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姓を継ぐとき  作者: 凪理恵子
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勘のいい少年

父のことが誇りだった。有名人が実の父親というだけで、私は、他の子とは違うと、いい気になっていた。とにかく自慢だった。

 杉崎優は、母と駆け落ちした後、東京のお笑い養成所に入り、ワライタケというコンビを組んだ。

 お笑い芸人。そのころ世間はお笑い全盛期で、メディアになくてはならない存在であった。

デビューしたその年に、ワライタケが漫才NOIを競う、海外でも有名な番組に参加し、見事優勝したときのネタは、当時一世を風靡し、若手ながら才覚を露わにした。そして、それは伝説として芸能界、特に芸人達の間で言い伝えられている。

 次々とレギュラー番組を抱えるようになり、やがて冠番組をコンビで持つことになると、父の斬新な発想や、優れたワードセンスなどから、特に若者に多大な人気を誇るお笑い芸人になった。

 お笑いだけでなく、映画出演をしたり、時には歌を出したり、マルチな活動をしていた彼は、三年間好きな芸能人ランキング第一位となり、その顔は世間では見た人がいないくらい浸透していった。

 私が物心ついた時から、父は頻繁にテレビに出演していた。テレビのなかで、父は爽快なトークをこなし、ゲストの個性を生かし尊重し、視聴者が望んでいることを的確に表現することができる。なろうと思ってなれるものではない。そんな父は、とても格好良く見えた。愛想も良く、誰に対しても態度が変わらず、自分より芸歴が長い人に対しては、丁寧な敬語を使う。ユニークな好青年、その言葉がぴったりと当てはまる。

私は食いつくように、テレビ画面を見つめながら、次はいつ会えるのかと考えていた。母とは、だいぶ昔に別れていたが、父は時間を見つけては私に逢いたがった。

父が家に遊びに来る日が解ると、その日までなかなか寝付くことができなかった。

父は変装もせずに、私を遊園地や動物園に連れ出した。二人でよく写真も撮った。行く先々で道行く人に写真を頼むと、誰もが快く承諾してくれた。そして、その後必ず、父との写真撮影をせがんだ。父は、嫌な顔一つせずに、一緒に写真を撮った。やがて、人が集まり出し、次から次へと写真やらサインやらをせがまれるようになる。私は、ぽかんとしたまま、そんな大人たちを見上げていた。

変装せずには普通に行動できないと理解した父は、眼鏡とキャップを被るようになったが、それでも通行人に、杉崎優だと気付かれることが多かった。

「パパ、流美の一生のお願い聞いて」

 父の家のリビングで、おもちゃで遊び疲れた私は、父に抱っこされながら言った。

流美、という名は父がつけたというのを、母から聞いていた。私は自分の名前をとても気に入っていた。父がどういう意味で、この名をつけたのかは解らないが、父がつけた名前というだけで、私には価値のあるものに思えた。

「流美のお願いなら何でも聞くよ。何か欲しいものがあるのかな?」

 たくさんのおもちゃが床に広がっている。それは全て父が買ってくれたものだった。会う日は必ずおもちゃを買ってきた。持っていないものはないというほど、量が多かった。

「ママと流美と、三人で一緒に住もうよ」

 私が言うと、父は戸惑った表情を浮かべた。私は手足をじたばたさせながら、なかなか返答をしない父に駄々をこねた。

 高校を卒業して、間もなく母と駆け落ちした父は、まだ二十代前半だった。服装も肌の質も若々しく、時々兄のようにも感じた。若かった。

 まだ若いのに、娘がいることを、父は隠したりしなかった。テレビでも、堂々と娘との出来事を語る父。その行動が、私に自信を与えてくれた。自分は確かに愛されているという自信。離れて暮らしていても、私を想っていてくれていると、感じられた。

