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姓を継ぐとき  作者: 凪理恵子
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忘れたくない日々


弱い人間が嫌いだ。

今も昔も、きっとこれからもずっと嫌いだということは変わらないだろう。弱い人間は生きることができない。生き続けることができないのだ。そんな考えを、私は小学生の頃から抱いていた。

嫌いなものは、たくさんある。そのなかでも、自分を対象に考えた時の一番気に入らないところは、時岡流美という自分の名前にあった。生まれてから死ぬまで、その名を背負わなければならない現実に辟易していた。

私は私である限り、絶対に逃れられない肩書きを持っているからだ。


両親の故郷である、北海道美唄市に根を下ろしたのは、私がまだ十歳、小学四年生の時だった。

それまでずっと、東京に住んでいた私は、初めて目にする田舎の銀世界に興奮していた。美唄に来るまで、北海道に帰郷することに反対していた私だったが、その自然が織り成す美しい町並みに単純に感動してしまったのだ。閑散とした商店街を通ると、あまりの人の少なさに、本当にこの町に人が住んでいるのかと不安になった。東京はいつだって人に包まれていたから。けれど、孤独や不安が異常にまとわりつく町だということも知っていた。私は冷めた子供だった。

初めて訪れた両親の故郷。両親――私はまさに親のことが悩みの種だった。

私は一人っ子で、女手ひとつで育ててくれた母と二人暮らしだった。父親は私が物心ついたころから一緒に住んでいなかった。

母と父は、この小さな街で、出会った。二人は幼馴染みで、長い時間を一緒に過ごした。そして恋に落ち、やがて母は妊娠したが、籍は入れず、事実婚状態が長く続いた末、破局した。その直後、父は亡くなった。

「着いたわよ」

母が行く先についていき、たどり着いた先は、古びた一軒家だった。木目の擦れた感じや、長屋だということもあり、それはとても寂れて見えた。玄関は引き戸で、雪かきがきちんとされている。屋根に乗った雪の重みで、ぺしゃんと崩れてしまいそうだなぁ、とその時感じたのを覚えている。

母と手をつないだまま、引き戸の前に立ちはだかり、興味津々にその貧相な造りを眺めていた。

母はインターホンを押し、由美子です、と伝えると、ぶちっと乱暴に受話器を置く音がした。それを聞き、私はなんとなくだが、母が祖父母との関係が険悪なのだということを悟っていた。

しばらくして引き戸が引かれ、祖母が現れた。背が低く、目鼻立ちは母に似ていた。

全体的に小さいパーツで構成されている。小さい目に小さい鼻、口。日本人らしいちまちました造りだ。私は思わず、自分の輪郭を手でなぞっていた。初めて会う祖母を見つめながら、親と子のどうしようもない繋がりを感じていた。

私たちは祖母に案内されるように、祖母の後方を歩いた。廊下は歩くたびに音がした。やがてすぐにひとつの障子の前にたどり着き、中に入った。廊下の寒さが嘘のように、暖かかった。中央にこたつが置かれ、二重になっている窓の横にはテレビが置かれている。テレビはつけっぱなしで、今さっきまで観賞していた者がいたという証拠だった。

私たちは祖母が座る場所の向かい側に二人並んで座った。今まで家にこたつという家具がなかった私にとってそれは新鮮だった。かじかんだ足先がじわじわと熱気に包まれていくのを感じながら、久々の再会だというのに、お互いに口を開こうとしない、祖母と母を交互に眺めた。

「こうなることは最初から解ってたんだよ」

開口一番、祖母は言った。眉間にしわを寄せながら、テレビ画面を見つめている。

「本当にごめんなさい。本当はもう合わせる顔もないのだけど、生活も大変だし、流美のためにも、新しい環境で一からスタートした方がいいと思って」

母は実家だというのに、他人の家に上がった時のように、正座し、背筋を伸ばして妙にかしこまっていた。

「甘いのよ。あんたのすることは。昔からそう。後先考えずに家飛び出して子供作って」

祖母は威圧するように大きなため息をついた。

「早く働き口見つけてお金入れるから。資格も沢山あるし、すぐに見つかると思う」

「沢山資格あったって何も役にたちゃしないんだよ。美唄では」

「うん、解ってる。とにかく早く見つけるから」

「当たり前だよ」

祖母はようやくこちらに目を向けた。きつい眼差しが私に注がれ、反射的に笑顔を取り繕った。それは、これからここで生きていかなければならないと理解し、少しでも関係を円滑にするための術だったが、祖母は私が笑うとぷいと顔を反らした。

