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姓を継ぐとき  作者: 凪理恵子
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私たちはカップル?

中学二年生のとき、クラス変えで、手塚とも江戸とも教室が離れてしまった。二年生から三年生は、クラス替えがないため、中学校の間はもう、手塚や江戸とは同じクラスにはなれなかった。

 最初は心細かったが、すぐに新しい友達もでき、私は順風満帆な生活を送っていた。淋しいことなんて一つもなかった。

それでも、廊下や移動教室の時に、手塚や江戸に会うと、愛想よく挨拶してくれたし、立ち話をすることも多かった。

 手塚と江戸は、クラスが離れても、地道に活動を続けていた。

休み時間や昼休みなどの空き時間も、極力一緒に過ごし、ひたすらネタ作りや、自分たちの漫才のスタイルを突き詰めていった。私は、クラスが変わったら、そんな関係も曖昧になって、やがて自然と消滅していくだろうと思っていたのだが、彼らは、想像するよりもずっと強い絆で結ばれているらしいことを知った。

 私はといえば、最近、漫画は書いていない。手塚が考案してくれた、文化祭の出し物――私の漫画が原作を脚本に起こし、リメイクして演劇にしたことで、私の中で、やりたいことが変わってしまったのだ。

 今、私がやりたいことは、とにかく文章を書くことだった。エッセイでも、小説でも、何か文字に携わることがしたい、と漠然と思い始めていた。

 そうなると、将来は編集者になるしかないのか、あるいはコピーライターから初めて、行く行くは、作家――。夢のまた夢のような考えを、この時、持ち始めていた。

 手塚と江戸が、真剣にネタ作りをしているのを知っていた私は、父が上京した時に、入った芸人の育成所のことを思い出す。彼らが本気で芸人を目指すのなら、そういった養成所に入るのも、デビューのきっかけになるのではないかと思ったのだ。

 お笑いに詳しい江戸のことだから、そういうものがあることは知っているかもしれないが、私は二人に、芸人の育成所があることを知らせたいと思った。それは、クラスが変わって、手塚と話す機会ががくんと減ってしまったため、彼と話す口実でもあった。

 私は手塚のクラスまで赴き、手塚を呼んでくれるように、彼のクラスの男子に頼んだ。

「おぉ。手塚。彼女かぁ?」

 一人の男子がそう言った。私は彼女、と呼ばれたことに、恥ずかしくなって赤面した。休み時間ということもあって、教室内も廊下も、ざわざわしている。

「どうしたんだよ。急に?」

「あのね、手塚、本気で芸人目指してるんでしょ?」

 私が言うと、

「ああ。もちろん。お笑いで天下取るって言っただろ」

 と、手塚は、得意気に鼻をふふんと鳴らした。

「それでね、芸人の育成所があること知ってる? MSCっていう、超大手の芸能事務所提携の機関なんだけど。全国に育成所が多数あって、札幌にもあるみたい。できれば、行ってみたらいいんじゃないかな。もちろん、レッスンはかなり厳しいらしいけど」

「ふうん」

「手塚なら、多分、良い所まで行けると思うんだけど」

「まぁ、高校卒業してからだな。養成所通うのは」

 手塚の言葉に、私は納得した。確かに、中学生で養成所なんて入ったら、学校に通えなくなってしまう。ただ、手塚の才能を本当に信じているからこそ、私にとっても、手塚が芸人になることは夢だったのだ。こういうものもあるんだよ、ということを伝えられだけでも良かったと私は思った。

「あ、そうだ」

 手塚は言った。

「家の中は平和?」

 私は手塚にいきなりそう訊かれ、一瞬何のことだが解らなかった。母が精神病院に入院していることは、彼には言っていなかったし、どういう意味でそう訊ねているのか、よく理解できなかった。

「平和、というのは?」

「いや。特に深い意味はないけど、何か、無理に元気に振舞おうとしているような気がしてさ」

「別に、無理に元気に振舞ってなんかないよ」

 私は言った。けれど、人の心の微妙な変化に敏感な、手塚がそう言うのだから、私はきっと周囲に無理をして明るく振る舞っていると思われているのは、確かなのかもしれないとも思った。

