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姓を継ぐとき  作者: 凪理恵子
6/9

あなたは弱くない

「時岡さん、おはよう」

 昇降口で声を掛けられ、振り返ると、江戸だった。江戸は、清々しい笑顔を私に注いだ。私と付き合えたことが嬉しくて仕方ないのか、学校でも、なるべく多くの時間を私と過ごしたがるようになった。

 昼休みも休み時間も、なるべく私と一緒の空間で過ごせるように工夫していた。

 私の隣の席は、手塚なので、よく三人で、昼休みや休み時間を一緒に過ごした。江戸は、手塚に、私と付き合うことになった旨を一番に報告したようで、手塚もそれを祝福していた。

「時岡ぁ。お前、江戸のために手作りの弁当くらい持ってきてやれよ」

 手塚はこれでもかというほど、私たちに絡んできた。相方に彼女ができたということを、素直に喜んでいるようだった。

「やだよ。私、誰かのためにお弁当作ったことないし」

 私が言うと、

「そんな冷たいこと言わないで、江戸のために作ってやれよ。お前が弁当作ったら、江戸の幸福度が増してますます良いネタが書けるかもしれねぇんだからよ」

 手塚は意気揚揚とそう言った。

「なぁ、江戸。時岡の弁当食いたいよな?」

「そりゃあ、まあ、食べたいけど」

 江戸はもじもじしていた。私に、遠慮しているようだった。付き合い始めたからといって、別に何かが変化したわけではなかった。手を繋いだこともないし、デートに出かけたこともない。

 別に今までのような関係で良かったのではないか、と私は思う。手塚と江戸と私。三人で仲良くやっていけていたのだから、と。

 けれど、誰かを好きになると、目に見える形で、相手に執着したくなる気持ちは解らなくもなかった。現に私も、手塚が、私以外の女生徒と会話をしているところなどを目撃すると、もやもやした気持ちになった。好きな人を独占したい、それは生理現象みたいなものなのかもしれない。

「せっかくだから、これからは登下校も一緒にしろよ。二人きりでさぁ」

 手塚はにやにやしながらそう言った。

 そんな手塚の姿を見て、私は胸中穏やかじゃなかった。小学生の頃から、手塚とは頻繁に遊んだり、小旅行と称して小樽に足を運んだ仲だ。普通のクラスメイト以上の関係だったはず。それなのに、手塚は私のことを、なんとも思っていなかったのか――つまり恋愛対象として見られていない、ということが、残念だった。

 少なくとも私は、手塚は私に、普通の女生徒以上は、そのような対象として接してくれているのだと、思いこんでいた。けれど、思えば、手塚は優しい男の子、それだけだ。困っている人は放っておけない優しい性格。その性格が、たまたま落ち込んでいる私を元気づけようと、あれこれ策を練り、関わってくれていただけなのだとも思った。

「お前ら、もうデートはしたか? 来年の雪まつりは絶対に行った方がいいぜぇ」

 手塚は言う。私は、内心、手塚と二人で行きたかったと思っていた。

「そうだね。せっかく彼氏彼女の関係になったんだし……。もし良かったら、今度映画でも行かない?」

 江戸は私を映画に誘った。私は鞄の中から、手帳を取り出し、今週の日曜日なら大丈夫だという旨を伝えると、江戸は嬉しそうに承諾した。

「あつあつだねぇ。ひゅーひゅー」

 手塚の幼稚な野次は私を苛立たせた。


 養成所に興味を示した手塚と江戸は、さっそく、札幌にある芸人養成所に、見学に行くことに決めた。実際に入学するのは手塚と江戸の二人なのに、なぜか、私も同伴することになって、私たちは週末の土曜日に、養成所まで足を運んだ。

 さすが、大手の養成所というだけあって、建物がしっかりしていて貫録のある造りだった。白塗りのコンクリート打ちっぱなし。先に、見学を希望する旨を電話で知らせていたため、すんなりなかに入ることができた。