「この子を見ていると複雑な気持ちになるよ。あの男にそっくりじゃないか」

私はむっとし、内心、初対面だというのに愛想の悪い祖母に怒りさえ覚えた。

「この子も可哀想に。あんたとあの男の被害者だよ」

祖母が言う、あの男という言葉が示す、父のことを思い出した。私は、父との直接的な思い出より、父がもたらした悲惨な出来事の方が遥かに多い。

「もうすぐお父ちゃん帰ってくるからね」

祖母は言い、のれんをくぐり、台所へと消えた。母はそれを聞いて、一層身をちぢこませた。この家には全く居場所がないようだった。

私は、祖母がくぐったのれんを見ていた。藍色に白い文字で、ときおか、と、四文字、書かれている。しかし、だいぶ年季が入っており、白字の部分が茶色に変色していた。よく見ると、端もほつれている。それに、居間と台所を繋ぐ扉に、まるで店屋のようなのれんは似合っていなかった。

「ねぇ、あののれん、変わってるね」

 私は声を潜ませて言った。母はのれんを一目見ると、

「昔、お店やってたのよ。お蕎麦屋さん」

 と、微笑んだ。私は、祖父母が店をやっていたなんて知らなかったため、少しだけ関心した。そして、想像した。あの静かな商店街に店を構える、一軒の蕎麦屋を。経営していたころは、活気に満ちていたのだろうか。あの、古いのれんをくぐり抜け、そばの匂いが立ち込める店内に、愛想を振りまく祖母の姿を思い浮かべた。

「何でもうやってないの?」

「色々あったのよ」

 母は、顔をしかめた。母は、よく、話しを濁す癖があった。言いたくないことなのか、言えないことなのか、私はいつもそれが、そのどちらかなのか気になった。

ぼんやりとテレビを見ていると、玄関の方からがらがらと引き戸を開ける音がした。重いしっかりした足音。それが祖父であると理解するのは容易だった。居間の障子が引かれ、現れた祖父は、白髪がしっかりと頭皮を覆っていて、中肉中背、太い眉や、細いが強い意 思を放つ瞳をしていた。

怖そうな人、と私は思った。

「お父さん、帰ってきました」

母は所在なさげながらも、必死に明るく言った。かなり緊張しているということを、隣にいる私は感じていた。

「出ていけ」

祖父はさっきまで祖母が座っていた場所にどかっと座った。その言葉は居間によく響いた。

「お前はもう他人だ。家族を捨てたくせによくのこのこ戻ってこられたな」

祖父は言い、ズボンのポケットからくしゃくしゃになった煙草を取りだし、火をつけた。もくもく立ち上がる煙を眺めながら、私は母同様、唐突に言い放たれた、突き放すような言葉に戸惑っていた。

母は何かを言おうとして口をつぐんだ。私も黙っていた。

「子供ができても籍も入れなかったんだ。お前もお前だ。流美が生まれても手紙だけで済ませやがって。とにかく、あいつはそういう薄情者なんだ。いつまでも色んな女とちゃらちゃらしたかったんだろう。あんなみっともない死に方して」

「流美の前でその話は……」

「いいよ、別に」

今まで黙っていた私が、突然声を出したことに驚いたのか、母は目を見開き私を見た。祖父が父の悪口を言うのは、全然構わなかった。東京の教室内で父に対する陰口は日常茶飯事だった。ほとんどは日常を面白おかしくするためのくだらない苛めだったが、当時の私は信じられないくらい傷ついた。

「おじいちゃん、これからよろしくお願いします」

私は頭を下げた。母がうまく立ち回れると思わなかったからだ。

「ふん」

不快感を露わにした祖父はテレビを消し、居間を出ていった。

「これから頑張ろうね」

母は言った。母は最近弱くなったと感じていた。取り繕うようなひ弱な笑みを見ながら、自分はこんな大人になりたくないと強く思った。私は、子供ながらに、母や死んだ父のことを、くだらないと思っていた。