「いつも笑顔でいる必要はない。悲しい時は泣けばいい」

「笑うってすごいよな、って言ってたのはどこの誰だっけ?」

 私がそう言うと、手塚が口を噤んだ。

「言ったけど。そういうことじゃなくて、うまくいえないけど、お前、人に嫌われたくないっていう思いが表面に出ちゃってるんだよ。人に媚びるような、不快にさせないための笑い方を、いつの間にか習得してしまっているというか。そういうのモンロースマイルっていうらしいぜ」

 モンロースマイル。確かに、言われてみれば、私は、幼いころから、大人に可愛がられるためにはどうしたらいいのだろうか、と色々な試行錯誤を重ねた。父が、あまり家に帰ってこず、家に父がいる時は、なるべく長い時間、彼を引きとめようと、自分が一番可愛らしく見えるような仕草や作り笑いをした。それは、父を独り占めするための術だったが、いつの間にか私は誰に対しても、嫌われないように、自分が一番魅力的に映るような、モンロースマイルを注いでいたのかもしれない。人に嫌われたくない、好かれたい。そうした思いが溢れだし、このようなこの世で一番淋しいスマイルを体得してしまったのだ。

「手塚に何が解るのよ」

「俺には何にも解らないけどさ。まぁ、あんまり無理するなってことだよ。悩みがあったら、なるべく力になるから」

 手塚はそう言って、教室のなかの、友人たちの輪のなかに溶けこんでいった。私は心の中で、手塚だって、モンロースマイルを皆に向けているではないか、と反論していた。

 

約一年ぶりになる母の見舞い。その日は雨がざあざあ降っていて、大きな傘を差していても、服や鞄や、レインブーツにたくさんの水滴を作った。

 母に、ひどいことを言ってしまったことを後悔していた。この一年、母と会わない間に、母の病気についての書物は、できるだけたくさん読んだ。

 鬱がどれだけ辛いことなのか、公正するためには、周りの人、家族の手助けが絶対不可欠であるということ。一年前の私は、そういったことが全く解っていなかった。ただ、母が、慣れない環境で無理して、体調を崩したのだ、とくらいしか思っていなかった。

 けれど、実は違くて、母はいつも漠然とした悩みと戦っていたのだということを知った。

 私には、漠然とした不安がどのようなものなのか解らない。大人になって、もっと色んな経験を積めば、もしかしたら、理解できるようになるのかもしれないが、中学二年生の、十四歳の子供の私にとって、あまりにも難しすぎる問題だった。

 もしも、母が漠然とした不安から来る、欝病であるのならば、どのような治療が最適なのか、また周囲の人間はどういった接し方をすればよいのか、私は自分なりにこの一年、勉強した。が、明確な答えは未だに見つかっていない。

 美唄から札幌駅まで向かい、バスで十五分移動。着いた精神病院は、一年前と何も変わらず、窓に重そうな鉄格子が張りめぐらされていた。このなかに、母がいるのかと思うと、いたたまれなくなる。

 私が久しぶりに母の見舞いに行こうと思ったきっかけは、自らが欝病だったという自叙伝の本を読んだことがきっかけだった。

 その人は、今でも鬱が完治したわけではないというが、日常生活に支障がないほどに回復した。鬱は、鬱になったことがなければ、辛さはわからないと言う。

 何をそんなに悩む必要があるのかと、平常の私は思ってしまうが、きっと、そんな簡単な問題ではないのだろうな、と最近になってようやく思えるようになった。

 母の病室まで行くと、カーテンが閉まっていた。私は恐る恐るそのカーテンを開ける。母は眠っていた。腕には無数の点滴が刺さっていて、この一年会っていない間に、かなり痩せた、否やつれたような気がした。

 仰向けになって寝ている母の、頬をそっと撫でた。がさがさして乾燥していた。私は、無力で、自由に出歩くこともできないくらい衰弱しきった母のことが、心配になり、同時に言い表せないくらいの愛しさを感じた。

 札幌駅で土産に買ってきた、洋菓子をテーブルの上に置いて、ベッド横に隣接されている丸イスに座り込み、しばらくじっと母の寝顔を見ていた。

 世界でたった一人のお母さん。

 そして、私が恨んでいる杉崎優も、私の世界でたった一人のお父さんなのだ。

 親子とは不思議だ。だからこそ、こんなに悩むんだ。血の繋がりなんて関係なく生きていけたら、どんなに楽だろうと思う。けれど、そんな風に思いながらも、血の繋がりを、こんなに愛おしく思ってしまう自分は、本当に矛盾していると思う。

