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姓を継ぐとき  作者: 凪理恵子
7/9

いなくならないでよ

手塚と江戸は、無事に仲直りをし、大会に向けて着々と準備を進めていた。大会までは後三週間。養成所のレッスン生も全員その大会を受けるだろうし、他にも、芸人志望の道民たちが何百と集うこの大会で優勝することは、ある種、芸人として生きていくためのスタートラインに立つようなものだった。

「お前に殴られたほっぺた未だに痛いぜ」

 手塚は冗談交じりに江戸をからかった。

「俺だってお前に蹴りまで入れられたんだぜ。まじですげぇ痛かったんだからな」

 本当のコンビだからこそ、とことん喧嘩ができるのかもしれない。遠慮せずに言いたいことを言い合い、最高の漫才を作り上げていく。

 笑いというのは、奥が深い、と最近よく思う。テレビで、新人の芸人がネタを披露する際、あまり知名度のない芸人だと、客席にいる閲覧者は、全く笑っていないということがよくあるが、そんな、一見つまらなそうに見えるネタだって、芸人が渾身を削って作ったものなのだと思うと、自然と応援したくなる。

 人気お笑い芸人だった父や、今まさに芸人を志している手塚や江戸を見ていると、彼らの苦労が身に染みて、どんなにつまらないネタでも、せめて一生懸命観てあげようと思ってしまうのだ。

 休み時間になると、江戸手塚は決まって、教卓の前で漫才をした。江戸手塚は間違いなく学年で一番面白かった。彼らの漫才は、自然と人を引きよせ、他のクラスからも視聴者が殺到し、廊下側の窓から首を出してまで二人の漫才を見に来たり、扉には何人もの人だかりができた。

 確かに、江戸手塚の漫才は面白かった。

 彼らは大会で優勝するために、毎日のようにネタ作りに明け暮れた。どれが一番面白いのか、どうしたらもっと面白くなれるのかを研究した。

 江戸の家に何泊もし、漫才の打ち合わせをしたこともあったそうだ。

 そのせいか、休み時間に皆の前で披露する漫才は日増しに面白くなってきていることがわかる。

 江戸は、大会に向けての準備で忙しく、睡眠もあまりとっていないようだった。目の下にくまを作り、授業中は寝てばかりいた。

「おい」

 ある日の現代文の授業中、手塚は私にそっと耳打ちしてきた。

「彼女なんだろ。少しは元気づけてやれよ。あいつも相当無理して、大会に備えてるんだからよ」

 私は黒板を板書しながら、

「元気づけるってどうやって?」

 と、訊く。

「何でもいいさ。なんてったって、あいつはお前にぞっこんだからな。手作りのクッキーでも渡してやれば喜ぶんじゃねぇの」

「私、お菓子作りって苦手なのよね」

「女だったら、それくらいできないと駄目だろ。江戸のために練習しろよ」

 手塚は呆れたような口調で言い、前に向きなおった。

 江戸と付き合い始めて二ヵ月経つが、未だに彼のことを男性として好きにはなれていなかった。友達としてなら、もちろん、最高のベストフレンドなのに。

 私は本当は、江戸とは友達のままでいたかった。どうして男女は、ある一定の年齢を過ぎると、そういった関係を求めてしまうのだろう。深い関係になればなるほど、色々な問題が生じて、面倒になるだけなのに。

 私は先生が書いていく例文を乱暴にノートに写した。

 確かに江戸手塚に、大会で優勝してほしい。その気持ちはかなり大きい。彼らが喜ぶところが見たいし、彼らの実力を見せつけたい。彼らの成功は私の喜びでもあった。

 私はあくまで江戸の彼女。だから、私がもし彼を元気づけるようなことをしたら、やる気に拍車がかかり、大会に対してさらに貪欲になってくれるかもしれないとも考えた。

 私はその日、家に帰ると、祖母からクッキーの作り方を学んだ。小麦粉と砂糖とバター、卵を溶き、生地を作り平たく伸ばし、型を取って、焼きあげる。クッキーは思ったほど簡単に仕上げることができた。これを江戸に渡したら、きっと喜んでくれるだろう。私は彼が喜ぶ姿を想像して嬉しくなった。