 受付で名前を言い、案内係の男性が、次々と部屋を案内してくれた。

 そこでは様々なレッスンが行われていて、発声練習や、ダンス、そして肝心の漫才の授業もあった。レッスン生は、想像を遙かに超え、何百人という数だった。

 彼らは順番に持ちネタを披露していき、前方の長テーブルに座る三人の構成作家や、実際にもうプロの芸人として活躍している男性が、彼らの漫才を見て批評していく。審査員は、彼らがネタを披露している間、一切笑っていなかった。

私たちは後ろの方で見学していただけだったのだが、今まで感じたことのない張りつめた空気に息を飲んだ。自分たちが、なかなか面白いと感じたコンビの漫才も、ばっさりと厳しい言葉で切り捨てられていく。審査員に褒められた芸人でさえ、芸能界で生き残れるのはごく僅かだ。レッスン生が何百もいるなか、実際に芸人として世に送り出せるのは一人か二人。とても厳しい世界である。

「何かすごいな」

 江戸が言った。

「さっきのあのコンビ、結構面白かったと思うんだけど」

 手塚は、声が震えていた。

「学校で一番面白い人だって、通用しないんだね。もともと学年一面白い人が養成所にはばんばん入学してくるんだもん。自信なくすよね」

 私が言うと、二人は黙り込んだ。自分たちが足を踏み入れようとしている世界の厳しさを、痛感したようだった。

「俺たち、本当にやっていけるのかな」

 厳しく批評されていくコンビを見ながら江戸が呟く。

「ばかやろー。俺らは絶対大丈夫だ。こんなの乗り越えられないでどうする」

 そうは言ったものの、手塚の身体は硬直し、異常なまでに緊張していることが伝わってきた。

 手塚も江戸も、そして私も、芸人になるための長く厳しい道のりを目の当たりにして肩を落とした。夕方に差し掛かり、空が暗くなり始めている。

一通り、授業を見終わり、養成所を出ようとしたとき、

「もしかして流美ちゃん?」

 と、声をかけられ、振り返った。だぼだぼのジーンズを腰まで下ろして、大きめのサイズのパーカーを着ている。身長が低く、中肉中背。私はそれが誰だかすぐに気づくことができた。

「もしかして、大内さん?」

 私は興奮して、声が上ずった。手塚と江戸は、何が何だか解らないといった様子で、養成所の入口付近に佇んでいる。

「いやぁ、随分変わったね。最初見たとき、声をかけるか迷ったよ。まさかこんな所で再会できるとは。いやぁ、本当に大きくなったねぇ」

 大内は、私の頭を撫でた。私が幼いころ、大内にはよく可愛がってもらっていた。

「あ、俺、この人知ってる!」

 江戸が興奮気味に叫ぶと、

「大内剛。元ワライタケの突っ込みさ」

 と、大内は自己紹介した。

 そう。大内は、過去に父と共にワライタケというコンビを組んでいて、父の死後も、誰ともコンビを組んだりせず、今ではピンで仕事をこなしている。

「なぜ、北海道に? 大内さんは東京がメインなんじゃ」

 私が言うと、

「実は、来月、北海道で新人のコンビだけが参加できる大会があってね。その審査員に抜擢されたのさ。ここしばらくは、北海道での仕事が続いてて、ホテル暮らししてるとこ。そこの二人、もしかしたら、芸人志望?」

 大内は人柄が良く、芸歴も長く、芸能界でもそこそこ良いポストにいるにも関わらず、新人で無名の江戸と手塚にも愛想が良かった。

「養成所に見学に来るってことは、芸人志望ってことだよね。いいじゃない。大会出てみなよ。流美ちゃんの友達だっていう、君らの漫才見てみたいな」

 大内はにかっと笑った。口角が尋常じゃないくらい上に上がり、見ていて晴れ晴れしい気分になる。江戸と手塚は、プロで、しかもお笑い界でそれなりの功績を残している大内に大会に誘われたことにひどく喜んでいた。

