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      白 日 夢 残 照 ――異次元世界へ行った男の話――

作者: 堀本廣







 「5年前の事だったわなあ」

 男は30歳という割には老けて見える。顔色はアルコール中毒症状を呈している。日焼けしたような、ドス黒い肌をしている。

――おかしな話をする人がいる――そんな情報を得ての訪問である。家は大野から約3キロ東に入った、三和町久米の部落の中。古ぼけた一軒家で、男は親が残してくれた借家賃の上りと、土地の切り売りで生計を立てている。独身。

 訪問したのは、平成8年10月の上旬。朝10時ごろ。

 雲1つ無い小春日和の天気。外に出て体を動かした方が良い日なのに、男は今起きたばかりという顔で玄関に立つ。寝ぼけた顔に無遠慮に大きなあくびを漏らす。

「何か用?」不機嫌な態度に、私は腰を低くして頭を下げる。

「不思議な体験をされたとかで、差し支えなければ、お聞きしたいと思って」

酒好きと聞いていたので一升瓶持参である。

 男はボサボサの髪をかきながら、一升瓶をみると、眼を輝かす。

「まあ、上がりや」

 玄関の右手が台所兼応接室になっている。男は部屋に入ると、敷きっぱなしの布団を二つ折りにして、隅に片付ける。ビールやウイスキー、酒の空き瓶が部屋中に散乱している。男はそれを無造作に隅に押しやる。インスタント食品の器をビニール袋に押し込むと、奥の台所に投げ捨てる。何とか畳一枚分の空間をつくる。

 座布団をぽいと置くと「座ってや」顎でしゃくる。

 男は二つ折りにした布団を背もたれにして、足を投げ出して腰を降ろす。一升瓶の栓を抜く。テーブルの上に山積みになった酒の肴の中からコップを取り出す。酒は勢いのよい音を立ててコップに注がれる。水でも飲むようにぐっと飲み干す。

「プハー、いやあ、うめえ酒だわ」男の口から快哉が漏れる。

「すまんなも、丁度、酒がきれとったもんだいなも」言いながら、空になったコップに酒を注ぐ。

 2杯目も半分ほど開ける。眼がうるんで満足そうな顔になる。私は呆れてその面長の顔を眺めていた。

「5年前、わしゃ、不思議な体験をしたんだわあ」

 男の間延びした声に、愚痴っぽい響きが感じられる。

「人に話しても、誰も信用せんで、人を気違い扱いにしやがって!」今までの鬱憤を吐き出す。

「あんた、わしをからかいにきたんじゃぁないだろうなあ」男の眼が探るように見ている。

 私は胡坐を組んだまま、滅相もないと手を振る。

世の中には、不思議な体験をした人が大勢いる。自分の身近にもそう言う人がいると知って、興味を覚えるのだと答える。

 男は何となく納得したような顔になる。

「一杯やるかな?」テーブルの上の、もう1つの、手垢のついたコップを差し出す。私は酒は飲めないからと辞退する。

「まあ、信じる信じないは、あんたの勝手だわなあ」

酒をくれたお礼に、話したるわあと言う。


 男の名は久本信吉。22歳の時に両親に死なれ、以来1人暮らし。幸い親が残してくれた財産で食うには困らない。

 5年前、家を建て直したいと思い、土地の一部を売ることにした。不動産屋に頼むと手数料を取られるので、友人、知人、親戚に声をかける。慌てる必要はないので、売れた時に建築の事を考えればよいと思慮する。

 平成3年9月の初め、大野駅の県道の西側にある恩波楼という旅館近くの人から電話が入る。

「土地を売られると聞いたので、この前見せてもらった」土地と言い値段と言い、気に入ったので、是非話がしたいとのこと。

 久本は自分がそっちに行くのでどうかと話す。こっちに来てもらったところで、家の中がくちゃくちゃで座ってもらう場もない。

 電話の主は謄本や公図などはすでに法務局からとってあるので、いつでも契約できる状態だという。来てくれるなら、2日後の日曜日の午前中ならいる。それでよいかと言って電話が切れる。


 2日後、久本は車を飛ばす。自宅から大野まで5分とかからない。問題なのは恩波楼の周辺は道路が狭くて住宅が密集している。車を止める場所がない。仕方なく、大野駅の東側、矢田川の堤防沿いに車を置くことにする。

 9月になったと言っても残暑が厳しい。久本は着る物には無頓着なので、ズボンに色物の半袖姿である。散髪も2ヵ月に一回しか行かない。普段櫛も入れないので髪はボサボサである。髭は電気カミソリがあるので、一週間に一回は剃る。

 要は、面倒な事が嫌いである。家の中の掃除など一度もしたことがないので、訪問されても困るのだ。

 今日も朝9時半に起きている。少々飲みすぎて頭が痛い。体も気怠い。一応顔を洗って用足しもすまして家を出たのが9時45分位。

 約束の時間が10時なので、ゆっくりと車を走らす。

会合などで久本は時間通りに行く事はまずない。適当に見計らって出かける。時計を持たないので、時間の観念もない。


 車を停車してもキーはつけっぱなし。大した車ではないし、車内に碌なものも入っていない。盗まれても心配のない車だ。

 大野駅北側の踏切まで歩く。遮断機が降りる。常滑行きの急行が停車する。

・・・9時56分発常滑行き急行が発射します・・・駅のアナウンスで時刻を知る。踏切を渡り、小倉神社を右手に見ながら歩く。道幅は4メートル程。喫茶店や本屋、タクシー会社がある程度だ。駅周辺は活気がない。そのまま一本道を西に行くと県道に出る。南北に伸びる県道沿いは商店街が軒を連ねる。大野で唯一の繁華街だ。

 県道をつき切ってなおも西に歩く。道幅が狭くなる。古い家が密集している。

 久本はゆっくりと歩く。所どころ新築の家が目立つ。その所だけは道幅が広くなっている。百メートルも歩くと突き当りとなる。右手に海音寺、突き当たった所が恩波楼。旅館と聞いているが、古めかしい造りの家は、大正時代に建てられたという。昔は旅館として流行ったが、今は宿泊する客もなく、もっぱら宴会の施設として利用されている。車が3台置けるだけのスペースしかないので、利用客も多くない。

 海音寺の西側は大野海岸となっている。海岸とお寺の間に、5年ぐらい前に14階建てのマンションが出来た。

 恩波楼で突き当たった道は左に折れている。道幅は3メートル程。住宅が道路一杯まで迫っている。

久本は頭の痛いのを我慢して青空を見上げる。雲1つ無い天気だ。太陽もギラギラ輝いている。

・・・今日も暑いわ・・・話が済んだら早う家に帰って寝よう。重い足取りで歩を運ぶ。

 客の名は恩田三郎。恩波楼から南に行った突き当りの三軒長屋の真ん中と聞いている。

 周囲の家を見ながらゆっくりと歩く。昔ながらの家が多い。外壁をコールタールで塗ってある。50メートル程行くと、少し道幅の広い道路がある。矢田川と並行して走るこの道は、大野駅前に出る。