 翌日、教室に入ると、相変わらず熱心に手塚の席でネタ作りに励んでいる江戸に、クッキーを渡した。自分なりに可愛らしくラッピングもしてみた。江戸はそれを見ると、ネタ作りに集中して強張っていた表情をぱっと明るく変化させた。

「これ、俺のために作ってくれたの?」

 江戸は言い、満面の笑みを称える。

「そう。おばあちゃんに習ったの。活気づけるためにね。私も江戸手塚には、絶対優勝してほしいから」

「すげー嬉しい! ありがとう。本当に、ありがとう」

 江戸は何度も礼を言った。

 江戸は想像以上に喜んでくれた。大事そうに制服のポケットにしまい込み、溌剌とした表情でいきいきとネタ作りに励んでいた。

 手塚と目が合った。彼はふっと笑った。よくやったな、と褒めてくれているような気がしていた。


 いよいよ大会当日。会場は札幌市内にあるコンサートホールで行われた。審査員は今をときめく芸人たちばかりで、その中には年配の、誰も頭が上がらないであろう大御所の芸人もいた。

 参加はプロ・アマ問わず、年齢不問。面白い人だけが生き残ることができるサバイバルゲームだ。この大会で過去に優勝した芸人のなかには、今現在、いくつもの冠番組を持っている芸人もいることから、ここでの大会の優勝経歴は後々、大きな財産となる。

 それを、もちろん知っている数多くの参加者は、誰しもが、自分が一番面白いと思って、この会場に足を運んでくる。もちろん養成所でのレッスン生たちは全員参加していた。

 コンビで一つずつナンバープレートを会場入り口で手渡され、それを解りやすいように、服の胸の部分につける。

 審査は三回に渡って行われる。まず全員の漫才を見た後、審査員がそれぞれに点数をつけていき、上位十名に絞られる。さらに三名に絞られた後、その三名で決勝を争う。まさに過酷な審査であった。

 会場にいるほとんどの芸人志望者が、どんどん切り落とされていく。自分たちが自信を持って面白いと自負しているネタが、酷評され、脱落していく。実際、この大会を機に芸人を志すのを、止める人も多いと聞く。

 大会は、関係者なら観覧していいことになっていた。大きなコンサートホール。若手の芸人を目にしようと、たくさんの観覧者が座席に腰を下ろしていた。もちろん私は、江戸手塚の漫才を見るために、観覧席に腰を下ろす。ステージは白い光に包まれていて、ステージ中央にスタンドマイクが一つだけぽつんと置かれている。ここで、何人もの芸人志望者が漫才を繰り広げるのだと思うと、感慨深い気持ちになった。