「もちろん出ます!」

「絶対優勝してみせます!」

「威勢があって、いいねぇ。若い証拠だね。優勝したら、養成所の入学金は無料になるからね。かなりお得だろぉ。頑張ってやり遂げるんだぞ」

 大内は言い、これからラジオの収録があるからと言って、その場を去った。

 養成所の入口付近で、私たちは、プロの芸人に大手事務所主催の大会に誘われたことに感動し、余韻に浸っていた。

大内とは、まだ私が幼いとき、父が連れていってくれたレストランなどで、よく一緒に食事をした。

私は大内のことをかなり慕っていて、大内おじちゃんと言って、よく遊んでもらった。大内も、まるで本物の娘のように私を可愛がってくれた。

最初は、養成所に同伴することを面倒に思っていた私だったが、思わぬところで大きな収穫を得た。大内本人から大会に誘われたことと、久しぶりに再会できたこと。時間があれば、もっと大内と色々なことを話したかった。父が死んだ後、なぜ誰ともコンビを組まずに一人で活動してきたのか。父が仕事で見せる一面はどんなものだったのか。

コンビとは一体なんなのだろうと考える。家族でもない、恋人でもない。けれど、ただのビジネスパートナーのような割り切った関係でもない。近くて遠い、遠くて近い存在。大内はきっと、私が知らない父の姿をたくさん知っているはずだ。私はそう確信していた。


私は母の見舞いに頻繁に足を運ぶようになった。やはり、たった一人の母親だし、心配だったからだ。

母は、私が見る限り、随分回復してきたように見えた。出された食事もきちんと取っているようだし、土産に持って行った祖母のおはぎも、嬉しそうに食べた。

私は少しだけ安心した。母が入院してもう四年になる。思えば長かった。この四年間、色々なことがあったなぁと、私は追憶に浸っていた。

早く元気になってもらって、一緒に、あの美唄のひしゃげた家に住みたいものだなぁ、と思う。

「お母さん、最近、調子どう?」

「かなりいいわ。先生がね、このまま体調が良ければ、退院できるって。まだ無理はできないけど、もうそこまで回復してきているのよ。嬉しいわ」

 母は言い、私は自分と、母の分の茶をマグカップに注いだ。

 母はそれを受け取り、

「ありがとう」

 と、穏やかな笑顔を口元に称えた。

 穏やかな時間が流れる。学校帰りに病院にやって来たため、私は制服姿のままだった。高校生になり、中学生のころとは違って、セーラー服からブレザーへと変わった制服を着ていると、少しだけ大人になったような気がしていた。

 母と過ごす時間が好きだった。本当はここに、父がいればもっといいのに。つい、そう思ってしまう。あんな死に方をして、父が原因でひどい苛めにあったりもしたけれど、もちろん恨んでいるけれど、お笑いの世界であれだけの地位を築き、若手芸人、全員からリスペクトされていた父は、やはり偉大だったのだと思い知る。これは、手塚と江戸と三人で養成所に行ってから、猛烈に感じ始めたことだった。あんなに厳しい世界を乗り越えて、芸能界でなくてはならない存在となった父。父の出演する番組は、必ず視聴率二十パーセントを超え、どのテレビ局からも引っ張りだこだった。

 母は静かに、私が入れた茶を飲んでいる。

「ねぇ、うちのおじいちゃんがやっていたお蕎麦屋さんを襲撃して滅茶苦茶にしたのって手塚のお父さんなんでしょ?」

 マグカップを口から離し、母は私を見つめた。

「商店街のおばさんに言われたの。パパって、手塚のお父さんと仲良かったんでしょ。もしかして、一緒になっておじいちゃんのお店、滅茶苦茶にしたの?」

 母はしばらく黙っていた。夕焼けが差し込み、周囲がオレンジに染まる。

「杉崎くんは、真面目だから、そんなことしないよ」

 と、母は言い、それきり黙りこんだ。もっと他にも聞きたいことはたくさんあった。

ねぇ、どうして籍を入れなかったの?