 前方10メートル先に鳥居のような冠木門がある。朽ちかけて、指で押すと倒れそうな感じである。その門の奥の右手に、古ぼけた板を無造作に張り付けただけの家が見える。瓦も載っていない。よく倒れずに持っているもんだと感心するぐらい粗末な建物だ。

 左手に黒塗りの倉が聳えている。その建物との間には人が1人歩くだけの”道”がある。その先が護岸堤防の矢田川の河口で、伊勢湾が拡がっている。


 冠木門をくぐると、久本は客の家に入る前に、海を見ようと”道”に入る。地面は砂地で歩くには気持ちよい。

・・・5分か10分、待たせときゃいいわ・・・ずぼらな性格がここでも発揮される。冠木門をくぐって、”道”を4歩か5歩行った時、急に太陽の輝きが強くなる。一瞬、周囲が白くなる。頭がくらくらする。眼を瞑る。倒れまいと、その場に棒立ちになる。吐き気に襲われる。体中が熱くなる。

 5分か10分、あるいはそれ以上かもしれない。苦しいのを我慢する。体中の熱気は少しは収まる。気分の悪さも胸のつかえが降りたように楽になる。

・・・飲みすぎのせいだわ、こりゃ・・・

 久本は眼を開けて太陽を見る。周囲の景色がまだぼんやりとして定かではないが、妙に明るい。薄い色物のサングラスを外した時のような新鮮な明るさだ。

 空は抜けるように青い。スモッグのようなどんよりした遮蔽物がない。

・・・何だこりゃあ、一体どうしたんだ・・・

 

 久本の眼の焦点が定まろうとした時だった。

「おーい、いたぞ、若がいたぞ」

 前方から2人の男がバラバラと駆け寄ってくる。

 久本は眼を見張る。2人は褌姿の真っ裸なのだ。肌は赤銅色に焼けている。筋骨隆々として、鉢巻姿の白い歯が鮮やかである。

「若!」1人が駆け寄る。眼がらんらんと光っている。久本の姿格好を上から下までじろじろと眺めまわす。

「若あ、酔狂にもほどがあるわ」腹の底から絞り出すような声でたしなめる。1人は親方に知らせるだぁと口走って去っていく。

 男は久本の腕をむんずと鷲掴みにすると、ずんずんと引っ張っていく。

「チョッと…」掴まれた腕の痛さに、久本は男の手を振りほどこうとする。男はそんな久本に眼もくれない。10メートル程無理やり歩かされる。

「あっ」久本は愕然として声を飲む。ある筈の護岸堤防がなく、長々と白い砂浜が拡がっている。その向こうの方に青々とした海が横たわっている。

 白浜は百メートル以上はあろうか、矢田川河口でいったん切れるものの、延々と常滑の方に伸びている。白浜の切れたところに防風林として植えられた松林が連なっている。

 男は久本の驚きの声にもかかわらず、右手西に折れる。前方西の方には伊勢湾を挟んで、鈴鹿の山々が手に取るように見える。白浜は大野海岸、新舞子の方まで伸びている。

 素裸の子供達がきゃあきゃあ言いながら岸辺でアサリを取っている。船や網の修理をしている男達もいる。皆褌一枚の姿で、日に焼けた肌をしている。女達もいる。上半身を露わにして、舟から陸上げされた魚や海藻を運んでいる。

「若が戻ったでよう」男は誇らしげに久本をこれ見よがしに歩かせる。

 浜にいる者たちの眼が一斉に久本に集まる。久本は色物の半袖シャツに、紺のズボン、白のスニーカを履いている。子供達がワッと集まってくる。

「あっちへ行け」男は子供達を叱りつける。右手、海岸と対峙するように屹立する板囲いの家に向かう。

 その家の中から、小太りの女が着物の裾をはだけながら駆け寄ってくる。眼が怒りに満ちている。

「何だあ、気まぐれもたいがいにせえよ。心配かけやがって!」金切り声をあげると、久本にビンタを食らわす。

 眼から怒りの色が消えて、涙がおちる。息の荒くはぁはぁと言いながら、男にもういいからと顎でしゃくる。

 男はようやく鷲掴みの手を離す。久本の頭の中は混乱している。

「ちょっと・・・、わし・・・」言いかけるが後が続かない。

 小太りの女は息を整え、後ろにまとめただけの髪の毛の乱れを治す。改めて久本の姿をまじまじと見る。

「何だあ、その格好は!南蛮人の真似か!酔狂もたいがいにしとけ」腹に響くような声で叫ぶ。

「とにかく、家に入れ」

 中年の女は、小太りの体をゆすりながら久本の手首を掴む。浜辺の方に向かって「みんなぁ、庄助が戻ってきた来たでなあ。心配かけたなあ」張りのある声で叫ぶ。

 浜辺の老若男女は深々と頭を下げると、久本の異様な風体を見ている。

 高さ10メートルはあろうか、板塀に囲まれた家は瓦葺きで、屋敷と呼ぶにふさわしい大きさである。

 女は小太りだが、活気に溢れている。丸顔で小さな眼と団子鼻が日に焼けて赤むけしている。厚い唇が蛭のようによく動く。久本の手首を握ったまま家の中に入る。家の中の窓は小さく、室内も暗い。

「おーい、お父うや、庄助を連れてきたでよう」女は家の奥に声をかける。

 明るい外から、暗い中に入って、久本の眼は急には慣れない。

「若あ、お帰り」奥の方から数人の女の声が聞こえる。眼が暗さに慣れてくる。久本のいる所は砂場であった。30坪程の広さはあろうか、真ん中に焚火の跡がある。左手は腰高の板の間になっている。そこだけが4~50坪はあろうか、奥に4つばかり竈がある。とにかくだだっぴろい。

 久本がとにかく話をして、理解してもらおうと思った時、奥の襖をあけて、褌一丁のいかつい男が飛び出してくる。

「この恥知らずが!」久本に殴りかかろうとする。

「あんたあ、まあ、今日の所は勘弁してやりいな」女は男をなだめる。男はたわしのような髭をゴシゴシこすると、黙ってまた奥へ消える。

「早う、こっちへこい」女は竈の方へ歩くと、家の裏に出る。家の北側も板囲いされている。左手におれる。少し行くと、入り口が暗い穴倉のように控えている。玄関や家の出入り口にはドアや引き戸はないようだ。