窓全体に結露が滝のように流れている。一向に止まないぼたん雪を眺めながら、新しく越してきた地に違和感を感じていた。


三学期も終わり頃の二月下旬に、私は市内の小学校に転校した。校舎は体育館と校庭と校舎という平凡な造りだったが、生徒数が少ないため活気がなかった。東京とはまるで違う校内の雰囲気に、戸惑った。

私は週に一回行われる朝廷で、担任から全校生徒に紹介された。全校生徒を体育館に集めても百人かそこらしかいなかった。

「初めまして。時岡流美です」

満面の笑みを讃えながら言うと、ぱらぱらと拍手が起こった。

そのあと事務室に行き、新しい教科書から体操着やらを受けとると、私はこれから通うことになる自分の教室に向かった。担任と共に前方の扉から入ると、散らばっていた生徒たちが各自自分の席に戻った。

私はそこでもう一度、名を名乗り、愛想よく微笑んだ。

「えーと、じゃあ時岡の席は、手塚の隣な。ほら、あそこ」

担任が指差した方を見やると、二つくっつけて机が並んでいる中に確かに空席があった。私は荷物を抱え、その席に向かった。

子供にとって席というのは、学校生活を送る上で非常に重要だ。隣がどんな人物かによって、楽しくも苦痛にもなりうるのだ。

「よろしく」

私は言いながら席についた。隣人は深く腰かけ足を広げながらだるそうに座っていた。ちらりと私を見ると顔をそらした。がりがりに痩せていたが、溌剌とした顔をしていた。

何の反応も見せない協調性のない隣人にむっとし、

「よろしくね」

と、耳のそばで声を張った。嫌味たらしく。

「聞こえてるよ。うるせぇな」

「あんた、名前は?」

「教えん」

「あ、ここに名前が書いてある。道具箱に」

私は机の中から見える、橙色の道具箱の、雑な字で書かれている手塚浩之という名前をなぞった。

「お前、東京から来たんだろ」

手塚浩之という名の少年は当然言った。

「そうだけど」

「何で越してきたんだ?」

「内緒」

「ちぇ」

口を尖らせ黒板を見つめながら手塚は言った。

「東京ってどんな街なんだ?」

「うーん、人が多い街」

「何かあんまり参考にならねぇな」

手塚は宙を仰いだ。彼の強気な態度や口調の中には、何かを隠しているような、そんな気がしていた。というのも、私は彼のような自分を強く見せようと努力している人物を見てきたからだった。父のことである。

その日一日だけでも、彼のクラスでの立ち位置がよく解った。手塚は授業中も教師に絶妙のタイミングで茶々を入れたり、発言したりと、クラスのムードメーカー的な存在だった。休み時間は、外は零度という寒さにも関わらず活発に雪合戦をしていた。彼の周りには、たくさんの人が集まっていた。窓越しで見る手塚浩之という少年が羨ましくなった。笑うと大きい前歯が覗くあの口元が気に入った。口角を上げるときゅっと上に向く目尻も、実に少年らしい。

放課後も手塚は校庭で、活発に雪合戦を繰り広げていた。小さな校庭で、投げかう雪玉を避けて通るのは至難の技だった。何個も雪玉が頭や背負っているランドセルにぶつかり、早足で退散しようとすると、

「おい、新人」

と、声をかけられた。振り替えると手塚が雪玉を私に当てた。大きな雪玉は私の身体に当たると派手にはじけた。

「お前もやるか?」

と、言いながら、手塚はさらに雪玉を作り始める。

「やるー!」

私は大声で答え、手塚の方に駆け寄り、駆け寄った勢いで積もった雪の地面に、彼を倒した。

「新人のくせにやりやがったな!」

 手塚は、粉雪まみれになりながら、私を押し倒し、反撃した。私は思い切り尻もちをついた。見上げると、手塚が笑っていた。無垢な彼の笑顔を見ていると、自然と元気になってくる。手塚には、そういう魅力があった。生命力に溢れている。

ここは東京じゃない。そのことに不満を抱いていたが、彼の前だとただの十歳の少女でいられた。この新しい環境に感謝さえし始めていた。ここには私のことも、そして父のことも知っている人がいないという事実に。