 いよいよ開演。ナンバーごとに次々と漫才を繰り広げていく芸人の卵たち。プロ・アマ不問、参加自由という条件だったが、プロとアマの違いは、素人の私でも、すぐに解った。

 アマチュアはやはり、経験が浅いせいもあって、テンポも悪く、どこで笑わせればいいのかということを全く熟知できていない。

 逆にプロ――養成所でそれなりのレッスンを積んだ者などは、テンポも良く、時には一発芸も交えたりして、完全に自分流のスタイルを貫いた漫才をしていた。

 審査員からの酷評に、笑顔が消えていく志望者たち。審査員がつける点数は、全うだと感じる。さすが、長年お笑いの世界で生きてきたことだけあるなぁ、と思ってしまう。

 審査員のなかにはワライタケの大内もいて、いつもの穏やかな表情はどこへやら、次々に出てくる志望者たちに厳しい点数をつけていく。

 そしていよいよ、江戸手塚の出番となった。

 二人は、大勢の観覧者たち、そして、テレビでよく目にする芸人達を目の前にしてひどく緊張していた。彼らの身体が強張っているのが、遠目で見ている私にも解った。

 私は心配になった。

 いつも通りにやればいいんだよ。いつも通り、教卓の前でクラスメイトたちに繰り広げている漫才をそのまんまやればいいんだよ。

 私は心の中で、彼らを励ました。頑張れ、頑張れ、と。

「二百四十一番、江戸手塚です。よろしくお願いします」

 手塚は言い、スタンドマイクの前で頭を下げた。江戸も同様、深々と頭を下げる。

 いよいよ、ネタ開始。

「いやぁー。どうも。江戸手塚です」

「名前だけでも覚えて帰って下さいねぇ」

 お決まりのいつもの台詞だ。出だしは好調だった。

「俺最近、繁華街のラーメン屋にいる、堅物の店長っぽいなって言われるんだけどさ」

「どんな言われ方だよ! てか、繁華街ってなんだよ、繁華街って」

 江戸ははきはきと、言葉を濁すことなく突っ込みを入れていく。

「だから、一回、ラーメン屋の店長やってみたいなって思うんだけど、付き合ってくれるか?」

 手塚が江戸に訊く。

「ああ、いいぜ」

「ぜってぇだな?」

 手塚が、眉間にしわを寄せ、口をひん曲げながら言うこの台詞は、二人が最近編み出した、ネタを始める合図として使うものだった。

 そこから本格的に二人のネタが始まっていく。二人はテンポも良く、声も通っていて、江戸の突っ込みは激しいくらい手塚の胸を叩いた。会場にいる観覧者がくすくすと笑っているのを、私はこの耳で確かに聞いた。

 二人の漫才は三分ほどで切りよく終わり、

「もういいよ」

 と、江戸が突っ込み、手塚と江戸、二人が同時に、ありがとうございましたぁ、と礼をして、終了した。なかなか良い出来だったと私は思った。彼らの漫才は、確かに面白かった。

 審査員たちが点数を述べていく。一人当たり十点満点。

 結果的に、江戸手塚は五十点という、高得点を得ることができ、次のステージに進めることとなった。

 次の審査が行われるまでの時間、手塚と江戸と私の三人はロビーで時間を潰した。

「いやぁー、本当に超緊張したよ」

 江戸は、自販機でスポーツ飲料水を買うと、大きな声を出して突っ込みをしていたため、喉が渇いていたのか、一気に飲み干した。

「俺もすげぇ緊張した。審査員のおっちゃんたち、誰ひとり笑わないんだもん。こりゃあ、最悪の結果になると踏んでいたんだけど、まぁ、高得点得られて本当に良かったよ」

 手塚は気の知れた友達と会話して、少しだけ緊張がほぐれたのか、少しだけ顔をほころばせた。

「次が問題だよな。次で高得点出せたら、決勝戦だもんな」

「ああー、優勝してぇなぁ。あんだけ頑張ったんだからよ」

 手塚は言い、頭を抱えた。私も彼らが、どれだけたくさんの時間をネタ作りに費やし、努力してきたのかを知っていたため、どうしても優勝させてあげたかった。

「お、江戸手塚だ」

 声がして、振り返ると、今回の大会の審査員でもある大内が立っていた。自販機でコーヒーを買い、蓋を開けながら、

「お前らの漫才なかなか面白かったよ。予想以上だった。ただ、次のステージからはもっと難しくなるだろうなぁ。強豪ぞろいだぜ。心してかかれよ」

 大内はそう言い、コーヒーを飲みながら、去って行った。大内はひな壇芸人として、数々のバラエティに出演している。その彼が言うのだから、間違いない。江戸手塚は、プロから見ても面白い部類に入るのだ。

「おっしゃー。俺なんかやる気出てきた。大内さんがああ言ってくれてるんだもんな。絶対優勝してやるぜ」

 手塚は言い、自分自身に気合いを入れるために、うおおし! と雄叫びを上げた。

 三十分の休憩を挟んで、いよいよ二次審査が始まる。ネームプレートを呼ばれた順に、順番にネタを披露していく。私は客席で、どきどきしながら、彼らの出番を待っていた。台詞を噛まなければいいなぁとか、緊張のあまり、言葉が出てこないような状態にならなければいいなぁ、と様々なことを思った。

 しかし、残念だが、その期待は裏切られた。

 江戸手塚の番になり、ナンバープレートに記されたナンバーとコンビ名を言い終えた後から、早速ネタに入る。

「いや、実はこの前さぁ、泥棒に入られちゃってさぁ」

「ええ! 泥棒に? 何盗まれたんだよ?」

「俺の大切にしてたリカちゃん人形五体も盗まれちゃってさぁ」

「お前いくつだよ? その歳でリカちゃん人形って! うわ! ださ!」

 ここまではテンポよく進んでいた。しかし、それ以降、手塚の台詞が、出ない。

 会場がざわめいた。どうやら手塚は、緊張のあまり台詞が飛んでしまったらしい。一組の芸人に与えられた時間は三分。少しでもテンポを外すと、最後までやり遂げられなくなる。