 入り口に入ると板の間の縁がある。その奥に板の引き戸で仕切られた部屋がある。

「早よ、着替えよ。そんな恰好しとると笑い者になるわ」

 女は久本を部屋に押し込むようにして入れる。

「小鈴、こっちへこい、また庄助が逃げんように、見張っとれや」その声に、

「へい!」男のようなごつい女の声がする。

 久本は閉められた引き戸をおそる開ける。開けてみる。大柄な鬼のような顔の女が腕組をして、久本を睨みつけている。恰好を見ると、つぎはぎだらけの襦袢のような物を着ているのみ。剥き出しの太股が久本の胴より太い。

 久本は引き戸を閉める。部屋の西側、上の方に小さな窓があるのみ。10帖程の広さがあるのだろうか。部屋の片隅に縦縞模様の半袖の着物が置いてある。着物の側にせんべい布団が一枚たたんであるほかは何も無い。ガランとした部屋の中だ。

 ホッとして床に腰を降ろす。ようやくわが身の置かれた境遇に恐怖心が襲ってくる。過去の世界か何かは判らないがとんでもない世界に入り込んでしまった。逃げ出したくても、牢屋のようなこの部屋からは逃げ出すことは出来ない。仮に逃げ出したとしても、何処に行ったらよいのか・・・。

 一息ついたものの、何をどうしてよいのやら、皆目わからない。部屋の片隅に蹲る。恐怖心が心の奥底に沈み込んで虚脱感が頭をもたげてくる。

・・・このまま、こんな所に居てもいいのか・・・

 そう思うものの、どうする事も出来ない。

 虚脱感が薄れてくると色々な思いが心の中を出たり入ったりする。時を見て、自分はこの世界の者ではないと説明しよう。でも判ってくれるだろうか。狂人扱いにされて外に出る事さえ叶わぬようになるのではないのか。色々と試行錯誤の思いの結果、身の危害を加えられる事はなさそうだと思いいたる。しばらく様子を見ようという事になる。


 1時間程過ぎたであろうか、もうお昼に近い筈だ。無性に腹がすく。頭の痛いのが消えている。水も飲みたい。

 板戸を開けて鬼のような女に声をかける。

「すまんが、腹が減った。飯が食いたい。水も欲しい」哀願するように頼む。女は腕組を解くと、小さな眼を大きくに開く。

「奥さあ、若さあが腹減っただとよ」腹の底に響くような声を出す。

 先ほどの女が顔を出す。庄助の母親らしい。

「朝から何も食ってねえ」久本は哀れな声を出す。

「まあちっと待っとれや」庄助の母は一旦台所の方に消える。しばらくして別の女が土瓶に入れた水とにぎりめしを3つ持ってくる。

 久本がそれを受け取ると、鬼のような女がピシャリと板戸を閉める。

・・・まるで牢屋だ・・・

 握り飯は麦だ。固くて何度もかまないと喉を通らない。握り飯の中の梅干しが実にうまい。喉を潤そうと水を飲む。水道水を飲みなれている久本には、清水のようにうまかった。

 お腹が膨れて、しばらく横になる。9月なのに、真夏のような太陽が照り付けている。部屋は小さな窓しかないのに、蒸すような暑さが感じられない。うとうとした気分になるが眠る気分にはなれない。あまりの急激な変化に、心はまだ興奮から脱し切れていない。


 久本は今まで判ったことを整理してみる。

 多分・・・自分は過去の大野の町にタイムスリップしたに違いない。

この大きなお屋敷の若旦那、庄助と間違えられている。彼とは瓜2つなのだろう。

庄助は両親を困らせる程の勝手気ままな人間らしい。自分は当分ここにいるしかない。やがて庄助本人が現れるだろう。その時、自分はどうなるのだろう。

 これ以上考えても無駄だと思った。腹をくくって、庄助に成りすますしかない。

 久本は半袖のシャツやズボンを脱ぐと、部屋にある着物に着替える。

板戸を開けると「ちょっと、外に出たい」

 鬼ような女に言う。彼女は小さな鼻と口をすぼめるようにして久本を見るが「ちょっと待っとてや」久本を部屋に押し込めると「奥さあ」頭に響くような声をたてながら外に駆け出していく。ものの10分も経たぬ内に引き戸が開く。

「若さあ、外に出てもええげな。わしも一緒だでな」

 久本は承知して外に出る。板囲いの壁は想像以上に大きい。竈のある台所の東の方に、この屋敷で働く下男下女の住まいがあるらしい。板囲いの北側に粗末な家が密集している。板葺きの屋根の上に丸石を乗せただけのものだ。

「あんた、小鈴さんとか言ったなあ」

 後ろにひかえる小鈴は不思議そうに久本を見ている。若旦那からこんな風に言われた事がないのかもしれない。

「ところで、わし、歳、いくつだや」

「若あ・・・」小鈴はますます不思議そうな顔をする。それでも「25になるだがや」と答える。

 あちらこちらを歩きながら、小鈴から色々な事を聞きだす。

 この屋敷の主は塩崎正太郎。母はうめ。塩崎庄助は一人息子で、3日後に嫁を迎える事になっている。相手は常滑村の庄屋の娘。

 普通、男女共に15歳から20歳で結婚する。25歳は晩婚だという。

 庄助は小さい時から放浪癖があり、突然行方をくらます。皆が大騒ぎするものの、2日か3日たって、ぶらりと帰ってくる。どこへ行ったと問うても、半田へ行ったとか、横須賀まで遊びに行ったとか、要領を得ない。

 今回は5日間の行方不明で、さすがの親方や奥さあも気が狂うほど心配した。なにせ嫁取が迫っているので気が気でないのだ。

 もし庄助が帰らなかったら、相手方にどう申し開きして良いのやら、夜も寝られんぐらい気を病んでいた。

 小鈴は自分達下っ端の者たちもとばっちりを食って困っとたんだと苦情を言う。その小さな眼は久本をとがめている。

「悪かったなあ」久本は庄助になり代わりあやまる。 

 庄助は網元の息子でありながら、海の仕事は嫌いで、舟に乗った事がない。親方はそれを心配して、自分の目の黒い内に嫁を持たせ、孫をつくらせようと考えた。庄助本人が駄目なら孫を後継ぎにしようと言うのだ。

「今年何年?」

「何年って何が・・・」小鈴はドングリ眼で聞く。

「つまり、昭和とか大正とか、明治・・・」

「明治大帝が御即位なされて3年目と聞いとるが・・・」

・・・明治3年か、とんでもない世界に入りこんだものだ・・・久本の気が塞ぐ。

「若あ、大丈夫か、顔色が悪いが・・・」

「いや、ちょっと、腹具合が・・・」久本は言葉を濁らす。


 絵に描いたような景色が何処までも続く。青い海、白い砂浜、青々と広がる空、どれをとっても、平成9年代の知多半島から消滅した景色ばかりである。

 ここで生活する人達は貧しく、食うに精一杯なのだろうと察する。それでも浜に群れている男や女を見ていると、屈託がない。底抜けに明るく、生きている今を楽しんでいるようにも見える。