「ごめんね。それはできないよ」

 父は苦笑しながら言った。

「どうして?」

 私が訊くと、父は黙り込んだ。私は子供ながらに、父が一緒に住めない理由を言いたくないのだということを察していたのか、

「別にいいけど。こうやって遊んでくれるから」

 と、向かい合い、抱っこされている父の顔を見上げた。

「流美ちゃんのことが大好きだよ」

 父は私を抱きしめた。父はいい匂いがした。大人の匂い、と感じた。

 父は、ビジュアルも良く、しかし全く気取らない性格から、あらゆるテレビ番組に引っ張りだこになった。もちろん女性ファンも多かった。フリートークでは必ず爆笑を起こし、主演映画も好評だった。私が小学生になる頃には、若干二十五歳で芸能界で不動の地位を築いていた。

 父は、よく「天才」と称された。

 私は学校で、よく父のことを自慢した。父とのプライベートを得意気に喋った。それは周囲の関心を引いた。今思うと、とても安易な行動だった。女子からはサインをねだられることも多かった。

 月日は流れ、小学三年生になったある日のことだった。たまたま見ていたバラエティ番組の上の部分にテロップが流れた。

『緊急速報 杉崎優 死亡』

 私は目を疑った。こんなの嘘だ、何かの間違いだ。そう思い、チャンネルを変えようと、リモコンを手に取る。がくがくと腕が震えた。

チャンネルを変えると、ニュース番組で、速報で入ってきた父の死亡を知らせていた。原因は、過度の薬物吸引。マンションの一室で一般の女性と裸で抱き合ったまま、死後硬直し、そのまま発見されたと、キャスターが丁寧な言葉に変換して読み上げた。

ぞっとして、目の前が真っ暗になった。

翌日からワイドショーは、父の話題で持ちきりになった。マスコミは手の平を返した。杉崎優という名前を出すだけで視聴率を取れることを解っていたテレビ局は、来る日も来る日も、同じような内容を延々と放映していた。

生前親交があった人物なども、次々とテレビに出演し、父との思い出を語ったり、時には、「キレやすかった」「面白いことが浮かばないと悩んでいた」など、あらゆることを語った。

人気絶頂だった父の突然の死は、マスコミの恰好のネタだった。

週刊誌は、とにかくひどかった。父が裸で発見されたことに対し、面白おかしく、馬鹿にするような、蔑むような文章が記載され、卑猥で下品な例えや、軽々しい文章には、明らかに悪意があった。

しかし、薬物も裸体で発見されたのも事実で、何より、母ではない女性と一緒だったことに、私はひどくショックを受けた。裏切られたような気持ちだった。私の前では、常に優しいお父さんだった。だから余計に傷ついた。私が知らない父がいたこと。違法な薬を常習的にやっていたこと。他に女性がいたこと。

そのような事実を突きつけられると、実は優しいというのも、嘘だったのではないかと思えてくる。母と結婚しなかったのも、一緒に住まなかったのも、私を愛していなかったからなのではないか。そんな風に思ってしまう自分が哀しかった。

葬式の模様もテレビで放映された。葬儀場に集まった何千人というファンが泣き崩れるシーンが繰り返し流された。

私は小学三年生で、初めて喪服を着た。棺桶に眠る父は、とても綺麗に見えた。少しだけ微笑んでいるようにも見える。関係者、親族が順番に棺桶に花を入れていく。涙は出なかった。父の遺体を目の前にして、私は憎しみさえ覚えていた。

クラスメイトも態度を急変させた。男子は面白がって、私をからかった。女子も、そんな私を笑っていた。

「お前のお父さんがやったのって、キメセクっていうんだって。週刊誌に書いてあったぞ」

「最低! 汚らわしい!」

 性に目覚める少し前の、多感な年ごろでもあり、その死因は子供の興味を引いた。私は、恥ずかしさで頭がおかしくなりそうだった。私を見る皆の目は、蔑みを含んでいた。

 卑猥な存在だと皆に思われている気がした。まだそういったことがよく解らない非常に敏感な時期だったこともあり、それは故意に傷つけられるより辛かった。

私はいつの間にか苛めのターゲットにされ、靴を隠されたり、ノートや教科書を破られたり、体操服をゴミ箱に捨てられたりした。靴箱に入れられた匿名の手紙には、父の遺体となって発見された模様が、絵でいやらしく描かれていた。白い紙の上で、父は、目を見開き、よだれを垂らしながら、周りにはたくさんの糞尿が散らばっていた。

