があったからなんだ。一月の初めくらいだったかな。一緒に住まないかって。もう何十年も会ってないし、俺のことなんてどうでもいいんだって思ってた。だから、その連絡はすごく嬉しかった。だから、東京にすぐに向かった。お袋は歓迎してくれた。でも、すぐに異変に気付いたんだ。お袋にはすでに他の家族がいたんだ。新しい再婚相手と、俺と同い年くらいの息子がいた」

 手塚は続けた。

「再婚相手も息子も俺のことを歓迎してくれた。それからしばらく一緒に住んだよ。学校も東京に編入すればいいって言ってくれて。幸せな時間だった。俺さ、親父もあんなだろ?

 だから、今まで誰かに愛されてるって実感したことなかったんだ。だから、漫才とか夢のことなんて忘れて、その平凡な生活に夢中だったよ。ところが、ある日」

 手塚は、店の制服の一部でもある、頭に被っていた三角布巾を、おもむろに取った。全てに嫌気が指している、苦々しい表情からそんな印象を受けた。

「その、俺と同い年くらいの再婚相手の息子の財布がなくなったって言うんだ。落としたり、無くしたりしたんじゃないのか、って俺は言った。でも、そいつは血相変えて俺に言ったんだ。お前が取ったんじゃないのかって。俺は否定したけど、再婚相手まで疑い出して、俺の荷物全部ひっくり返されてさ、お袋は、そんな様子を見ても、俺を庇ってなんてくれなかった。結果的に、そいつの脱ぎ捨てたジーンズのポケットに入ってたんだ。笑えるだろ。一応謝ってはくれたけど、あの時、本性を見た気がしたよ。ああ、俺は、本当は誰にも必要とされてないんだって」

 私は手塚の話になんと答えたら良いのか解らず、ただ黙って話に耳を傾けていた。ひどい話だと思った。自分がもし、そんな風にされたら、自分を見失い、生きるのに嫌気が指すだろう。しかも、手塚を呼び寄せた母親まで、彼を庇ってくれなかったなんて、慣れない東京の地、新しい家族、守ってくれるのは本来、母親だけなのに。

「俺は家を飛び出した。行くともなく歩いて、見つけたのが、このラーメン屋さ。今どき、寮までついてるんだぜ? こんな好条件なところねぇよな」

 好条件かどうかは解らないが、とりあえず、住むところがあるということを知り、安堵した。手塚はようやく笑顔を、私に向けてくれた。しかし、それは、今まで私が見てきた彼の笑顔とは少し違って、哀しみを帯びた淋しげなものだった。

「結局さ」

 手塚は言う。

「俺って、誰にも愛されてないんだよ」

 私はどきりとした。父親のことを思い出したのだ。私のことを愛してくれていたのなら、どうして、母と結婚してくれなかったの。死後、どうして他の女性といたの。私はそんな考えが頭の中をぐるぐる回って耐えられなくなった。

子供にとって、親に愛されているということが、何よりの自信になるのに、手塚にはそれがないのだ。

「美唄には帰らないの?」

「今はまだ心の整理がつかない。江戸には悪いけど、自分がどんな人間なのか、知りたいんだ。本当は東京なんて嫌さ。早く美唄に帰りたい。だけど、このままじゃ、駄目な気がするんだ」

 気付くと、私は泣いていた。湯気が立ち込める、今が一番食べごろのラーメンを目の前にしても、一切口をつけず、ただ、気付いたら涙を流していた。

 それに気づいた手塚が、おしぼりを持ってきてくれて、私はそれで涙を拭いた。

「ねぇ、昔、私、手塚のこと、好きだって、遠まわしに言ったことあったでしょ」

「ああ」

 手塚は簡潔に答えた。

「誰にも愛されていないって言ったけど、私は手塚のこと好きだよ」

 私は嗚咽交じりに手塚にそう伝えた。

「江戸に悪い」

「もう関係ないもん。昔からずっと好きだったんだもん」

「もうすぐ上がりだ。それまで待っててくれるか?」

 手塚の問いかけに、私は頷いた。作ってくれた店長には悪いが、ラーメン屋に来たのは、あくまで手塚に会いたいがためで、ラーメンが食べたかったわけじゃない。私はひと口も食べずに、全部を残した。


 私たちは、手塚の寮に行った。寮というには、あまりに貧相な、トイレは共同で風呂なし、二階建の築四十年のボロアパートだった。

「お邪魔します」

 私は、初めて男の人の部屋に入った。なかにはいると、服が脱ぎ散らかしてあって、卑猥な雑誌やDVDや床に散らばっていた。

「おおっと。突然の来客だったもんで。気にすんな。まあ、適当に座れよ」

 手塚は散らかっていた部屋を少し片づけながら、私にそう言った。部屋は、手塚の匂いがした。壁は何度も塗り替えているのか、所々禿げていた。天井の木目から古びた匂いもする。雨もりしそうなほど、古かった。