数人で始めた雪合戦も、時間が経つにつれ人数が増し、日が暮れるころには学年問わず何十人という大人数になっていた。

校庭に響く子供特有の甲高い声が、校舎に反響していた。雪の中をレインブーツで駆け回る、自分と同い年くらいの子供たちの中に溶け込めた瞬間だった。


雪国に住む子供たちにとって、雪というのは恰好の遊び道具だった。飽きもせず、毎日のように休み時間と放課後は雪にまみれて遊んだ。

日が暮れると、誰ともなく遊びを止めて家に帰っていく。手塚はいつも最後の一人になるまで校庭に残っていた。

「私そろそろ帰るわ」

「私もー」

次々に帰っていくクラスメイトたちの背中が夕日に照らされていた。

「お前もそろそろ帰るだろ」

手塚はいつも被っている野球帽をかぶり直しながら言った。私は、そろそろ帰路につこうと思っていた所だった。

「手塚は帰んないの?」

「うーん」

と言いながら手塚は、腕を組みわざとらしく難しい顔を作ったため、私は笑った。手塚のチャックが開いたジャンパーからは首元が緑に縁取られた体操服が覗いていた。彼はいつもその体操服か、黒いトレーナーを着ていた。薄汚れ、よれた緑の縁を見ながら、手塚は貧乏なのだと思った。

「まあ、色々あるんだよ」

「色々ってなに?」

「色々は色々だよ。うるせぇな」

うるせぇな、というのは彼の口癖だった。言い返せないことがあると決まってそう言い、去勢を張っていた。

「まあ、でも帰るしかないからな」

手塚は言い、地面に置いていたランドセルを背負うと校門に向かって歩き出した。私も慌てて後に続いた。

「前に何で美唄に越してきたのか聞いたよね」

「ああ」

雪かきがされていない道は滑りやすく、前に進むだけでも大変だった。雪道を歩く時は、一歩一歩、上から垂直に体重をかけて歩くことがこつだ。

「東京は人が沢山いるけど、孤独なんだよ。だから、お母さんも参ってたんじゃないかな」

「こどく? なんだよそれ」

「寂しいっていうか…一人ぼっちみたいな、そんな感じ」

「何で人が沢山いるのに、こどくなんだ?」

「何でだろうね。人が沢山いても自分を出せる場所がないっていうか」

「ああ。それなら、何となくわかるかも」

「ええー、嘘だぁ」

私は言った。いつも陽気な手塚が急にしんみりしたことを言い出したため、戸惑った。

「手塚が孤独だってこと?」

「そうだよ」

手塚は私を見てにやっとした。孤独という語彙を増やした手塚は何度も孤独、孤独と呟いた。

「そういや、こんな歌あったな。冷たい~孤独の街で~生き続けるには~涙を隠しながら~自分を殺すこと~」

私はそれを聞いて思わず足を止めた。血の気が引いていくようだった。手塚は私が立ち止まっていることに気付き振り返った。眉を上げ、どうしたんだよ、とでも言いそうな表情をしている。

「歌下手だね。あんまり歌わない方がいいよ」

私が吐き捨てるように言うと、

「俺の美声を聞いてびびったんだろ」

と、手塚は、いたずらっぽく微笑んだ。私は黙っていた。

「もうすぐ俺んちだ」

静かな住宅街。いくつも家が立ち並んでいる。立派な佇まいの家々を通りすぎながら、私は驚いていた。よれよれの体操服、レインブーツも履かないでぼろぼろのスニーカーを履いている彼のことを無条件に貧乏だと思っていたからだ。やがて手塚という表札が見え、手塚は門を開けた。と同時に見えたのは玄関前で倒れている男性だった。まだ敷地にも入っていないというのに酒の臭いがぷんと漂ってきた。髭も髪も伸びきっていて、シャツにずぼんという、季節感が全くない格好をしていた。

「父ちゃんなにやってんだよ。こんなとこで寝てたら死ぬぞ」

「酒だ。酒を持ってこい」

手塚の父親は寝ぼけているのか、何度もそのような言葉を叫んだ。

手塚の父親が顔を上げ、一瞬、目が合った。私を見ると少しだけ目を見開き、驚いているように見えた。しばらくして、またすぐにだらんと首を落とした。

細い身体で父親を抱き抱えた手塚は、私を見るや、小さな声で、もう帰れと言った。私は言う通りに帰ることにし、自宅へと踵を返した。

立派な家に、あの父親は似合わない。彼は社会不適合のように見えたから。本当にあの家の住人なのだろうか。でも父親なんだから一緒に住んでいるはず。手塚はきっと家庭が複雑なのかもしれないと、ぼんやり思っていた。