今まで、私が父のことを得意になって話していたのを、気に入らなかった生徒は、思ったよりたくさんいたようだった。

私はそれに耐えられなかった。母も、昔の恋人であるというだけで、しつこくマスコミに付き纏われた。私は、大泣きして、母に父が原因で苛めに遭っていることをカミングアウトし、母は帰郷を決めた。


 放課後、誰もいなくなった教室内で、手塚に父のことを話した。校庭では、相も変わらず雪で遊ぶ子供たちの、明るい声が聞こえる。

あんなに父のことを悟られたくなかったのに、どうして手塚に言ってしまったんだろう。言い終えた後に、そう思った。けれど、なぜか、彼には、安心して話すことができた。私を馬鹿にしたり、他者に言いふらすことは絶対にないと、理屈ではなく解っていた。

「ふーん」

 話を聞き終えた手塚は、私の顔をちらちら見た。どういった反応をしていいか解らないといった様子だった。自分の反応次第では、私を傷つけるものになるかもしれない、と注意を払っているようにも感じられた。

「俺、名前とか漫才とかは知ってたけど、あんまりテレビ見ないから、そこまで詳しい死因は知らなかった」

「あ、念のために言うけど、誰にも言わないでね」

 手塚が気を遣っているのが解ったため、私は平然を装った。

「言わないよ。言うわけない」

「うん。言わないで」

「俺を信用して喋ったんだろ? 大丈夫。俺はそういうのは裏切らないから」

 手塚は真剣な表情をしていた。彼のそんな姿を初めて見て、新鮮だった。私の話したことを重く受け止めているようだった。

「ありがとう」

「おう」

 私が言うと、手塚が微笑んだ。すまして笑って見せる姿は、少しだけ大人びて見えた。

「親は親だろ。気にすることないって。そんな奴ら、俺ならぶっ飛ばしてるね」

「すっごくむかついたよ、当時は」

「だろ。でもまぁ、ここは美唄だし。もう忘れろよ、そんなこと」

 手塚は、にかっと笑った。それは、私を気遣ってのものだった。手塚は、多分、知っていたのだ。自分がそうやって明るく振る舞い、笑顔を見せれば、人が元気になることを。彼の笑顔は彼が一番魅力的に見えるものだった。

昔のことを思い出し、感傷に浸っていた私は、それを見て少しだけ勇気づけられた。放課後の教室内で、席についたまま、私たちは、しばらくずっと黒板を見つめていた。

「じゃあ、俺の秘密も教えてやるよ。まぁ、秘密にしてるってわけじゃないけど」

 手塚は、そう言い、身の上を語り出した。

「俺が今住んでるところは、親戚のおじさんの家なんだ。母さんは俺が小学校一年生の時に蒸発? っていうのをして、親父お二人で暮らしてたんだけど、とにかくいつも酒ばっかり飲んでてさ。ろくに働かないし、生活も厳しくなって生活保護で暮らしてたんだけど、その金もギャンブルに浪費して。挙句の果てに、俺に暴力までふるうようになって、そういった生活状況を知ってたおじさんが見かねて、面倒見てくれてんだ」

 早口に、手塚は言った。

「おじさんも、おじさんの奥さんもすごくよくしてくれるけど、その息子は陰険な野郎でよぉ。俺のバトルカードごっそりパクったりするんだ。問い詰めても知らん顔するくせに、友達が遊びに来た時は堂々と使ってんだもん。たまげたよ」