・・・自分の時代は、豊かさを求めて自然を破壊してきた。いずれそのツケが回ってくるだろう・・・久本は感傷的な気分になっている。

 彼はズボラな性格だが、人を陥れるような事はしない。平穏に生きていく知恵は身に着けている。

 陽が西のように傾きつつある。

「若あ、もう帰らんと」小鈴が後ろで催促する。

 屋敷に戻ると、母のうめが「奥へ」と顎でしゃくる。久本は裸足の足の裏の砂を払って、板の間に上がり込む。

 奥の板襖を開ける。その部屋と北側の部屋のみが畳敷きとなっている。庄助の父、正太郎が仏壇を背にして、胡座を組んで、久本の入ってくるのを待っている。

 久本は褌姿の正太郎の前に畏まる。

「どうだあ、ちったあ、落ち着いたかや」無精髭の口から白い歯がこぼれ落ちる。眼が笑っている。

「迷惑かけました。2度と勝手気ままはしません」

久本は庄助になりきって頭を下げる。久本の強みはすぐにも環境に順応出来る事だ。

「うん、もう大人なんだ。人に後ろ指を指されるような真似はするなよ」

 慈愛に満ちた表情だ。人を威圧するするよな風貌だが、多くの者を束ねる立場にあるだけに、思慮深い眼をしている。庄助は不詳の子なのだ。一人息子であるし、人一倍可愛いのだろう。

 久本は父の部屋を出ると、一旦自分の部屋に引きこもる。

 台所では数人の女が忙しく働きまわっている。

「もう一刻もすると、陸揚げじゃ、早うせいよ」

 母のうめが小太りの体をそらして叱咤している。

「小鈴、庄助はもうええから、風呂に水を入れや」

 うめの声に「へい!」小鈴は男のように叫ぶと、台所の裏手に駆け出していく。


 後で知った事だが、日がおちる前に、沖に出ている船が一斉に戻ってくる。それを陸揚げと言い、1日の仕事が終わる合図となる。浜に仲買人が待ち受けて、魚の売買が始まる。小魚や貝、売れ残ったものが、網子や船頭たち、塩崎家の食料となる。

 昔は捕獲した割合で網子や船頭たちに分配されていた。明治になって、尾張藩から認められていた漁業権の継続が認められている。江戸末期から、仲買人により、金銭で売買されるようになっている。網元は1ヵ月に一回、捕獲量に応じて、網子たちに銭で支払う。

 昔は網子は百姓の出稼ぎが多かった。この頃は、塩崎家の働き手は専業漁業者として、大野海岸一帯に住みついている。


 日も暮れて、屋敷の内も外も騒々しくなる。

「フロ、湧きましたがあ」小鈴の大声に、奥の部屋にいた正太郎が「よっしゃあ!」と叫ぶ。

「庄助にも一緒に入れと言えやあ」怒鳴りつけるように言う。

 小鈴は「へいっ」叫び様裏手の西奥の庄助の部屋に走る。親方が一緒にフロに入れやと言っとると伝える。

 久本は小鈴に連れられて、屋敷の裏手北西の方にある粗末な板引きの小屋へ行く。フロ場と言っても、五右衛門風呂で、洗い場に板が敷いてあるだけのものだ。

 親方の正太郎がすでに湯につかっている。

「庄助か、一緒に入れ」

 久本は着物を脱ぐと、小屋の壁の釘に引っかける。恐る恐る入るが熱くて、一気には入れない。

「何やっとるだあ、パッと入らんか」正太郎が久本の肩を掴むと力ずくで湯の中に押し込む。思わず悲鳴が出る。

 正太郎はいたずら小僧よろしく大笑いする。

彼は嬉しいのだ。息子が素直になっって戻ってきた。3日後の婚礼も承知した。これで孫でも生まれれば塩崎家は安泰なのだ。

「何だ、こんな湯ぐらいで、だらしないぞ」怒鳴る声も陽気になっている。

 湯舟の中に、首まで浸かって10分、15分と過ぎる。時計がないので、久本の勘である。普段、久本はカラスの行水で5分と入っていない。

 のぼせ気味になって立ち上がる。

「よし、背中を洗ってやる」正太郎の大きく逞しい体が久本を覆うように立ち上がる。

 風呂場を出ると、板の上にべったりと座る。小屋の片隅から藁の束を手掴みする。久本の背中をごしごしとこする。あまりの痛さに思わず飛び上がる。

「何だ、これしきの事で!」正太郎は力を緩める。

「こんな生っちょろい体をして、だしかんぞ」

 正太郎は久本の背中を軽くこすりながら言う。久本はびっくりする。

闇に近い暗さだ。相手の輪郭がぼんやりと見える程度だ。肌の色まで識別できない筈だと思った。それにもう1つ、自分が庄助でないことを気付かれたかと思ったのだ。

 もしそうなら、この屋敷から叩き出されるだろう。そうなったら・・・。

 久本は冷や汗の出る思いで、正太郎の出方を待つ。

「網元の跡取りがこんなじゃ、笑いものになるぞ」正太郎はもっと体を鍛えろと叱咤する。

 正太郎は藁を久本に渡すと、後は自分で洗えと、自分の体をこすり始める。痛くないのか、正太郎は自分の体を強くこすっている。

「おーい。背中を洗ってくれや」外に声をかける。

「へいっ!」小鈴が待ち構えていたように入ってくる。

 小鈴は半裸になると、正太郎の背中をこする。

「思い切り、強うやれや」

「へいっ!」小鈴は全身の力を振り絞っているようだ。

「こればかりは、小鈴でないとなあ」正太郎は気持ちよさそうな声を出す。

「若あ、洗おうかなあ」正太郎の背中が終わると、小鈴は久本に近ずく。

 小鈴の大きな乳房が久本の目の前で揺れる。久本はびっくりして尻込みする。

「ほっとけや、生っちょろい体しやがって!」

 正太郎の声を聴き流して、風呂桶に入る。背中がひりひりして痛い。早々にフロから上がって、自分の部屋に逃げ込む。


 久本が閉口したのは便所だ。屋敷の裏手に設うけられた掘立小屋に、穴を掘って糞甕を埋めて、板を2枚渡しただけのものだ. 尻を拭く紙がないので小鈴に聞く。

「若あ、大丈夫かあ」小鈴は、久本があちらこちらをフラフラと出歩いていて、頭がおかしくなっていると思っている。心配そうに久本を見詰めて言うには、そこいらじゅうに生えいる草をむしって拭くのだという。