「んん」

 母が寝返りを打ち、私は身構えた。

「お母さん、起きた?」

 私が問いかけると、

「今、何時?」

 と、母が訊く。

「今はね、六時半」

「そっか。最近寝てばかりで時間が解らないのよ」

 母は起き上がり、テーブルに置いてある私が買ってきた洋菓子を見ている。

「あ、食べる? お母さんと一緒に食べようと思って買ってきたんだ」

「今はいらないわ」

「……そう」

 一年入院しても、母が以前のように元気に明るくて、そんな風に回復しているとは到底思えなかった。

「最近、身体の調子はどう?」

「悪くないわ。ちゃんとご飯も食べられてるし」

「そっか。良かった」

「おばあちゃんや、流美には、迷惑かけっぱなしね。本当にごめんね。こんなお母さんで」

 私は今まで何度も、どうしてこんな弱い人が私の母親なのだろうと、恨んだこともあった。すぐに体調を崩して、周囲の人に心配させて。弱さを出さないで、心配をかけないように頑張って振舞っている人もいるというのに。その瞬間、手塚の顔が浮かんだ。

 しかし、いざ、母に謝られると、恐縮してしまう。母子なんだから、迷惑かけて当たり前。そんなこと気にしなくていいのに、という意識が生まれる。それが、血の繋がりなのだろうか。

「私はね、お母さんに少しでも元気になってほしいの。ただそれだけだよ。いくら時間がかかってもいい。お母さんが、毎日楽しく生きられるようになるといいなって思うよ」

 私は、祖母が以前持ってきたのか、バスケットに入ったフルーツの、りんごを一個取り出して、ナイフで皮をむいた。縦に四つに切って、真ん中の種の部分を器用に取り除くと、母にそれを渡した。母は、りんごをゆっくり、時間をかけて食べた。

「りんご剥けるようになったのね」

「おばあちゃんが、女の子がこれくらいできないでどうするのって、色々教えてくれるのよ。今は、簡単な料理なら作れるようになったよ」

 母はにこにこしながら、りんごを完食した。穏やかな笑みを口元に称えた母を見て、私は少しだけ安心していた。窓から射し込む夕暮れのオレンジ色が、母に当たると、何だかとても美しく見えた。

「前に、狂いそうになるって言ったでしょ」

 私は言った。

「私、あれから色々考えたの。お母さんのあの言葉ってどういう意味だったんだろうって。でも、私には解らなかった。狂いそうになるってどういうことなのか、私にはさっぱり解らないの」

 言うと、母は黙っていた。静かな時間。廊下で、誰かの足音が響く。それがひどく遠く感じた。

「解らなくていいのよ。お母さんがどうかしてたわ」

「嘘。本当はどういう意味か解ってるんだわ。だから、お父さんのこともあんな風に言ったのよ」

 私は言う。母の狂いそうになるという発言は、当時の私にはかなりショッキングな言葉だったのだ。しかも、父もそうだったから、薬を吸引したとまで言った。それは、愛していた父の、奇怪な死因は何が原因だったのかということにも関係しているのだ。だから、余計に気になる。人は、弱くなると、一体どうなってしまうのか。

「あなたも、これから色々なことが起こる人生のなかで、何度も自分を見失うわ。そんなとき、もしかしたら、その言葉の意味がわかるかもしれないわね」

 母はそれきり、何も言わなかった。

 母を慰めるために、病院に赴いたというのに、結果的には、彼女を責めてしまったような気がして、自己嫌悪になった。私は、母のことが好きだ。自分勝手に、堕落していく、呆れた母だが、それでも、私の母は一人だけだから。