 言い終えると、手塚はため息をついた。私は手塚の家の玄関先で見た、彼の父親のことを思い出していた。弱さの塊のようだ、と思う。酒やギャンブルにいくつも逃げ道を作って子供を虐げる。私は、手塚の苦労を察した。血縁者というだけで、彼はどれほどの苦労を今までにしてきたのか、それを思うと辛かった。何か答えなくてはと思ったが、言葉が出なかった。こんな時、どんな反応をすれば一番正しいのだろうか。淡々と話す手塚の姿は、少しだけ強がっているようにも見える。

「これでおあいこだな」

 と、手塚は笑った。いつも通りの彼の笑顔が見れて、ほっとした。

 しんしんと雪が降り積もる窓の外。ストーブが消え、冷気に包まれ始める教室内には、ただの小学四年生の子供でいるしかない、私と、手塚がいた。

 手塚は、帰り際、頻繁に家に遊びに来るようになった。そのたびに祖母は、手作りの料理を惜しみなくふるまった。彼も、祖母の偽りのない優しさに心を開いているようだった。祖母は、私にも手塚にも同じように接した。それは祖母だけではなく、祖父も同じだった。

「あの、のれん、何かの店屋みたいだな」

 と、ある日手塚は言った。こたつに入り、目の前に掛けられた古いのれんを見つめながら。

「お蕎麦屋さんだったんだって」

 私がそう言うと、

「うちの蕎麦屋の味は本物だったからな」

 と、出先から帰ってきたばかりの祖父が今の襖を開けながら言った。私たちの何気ない会話は、廊下まで聞こえていたらしい。

「何で、辞めちゃったの? そんなに自慢だったのなら」

 祖父は目の前の、テレビに一番近い場所に腰を下ろした。一瞬だけ、瞳が揺らいでいたのが解った。それは返答に困っている様子だった。

「お前、蕎麦は好きか?」

「もちろん!」

「ようし。じゃあ、今週の日曜日、うちに来い。本物の蕎麦を食わせてやる」

 祖父は言い、私と手塚は顔を見合せ喜んだ。

 その週の日曜日、祖父は朝から、蕎麦の仕込みをしていた。蕎麦つゆや蕎麦生地を一から全てこしらえた。台所からは蕎麦つゆに入れる鰹だしの匂いがぷんと漂ってきて食欲をそそった。その日は天気も良く、台所の小窓から射し込む光に照らされた祖父の身体を縁取るように、逆光で際立ち光っていた。

「何か手伝うことある?」

 私は祖父の蕎麦作りを間近で見たいがために、台所に立ち入った。蕎麦粉と小麦粉を混ぜ、水を足しながら、祖父は、

「何もない。そういえば、流美も俺の蕎麦を食うのは初めてだな」

 と、言った。

今までどこにしまったおいたのだろう、と思う、分厚いまな板と蕎麦打ち道具が、台の上に乗っていた。どれも重そうに見え、子供の私には到底扱えないようなものだった。

「蕎麦生地は、水の加減が難しいんだ。俺も親父から習って体得するのは相当時間かかったよ」

 生地をこねる祖父の手つきは、力強く、そして手慣れていた。私は居間に戻り、開け放たれた襖から見える、台所に立っててきぱきと作業する祖父の後ろ姿をいつまでも眺めていた。

 その日は、結局、手塚だけではなく、友達になったばかりのクラスメイト三人が、手塚の他に家に訪れ、祖父は、出来たての蕎麦を皆にふるまった。

 ちょうど昼時で空腹だったのもあり、初めて食べる祖父の蕎麦はこの上なく美味かった。蕎麦は噛みごたえがあり、それがさらに旨味を引き立てた。喉越しも良く、香ばしい匂いのする蕎麦汁と一緒に飲み干すと、するすると食道を通っていくのが気持ち良かった。