「冷たい~孤独の街で~生き続けるには~涙を隠しながら自分を殺すこと~」

私は帰り道、手塚が歌った懐かしい歌を口ずさんだ。


「ごみ投げてきて」

居間のこたつでだらだらと漫画を読んでいると祖母がそう声をかけてきた。祖父は町内会の用事といって家を開けていた。

その日は祝日で学校は休みだった。窓が雲っていて外は見えず、外界がかなり寒いということを表していた。

「えー。外寒いんだもん」

「それくらい手伝いな。由美子だってようやく仕事見つけて祝日だっていうのに働いてるんだから」

祖母はごみ袋を突きつけた。私はしぶしぶそれを受け取り、近所の収集場まで捨てに行った。手袋をするのを忘れたため、手が真っ赤になった。耳も痛くなり始めている。

母は最近、札幌市内のデパートで働き始めた。デパートの地下で惣菜を売っている。慣れない立ち仕事のため、帰ってくるといつも疲れきった顔をしていた。

私は母が心配だったが、露骨に疲れを見せる母は嫌いだった。

ごみを捨て、家に帰ろうと、もと来た道を歩いていると前方から私と同じくらいの背丈の子供が歩いてくるのが見えた。半ずぼんとスニーカーを履いて、寒さに晒された二本の足はがりがりに痩せている。手塚だった。

「何してるの?」

駆け寄り、声をかけると、手塚は顔を上げた。耳は真っ赤で、唇は紫色になっていて血色が悪かった。

「何でもねぇよ」

「ずっと外にいたの?」

「まあな」

「寒いでしょ。家に帰ればいいのに」

言い終えてから、以前彼の家の玄関先で見た彼の父親のことを思いだし、何だか悪いことを言ってしまったという気がした。きっと父親絡みで家に帰りたくないのだと思ったからだ。

「うるせぇな。色々あんだよ」

「色々ってなに?」

私が言うと、

「お前しつこいな。男はあれこれ語らない生き物なんだよ」

と、手塚は眉間にしわを寄せ、口を尖らせながら言った。彼の表情や言動はいつも面白く、場を和ませてくれる独特なものだった。面白いということは、最高の個性なのだと、彼を見ると、いつも感じた。

手塚はしかし剽軽な顔をしながら、ぐうと腹を鳴らした。ごろごろと盛大に響く腹の音を聞くと、私は何だか彼が可哀想になった。きっと何かで辛いはずなのに誰の前でも明るく振る舞える手塚のことを少し尊敬した。彼はけして弱みを見せなかった。

「うちに遊びに来る?」

言葉を発する度に白い息が漏れた。手塚は両手を吐息で温めながら、遠慮しとく、と言った。

「何気使ってんの」

「使ってないよ」

「今日の昼御飯は味噌バターラーメンだって、おばあちゃんが言ってた」

「お邪魔させていただきます」

態度を豹変させた手塚を見て、くすくす笑った。

手塚と一緒に家に帰ると、

「お邪魔します」

と言って、彼は野球帽を取った。よそよそしく、緊張しているようだった。

「おばあちゃん、友達連れてきた。すぐそこで会ったの」

居間にいる祖母に聞こえるように声を張りながら、私はレインブーツを脱いだ。なかなか家に上がろうとしない手塚に、早く靴脱ぎなよと耳打ちした。

ばたばたと廊下を渡り、玄関までやって来た祖母は、手塚を見ると、優しい穏やかな声で

「いらっしゃい。寒いから早く上がりなさい」

と、言った。手塚は照れているのか、にやにやしていた。

祖母は彼を歓迎した。

「流美が学校で友達ができたかどうか心配だったんだ。仲良くしてくれてありがとうね」

手塚は正座をしながらこたつに入り、両手も中にいれていた。徐々に血色が良くなっていく手塚を隣で見て、なんとなくほっとしていた。

「ご飯食べていきな。バターたくさん入れてあげるから」

「あ、ありがとうございます」

手塚は大きな前歯を見せながら、まだ声変わりする前のハスキーな声でそう言った。

ラーメンを食べ終わると、祖母は手塚の体操服の、布に苗字だけが書いてある部分がとれかけていることに気付き、縫い付けてやると言って、裁縫道具を持ってきた。祖母は、私が初めてつれてきた友達ということで、あれこれと世話を焼きたがった。