 江戸手塚はしばらく、スタンドマイクの前で、立ちつくしているだけだった。何とかしようと、話しを繋げようと、江戸が足掻いているのが見て取れた。しかし、練習通りにきちんとこなす江戸にとって、アドリブは最も苦手なものだったのだ。

 二人は立ち尽くし、黙っていた。

 やがて、三分が過ぎ、

「時間です。退場してください」

 と、審査員の一番古株の男性に言われ、退場せざる負えなくなってしまった。

 私は、非常に残念だった。いつも通りの漫才がこなせていたのなら、きっと、江戸手塚は決勝まで残ったに違いない。しかし、これが現実。緊張に打ち勝ち、いつも通りの漫才を披露するのも、実力のうちなのだ。


 帰り道、私たちはずっと無言だった。結果は当然のように、二回戦敗退だった。自分たちのネタに自信があっただけに、彼らの落ち込みは半端じゃなかった。

「帰りにラーメン食べていかない? 味噌ラーメン! 私が奢るからさぁ」

 私は二人を何とか元気づけようと、帰りの美唄行きの列車の中でそう言った。札幌の喧騒から離れ、美唄に近づいて来ると、なんとなくほっとする。

 二人は私の提案にも全く意を示さず、ただ座席に座って、俯いていた。あんなに元気な手塚でさえ、この現状には耐えられないようだった。

「元気出してよ。私たちまだ高校生じゃん。これからだって。これからいくらでもチャンスあるって」

 私が言うと、

「でも、お前の親父は十代にして、世間にその面白さを知らしめたじゃないか」

 と、手塚が呟いた。

 私の父は全芸人の憧れだったから、きっと手塚も私の父のことが羨ましいのだろうなと思った。

「そうだけど。でも、まさか、夢を諦めるわけじゃないよね? まだ若いんだし、大内さんだって、面白いって評価してくれてたじゃん。誰だって失敗はある。先は長いんだし、頑張ろうよ」

 私は、向かい合って座る江戸と手塚を交互に見た。二人とも落胆している。しかし、江戸は台詞が飛んでしまった手塚を責めたりはしなかった。アドリブに弱い自分にも非はある、と思っているのかもしれない。

 列車の窓から過ぎゆく風景を眺めた。札幌を離れ数十分も経つと、もうだいぶ田舎町になってきている。それが私を安心させる。昔は、あんなに東京に執着していた私なのに、こんなに変わってしまった。環境が人を変えるのだ。

「まぁ、良い経験になったじゃないか。次は、卒業後、養成所で頑張ろうぜ。首席で卒業してさ、芸歴一年目にしてレギュラーぶんどってやろうぜ」

 江戸は言った。彼も、準決勝敗退という現実を憐れんでいるにも関わらず、手塚を気遣っているようだった。そして手塚も、

「本当にごめんな。俺、なんて言って謝ったらいいか……。そうだよな。俺たちはまだ若い。俺は、お前と天下取るって決めてるんだ」

 と、いつものように口角をきゅっと上げて笑った。お互いがお互いを気遣いあっている。何て優しいコンビなんだろうと思う。彼らを見ていると心が穏やかになる。こんなコンビ、なかなかないのではないかと思う。

 そして、父とコンビを組んでいた元ワライタケの大内のことが気になる。聞きたいことはたくさんある。連絡先くらい聞いておけば良かったと後悔していた。

 私は、父が嫌いだ。恨んでいる。けれど――。そこまで思って、考えるのを止めた。


 江戸手塚は、夢を追っていた。そんな姿が羨ましかった。夢を追うということは、たくさんの苦労をするということだ。人と違う人生は、大変なことばかり。辛くなって、諦める人が多いのが現状だ。

 私は、漫画家志望だったが、今は作家になりたいという夢を持ち始めていた。それもこれも、中学生の時にやった、私が描いた漫画が原作の舞台で、それを脚本に起こした時に、思ったよりもその作業が楽しく、文字で物語を表現することの面白さに気付いたからだった。