私たちは高校生になった。

手塚、江戸、そして私の三人は、美唄市内にある、偏差値のあまり高くない、高校の普通科に進んだ。

江戸の場合は、もっと偏差値の高い高校に進めたはずだが、手塚と漫才を続けたくて、偏差値の高い大学に進学することを条件に、親を説得させ、高校入学を承諾してもらった。

 美唄の高校は、やはり生徒数が少なく、一年生で百人くらいしかいなかった。そして、ここでもまた運命のいたずら――私と手塚は、同じクラスの、隣の席になった。

 教室に入ると、

「よぉ」

 と、手塚は声を掛けてくる。

「また、隣の席だね」

「ああ。でも、中学一年生以来だから、かなり久々だな」

 手塚は中学校時代に比べ、かなり背が伸びた。もう私と二十センチは違うだろう。江戸は、手塚のもっと上、百八十センチはあるであろう長身は、田舎の高校で、とても目立っていた。彼らは、相変わらず漫才を続けている。江戸は隣のクラスになったが、休み時間のたびに、手塚の席に遊びに来た。

最近、本格的に夢に向かって前進することを決めたようだ。

「遼平、高校卒業したら、養成所入ろうぜ。札幌にも養成所あるんだってよ」

 江戸は、うーんと、唸り声を出し、

「考えておく」

 と、答えた。

「考えておくってなんだよ。俺たちは二人で一つだろぉ」

 手塚は、江戸が養成所に入ることを快く承諾してくれると思っていたらしく、落胆していた。

「色々あってさ。高校卒業したら、良い大学入って、しかも少しずつだけど、並行して親父の会社手伝わなきゃいけないかもしれないんだ」

「お前、漫才好きじゃないのかよ」

 手塚は喧嘩腰になりながら言う。

「好きじゃないわけないだろ。大好きだよ」

「ならなんで」

「俺だって本当は、漫才やりたいさ。ただ、おれの親父がかなり堅物でさ。お笑いとか芸能界に、あんまり寛容じゃないんだよな」

 江戸は深いため息をついた。こればっかりはどうしようもない、といった風に。

「おし、じゃあ、こうしよう」

 手塚は閃いた、という風に、

「親父を説得しよう!」

 と、声を張った。

「で、でも、そんなに簡単にはいかないんじゃないの」

 横にいる私は口を挟んだ。

「いや。これはある意味、ひとつの試練だ。お笑いでビッグになりたかったら、これくらいの反対乗り越えなきゃやってられねえよ。おし、今日、遼平の親父を説得しに行こう」

 手塚は妙に張り切っていた。なぜ、こんなに自信が湧いてくるのか、私には解らない。けれど、何だか、手塚ならやってくれそうな、そんな根拠のない確信みたいなものがあったのも確かだ。

 放課後、手塚と江戸、そしてなぜか私も一緒に、計三人で江戸の家に向かった。江戸の家は、美唄の外れにあって、大きくて立派な家だった。モダンな造りをしている。敷地三百坪というだけあって、庭が広かった。芝生が綺麗にカットされている。

 白いドアには、フロントガラスが埋め込まれていて洒落ていた。

「お邪魔します」

 インターホンを押し、私たちは恐る恐るなかに入った。入ると、天井が吹き抜けになっていて、階段がらせん階段になっている。白を基調とした家で、フローリングが綺麗に磨かれていた。いつ誰が来てもいいように、そういったことを怠っていないようだった。

「いらっしゃい。遼平くんのお友達?」

 出迎えてくれたのは、綺麗な女性で、後にそれが江戸の母親だということが判明した。

 私たちはリビングに案内され、運ばれてきたティーカップの紅茶を少量ずつすすりながら、バスケットに入れられた海外のものだと判別できるアーモンドクーキーもご馳走になった。

「主人は、もう少ししたら帰ってきますからね」

 江戸の母親はいい匂いがした。きっと高価なコロンをつけているに違いない。私は、私の家と江戸の豪邸を比較して、世の中は不公平だなと思わずにはいらなかった。

 しばらく、ダイニングを囲んで、江戸の母親と江戸と手塚と私で談笑をしていると、玄関の方で扉を開ける音がした。それは、江戸の父親が帰ってきた証拠だった。

 江戸の母親は急ぎ足で玄関に向かい、江戸の父親を迎え入れた。

「おかえりなさい。今日は遼平のお友達も来てるのよ」

 玄関先でそう言う、江戸の母親の声がして、私たちは全員身構えた。堅物だと聞いているし、怖いイメージが強かったのだ。人間として接してくれないかもしれない。あらゆることを考えていると、江戸の父親は、リビングにスーツ姿のまま現れた。