「こんな美味い蕎麦、初めて食べた!」

 手塚は夢中になって蕎麦をすすりながら、何度も美味い美味いと繰り返した。他の友達も祖父の蕎麦はかなり気に入ったようで、あっという間に平らげてしまった。祖父は、そんな私たちの様子を嬉しそうに見ながら、

「こうやって美味いって言われるのが、やっぱり一番嬉しいな」

 と、呟いた。目元や、口の横に深く刻まれた皺を見て、祖父が長年向き合ってきた蕎麦作りの深みを感じた。普段あまり笑わない祖父が、この時だけは本当に嬉々として、優しい眼差しを、私たちに向けていた。


 平和な日々はある日突然崩される。それは、女生徒から父親が杉崎優なのか否かを聞かれてから、ほんの数日後のことだった。

 授業終わり、休み時間になり、教室内がざわざわする。私は、廊下で友達と数人で最近読んだ漫画について話していた。私はこの頃、漫画家になりたいと思い始めていて、様々な漫画を友達同士で批評していた。

「私が漫画を書くなら、やっぱり不良漫画がいいなぁ」

 私は自分が考えている漫画の構想を話していた。ストーブが焚かれている教室内とは違い、廊下はとても寒かった。曇った窓に漫画のコマ割や登場人物のカットを指で描きながら、あれやこれやと会話をしていると、

「時岡さんが描く漫画は、男女が裸で抱き合ってるんでしょ」

 と、通り過ぎざまに、他クラスの女子生徒にぼそっと呟かれた。声がした方に視線を向けると、二人組の女子が私を見てくすくす笑っていた。

 私はすぐに、その言葉が何を指しているのかを理解した。父のことを言っている。私が父の娘だから、嘲笑っているのだ、と。

 俺だったらぶっ飛ばしてるね、という手塚の言葉を思い出した。頭には来たが、それ以上に悲しい気持ちになった。もうこの学校内に、私がどういう境遇で、父がどんな人だったのかを知っている生徒がいるのだということが、怖かった。また、あの東京での日々が蘇るのではないか。そう思うと、恐怖で身体が震えた。身体が固まった。

「どうしたの?」

 今まで普通に会話をしていたのに、突然動きを止めた私を、友達は不思議そうに見た。

「なんでもない」

 私は言った。

「それより、この場面はね――」

 平然を装うことに必死だった。

 掃除の時間も、私は陰鬱な気分だった。ついにバレた、とぞっとしていた。美唄は父の故郷である。最初から時間の問題だったのだ。私が杉崎優の娘だということ。母と駆け落ちし、私を産んだことも、美唄に帰郷したことも、思ったよりも多くの人に知られていた。けれど、きっとどこに行っても同じだっただろう、とも思う。

「みなさん、ビッグニュースです」

 突然、大きな声がして、ほうきを持つ手を止めた。丸めたちりがみをボール代わりに、モップをバットにしてえせ野球をしていた男子も、お喋りに熱中し突っ立っているだけだった女子も、一様に教壇を見た。そこには手塚とも仲の良い男子が立っていた。私を見ると、にやにや笑った。

「時岡流美の父親は、あの、杉崎優だということが発覚しました! これはビッグニュースです」

 それを聞いた周囲の生徒は一斉に私を見た。私は反射的に俯き、とうとう皆にバレてしまったということにショックを隠せなかった。ほうきを握る両手が震えた。

「そうだったの?」

「すごいじゃん。杉崎優が父親なんて」

「でも、あの人ってさぁ」

 一人の女子がそこまで言って、言葉を止めた。彼女が何が言いたかったのか、私には瞬時に理解することができた。後に続く言葉は、当然父の死因と状況のことで、心の中では馬鹿にしているに違いない。