 私たちはもう高校三年生になっていた。

 高校三年生といったら、もう本格的に進路を定めなければならない年であり、クラスメイトたちは受験に向けて予備校に行ったり、中には上京して仕事をするため、面接を受けに行ったりなど、それぞれの人生の筋道を定めていた。

 私は、大学に行きながら、ライタースクールに通うという選択をした。大学では、哲学を専攻するつもりだった。もともと絵を描くのが好きだったため、芸術関連でも良いのではと思ったが、物書きになるには深い思考が必要だと思い立ち、そのような選択を選んだ。

 江戸手塚は、周りの受験戦争から離脱し、自分たちが将来どんな芸人になりたいかという理想論をよく話し合っていた。それに、二人は最近バイトも始めた。養成所に入るには、入学金と授業料、合わせて六十万が必要になる。

 もちろん、ローンで返済することもできるが、高校三年生、後期は授業数もがくんと減り、時間を持て余した二人はバイトに明け暮れるという毎日を送り始めた。

 二人のバイト先は、隣町の定食屋だった。古びた外観で、料理が上手いのか否か疑わしかったが、味はもちろんメニューも豊富で、しかも安い、学生にはもってこいのリーズナブルな店だった。

 私も受験勉強で隣町の予備校に通っていたため、帰りが遅くなると、決まってそこに足を運んだ。二人はなるだけシフトを同じ日に入れていたため、私とよく顔を合わせた。

「いらっしゃーい」

 私が店の扉を開け、のれんをくぐると、意気揚揚と、手塚と江戸が言う。働き始めて数ヵ月経っていたため、仕事にはかなり慣れている様子だった。

「今日は何にします?」

 江戸が私の席までやってきた。

「いつもの」

「いつものって、アジフライ定食?」

「うん、それ」

 江戸は、オーケーと笑いながら言い、厨房の方へ消えていく。私は江戸の後ろ姿を見ながら、何だか猛烈に申し訳ない気持ちになってくる。普通のカップルなら、手を繋いだり、抱き合ったり、それ以上のことを求めあったりするだろう。普通そういうのは、男性から求めてくるものだと思っていたが、江戸は、私に何も求めて来なかった。

 私のことが好きだと言い、付き合い始めてからもう二年も経過しているのに、この進展のなさは異常なのではないか、と思った。それとも、私が無意識に、江戸にそうされないための、雰囲気を醸し出しているのかもしれないとも思った。

「アジフライ定食、お待ちどうさま!」

 運ばれてきたそれは、揚げたてで、上手そうに湯気を立てていた。食感はきっと、香ばしく、程よく硬い米は、噛みごたえがあって最高の味だろう。

「もうすぐ上がりなんだけど、流美ちゃんが食べ終わったら、一緒に帰らない?」

 江戸は、私にそっと耳打ちした。私は、かなりの空腹だったため、米を頬張りながら、色気の欠片もなく、満面の笑みで頷いた。

 帰り道。美唄までの一駅の間、電車の中で向かい合って座った。江戸はそわそわしていて、何かを言い出したい様子だった。

「ねぇ、知ってた?」

 急に江戸はそう切り出す。

「俺達、付き合ってもう二年になるんだよ」

 私は、当然そのことについては知っていたので、そうだね、と返した。

「でも、何かあんまり付き合ってるって感じしないよね。まぁ、俺が、漫才に熱中しすぎてて、そんな雰囲気じゃなかったっていうのが、大きな原因だけどさ」

「うん……」

 私は、江戸が何を言いたいのかよく解らなかった。私に、一体、何を求めているのかも。

 すると、江戸は、私が座っている二人掛けの座席の、隣に移動して腰を下ろした。突如密着状態になったため、ひどく戸惑った。江戸の顔が私の顔の近くにあって、呼吸が肌に当たる。

 以前、私は江戸と付き合うことになったとき、いずれ、彼のことを好きになれれば、それでいいと思っていたが、未だに彼のことが好きではないことは、解っていた。こういうときどうしたらいいんだろう。答えは解っている。もう、潮時だということが。

「抱きしめていい?」

 終電間近の車内には、人が少なく、見える範囲には、江戸と、私しかいなかった。江戸は私を抱きしめた。力が強く、押しつぶされそうだった。苦しかったが、それが、江戸が今までなかなか私にできなかった、けれどしたくてたまらなかった行為の集大成であることが理解できた。