 私たちは立ち上がり、お時儀をしながら、

「お邪魔しています」

 と、告げた。

 江戸の父親は、笑顔で、

「まぁまぁ、お気になさらず。ゆっくりしていってください」

 と、感じよく言った。

 私はそんな彼の態度に内心ほっとした。しかし、本題はこれから。江戸を高校卒業後に芸人の養成所に行かせるための許可を取らなければいけない。江戸の父親は物腰は柔らかいが、貫録があり、威圧感があった。表情はにこやかだが、その中にしっかり軸が埋め込まれているような印象だった。

「今日はお父さんにお話しがあって来たんです」

 手塚は声を震わせた。

 江戸の父親は、私たちとは正面の席に座り、机の上で手を組み、私たちに視線を注いだ。

「話というのは?」

「えっと……。僕、今、江戸君とコンビを組んでいるんですけど、高校卒業したら芸人養成所に入って、本格的にプロを目指そうと思いまして」

 言い終わると、手塚は俯いた。江戸の父親を直視していられないようだった。私も黙っていた。江戸も黙っている。

「芸人になるのは大変だよ。毎年、何百人って養成所に入るけど、その中で残れるのは一人か二人だ。しかも、ずっと売れ続ける保証はない。そんな無謀なことをするより、遼平には、着実にこつこつ仕事をこなして、立派な大人になってほしい。これは親のエゴかな?」

 私たちは顔を見合せた。江戸の父親の言っていることは正論だ。確かに甘い世界ではない。売れるのはごく僅か。そんな環境の中で、挫折していく者も多い。

「俺はチャレンジしてみたい」

 しばらくの沈黙の後、江戸は言った。父親の目を真っすぐ見つめながら。私は、江戸は、学生時代の間だけ、漫才をしているだけで十分だという考えの持ち主だと思っていたので、その真剣な口ぶりには驚いた。

「ふう」

 江戸の父親は言った。

「お前ら、俺の前で、今から漫才やってみろ」

 江戸の父親の言葉に、手塚と江戸は顔を見合せた。そして頷く。自分たちが作った漫才のなかで一番面白いと思っている漫才を披露する気だ。

 その日は晴天で、大きな窓から射し込む、優しい陽射しが、二人を煌びやかに見せていた。

「どーも、こんにちは。江戸手塚ですぅ」

「よろしくお願いしまーす」

 江戸手塚は、いつも、教室でクラスメイトたちに披露するような装いで漫才を披露した。その様子を、表情を一切変えないまま、江戸の父親は見ていた。見ていたというより、鑑賞している、ようだった。

「実は、俺最近、野球選手になりたいって思い始めてさ」

 軽快な口調で、手塚はネタを切り出す。

「ええ! その歳になって、いまさら?」

 江戸の声調がわずかに上ずっている。相当緊張しているらしいことが、感じ取れる。

「だから、日々トレーニングを開始したんだよ。お前も手伝ってくれないか?」

 手塚は言い、

「わかった。じゃあ、俺がトレーナーやるから、お前はそれに従えよ」

 と、江戸が言い、漫才がどんどん進んでいく。江戸手塚の漫才は、最後、畳み掛けるように、ボケと突っ込みを激しく繰り返し、盛り上がりを見せる。私は、何度も見たことがあるその漫才を、ついくすりと笑ってしまう。

「どうも、ありがとうございましたぁー」

 手塚と江戸のその言葉で、漫才は終了した。漫才の最中、江戸の父親は一度たりとも笑わなかった。表情を微塵も動かさなかった。

「全然、面白くない」

 江戸の父親は、さもつまらさそうに言った。そして、頭をボリボリ掻きながら、

「お前ら、これが、面白いと思ってるのか?」

 と、手塚と江戸に訊ねた。

 クラスではいつもウケていたはず。江戸と手塚は顔を見合せた。信じられない、といった風に。

「テンポが悪いんだよ。所詮、学園祭レベルだな」

「親父は、お笑いのことなんか何にも解ってないから……」

 江戸は、批評されたことに、むっとしたのか、そう呟いた。

「お前、バカか? お前らはただひたすら面白いことするしかないんだよ。客を選ぶな。自分たちがつまらないのを客のせいにするな。お前らのことを全く知らない素人が、お前たちの漫才を見て笑えないようじゃ、駄目だな」