「なによ。最後までちゃんと言いなさいよ」

 その隣にいた女子が、話しを促す。肘でつつきながら、口元を歪ませていた。転校生だった私を、寛容に受け入れてくれていたクラスメイトだったはずなのに、ひとつの弱点を見つけたら、そこを集中的に攻撃してくるのは、東京も美唄も変わらないのだ、と思い、私は泣きそうになった。人の意地悪で残酷な部分を垣間見た気がした。涙が溜まったままの目で、教壇に立つ男子を睨んだ。

 教壇に立っている男子が、

「知ってるぞ。杉崎って確か」

 と、言いかけたところで、前方の扉から勢いよくゴミ袋が投げつけられた。男子の身体に当たると、結び目が緩かったのか、中のゴミが溢れて、男子生徒の服が汚れた。私は視界に突然飛び込んできた、ゴミ袋やはじけた中身を見て驚いた。そしてその後、ゴミ袋が投げ込まれた方へと自然を向けた。そこには仁王立ちで眉間にしわを寄せる手塚がいた。

「なにくだらねぇことしてんだ」

 教壇にいる男子も私と同様、咄嗟にゴミ袋をぶつけられたことに驚いていたが、その犯人が手塚であることを知ると、安心した顔をした。

「いいところに来た! 今、ビッグニュースを披露してたとこなんだ。時岡の親父って杉崎優なんだって。すげぇだろ」

 男子生徒は手塚の肩に腕を回した。面白い時間を共有して楽しみたい。そんな雰囲気だった。

「なぁ、時岡! お前の親父ってすげぇよなぁ。死に方まで、やっぱり凡人とは違うよなぁ」

 男子生徒は声を弾ませた。本当に愉快そうなその姿は、私に絶望を与えた。ことわざで、他人の不幸は蜜の味というものがあるが、まさにそのように、彼も感じているのだろうと思った。

「黙れ!」

 手塚は教室内、下手すると他教室にも響きそうなほど、大きな声で叫んだ。周囲にいる生徒の身体がびくっと反応したのが解った。その声調には怒りが込められていて、今までの空気が一変して張りつめたものになったのを肌で感じた。

「な、なんだよ。突然叫んだりして」

 手塚の肩から、腕をどけながら、男子生徒は言った。普段、手塚は怒らない。陽気で穏やかで、そんな彼が、怒声を発したことに明らかに戸惑っている様子だった。

 手塚は、教壇の前に立ち、両腕を机にばんと置いた。ついさっきまで私をからかっていた男子と女子を見据えている。皆、黙っていた。

 やがて、手塚は、いつも通りにかっと明るい笑顔を見せながら、

「俺は、杉崎優の歌好きだぜ。皆だって一度は歌ったことあるだろ」

 と、いつもの穏やかな口調で言った。

「時岡のこと、あんまり苛めるなよ。俺、時岡の親父と約束したんだからよぉ。お前らみたいな悪党から守るってよぉ」

 からからと笑いながら、手塚が言うと、

「お前、杉崎優に会ったことあるのか?」

 と、一人の男子生徒が言った。テレビの画面越しでしか見たことがない有名人と、実際に直接、関係があると解り、目を丸くしていた。手塚は、ふふんと鼻で笑った。

「ああ。夢の中で毎日会ってるぜぇ。すげぇだろ」

 張りつめていた空気が壊れ、その場にいた生徒全員、手塚のその言葉に笑った。どっと沸き上がる笑い声に、

「全然すごくねぇよ!」

 と、誰かが突っ込みを入れた。私も思わず口元が弛んだ。手塚は、まぁまぁ、と言いながら、皆を宥めている。私と目が合うと、わざときざっぽくウインクをした。

 私は手塚が持っている天性の性質を見出した気がした。手塚の言動は、その場の空気を、人を、変幻自在に変化させることができる。その才能に、凄みを感じる。なかなかやろうと思って出来ることではない。そして何より彼は、私を守ってくれた。しかも、今後、教室内で私が浮くことがないように、周囲に私が特別だと思わせないための、絶妙なものだった。