 私は耐えられなくなって、その腕をほどいた。江戸は、俯いた。私が抵抗したこと、つまり、自分には興味がないのだということを身を持って知ったようだった。

「別れよう」

 そう言いだしたのは江戸の方だった。

「最初から、俺のこと好きじゃなかったの?」

 江戸の問いかけに、私は静かに頷いた。

「じゃあ、何で俺と付き合ったの?」

 言葉が、出ない。これ以上彼を傷つけたくなくて、何も言えなかった。

「少しでも」

 江戸は言葉をつまらせる。

「少しでも、俺のこと、好きな時あった?」

 私は涙が出そうになった。しかし、それは何て勝手な、利己的な涙なのだろうと思った。江戸と手塚、二人との円満な関係を壊したくないがために、江戸の告白を受け入れ、恋人同士になったが、私は、結果的に江戸を深く傷つけた。

 そんな、人の気持ちを踏みにじることをしてしまった自分に泣けてくるのだ。

「俺はね、流美ちゃんのことがずっと好きだったんだ。中学生の時からずっと。人見知りな俺に、一生懸命話を振ってくれたよね。すごく優しい子だなぁ、と思っていたんだ。それからだんだん好きになった。だけど、俺のことが好きなのか、ずっと不安だった。不安になればなるほど、流美ちゃんのことが気になって、愛おしくてたまらなかった。俺ってマゾなのかな」

 江戸は言った。悲しげに笑った。私はただ黙っていた。

「気にしなくていいよ。俺、流美ちゃんを好きになって良かったって思ってる。後悔なんかしてないよ」

 やがて、列車は美唄駅に停車した。私たちは下車する。ちらちらと雪が降っている。コート一枚では、寒い。明日からはもっと厚着しよう、などと、困惑を紛らわせるためにあれこれ考える。

「あいつのことが好き?」

 田舎町の簡素な電車のホームで、私たちは向かい合う。江戸の言う、「あいつ」が誰を指しているのか、すぐに理解できた。

「あいつのことが好きなんでしょ?」

 私は泣きながら、ごめんね、と呟く。気づくと、大量の涙を零していた。江戸は優しく笑って、私を抱きしめた。人と抱き合うと、こんなに寒さが軽減されるものなのかと思った。

「いいんだよ。俺も、あいつが好きだし、コンビだし、仲間だし。流美ちゃんが、あいつを好きな気持ちがよく解るよ」

 そう言って、頭をぽんぽんと撫でてくれた。江戸の度量の大きさに、感動した。こんなに良い人を、私は愛せなかった。なぜだろう。男らしく、懐は大きく、完全無欠なのに。私は気づくと、手塚のことを想っている。彼のことが好きだ。

「俺、じゃあ、もう帰るね。また、学校で」

 江戸は、辛いのを隠して、最後まで私に優しかった。そんな彼に感謝した。遠ざかっていく彼の背中を見つめながら、ごめんね、と何度も心の中で呟いた。


 江戸は手塚に、私と別れたという旨を報告したようだった。手塚は、最近、私に少しだけ冷たい。きっと、自分の大事な相方を傷つけたと思っているからだろう。実際に、私は江戸のことを深く傷つけてしまったわけだが。