 夕食は塩崎家の当主が座についてから始まる。その左右に妻のうめや、庄助=久本が居並ぶ。塩崎家の者が板の間の上座に座った後、左右には、船頭や塩崎家の屋敷内を取り仕切る番頭が座を占める。彼らは魚の仲買人との交渉から、衣類や日用品、舟の備品などの購入を任せられている。彼らの家族も同席。

 玄関を入った土間には、網子、塩崎家の下男下女などや、彼らの家族も夕食に招かれる。

 食膳が出るのは正太郎やうめ、庄助のみ。後の者は土器に盛られた麦飯と、魚や野菜などの土器が板の間や土間の上に置かれる。


 正太郎が座につく。「みんな、そろったかや」

 正太郎が家中を見回す。灯明があるのは、正太郎の側のみ。土間の中央では焚火がたかれる。

「へい!」一同が和する。

 正太郎が箸を取るのを合図に、夕食が始まる。久本が驚いたのは、食事の速さだ。少々固い麦飯なのに、皆飲み込むようにして食べる。飯は2膳まで。魚などは骨を取って身だけを食べるような食べ方ではない。魚は時間をかけて煮てあるので、骨も柔らかくなっている。頭から丸ごと、口に放り込んでいく。

久本も真似をして食べてみたが、顎が痛くなってくる。骨も久本の歯ではこなしきれない。やむなく、身だけ取って食べる事になる。

 塩崎家の家族が食べ終わるまでに箸をおかねばならないので、皆必死になって黙々と食べる。

 朝は陽が登ると同時に仕事が始まる。男達は船で漁に出る。老人、女、子供は網を繕ったり船の手入れをしたり、貝や青さを取ったりする。朝食は10時ごろ。家族持ちは与えられた家で家族と食事。独り者は塩崎家で朝食となる。

 早食いで、驚くほどよく食う。

 昼食はない。陽が沈むと同時に仕事が終わる。夕食後塩崎家で働く者や独り者が順にフロに入る。大人4~5人がは入れる程大きい五右衛門風呂で薪は豊富にある。井戸もフロ場と庄助の部屋との中間にある。

 時々、鯨が伊勢湾に入り込む。そんな時は知多半島内の網元が総出となる。

 また豊漁や、大野村の竜神祭、正月の祝いなどは夕方から明け方まで飲み食いのどんちゃん騒ぎとなる。

 普段の日は夜が早く、朝が早い。夕食が終わり、1時間ぐらいすると、辺りは死んだように静かになる。

 明かりは菜種油の灯明のみ。ローソクは高価で、寺院や神社、豪農や大きな商家のみで使用される。

灯明も30分もすると燃え尽きてしまう。暗闇の中で人々は死んだように眠る。久本はまんじりともせずに、長い夜を過ごす。

 朝、久本は7時ごろに眼を覚ます。起きて顔を洗っても何もする事がない。浜辺で網の繕いを見たり、その辺をぶらつくしか能がない。相撲取りのような小鈴が、無愛想な顔で久本の側についている。遠くに行かせるなとの正太郎の厳命で、屋敷の近くを歩く事しか出来ない。


 当然のことながら大野駅は存在していない。駅前の商店街も幅2メートルの道しかない。地面も砂浜で覆われている。瓦葺きの家は塩崎家や小倉神社、海音寺など少数である。東大寺に使われた瓦が常滑で焼かれたとの古記録があると聞いた事があるが、一般に普及するのはもう少し先のようだ。

 ほとんどの家は板葺きで、石を載せただけのものだ。

 恩波楼のあるあたりから県道へ出る道は門前町と呼ばれている。寺とは海音寺の事である。道の両側と、県道沿いは大野村の唯一の商店街である。店の間口は1間か2間ぐらいしかない。土間の上に莚を敷いて、その上に品物を並べただけのものだ。店の奥は萱で間仕切りしただけの寝床のようだ。

 色々な店が並んでいる。

魚や野菜を売る店。針や釘などの金物を扱う店。鍛冶屋もある。鶏を飼って、客の求めに応じて鶏を絞め殺す。血を飲ませたり、鶏肉を売ったりする店。酒屋もある。樽をおいて、土器一杯いくらで売る。

 塩崎家の南東の方角に矢田川が海に入り込んでいる。久本の時代の川は、川の両側が堤防で、水も淀んで泡を吹いている。

 今、目の前を流れている川は、川幅も広い。水もきれいで魚も手づかみ出来る程多い。子供達の格好の遊び場となっている。子供達は皆、真っ裸である。

 大野駅のある東側一帯は矢田川を挟んで、田や畑が拡がっている。所どころ部落が密集している。稲穂が黄金色に色ずく季節である。この年は豊作のようだ。百姓達の表情も明るい。


 2日後、庄助は花嫁を迎える。

塩崎家一生一代の祝い事である。その日は昼から漁は休みとなる。塩崎家の使用人や縁のある者が総動員で、屋敷の掃除やら、酒の肴、料理の用意、浜に薪を積み上げたり、茣蓙を用意したりする。

鉄の大鍋が並べられる。大人も子供も忙しく働いている。肝心の久本は部屋の中でぽつねんとしている。小鈴も駆り出されている。

 新聞もなければテレビもない。外の情報と言えば、仲買人だけ。それに富山の薬売りや、小物を売り歩く商人のみ。暇をつぶす喫茶店もない。本などあろうはずもなく、退屈しのぎに浜に出てみる。

 十数艘の伝馬船が浜辺に係留されている。天気も良く暑い日差しが眩しい。おすそ分けを頂こうと、近隣からも人が集まっている。

「若あ、おめでとうさん」久本を見るなり、声が飛んでくる。褌姿の男達は大鍋を浜に並べたり、薪を山積みにしたりで、あちらこちらで松明の用意も進んでいる。

 陽が沈みかかる頃花嫁とその家族が到着する。常滑村からここまで2時間かけて、籠でやってきたのだ。花嫁の籠はそのまま屋敷に運ばれ、花嫁の支度部屋に入る。花嫁の家族も一緒だ。お茶などが差し入れられるものの、塩崎家の者とて入室は許されないようだ。

・・・どんな人だろうか・・・好奇心があるものの、久本も花嫁の姿を見る事は叶わない。

「若あ、そろそろ、支度せにやあ」小鈴が太い腕で久本を抱え込むと、どしどしと音を立てて部屋に引きずり込む。

 部屋にはすでに灯明が点じられている母親のうめや年老いた2人の女が、久本が入ってくるのを待っていた。

「若、そろそろだでなも」年老いたと言っても、まだ60ぐらいなのだろう。塩崎家の番頭の嫁である。うめはすでに黒装束に身を固めている。喪服姿に似ているが、生地は木綿である。3人とも後ろに髪を束ねただけで、2人の女は白い着物に身を包んでいる。