それは長年疑問に思っていたことだった。けれど、母は治りかけとはいえ、まだ不安定な状態であることは確かで、それを訊くのには勇気が要った。一人しかいない母を、私のちっぽけな言動で困らせたり、傷つけたくなかった。


 ある日の放課後、帰路に就こうと、廊下を歩いていると、

「おい。そこのあんた」

 と、見知らぬ女子に声を掛けられた。何事かと思い呆然とした。

「あんた最近、江戸遼平と付き合いだしたんだって? 生意気な。この子はね、ずっと江戸のことが好きで何度も告白したけど、玉砕したんだよ」

 私に声を掛けてきた女子の隣には小柄な女生徒が涙を流しながら立っていた。きっと、その小柄な女生徒の気持ちを代弁しているのだと思った。

「今からでもいい。別れな。あんたと江戸遼平なんて、どう見たって不釣り合いじゃん。身の程をわきまえなよ」

 女生徒は喧嘩腰でそう言った。小さな声ですすり泣く女生徒を見て、江戸は本当にモテるのだな、と認識した。いつも、手塚の隣の席で、オタクのようにお笑いの話しかしない彼が、裏でこんなに人気があるとは。

「私の判断だけではなんとも言えない」

「あんたは、江戸のこと本当に好きなの?」

 女生徒に訊かれ、私は口を噤んだ。江戸のことは嫌いではないけれど、好きというわけではない。ただあの時、告白されたとき、なんとなく断りづらく了承してしまったというだけで。

 声を漏らさないように必死に、小さな声で泣く女生徒を見て、私はなんだか申し訳なくなった。なんとなく、流動的に、付き合ってしまった自分を恥じた。こんなに江戸のことを好いている人がいるのだ。私は本当は付き合うべきではない。

 私は黙り込んだ。廊下の窓から射し込む夕陽で、長い影ができた。三人分の影が長く細く地面に伸びていた。

「なにしてんだ?」

 と、声を掛けられた。教室の入口で、こちらを見ている。手塚だった。

「何か険悪な雰囲気じゃないか。どうしたんだ。喧嘩でもしたのか?」

 手塚はへらへら笑いながら言った。

「違うわよ。私たちはただ……、江戸くんと、時岡さんは不釣り合いなんじゃないかって話をしていたの」

「不釣り合いってなんだよ。江戸はこいつにぞっこんなんだから、しょうがないだろ。な、時岡。お前が告白されたんだもんな」

 手塚の言葉に、私はゆっくり頷いた。成り行きで付き合い始めたなんて知ったら、彼女たちは激昂するだろう。私は頷き、手塚の言う言葉に肯定の意を示した。

「ほらな。お前たちの出る幕ないんだよ。解ったら、さっさと帰りな」

 手塚が言い、すすり泣く彼女と、その子の気持ちを代弁していた大柄な女生徒は、手塚の言葉に何も言い返せず、私たちに背を向け、長い廊下を歩いて行った。

「困るよなぁ。ああいうの。女ってマジでめんどくせーな」

「仕方ないよ。江戸くん、すごくモテるみたいだし。実際私じゃ不釣り合いだと思うし」

 私が言うと、

「ネガティブ思考だな。そんなこと気にするなよ。江戸はお前の彼氏になれたって喜んでるっていうのに。知ってたか? あいつ、中学の時からお前に惚れてたんだぜ」

 私は目を丸くした。彼のそういった想いに全く気付いていなかった。

「鈍感だよなぁ。だから、なかなか告白できず、今になっちまったってわけだ」

 手塚は言った。彼は以前から、江戸に、私のことについての恋愛相談をされていたらしい。

「それ聞いて、手塚はどう思ったの?」

「どうって?」

「だからその……、だって私たち、仲良かったじゃない。私が逆の立場だったら、もし手塚が……」

 私は口を噤んだ。手塚の中に少しでも、私のことを愛しいという感情があるのなら、江戸の相談には胸を痛めたはずだ。

「お前の言いたいこと、なんとなく解るぞ」

 手塚はしばらくしてそう言った。さすが、空気を読む天才。手塚は多分、私が彼に気があることを察しているようだ。

「お前は俺の相方の彼女だ。だから、変な気を起こしたりしない。それは相方を裏切ることになるからだ。俺にとってお笑いが全てだ。だから、他のことにうつつを抜かしている暇はない」

 口早に彼は言った。それは、私に恋をしたりなんかしない、といった意味合いのものだった。私が言葉に出さなくても、何が言いたいのか手に取るように解るらしい。

「お前らしくないぞ。あいつとまだ付き合ったばかりじゃないか。あれこれ手を出すなんて浅はかだぞ」

 手塚は言い、私の前方を歩いた。無意識に、私も彼の後をついていく。彼の背中は広くて、頭は綺麗な坊主頭。器量よしというわけではないが、何度も私を助けてくれたことが、私の恋心に火をつけてしまったのだ。恋の対象としてだけではない。私は一人の人間として、彼を尊敬していた。常に皆を気遣って、辛いところなんて一切見せない。彼は強い。そんな彼がひどく愛おしい。