「お金、溜まってきた?」

「ああ」

 私の問いかけにも素っ気ない。私は、江戸と別れて、ようやく自分の気持ちに正直になろうとしているのに、こんな態度をされては、なかなか進展は望めない。

「最近、漫才披露しないね。また見たいなぁ」

 私が言うと、

「養成所入ったら、嫌というほど、披露することになるし、そのうち全国ネットで、見れるようになるよ」

 と、江戸は自信満々に言ってのけた。

 素っ気ない態度でも、お笑いのことに対する話題だと、私に熱弁をふるった。独自のお笑い論が、彼には、あって、私はそんな手塚の話を聞くのが好きだった。

 彼が好きだ。ずっと一緒にいたい。

 日に日にその思いは強くなる。

 そういえば、もうすぐ手塚の誕生日だ、と急に思い出した。一月十五日。私は彼に、誕生日プレゼントを渡すことにした。

 プロの芸人に対しても、厳しい意見を持つ彼だが、そんな手塚が、唯一認めている芸人がいる。それは、私の父、杉崎優だった。

 私は、私の父が生前執筆し、ベストセラーになった著書「遺言」を買い求めるために、本屋に向かった。

 本屋には、多種多様な著書がずらりと並べられていて、数も膨大だ。私は、本屋の店員に著書の名前を言い、探してもらい、無事に、購入することができた。実は、私も、父の本を読んだことがなかった。どんなことが書かれているのかなぁと、興味津々に表紙を眺めた。買ったばかりの本は、真新しい紙の匂いがして、なんとなくわくわくした。きっと、手塚も喜んでくれるはずだ、そう思うと、胸が躍った。

 家に帰ろうと、商店街を通っていると、見覚えのある風貌の男性が千鳥足で、歩いているのが視界に入った。まだ昼過ぎだというのに、かなり酔っ払っているのが、見てとれる。それは、紛れもない、手塚の父親だった。

 私は早足で、手塚の父親から離れようと、横を通り過ぎた。小学生の時に一度会ったきりだし、あのころもだいぶ酔っていたので、私なんか覚えていないだろう、と思い込んでいた。手塚の父の横を通過し、しばらく経って、別になんともなかったじゃないか、と安堵していると、後ろから、

「おい、そこの姉ちゃん」

 と、声を掛けられた。振り返り、声の主を確認する。そこには、私を血眼で見つめる、焼酎のワンカップを手にした、手塚の父がいた。

「俺に挨拶もなしかぁ?」

 会ったのは、小学生の時以来だというのに、私のことを覚えていたらしい。私はその場から逃げだしたくなるのを、ぐっとこらえて、

「すみません。急いでいたので」

 と、言った。手塚の父は、社会の枠から外れてしまった者、という印象を受ける。実際、自分の息子にも見境なく手を上げるようだから間違いない。手塚は、懸命に生きているというのに、この人は――。私は、きっと、手塚の父親を睨みつけた。本当にこんな人と、私の父が親しかったのか、甚だ疑問である。

「なんだ、その目は」

「すみません。つい」

 私は淡々と言い返した。

「挑発的だなぁ」

 息が酒臭く、不快だった。

「失礼します」

 私は背を向けた。

「お前の親父の死因、知ってるか?」

 突然、父のことを言われ、驚いて振り向いた。ワンカップをごくりと飲みながら、熱い息を漏らしている。吐く息は寒さで白くなっていた。

「もちろん知っています。ろくでなしの父ですから。薬をやるなんて、許されることじゃありません」

 私は言った。そうだ。父は私を裏切ったんだ。私だけではない。母も、父のファンも関係者も、全ては、薬のせいで、おかしくなってしまった。どんなに息詰まっていて辛かっただろうとしても、私は許すことができなかった。

「教えてやろう」

 手塚の父親は言った。

「あいつに薬を最初に勧めたのは俺だ」

 手塚の父親は続けた。

「俺とあいつは、高校時代、仲が良くてね。そのころから、あいつは芸人志望で、上京するって決めてたんだ。で、いざ、上京して売れ始めると、色々悩みはつきものだろ。あいつは、常に自分が皆から求められる存在でなければならないと躍起になっていた。表では明るく振る舞っていても、どん底にいたんだ。過度のプレッシャー、ストレス。だから、俺が東京に出向いた時に六本木のクラブで入手したヤクをあいつに譲ってやったんだ。これで楽になれるってな。そしたら、次第にあいつは薬に溺れるようになっちまって、終いには大量の薬をやるようになった。抜け出せなくなった挙句、あの死に方さ。ほんと、馬鹿だよなぁ」

 手塚の父親はけらけら笑いながら言った。私が、杉崎優の娘であるということを知っていながら、そう言ったのだ。酔っ払っているせいで、つい口走ってしまったのか解らないが、その言動が、軽々しい物の言い方が、許せなかった。

 それに、こいつが父に薬を勧めなかったら、あんな死に方はしなかったかもしれない。今でも生きていたかもしれない。それに、母とよりを戻して、私と母と三人で平穏に暮らせたかもしれないのに。