 3人の表情に喜びがあふれている。灯明の光も、見慣れてくると、暗い感じがしない。

「小鈴、庄助をフロに入れや」うめは部屋の外の小鈴に命令する。小鈴は久本をフロに入らせる。藁で体中をこする。痛いが我慢する。フロから上がると、部屋に入り、3人の女から、紋付袴姿にさせられる。それも豪華な物ではない。木綿の粗末なものだ。

「ええか、塩崎家の恥になるような事はするな」

 うめは足から頭まで我が子の晴れ着姿に眼を通すと、子供でもあやす様に言う。

「呼びに来るから、待っとれや」言い捨てて3人が出ていく。久本はまんじりともせずに部屋の中で横になる。

 久本は昔と今とでは時間の概念が違う事を知った。

何もせずに1時間も待たされるのは辛い事だ。しかし昔の人は、2時間も3時間も待つことになれている。

 2時間立ち3時間たっても誰も呼びに来ない。久本は袴の尻をはしょって便所に駆け込む。それしかやる事がない。

9時か10時頃だろうか・・・時計がないので大体の見当をつける。この世界に来て3日しかならないが、時間が大河のように、実にゆっくりと過ぎていく事だ。それに比較すると現在は小川の流れのように急激だ。

 何もせずに灯明だけを頼りにして横になっているのは、久本には拷問に等しい。頭の中は目まぐるしく動いている。自分の世界では、久本が行方不明になって大騒ぎしているに違いない。


 海音寺の鐘の音が亥の刻を知らせる。夜の11時だ。

「若、用意はいいかね」こざっぱりとした小鈴が顔を出す。

 久本が屋敷の板の間に出ると、綿帽子を被った花嫁の姿があった。白無垢装束と言えば聞こえはいいが、木綿の粗末な衣装だ。粗末と感じるのは、久本の時代感覚からで、水飲み百姓や地下人などは、一生に一度でもこのような衣装の袖を通す事さえ叶わない。

 庄助の父と母は、この日ばかりは紋付袴姿である。正太郎は髭を剃り落として、神妙な顔付である。

「用意はええかな」顔中深い皺を刻んだ2人の番頭が声をかける。正太郎は頷く。

 2人の番頭が行列の先頭に立つ。

「お成りじゃぞ、道を開けい」声を張り上げる。

その後ろに正太郎とうめが続く。次に久本=庄助、その後ろに母親に手をとられて花嫁が従う。花嫁の後ろに花嫁の父が寄り添う様に歩く。彼らの後ろに、塩崎家、花嫁の親戚縁者が従う。行列は静かに玄関を出る。

 板囲いの回りや浜辺には近隣から多くの人が集まっている。あかあかと焚かれた篝火が点在している。潮騒の音も混じって、幻想的で、怪しい雰囲気が漂っている。番頭の前に、2人の若者が松明を持って声を張り上げている。

「お成りじゃ、道を明けい」声と共に沿道の人群れが、左右に道を開ける。行列はゆっくりと進む。海音寺の正面前まで来ると、行列は大野駅の方角、県道の方へ向きを変える。道の所どころ、4~5メートルおきに、松明を持った男達が行列を見守っている。

 小倉神社まで約5百メートル、ゆっくりと時間をかけて進む。松明を持って佇む男達の後ろにある店は閉まっている。どの店も日が沈み、夜の帳に包まれる頃には店じまいをする。行列の後ろには塩崎家の使用人や縁のある者も従うので、列が乱れがちになる。行列を整えながらゆっくりと進むのだ。

・・・テレビの時代劇のような、夜遅くまで店を開く居酒屋など、ここでは想像できない。早飯、早起き、早糞、早寝、とにかく食うはびっくりするほどよく食う。梅干し1つで飯が2杯も3杯も入っていく。自分の世界では考えられない・・・

 亀のようにのろい行列の中で、久本はそんな他愛のない事を考えていた。

 この世界から抜け出す事は不可能だろう。こうして歩いている最中にも本物の庄助が現れるかもしれない。そうなったら、ひっくり返るような騒ぎになるのは必定だ。その時自分はどうなるのだろうか。今は庄助が現れないことを願うしかなかった。


 大野村随一の網元、塩崎家の婚礼とあって、沿道は群衆で埋まっている。篝火がゆらめくたびに、人の顔の陰影が揺れる。影の濃い表情が幽鬼のようにおぞましく映る。地の底から物の怪がはい出てきたような妖気さえ漂う中、行列は実にゆっくりと進む。

 若者や子供は斬髪頭が多いが、老人などのちょんまげ姿も目に付く。

「おらあ、常滑からきただがや」ぼそぼそと囁き合う声が漏れてくる。常滑から歩いてどれくらいかかるのだろうか。1時間や2時間は時間の内に入らないのだろう。

 4~50分かけて、ようやく小倉神社に到着する。境内は平成に時代と比べて10倍は広い。

 久本の時代は大野駅が出来て、線路に土地を取られたリ、道路の拡張などで、小倉神社の境内地は車が数台駐車できる広さしかない。

 久本たちが到着した境内地は鬱蒼たる樹木に覆われて、闇夜のせいもあろうか、森閑としている。塩崎家から小倉神社まで約1キロ、松明が延々と続く。今日ばかりは境内地の入り口辺りまで近隣から集まった群衆で埋まっている。

 この日を婚礼に選んだのは新月だからだ。

 後々、久本が小倉神社の神主から聞いたところによると、月に神様がいて新月の夜だけ地上に降りてくるという。だからこの日の夜に、祝い事をすると神様に祝福されるのだ。

 神主は海音寺の和尚と同様、村では数少ない知識人である。村で揉め事が起こると、和尚や神主に間に入ってもらう。彼らの言葉には重みがあり、大抵の揉め事は解決する。

 神主は言う。

――明治大帝は天皇陛下と申し上げるのであって、決して天皇ではない。

 天皇とは、道教の神様で、天皇、人皇、地皇の内の1人で、月にいます神様なのだ。アマテラス信仰にみられるような、太陽神ではない。

 天皇陛下というのは、月の神様とこの地上を結ぶ御方つまり巫女を言う。

 何々天皇というのは、天皇陛下がお隠れになった後の呼称、諡である。よって存命中なのに、明治天皇と申し上げるのは甚だ礼を失する事だ。

 伊勢神宮で20年に1度の遷宮を闇夜に行われるのは、ご神体に対して畏れ多いからではない。月の天皇が地上に降臨されるという道教の教義からきている。

 神道は道教の教義の上に成り立っていると――。

 とにかく、結婚式は月のない夜に行うのが正当だと、神主は強調する。


 拝殿に登るのは花嫁、花婿とその両親。その他の者は拝殿前に額ずく。久本は拝殿の階段を登りながら、ちょっと後ろを振り返る。下駄を履いているのは自分たちだけだ。他の者は藁草履か裸足だ。