 私たちは帰り道が途中まで同じだった。江戸と付き合ってからというもの、三人で帰ることが多かったが、今日はちょうど江戸は委員会の会議で、放課後教室にいなかった。

 私たちは沈黙のまま、帰路についた。気まずかった。あんなことを言わなければ良かったと思った。きっと、手塚を困らせてしまったに違いない。

 あんなことさえ言わなければ、普通の、いつも通りの関係でいられたのに。けれど、手塚のことだから、しばらくしたら、またいつものように、何事もなかったように振舞ってくれるに違いないと淡い期待をしていた。

 私たちは、美唄の商店街を通りぬける。私たちは、帰り道、いつも商店街を通って帰っていた。いつものように、商店街を通っていると、鬼の形相をしたおばさんが、私たちの元へ歩み寄ってきた。その顔は怒りで真っ赤になっていて、目は鋭く光っていた。

 やがて、おばさんは私たちの行く手を遮り、

「お前がやったんだろ!」

 と、叫んだ。

 私と手塚は顔を見合わせ、状況を把握しようと、おばさんに詳しい事情を聞き出した。

「何のことかさっぱり解りません。どういうことか、説明してください」

 手塚は淡々とした声調で言った。それがおばさんの怒りに油を注いでしまったようで、

「うちの店のガラスが割られて、中に置いてある駄菓子がごっそり盗まれてるんだよ! お前だろ! お前がやったんだろ!」

 と、金切り声で激昂した。

 私と手塚は何のことがさっぱり解らず、また、なぜ自分たちが犯人だと疑われているのかを不思議に思った。

「僕たちはやってません」

「嘘つけ。お前しかいないんだよ。お前の父親は過去に商店街をめちゃくちゃにしたんだ。お前はあいつの息子だろ。再犯しないとは限らない。親子なんだから、そうに決まってる! いたずらでこんなことやったんだろう。蛙の子は蛙ってね。お前に違いないんだよ!」

 手塚は呆然とそこに立ち尽くしていた。自分の父親が過去に商店街を荒したという事実を、この時、初めて知ったようだった。手塚はショックを受け、表情を強張らせた。何も言い返せずに、そこに佇んでいる。私は居た堪れなくなって、

「手塚はそんなことしませんよ。親は親でしょ。手塚はそんなことするような奴じゃありません!」

 私はおばさんに激しく言い返した。

「どうかねぇ。だったら他に誰がやるっていうのさ。手塚の、そいつの親父がまたやったのかもしれないなぁ。全く、どうしようもない奴らだよ」

 おばさんは、手塚を見下すような口調で言い、私はそれが耐えられなかった。手塚がそんなことをするはずがないし、蛙の子は蛙と言われたのも腹立たしかった。それではまるで、親の罪を子供が一生背負わなければいけないみたいではないか。

「決めつけるのは良くありません。怒るのは解るけど、何の証拠もなく、手塚を犯罪者扱いしないで!」

 私は自分でも驚くくらい大きな声で叫んでいた。その騒動に、いつの間にか周囲に野次馬が出来ていた。そのほとんどが、商店街で店を経営する人たちで、おばさんの言動に同意していた。

「そうだ。手塚がやったに違いない!」

 ある店の主人はそう言った。

「疑われる方が悪いんだ。それだけのことをやったんだから」

「子供は子供って言っても、血は繋がってるんだ! あの男の一部だ!」

 心無い言葉の数々に、私は耳を塞ぎたくなる。手塚は相変わらず呆然として、立ちつくしている。今まで必死に、父親とは関係ないと、父親の存在を匂わせないように、迷惑をかけないように、人一倍、皆に気を遣っていたのにもかかわらず、こうして犯罪者に仕立て上げられている。逃れられない運命。親子の繋がり。それを言われるのが、手塚にとって一番嫌なことだったに違いない。