 私は気づくと、手塚の父親の首を思い切り絞めていた。殺してやろうと、本気で思った。

「離せ」

 呼吸が苦しいらしい、手塚の父親は、顔がみるみる赤くなっていく。それを見て、どんどん手に力が入る。

「ちょっと、あんた何やってるの!」

 商店街のおばさんが、走り寄ってきて、私と手塚の父親を引き剥がした。私はひどく興奮していて、何度も掴みかかろうとしたが、おばさんに抑制された。

「何すんだ、このアマ!」

 手塚の父親も、怒り、私を殴ろうとした。私はその腕をよけた。

「死ねよ! 死んじまえよ! てめぇなんか死ねばいいんだよ!」

 私の声は、商店街中に響き渡るほど、大きく響いた。

 結局、商店街の人々に騒動を収められて、その場は終わった。手塚の父親は、昔、商店街を荒したという経歴を持っているため、商店街の人々の冷たい視線に耐えられなくなったのか、最後までぶつぶつ言いながら、撤退していった。

 私は、手塚の誕生日プレゼントに買った、父の著書を携えながら、家に帰っていった。怒りが収まらなかった。きっと、険しい形相をしていたに違いない。

 家に帰ると、祖母に、

「あんた、そうしたの? すごい顔してるよ」

 と、言われ、心配してくれた。

 今まで手塚には何度も助けられてきた。慣れない美唄の地、手塚がいたから、楽しい毎日を送ることができた。しかし、手塚浩之は、残念ながら、私の父の死の発端となった男の息子である以外の何者でもなかった。

 私は買ったばかりの本を、ベッドの上に叩きつけた。


 次の日。教室に向かうと、手塚はもうすでに着席していた。江戸と談笑している。実に楽しそうだ。その姿が不快だった。

「よぉ」

 私を見ると、手塚は声を掛けてきた。私は無視して、席につく。

「流美ちゃん、おはよう」

 江戸が言う。これも、悪いとは思いつつ、手塚の手前無視してしまった。

「なんだよ、感じ悪いなぁ」

 私は手塚を睨みつけた。昨夜怒りで一睡も出来なかったため、目は充血している。より鋭く見えるに違いない。

「その顔止めろ。俺、なにかしたか? してないだろ。むかつくんだけど」

 手塚は、ノートにネタを書きながら言う。江戸は、まぁまぁ、と私たちを宥めている。

「あんたの父親って本当に最低よね」

「は?」

 私が言うと、手塚は私を睨んだ。

「なんで急にそういうこと言うんだよ」

「本当のことじゃない。最低を最低って言ってなにが悪いの?」

 江戸が困惑した表情で私たちを交互に見やった。私の怒りは収まらない。

「何が言いたいんだよ?」

「所詮、あんたは最低な野郎の息子の何者でもないのよ」

「なんだと? そんなこと言うなら、お前だってそうじゃないか。お前の父親だって」

「うるせーな! 黙れよ!」

 私は手塚の言葉を遮って、怒声を浴びせた。クラス中の人間が、私たちの席に視線を集めた。

「おい、てめぇ、いい加減にしろよ」

 手塚は、怒っていた。無理もない。理由も解らず、突然、私に罵声を浴びせられたのだから。けれど、そんなこと関係ない。こいつの父親のせいで、私の父は、父は……。蛙の子は蛙。以前、商店街のおばさんに言われた言葉を思い返す。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。私の家に訪れた、祖母の友人の言葉も思い出す。

 ごめんね、手塚。ごめんね。そうは思っても、言葉が、止まらない。

「もう二度と、私に話しかけないで! 近寄らないで!」

 私は激昂し、教室を飛び出した。その日、学校には戻らず直帰した。祖母には、具合が悪くなって、早退したと嘘をついた。

 次の日から、私は普通に登校した。手塚が、私に話しかけてくることはなかった。

今までにあった、色んなことを思い返す。手塚との日々は、思い返すと、あったかい気持ちになる。けれど、理屈ではなく、許せなかった。こんなに心が狭くてごめんね、と、何度も胸の内で呟く。

 私は混乱していたのだ。自分だって、父のことで随分悩んだのに。割りきれなかった。どうしても、手塚と、今まで通りに接することができなかった。


 時間は、流れた。

 そして、手塚は失踪した。高校卒業の二ヵ月前のことだった。



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