 境内には篝火がたかれて、赤々と燃え盛っている。鳥居から先、境内地に入れるのは行列に従った者のみ。

 別棟から白装束に身を包んだ神主が榊を持って現れる。

一同の者が深々と頭を垂れる。神主は榊を左右に振る。お祓いをすますと、神殿に向かう。周囲は物音1つしない。

 静寂の中で神主の声が朗々と響く。

――かけまくも畏き、伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に――祝詞が30分以上続く。正座の格好で90度近い角度で体を折り曲げている。背骨が痛くなるし、足が痺れてくる。

・・・早く終わらないかな・・・久本は花嫁の姿を盗み見る。綿帽子が見えるだけで、花嫁の顔は判明しない。人形のようにじっと動かない。 

 久本のしびれが切れかかった頃、ようやく祝詞が終わる。

ぱーん、ぱーん、神主の打つ柏手が闇に響く。

 拝殿に奉納された酒樽から、土器にお神酒が継がれる。まず久本が飲み干す。その土器で花嫁が、次に塩崎正太郎とうめ、最後に花嫁の両親が飲み干す。

 三三九度の盃はないようだ。

「おめでとうございます。これで塩崎家、遠藤家、御両家のご縁が結ばれました」神主が声を張り上げる。

 お神酒は境内地の両家に縁のある者1人1人に土器が配られ、分け与えられる。

 小倉神社を出ると行列は普通の足取りで塩崎家まで帰る事になる。道端の群衆には塩崎家で作った餅菓子が配られる。

 屋敷の中の板襖は全部取り省かれている。仏壇のある畳のある部屋も、正太郎夫婦の寝室も客間として利用される。

 花嫁、花婿、とその両親が仏壇の前に正座する。海音寺の和尚が、両家の結びつきをご先祖様に報告。お経が流れる。神主の祝詞と違って5分ぐらいで終わる。和尚は酒をふるまわれる。

「般若湯、般若湯」和尚は土器の酒をぐっと一気に飲み干すと、大声をあげる。

「ワッ!」という歓声が屋敷の内外から上がる。

 屋敷の周りはお祭り騒ぎのよな熱気に包まれる。和尚が席を外す。花嫁と花婿は仏壇を背にする。

ここではじめて花嫁の綿帽子が、塩崎うめの手で取り省かれる。花嫁は晴れて塩崎家の一員となる。

「塩崎家の皆さま、不束者ではありますが、いねをよろしくお願い申し上げます」

 花嫁の父が声を張り上げる。花嫁のいねと両親はそろって深々と頭を下げる。

「ワッー」という歓声が上がる。

 この時初めて久本は花嫁の顔を見る。とりたたて美人という程でもない。丸顔で眼が細い。眉が濃く、表情のない顔をしている。


 正太郎が立ち上がる。

「皆の衆、景気よう、やっとくれや」腹の底に響くような声に、熱気が一気に高まる。酒や肴がふるまわれる。道路に群がる人も浜辺にいる人も、朝から集まっている。5時間や6時間待つ人もざらにいる。それだけに酒がふるまわれる時刻になると、あちらこちらから、わあわあという歓声が盛り上がる。

 久本の手に土器が渡される。花嫁は久本と向かい合うと軽く頭を下げる。徳利を大きくしたような土器をささげて久本の土器に酒をつぐ。このときはじめて2人の眼が合う。

「久しゆう沿わせていただきます。よろしゆう」

 花嫁ははっきりとした口調で言う。久本への口上がすむと、塩崎正太郎、うめに塩崎家の一員になった礼を述べる。

花嫁の挨拶がすむと、塩崎正太郎、うめは、花嫁の両親に盃を勧める。久本にも挨拶するよう促す。これで塩崎家、遠藤家は結びつきを固くする。

 遠藤家は常滑郷の庄屋で豪農である。尾張藩に瓶や甕、壺などを納める窯元でもあった。明治以降、陶器の酒瓶などの製造に精を出している。両家の結びつきはお互いが経済的基盤を固める上で役立っている。


 「おめでとうさん!」

屋敷の内も外も歓声が上がる。

「飲め、飲め、腹いっぱい飲めや!」威勢の良い掛け声が、熱気を高める。塩崎家の下女や手伝いの女達は酒だるを運び出すのに大わらわである。

「無礼講じゃ、無礼講じゃ」誰かが叫ぶ。

「そうだ、無礼講だあ」あちらこちらから和する声が飛び交う。身分の上下の別もない。土間にいる者が板の間に上がり込んだりする。

「酒だ、酒持ってこい」罵声のような声が上がる。

女達が目の色を変えて走り回る。

「座興じゃぞ、座興じゃ」2人の若者が花嫁花婿と向かい合う様に板の間の中央に入ってくる。1人は赤、1人は白の褌を締めている。赤い方がすり鉢を、白い方がすりこ木を持っている。

「やれ、やれ」酒が入っている人々の眼は燃えている。2人を取り囲むように輪をつくって、その所作を見守る。

 すり鉢を持った男は身をくねらす。白褌の男はすりこ木をすり鉢に突っ込もうと、大袈裟な身振りで突っかかって行く。赤褌の若者は突っ込まれまいとして、あられもない声を出して、悶えるように避ける。その度に歓声が上がる。

 そんな所作がしばらく続く。やがて、すりこ木の男はすり鉢をむんずと掴む。つかまれて、赤褌の男は卑猥な悲鳴をあげる。世にもあられもない表情をする。その動作がおかしくて、爆笑の渦が巻き起こる。

 白褌の男はすりこ木を腰に当てると、すり鉢めがけて激しく腰をふる。

「いけや、いけや!」白熱化した興奮に包まれている。

 すりこ木を持った男は2回3回とすり鉢をつつく。

「やめて、お願い・・・」赤褌の男は身悶えする。

「おい!」声と共に、すりこ木がすり鉢をつく。すり鉢がぱかんと2つに割れる。

「あう!」すり鉢の男はわざとらしく苦悶の表情を見せて、身をよじらせる。

「わあ!」男も女も手を叩いて大喜びする。正太郎は大口を開けて笑いこけている。花嫁は眼をしばたたいて見ていたが、真っ赤になって俯せてしまう。

「若あ、しっかりなあ」声が飛ぶ。

「ひいひい言わせたらな、あかんぜ」代わる代わる久本に盃を勧める男が、笑いながら大声を出す。ほとんどの者は褌姿に、半袖の袷のような着物を着こんでいる程度。男も女も逞しく日焼けしている。