祖母に気圧され、体操服を脱いだ手塚は、縫い終わるまで、私のトレーナーを着ていた。サイズはぴったりだったが、明らかに女物であるそれを着てかしこまっている彼は可笑しかった。

「出来たよ」

糸を切りながら、祖母は、縫い付けたばかりの体操服を手塚に差し出した。彼は両手でそれを受け取り、頭を下げた。

それから私たちは夕方まで世間話をしたり、おやつを食べたりと穏やかな時間を過ごした。その日は、夕飯まで一緒に食べた。

私は祖母の新しい一面を、彼を通して見つけることができた。世話好きで子供好き。きっと根は優しい人なんだろうと感じた。

陽が暮れ、手塚は帰ると言い出した。

「これ持ってきな」

祖母は友達からもらったという旅行の土産の大福を2つ手塚に持たせた。玄関先で、靴を履き終えた手塚は両手で土産を受け取り頭を下げながら礼を言った。

「ありがとうございます」

「またいつでも遊びにおいで」

祖母は言い、手塚はもう一度頭を下げて、帰っていった。

祖母は、しばらく玄関に立ち尽くしていた。私は不思議に思い、隣にいる祖母を見上げた。やがて口を開き、

「あの子の名前は浩之かい?」

と訊いてきた。

「うん、そうだよ」

私は、何でそんなこと聞くの? と付け足す。祖母は神妙な面持ちだった。

「あの子も被害者だからねぇ」

祖母は言い、踵を返した。祖母は手塚について何かを知っているのだということを悟った私は、居間まで向かう廊下で、前方を歩く祖母に、何でそんなこと言うのと繰り返した。しかし、祖母は何も言わなかった。

私は、祖母が発する被害者という単語の響きが嫌だった。この家に来たばかりの時にも、祖母は私に向かってそう言った。祖母の言う、被害者という言葉が示す裏には、憐れみが隠されている。まだ子供だったが、それは屈辱だった。迷惑だった。


仕事から帰宅した母に、祖母は、

「今日、手塚のせがれが遊びに来たよ」

と、言った。母が仕事の時は祖母が食事の支度をする。母と祖母は台所に立ち、味噌汁を温めたり、米をよそったり、母が食べる分の食事の支度をしていた。

「そう」

母は温まった味噌汁をおたまでよそいながら言った。

「流美と仲良いのかしら」

「また遊びにおいでって言ったよ」

二人の姿を居間から眺めていた私は、会話も耳をそばだてて聞いていた。手塚の息子。祖母と母が示す「手塚」とは、手塚浩之の父親を指している。私は確信した。手塚の父親には、間違いなく何かがある、と。

「お母さん、良いの?」

母は目を見開いた。

「良いのってなにが」

「嫌なこと思い出すんじゃないの」

「子供に罪はない。礼儀正しいし、良い子だったよ」

「でも……」

「親のしたことは、あくまで親のしたことだよ。子供には子供の人生があって人格があるんだ。何を言いたいかわかるね?」

祖母は洗い物を手際よく済ませると、エプロンで手を拭いた。振り返り、私と目が合うと、再び背を向いた。

「流美も、同じだってことだよ。あたしだって、流美があの男の子供じゃなかったら、手塚の息子を受け入れられないかもしれない。でも、受け入れないといけないんだ。流美のためでもあるし」

と、祖母は言った。母は黙っていた。私は会話に割り込んで、手塚や手塚の父親について聞きたかったが、そのような空気ではなかったので止めた。


手塚とは、帰り道が同じ方向で一緒に帰ることが多くなった。繰り返される日常は、凡庸で刺激がないものだったが、私の荒れた心を癒してくれた。

東京とは違い、空気が澄んでいた。空を見上げれば、電線で張り巡らされた東京の暗いそれとは違い、とにかく高く感じた。

「ねぇねぇ、流美ちゃんのお父さんって、杉崎優なの?」

授業の合間の休み時間、クラスメイトの女子が声を掛けてきた。普段会話をしない子だったため、いきなり声をかけられ驚いたのと、なにより父の名を久しぶりに耳にしたので戸惑った。