 江戸の父親の、評論は全うだった。確かに漫才師が客をより好みしている場合ではない。どんな客に対しても、確実な笑いを提供してこそ、プロだ。

「でも、俺、やってみたいんだ。どうしても。小さいころからの夢なんだよ」

 江戸が懇願すると、

「じゃあ、俺を笑わせてみろ。これから、毎日、この時間にやって来い。俺を笑わせることができれば、養成所の入学金だけは、払ってやろう。ただし、養成所入って三年で芽が出なかったら、潔く諦めて、俺の仕事を継ぐんだ。わかったな」

 江戸の父親は言い、スーツのポケットから煙草を取り出した。SEVENSTARに火を着け、すごい勢いで吸っていく。吸いなれていることが明瞭に解る。

「親父を笑わせることができれば、認めてくれるんだな」

 江戸は語気を強めた。彼は、本気だった。

「ああ。まぁ、お前らには無理だろうがな」

 江戸の父親は冷たく言い捨てた。


 次の日から、手塚と江戸は、江戸が養成所に通うのを認めてもらえるように、時間がある限り、ネタ作りに精を出した。それは、今までの打ち合わせとは全く違い、お互いがお互いに、将来のために、夢のために、懸けている意志の強さが伝わってきた。

「だからここはこうで」

 手塚が言う。

「ここは、俺がもっと強くつっこむわ。お前は、動作だけでも笑いを誘えるように、努力しろ」

 切羽詰まったような彼らの打ち合わせ。そのおかげで切磋琢磨した漫才が生まれていく。

 手塚と江戸は、それから毎日のように、江戸の家に足を運び、父親を納得させられるような漫才が作れるように勤しんだ。

 何度もボツを食らい、批判されても、彼らは決してめげなかった。

 私は彼らを見ながら、夢を叶えるということは大変なのだということを、それを実現するためには、打ちひしがれてもめげない強い根性が必要なのだということを知った。

 ある日の朝。私が教室に向かうと、いつもより、嬉々とした表情をしている手塚と江戸がいた。イエーイと言いながら、抱擁しあい、やけにはしゃいでいた。喜びを共有し、分かち合っているようだった。

「どうしたの?」

 私が声を掛けると、

「やっと、江戸の親父の了承が得られたんだよ」

 と、手塚はほがらかな声で言った。

「へぇ。すごいじゃん。良かったね。おめでとう!」

 私は、手塚の隣にいる江戸に笑いかけた。江戸は、照れくさそうに笑っていた。それを見て、私まで嬉しくなる。

「いやぁ、諦めなくて良かったよ。江戸の親父、なかなか笑ってくれなくてよぉ。最初はむかついたけど、何か良い勉強になったよ。養成所行っても、役に立つと思う」

 手塚は、な、と江戸に問いかける。江戸は、嬉しそうに頭を掻いた。

「まぁ、これで、養成所への進学の了承は得たわけだ。俺らはビックになるぞぉ。お笑い界の頂点に立ってやる」

 確かに養成所に行けば、江戸手塚より面白いコンビ、芸人はたくさんいるだろう。誰もがみんなお笑いが大好きで、狭き門を通り、お笑いの頂点を目指しているに違いない。

しかし、私には、江戸手塚は、そんな人たちに埋もれてしまうとは到底思えなかった。なぜか、根拠のない自信があった。彼らなら。本当に、お笑い界のトップに立ってくれるのではないか、と。

 そして、父のことを思い出す。手塚が芸人になると言いだした日から、私は猛烈に父のことを意識している。人気商売であるお笑い芸人。売れなくなったら、即切り捨てられる。そんな厳しい世界に、長年に渡ってトップに君臨してきた父。