 しかし、実際に手塚はここで生活しているのだ。生きているのだ。それが、私に安心感をもたらした。

 手塚は小さな冷蔵庫から、コーヒーの缶を二つ取り出すと、一つを私に差し出した。私は受け取り、それを飲んだ。空腹に、コーヒーが沁み渡って行く。

 私たちは久しぶりの再会から、積もる話をたくさんした。小学生時代のこと、中学生の演劇のこと、漫才のオーディションに出場したこと。どれもこれも、何だか遠い昔のような出来事に思えた。

 やがて話が一段落すると、

「小学校のとき、よくお前の家に遊びに行ってただろ。ばあちゃんもじいちゃんも、本当に俺のこと可愛がってくれて、嬉しかったなぁ。思えば、あの頃が一番幸せだったな」

 と、手塚は言った。それはまるで、これから先の人生で、楽しいことなんて何一つ無いみたいな言い方のように聞こえ、私は悲しくなった。

 手塚は、私と目が合うと、微笑んだ。相変わらず生気はない。あらゆる現状に傷ついた青年の、途方もなく悲しい目。私は手塚を抱きしめた。この部屋には、たった二人。しかも、まだ十八歳の、ただの二人。

「ねぇ、私の前では、弱いところ、見せていいよ」

 少し離れた位置に座っている手塚は、私のことを見た。潤んだ瞳が、今にも涙をこぼしそうだった。

 私がそう言うと、手塚は私を押し倒した。埃っぽい部屋のなか、軋んだ畳の上で、私たちは抱き合った。

「弱いところ、見せて。手塚の弱いところ、全部、見たいの」

 手塚は私に、これでもかというほど、熱い口づけをして、ゆっくりと私の服を脱がしていく。愛撫は止まらない。口から、首元、胸、服が徐々に脱がされていって、私も手塚が脱がしやすいように、身体をよじった。やがて、生まれたままの姿になった私たちは、お互いがお互いに必要以上に本能のまま求めあう。手塚の肌の暖かさを感じて今までにないほどの幸福が波を打つ。私は手塚のものを含んで、愛撫した。丹精込めて、愛撫すると、手塚は身をよじりながら、何度も私の名前を呼んだ。

 私たちは一つになった。手塚が出し入れするたびに、私は何度も絶頂に達し、また、自分は今まで、彼と、こうなることを望んでいたようにも思えた。行為の最中、手塚は初めて私に、愛してると言った。感極まって涙が出た。私も呼応するように、腰を振った。果てた後も、手塚はしばらくの間ずっと身体を密着させたまま、キスをした。

 しばらくそうして、やがて、二人は身体を離した。本当はもっと、ずっと一体でありたかった。私は、近くに散乱していた服を着た。手塚も下着を身に着け、シャツを羽織った。勢いあまって、してしまったことだが、自然と後悔はなかった。

 手塚の全てを受け入れられた気がして、嬉しかった。

「お前、腹空かないか?」

 しばらく経つと、手塚が私に言った。確かに、私の腹はぐうと空腹の音を立てている。私たちは顔を見合わせ、笑った。

 服に着替え、適当な居酒屋に入り、食事をしようということになり、私たちは外に出た。東京、四月の夜は、寒くもなく、暑くもなく、快適な温度だった。手塚の寮が新宿にあるため、徒歩で数分行けば、すぐに繁華街に出ることができる。

 私は、自分より十五センチは背が高いであろう手塚を見上げ、手を握った。彼は驚いていたが、自身の手を私の手に絡ませた。幸せな時間だった。手塚が早く自分を見出して、美唄に戻ってきて、また江戸とコンビを組んで、養成所に入って、芸人になって――。早くそうなってくれたらいい。私は本気でそう思った。

 私たちはどこの店に入ろうかと、道をうろうろした。たくさん店がありすぎて、いざどこに入れば良いのか解らないのだ。すると、

「お姉ちゃん、キャバクラ興味ないっすか?」

 と、先程と同様、新宿駅東口に着いたばかりのころのように、キャッチの男性に声を掛けられる。無視して、先に進もうとするが、この男性、とにかくしつこかった。

「稼げるよぉ。ねえ、お姉ちゃんってば」

 私は、男性に腕をぐいと掴まれ、その力が強く、痛い! と思わず声を出した。

「ええー。そんなに力入れてないのに、大袈裟だなぁ」

 と、男性がへらへらしながら言った、その瞬間、手塚が、男性の右頬を思い切り殴った。男性は倒れ、口から大量の血を流している。辺りがざわめき、中には悲鳴を上げる女性もいた。