「今日はありがとう」

 その日の放課後、私は帰り支度をする手塚に礼を言った。彼は黒のジャンパーに腕を通しながら、

「ああいうの、あんまり好きじゃないからな」

 と言った。野球帽を最後に被り、鍔の部分を顔面の位置にぴたりと留まらせた。

「お前もあんまり気にしない方がいいぜ。ただ面白がってるだけなんだから。まぁ、俺がこのクラスにいる限り、苛めなんて起こさないつもりだから、安心して通えばいいさ」

 最後に背負った彼のランドセルはひしゃげていた。

「また家に遊びにきなよ。この前、夕飯食べてった時、きんぴらごぼう美味しいって言ってたでしょ。おばあちゃん、最近また大量に作ったからさ」

 私は、私を助けてくれた手塚になにか恩返しできないかと思い、そんな提案をした。手塚は頬をほころばせ、

「ああ。近いうちにまた行くわ」

 と、言った。


 手塚が遊びに来る予定だった週末。その日、手塚は午後三時に訪れる予定になっていた。そして、他の来客予定があった。

 祖父母の知り合いであるというその女性は昼過ぎにやって来た。特に祖母と親しいようで、頻繁に家に遊びに来ていたため、顔は知っていた。祖母よりも、十は年下だろうと推測できる彼女は、いつも家に上がる時は、何かしら土産を持ってきた。

居間で、祖母とそのおばさんは、いつも通り彼女が土産に持ってきた茶菓子を食べながら、和やかに会話を楽しんでいた。私は、なんとなく気を遣って、母と私が二人で使用している部屋に籠り、漫画製作に勤しんでいた。

 何かに専念している時の時間の経ち方は尋常じゃなく早い。漫画専用用紙の、背景を丸ペンでペン入れしていると、まだ一コマしか仕上げていないというのに、三時近くになっていた。急いで、インクで汚れた手とペン先をティッシュで拭きとり、手塚を迎えようとして、部屋を出た。

 廊下に出ると、玄関先で、祖母と、家に遊びに来ていたおばさんの姿があった。もう帰るらしい。尚更ちょうどいいと思い、なんとはなしに、玄関まで出向き、おばさんを見送ろうとした。

「また遊びに来てね」

「ありがとう。あら、いけない。私、手提げ鞄を居間に忘れてしまったわ」

 おばさんは既に靴を履いていて、しかもそれが、いちいち紐を結ばなければ履けないような靴だったため、それを聞いた祖母は気を利かせて、

「今、とってくるわ。ちょっと待ってて」

 と、言い、急ぎ足で居間まで走った。

「流美ちゃん。浩之くんと仲いいの? この前、偶然道中で見かけたのだけど。あの子は、商店街の人間の間では有名だからねぇ」

 そう言って、おばさんは突然、私に耳打ちしてきた。

「はい。よく遊んでますけど」

 何が何だかよく解らなくて、とりあえず答えた。すると、おばさんは、難しい顔をして顔を左右に振った。

「駄目よ。絶対に駄目。もう遊ばない方がいいわ」

「何でですか?」

 私は、あからさまに不快感を表す彼女に、怒気が湧いた。おばさんの言動は、大袈裟で、言い方も上から目線で、何もかも気に入らなかった。

「ここだけの話ね。浩之くんのお父さんは、昔から有名な不良だったの。高校時代は、流美ちゃんのお父さんともよくつるんでたのだけど。まぁ、それは置いておいて。とにかく浩之くんの父親は素行も悪くて、商店街で万引きを繰り返すもんだから、商店街を出入り禁止になったのよ。おじいちゃん、昔お蕎麦屋さんやってたでしょう。おじいちゃんは、どちらかというと、手塚やその周りの若者にも理解を示していたんだけど、それを知らない手塚とその周りが出入り禁止にされたことに腹を立てたのね。それで、夜中に商店街中の店という店のシャッターに落書きして、隣接されてる自販機も破壊して荒したの。流美ちゃんのおじいちゃんがやってたお蕎麦屋さんの被害が一番凄くてね。窓ガラスも割られて、代々受け継いできた帳場もぼろぼろにされたのよ。それで、すっかりやる気を無くしちゃってね。店を閉めたのよ」