 もし、一番であることにプレッシャーを感じて、あんな死に方をしてしまったのなら、普通の人生を生きて、普通の幸せを手に入れれば良かったのに、と思うことは少なくない。

 それでも、人と違った人生を送りたいと思っていたのなら、凡人とは比べ物にならないほどの苦労は付きものだし、父は進んでその道を選んだのだ。

 私は、父についてあれこれ言える立場ではないが、父の死に方を許すことはできなかった。深く傷ついた。そして、父の血が流れているというだけで嫌悪感が湧くのだ。

 放課後、私は帰り支度をしていた。机の中から、宿題で使うワークや教科書、ノートを取り出し、学生鞄に入れていく。橙の光が窓から射し込んでいる。

 思えば美唄に来てからもう五年になる。あっという間だった。こうして、平和に美唄で暮らせるのも、杉崎優の娘というだけで苛められなくなったのも、全部、手塚のおかげだ。

 私は、机の上の学生鞄を手に取り、昇降口に向かった。

 廊下を渡っている最中、

「時岡さん」

 と、後ろから声を掛けられる。振り返ると、江戸遼平だった。

「どうしたの?」

「いや、なんとなく。良い天気だなぁ、と思って」

「そうだね」

 いつも江戸と話す時は、近くに手塚がいたため、会話が滞ることがなかったが、いざ、江戸と二人きりだと、何を喋っていいのか解らなくなる。

 私は困って、とりあえず、

「お父さんの、了承得た時の漫才はどんなのやったの?」

 と、訊いてみた。

「ああ。前日に急いで作ったネタだったんだけど、また野球ネタだよ。今まで以上に、とにかくボケまくって、俺が鋭くつっこみを入れて……。もし、今度良かったら見せるよ」

 江戸がそう言ってくれたので、私も、堅物そうな江戸の父親の了承を取った漫才というものがどんなものか見たくて、声高らかに、

「うん!」

 と、答えた。

「ところでさ、時岡さんて、好きな人いるの?」

 突然話が変わったため、私は少し驚いた。好きな人。頭の中に、すぐに手塚のことが思い浮かんだ。

「いないけど」

 本音は言えなかった。手塚は江戸の相方。私がもし、手塚が好きだと暴露して、それを伝えられてしまったら嫌だったからだ。

「そうなんだ。ちょっとほっとしたかも」

 江戸は言い、私は、彼が何が言いたいのかよく理解できず、首をかしげた。

「ここまで言っても解らない?」

 江戸は苦笑した。夕暮れ、ほんのわずかなオレンジの暖かな陽射しに包まれた彼の顔は、とても神秘的に見えた。長身で足が長い。男の子らしい男の子。しかも、性格はわけ隔てなく優しいし、誰に対しても接し方が変わらない。その上、空気も読める。

 彼がモテる理由は十分すぎるくらい理解できる。

「俺、時岡さんのこと好きなんだ」

 放課後の廊下、遠くで、学生たちの騒がしい声が聞こえる。校庭から響く、野球部のボールをバッドで打つ音、掛け声。まさに青春の一ページともいえる、この瞬間。江戸は私のことが好きだと言った。私は信じられず、聞き間違いかもしれないと思った。

「なんて?」

「同じこと二回言わせるの?」

 江戸は、ため息をつきながら、頭を掻いた。繊細に伸びた長い指。どことなく中世的な感じもする。

「時岡さんが好きなんだ。付き合って下さい」

 江戸は言い、頭を軽く下げた。

 私はとっさのことで訳がわからず、

「は、はい」

 と、つい返してしまった。

 江戸はそれを聞いて、ぱっと顔を上げ、満面の笑みを称えた。本当に嬉しそうに、まるで子供みたいな彼の姿に、断ることができなかった。否、その場で断れば良かったのかもしれないが、手塚と江戸と私、三人の関係が険悪になることが嫌だった。特に手塚とは――。

 私が江戸を振ったと知ったら、きっと、いつものようにネタの打ち合わせで私に客観的意見を求めてきたり、今までのように感じよく接してくれなくなるのでは、と思うと、どうしても、断ることができなかった。

 江戸は性格もいいし、ビジュアルも抜群だ。断る理由なんてないじゃないか。今まで何人の女子が彼に恋焦がれ、破れていったと思っているんだ。

 それに比べたら、私は全然ラッキーだし、ついている。それに、付き合っていくうちに好きになっていくかもしれない。

 私はあれこれ自分に言い聞かせてみた。今が好きじゃないなら、これから好きになっていけばいいのだと。実際、好きになる要素はたくさんあるのだから。

 それでも、手塚のことを思い出す。自分は、自分自身に嘘をついているのではないか。そう思った。

けれど、私は、現実に江戸遼平と交際がスタートしてしまったのである。



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