「いってぇなぁ。何すんだよ!」

 立ち上がった男性は、手塚に反撃しようとするが、体系が小柄なのもあって、手塚に全く太刀打ちできない。手塚は腹部を強打し、蹲った顔面に膝で蹴りを入れた。

「ね、ねぇ、手塚。その辺にしようよ。死んじゃうよ」

 私がそう言ったにも関わらず、手塚は蹲った男性の身体に次々と暴行を加えて行った。私の声が、届かない。私は、手塚と一体になって、彼の全てを理解した気がしていたが、本当は全然判っていなかったのだということが解った。彼の心の闇は、計り知れなかったのだ。

 このままでは、警察が来てしまうと思った私は、暴行を繰り返す手塚の腕を渾身の力で引っ張って、路地裏に連れ込んだ。誰かが通報したのか、遠くでパトカーの音がする。

「また、やっちまった……」

 冷静になった手塚はそう言った。拳には、先程殴った男性の血液が固まってこびりついている。

「俺、一回、キレちゃうと駄目なんだ。殺してやろうって本気で思っちまう。さっきも……」

 私は手塚を抱きしめた。けれど、手塚は、無理やり身体を剥がした。

「昔、よく親父に殴られたことがあるって言ったよな」

 私は頷いた。

「やっぱり、性質は遺伝するのさ。俺は、あくまでも親父の子供なんだ。ろくでなしなんだ。俺なんか、生まれてこなければ良かったのさ」

 手塚の発する言葉の一つ一つが悲しくて、私はどうしたらいいのか解らなかった。関係ないよ、父親なんて関係ない。そう言おうとして、ぐっとこらえた。私自身、彼が、「手塚の息子」だということで突き放したことがあったから。

 私たちは、結局食事せず、手塚の寮に戻った。二人とも、口を利かなかった。手塚は水道で、延々と手を洗い続けていた。私は、それを見て、とても虚しい気持ちになった。

 その晩、畳の上で二人で腹ばいになって、眠りについた。なかなか寝付くことができなかった。手塚が心配だった。

 神様がもしいるとするのなら、もうこれ以上、彼のことを傷つけないであげて。

 私は何度もそう願い、頭の中で願っているうちに、気付いたら、眠ってしまっていた。


 翌朝、起きると、手塚はすでに起床していた。これから、早朝バイトのコンビニの仕事があると言った。手塚は服を着替えながら、私に、

「もう、お前、美唄に帰れよ」

 と、目も合わさずに言った。

「何でそんなこと言うの?」

「だって、お前の家族、心配してるだろ」

 確かに、そう。一応置手紙が書いてきたけれど、ケータイもずっと電源を切ったままだし、心配しているに違いない。けれど、そういう問題ではない。

「じゃあ、何だったの? 昨日の私たち」

 手塚は、シャツのボタンを止める手を一瞬止めた。そしてしばらくして、

「あれは……、勢いだよ」

 と、ひと言呟いた。

 私は耐えきれなくなって、手塚に行った。

「私ね、手塚が傷つくのを、もうこれ以上見たくないの。あんたが傷つくのなんて絶対に嫌。だから、絶対に幸せになって! いつも弱さを隠さなくたっていい! いつも強がらなくてもいい! 私はあんたに……」

 私はそこまで言いかけると、涙が止まらなくなった。手塚に世界で一番幸せになってほしい。いつか誰かが、感情が高ぶると涙が出ると言っていたのを聞いたことがあるけれど、本当なのだな、と思った。

 手塚は私に近寄り、優しく抱きよせた。ますます涙が止まらなくなる。

「手塚、もう、無理しないで」

「解ってる」

「愛してる」

「俺もだよ」

「幸せになって。お願い」

「お前もな」

 私たちは、どちらが先に身体を離したのか解らなかった。長い間抱き合っていた。

手塚は、行ってきます、と言って、家を出て行った。何だか、もう二度と手塚に会えないような気がしていた。

 手塚の家の鍵を郵便受けに入れ、私は、手塚の言う通り、美唄に帰ることにした。このまま一緒にいても、お互いに幸せになれるわけではないと、解っていたから。

 ほんの一度きりだったが、手塚の弱さに触れることができて、良かったと思う。

 千歳空港行きの航空券は難なく取ることができた。私はビジネルホテルに置きっぱなしだった、キャリーバッグを携えて、美唄に帰った。

 手塚、愛してるよ。それを君に言えて、良かった。




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