 おばさんは、声を潜ませて一気に喋った。私は、祖父がふるまった蕎麦の味を思い出していた。こだわり、誇りを持ち、店を構えていたに違いない。そして、どんな客にも平等に、ひたすら上手い蕎麦を提供して、幸福を感じていたのだろう。

 私は放心状態になった。

「だから絶対仲良くしちゃ駄目よ。まぁ、子供は関係のないことだけれど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いっていうでしょ。親子なんだもの。良い気はしないわよ」

 と、おばさんが言い終えたころに、タイミング良く祖母が玄関に戻ったきた。

「いつも貰ってばかりだから、何かあげようと思って少し探していたのよ。これ、娘がこの前、札幌で買ってきたお菓子。良かったら食べてね」

 祖母はおばさんに土産を手渡した。受け取り、おばさんは、帰っていった。私はおばさんの言った、親子なんだから良い気はしないはず、という言葉を思い返していた。祖父も、祖母も、手塚が自分の店を滅茶苦茶にされた、加害者の息子だということは知ってたはずだ。それを知っていて、優しく振る舞っていたのは、きっと、子供は子供、親は親、と言い聞かせながら接していたのかもしれないと思った。私がそうだからだ。私が、杉崎優の娘であるというだけで苛めを受け、差別されたということを知っているから、そう言い聞かせていたのだ。

 私という存在は、私が存在するだけで、周りに気を利かせてしまうのかもしれないと、感じた。私がもしも、杉崎優の娘ではなかったら、きっと堂々と、もう遊ぶなと忠告していたかもしれない。

 自分が、悩んでいたことだった。親子の関係というのは、一生切れるものじゃない。絶対的な真実で繋がれているのだ。私も手塚も、同じだ。同じだからこそ、きっとここまで親しくなれたのだ。

 けれど、真実を知ってしまったからには、もうこれ以上、祖父母に気を遣わせるわけにはいかなかった。物凄い葛藤があったに違いない。私という存在のせいで二人を悩ませてしまったのだ。

 私は家を飛び出して、もう家に向かっているはずの手塚を探した。彼はすぐに見つけることができた。もう家まで五十メートルを切ったところで、彼はずぼんのポケットに両手を突っ込んで、白い息を漏らしながら、こちらに向かっていた。

「よぉ」

 手塚は明るく声をかけてきた。

「ごめん。今日、おばあちゃんが体調壊しちゃったから、家に上げれなくなった」

 私が口早に言うと、

「え、大丈夫なのか? いつも元気そうだったのになぁ」

 と、手塚が心配そうに眉を八の字に寄せた。

「じゃあ、今日は止めといた方がいいな」

「ごめん」

「何で謝るんだよ」

 私は手塚の顔を直視することができなかった。上着も着ずに外に飛び出したため、急激に寒くなってくる。

「ごめん。次、いつ手塚を迎えることができるのか、わかんないや……」

 声が震えた。うまく感情をコントロール出来なかった。何と言ったらいいのかも。彼に何度も助けられたし、彼がいたから、穏便な学校生活を送れている。感謝はしている。けれど――。私は、私が憎んでいた、自分を肩書きだけで差別してきた同級生と、実はちっとも変わらないのだということに落胆していた。

「ふうん」

 手塚は言い、背を向けた。彼は、何も聞いてこなかった。ただ、私がいつもの調子ではないことは、瞬時に察することができたのだろう。何てったって彼は、空気を読むのは天才的に長けているから。

 もう二度と来ないでくれ、と言ったわけではない。

しかし、手塚がそれから私の家を訪ねてくることはなかった。




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