「なんで?」

咄嗟に出た言葉は、否定も肯定もしないあやふやな返しだった。

「うちのお母さんが言ってたのよ。美唄出身なんでしょ。すごいなぁ。こんな田舎からあんなスターが生まれてたなんて」

私は、机の中から次の時間の算数の教科書を取り出しながら、冷や汗が吹き出すのを感じた。

「でも、ほとんど一緒に住んでないし」

「それでも、お父さんはお父さんじゃない」

私は口をつぐんだ。父と私の、親子であるという変えようのない真実から、目をそらしたかった。彼女は、父の死に方を知っているのだろうか。知っていたらこんなことをわざわざ私に確認したりしないだろう。数秒間の間に私は、あれこれ色んな推測をした。せっかく美唄という環境に慣れてきたのに、父のせいでこの当たり前な幸せを壊されたくなかった。

「あたし、杉崎優好きだったのよ。かっこいいし、面白いし。歌も出してたわね。そういえば一度映画にも出てたわよね。そんな有名人がお父さんなら、自慢よねぇ。羨ましいわ」

 私は俯きながら、うまい返事を探していた。父は、私のトラウマだった。もう二度と、東京にいたころのように、父のせいで傷つきたくなかった。

「すげぇじゃん。今のマジ?」

 顔を上げると、さっきまで席についていなかった手塚がいつの間にか自分の席に戻っていた。目を見開き、口角を上げ、驚いた表情をしている。好奇心に満ちていて、屈託のない笑顔を私に注いでいた。私は、顔が強張り、どんな表情をしていいのか解らなかった。

「なぁなぁ。今の本当か? 親父があの杉崎優って」

 手塚は、興奮気味に声を張りながら訊ねてきた。私は、ただ、うろたえていた。

「そうだけど……」

「何で今まで黙ってたんだよ。あんな有名人が親父だってこと」

 目を輝かせながら、手塚は言った。日本人なら、一度はその名を聞いたことがあるであろう、有名人の杉崎優のことをもっと聞き出したい、という好奇心に溢れているように感じた。そして、それが不快になった。

「何でいちいち言わなきゃいけないの? 父親が有名人なら、公表しなきゃいけないわけ?」

 私は、とげとげしい口調で言った。なぜ、そのような態度をしてしまったのか、自分でもよく解らなかった。杉崎優の娘であるという、血の繋がりが、私を苦しませていたのだ。

「別にそんなことはないけど。何だよ、感じ悪いな。ただ教えてくれれば良かったのにって言っただけじゃねぇか」

 手塚は、むっとした表情を浮かべながら、背を向けた。彼の背中は小柄で、その上にある頭は、綺麗な形をしていた。

「あ、もう授業始まるわ」

 私に話しかけてきた女子生徒は言い、席に戻った。

授業が始まっても、私の心臓はばくばくと激しく波を打っていた。ばれてしまわないかという不安があった。私の父親が杉崎優だということを知られるのは、まだいい。けれど、その後に続く父親の死因が原因で、東京ではひどいいじめに遭った。

 隣の席にいる手塚が、明らかに不機嫌になっているのを、肌で感じた。人の感情で、空気の流れが変わるということを、この時から知っていた。

 ぼうっとノートの等間隔にプリントされている横線を見ていると、目の前に、紙が差し出された。横を見ると、顔は前を向いたまま紙を差し出す手塚がいた。

 何であんなにむきになるんだよ。

 と、そこには書かれていた。大きさもバラバラで、筆圧が強く乱暴な字だった。

 私は、答えに困り、なんでもない、とだけ記した。

 なんでもないなら、あんなに怒らないだろ。

 手塚は私のコメントを見ると、すぐにそう返した。彼は、なかなか鋭いと感じた。

 うるせぇな。

 私が彼の口癖を真似て、そう書くと、

 なんだとぉーこらぁ

 と、手塚が返事をよこした。私は隣にいる手塚を横目で見た。黒板を見つめながら、私が紙を差し出すのを待っているようだった。

 手塚と目が合い、咄嗟に目を逸らした。私のことを気にかけてくれていることは、素直に嬉しかった。優しい人なのかもしれない、と感じた。思えば、転校してきて、まだ学校に馴染めない私を早々に雪合戦に誘ってくれたり、放課後一緒に帰って、淋しさを紛らわせてくれた。

 放課後になったら、全部話すよ。

 私はそう書いた。

 OK

 手塚の返答は簡潔だった。


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