「もう止めてください! これ以上、手塚を傷つけないで!」

「あんた、杉崎優の娘だったよね。あんなみっともない死に方して、親と自分は関係ないとでも? あんたがいくら足掻いたって、あんたが杉崎の娘だという事実は変わらないんだ。杉崎は、高校時代、手塚とも仲良く、よくつるんでいたしね。商店街を滅茶苦茶にしたのだって、杉崎が関わっていないとは限らないしね! あんたが手塚の息子と同類だから、庇いたくなるんだろう。情けない。あんたが、生まれたことが罪なんだよ!」

 おばさんの勢いに気圧され、私は黙り込んだ。久しぶりに父の名前を出されたことに戸惑ってもいた。父の娘だからというだけで、一生逃れられない運命。何かあるたびに、これからも父の名前を出され、侮辱される。自分の運命を恨まずにはいられない。

「あんたがやったんだろ。正直に白状しな」

 おばさんは言った。手塚は俯いていた顔を上げて、

「やっていません」

 と、簡潔に言葉を返した。

「嘘言うんじゃないよ」

「嘘じゃありません」

 手塚の目は真剣だった。

「じゃあ、あんたの父親がやったんじゃ」

「父さんは、今寝たきりだし、そんな元気ないでしょう」

 手塚の言葉に、おばさんはうろたえていた。それなら一体誰が犯人なんだ、と周囲がざわめき始めたそのとき、

「すみません」

 と、一人の少年が、人混みをかきわけておばさんの斜め前に立った。もじもじしている。背の低い、小学生くらいの男の子だった。

「僕がやったんです。友達と一緒に。どうしてもお菓子が欲しくて。こんなに大事になると思わなかったんです。すみません」

 少年は頭を下げ、謝罪した。涙がこぼれ落ち、だんだんひどくなってしゃくりあげるように泣いた。

「そうだったの。とにかく、盗まれた分は弁償してもらうからね。ご両親にも連絡しないとね」

 おばさんは言い、少年から住所と電話番号、両親の名前を聞き取り、メモを書きとった。

 ひとつの事件が終わろうとしていた。しかし、そのせいで深く傷ついた者もいる。過去に騒ぎを起こした者の息子というだけで、手塚は疑われたのだ。私は横目で手塚を見た。瞳が、光を失っていた。いつも陽気で明るい手塚がそこにはいなかった。

 おばさんは、私と手塚を疑ったことに、謝罪はしなかった。

 手塚は野次馬を除けながら、足取りがしっかりしないまま、帰り道を歩いた。私は心配した。彼がどれだけ傷ついたのか、それを考えると辛かった。私も、父の娘というだけで差別される。彼もそうだ。

「大丈夫?」

 私は前方を歩く手塚に声を掛ける。彼は無言だった。

「気にしなくていいよ。手塚は手塚なんだからさ」

「別に気にしてないよ」

 手塚はそれきり口を聞かなかった。


 それからの手塚は人が変わってしまったようだった。休み時間、いつものように江戸が手塚の席を訊ね、ネタ作りをするのだが、江戸が何を提案しても上の空で、反応が薄かった。

 江戸は、手塚に何かあったのだということを察して、根掘り葉掘り聞いたりはしなかったが、手塚の漫才に対してのやる気がぽっかりとなくなってしまったことに戸惑っていた。今までの威勢が嘘のように、手塚は生気をなくしていた。

 そんな手塚を元気づけようと、江戸は毎日のように新しいネタを持って教室にやってきた。しかし、そんな思いも届かず、相変わらず手塚は、つまらなそうに黒板に視線を注いでいる。

 そんな手塚の態度に堪忍袋の緒が切れたのか、江戸はついにキレた。

「お前、いい加減にしろよ」

 江戸は、プリントアウトして持ってきた最新のネタが記載されているプリントを床に叩きつけた。

「こっちが何話しても上の空でよぉ。やる気あんのかよ? 何が卒業したら養成所入るだよ。笑わせるなよ。お前には百年かかったって無理だよ」

 江戸は、手塚の机を蹴った。机の上で腕を組んでいた手塚は、険しい顔で江戸を睨んだ。

「お前のネタがつまんねぇんだよ。つまんねぇのに、いちいち反応しなきゃいけないのか? 俺は自分に正直なだけだ」

「だったら、そのつまんねぇネタを話し合って、面白くしていくのがコンビだろうが。何があったか知らないがな、いつまでも引きずってんじゃねぇよ。女々しいんだよ、お前!」

 いつの間にか二人は掴みあいの喧嘩になっていた。お互いがお互いのブレザーの襟元を掴み、近距離で睨みあっている。私は二人のことを止めることもできずにただうろたえるだけだった。

「ちょっと二人とも、落ち着いて!」

 私の言葉も、二人には届かない。

「何がお笑い芸人だよ。お前なんかになれるわけねぇよ!」

 江戸がそう叫んだ、と同時に、手塚は、江戸の腹部を強打した。江戸は腹部を抱えて膝をつき、上半身を丸めて、痛みに耐えている。それだけでは怒りが収まらなかったのか、手塚は、腹部を抑えている江戸の腕に、蹴りを入れた。江戸の怒りは頂点に達し、立ち上がると、手塚の右頬を思い切り殴った。手塚は倒れ、周囲に置かれていた机や椅子も一緒になって倒れた。

 二人は血は出さなかったものの、激しい乱闘のせいで呼吸が乱れていた。私は、二人が殴り合いをする前に抑制できなかったことが悲しかった。せっかくのコンビなのに、せっかく仲良しの二人なのに、こんなことになってしまった。

 手塚は自分の席から、学生鞄を掴むと、教室の扉を乱暴に開け、出て行った。江戸は手塚を殴った左手を不思議そうに見ていた。

 私と目が合うと、

「相方、殴っちまったよ」

 と、弱弱しい声で言った。目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。


 帰り道。私の足取りは重かった。手塚がお笑いに対して意欲を失ってしまったのは、間違いなく商店街の、あの事件が関係している。父親の息子というだけで疑われ、彼は自分を見失った。深く傷ついたのだろう。私も、杉崎優の娘というだけで、あらゆる差別にあってきたから、その気持ちが痛いほどよく解る。けれど、どうしたらいいか解らず、私は宙を仰いだ。その日は快晴で、空には無数の雲が悠々と流れている。

 家に着き、玄関に入ろうとすると、家を囲ったコンクリートの塀に、誰かが凭れかかっている。それが誰か、私にはすぐに解った。

「手塚。何してるの? こんな所で」

 私は平然を装った。

「相方、殴っちまった。俺って駄目だよな」

 手塚は俯いたままだった。表情が解らなかった。

「昔、親父と一緒に暮らしてたころ、ギャンブルに負けると、よく暴力を受けたんだよ。際限なく、相手が子供だっていうのに、容赦しないんだ。江戸を殴った時、理性が働かなかった。お前の言葉が届かなかった。俺は、あのころの親父と全く一緒だ」

 手塚の声は覇気がなく、彼が江戸に暴力をふるったことをひどく後悔していることが読み取れた。

「江戸くん、怒ってないと思うよ。商店街であったことは忘れてさ。またいつも通り、元気な手塚に戻ってよ」

「なぁ」

 手塚は、私の話を聞いているのかいないのか突然、私に問いかけた。

「性質って遺伝するのかな」

 それは以前、母が精神病院に入院が決まったとき、祖父にした質問とよく似ていた。どうしようもない血の繋がり。それを手塚はよく解っていて、そして、否定したいに違いない。

「似ないでしょ。手塚は手塚じゃん」

 私は、少しでも手塚を元気づけようと、明るくそう言った。私自身、そう思いたかったから、というのもある。

「そっか。そうだよな。明日、江戸に謝るよ。やっぱり俺は漫才やりたいし。商店街であったことは、もう全部忘れるよ」

 そう言い、手塚は帰っていった。私は彼の弱気な部分を始めて見た。いつもの彼は、周りに気を遣わせないように、辛くても元気に振舞うような少年だったから。気を遣いすぎて、自分で自分の首を絞めていたのかもしれない。そう思うと辛くなった。もっと、弱いところを見せてもいいんだよ。そう思った。

弱い人間が嫌いなはずの私が、手塚に対してだけは、なぜかそう思わずにはいられなかった。



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