 久本は酒は好きだ。飲めば5合はいける。現在の化学工場みたいなところで造られた酒とは違う。とろりとして旨い。

 花嫁の父や親類縁者は庄助の父に勧められて、盃をぐいぐい開けている。この日ばかりはと押し込むように盃を傾けている。5合1升は簡単に平らげる連中ばかりだ。

 腹の底から笑い、板の間を踏み外す者、かっぽれを躍るもの、陽気な熱気がぷんぷん漂ってくる。この日ばかりは我を忘れて婚礼の宴会を楽しんでいる。


 毎日、日の出と共に起きて働く。陽が沈むまで身を粉にして体を動かす。楽しみと言えば食べる事と寝ることぐらいだ。平成の世とは比較にならぬ程厳しい生活を強いられている。

 大野村の竜神祭や豊漁の日の振る舞い酒、秋の祭り、正月などの年に数回ある程度の行事をはぶいては、アリのように働きづめなのだ。盆と暮れに支給される衣類や米味噌を買う銭が渡される。それが唯一の楽しみなのだ。

 小間使いや下女などは衣類や日常の用品が支給されるだけだ。他に何もない。1日に2度のおまんまににありつけるだけでも有難いのだ。

 久本はしたたかに酔う。側にいた花嫁とその母親、血縁関係の内の女達が消えている。彼女達は早々に自分の部屋に引きこもっているのだろう。

 花嫁の両親とその親戚の者たちは夜が明けると共に常滑郷に還らねばならない。1日の辛い仕事が待っている。


 宴会は夜を徹して行われる。近郷から浜辺に集まった百姓衆や物売りが焚火の回りに群がっている。彼ら1人1人にも酒や肴がふるまわれる。時が過ぎるに従い、乱痴気騒ぎのような喧騒があちらこちらで起きる。それでも、夜中の2時や3時になると酔い潰れて寝込む姿が多くなる。

 東の空が白々と明け始めると、1人また1人と去っていく。後に残るのは、焚火の燃えカスと、酒の樽、食べ散らかした魚の滓なのだ。

 陽が登るにつれて、近所の女、子供達が拾い集める。樽などは家に持って帰る。薪の燃えカスのなども煮炊きの材料に使われる。棄てる物は何もない。


 久本が2日酔いで頭をかかえて起き出したのは昼近くだ。外に出て日の高さで大体の時刻を推測する。

浜辺ではすでに子供達、老人がいつものように、舟の修理をしている。

 屋敷に帰ると、母のうめと妻になったいねが待っている。

「今日からお前の嫁だぞ」

 丸顔の稲は細い眼を見開いて、床に正座して両手をつく。「ふつつか者ですが、今日からよろしく」

いねはうめと同じく、髪を後ろに束ねている。半そでの膝頭までしかない野良着姿である。彼女は日の出と共にうめと働いている。

「お前たちの部屋を奥の部屋にするからな」うめは自分達は屋敷の西にある別棟に移るという。

 陽が落ちる。風呂上がりの後、塩崎家一同が夕食を摂る。夜の時間は長い。夫婦2人だけの時間はたっぷりある。いねは久本に寄り添う様にしているが、無口で殆どしゃべらない。久本が話しかけても黙って聞いているのみ。

 いねは庄屋の娘だが、他の百姓と同じような辛苦をなめねばならない。特別扱いは許されない。

 12月に入る。いねが懐妊する。出産予定は来年の夏。塩崎家の喜びは言葉では言い尽くせない。正太郎は男の子が生まれるようにと、海音寺や小倉神社に願掛けする。

・・・自分は種付け馬なのだ・・・久本は割り切って生きていこうと考えている。この世はズボラな久本の性に合っている。朝7~8時頃に起きても誰も文句は言わない。いねは家事をしながらも、かいがいしく久本の面倒を見ている。初めの内、便所の臭さには閉口したが、慣れてくると何とも思わなくなる。

 酒も食事もおいしい。麦飯もよく噛んで食べれば甘みがある。

 冬に入って海の荒れる日が続く。そんな日は漁は休みとなるが、家の修理や板囲いの補修に精を出す。休む者はいない。西から吹き晒す風が冷たく、体力のない久本にはきつい冬場となる。部屋には炬燵や火鉢のような結構なものはない。代わりに綿入れを着る。

 冬でも風がなく、暖かい日和が続くことがある。船は総出で海に繰り出す。修理中の伝馬船を拝借して、久本は櫓を漕ぐことを覚える。何もせずに家の中にいると体が鈍ってくる。厳しい冬を乗り切るには櫓を漕ぐのが一番だ。

「若あ、もっと腰を使かわにゃ、若奥さあが喜ぶで」

あけすけな冷やかしも今は苦にならない。

 天気が良く、波が穏やかな日は1時間は漕ぐ。

 お陰で足腰は丈夫になり、筋肉が盛り上がってくる。日に焼けて男らしくなる。久本のそんな変貌ぶりを、正太郎は眼を細めて喜んでいる。

 久本がこの世界に来て驚いた事がいくつかある。

 浜に住む者は皆体力がある。時化の日などは風も強いし波も高い。雪の降る日には氷を踏むような冷たさになる。それでも半袖の袷のような着物1枚のみで、大股むき出しの姿である。手足の指はあかぎれになって、痛々しく見えるが、平気で氷水に手足を突っ込んだりする。これでよく風邪をひかぬものだと感心する。

 次に、汚い話だが、肥溜めの糞尿がいっぱいになると、近隣の百姓が大八車に肥桶を乗せて汲みに来る。

 お礼金でも出すのかと思ったら、向こうが銭を置いていく。小銭がない場合は野菜か麦をお金の代わりとする。だから、誰も立ち小便したり、野糞をしたりしない。そんなことをすると「勿体ない事をするな」と叱られる。

 無駄なものは何も無いのだと、久本は感心させられる。

年2回支給される衣類とても、ほとんど生地のままだ。女達がそれで衣服を縫うのである。一着で何年も、あるいは一生使う。


 暮れから正月にかけて、塩崎家では総出で餅を搗く。

 小倉神社に鏡餅を奉納する。海音寺の除夜の鐘を合図に飲めや歌えやの乱痴気騒ぎとなる。この場合の正月とは旧暦の2月3日を言う。

 体も丈夫になり、久本の酒量も他の使用人とひけをとらなくなっている。

「親方あ。若あ、立派な跡取りになられますわなあ」酒を勧められながらお世辞を言われる。正太郎のいかつい顔も、恵比寿大黒のように、にこやかになる。

 春になる。いねのお腹も目立つ様になる。大事をとって、いねは家事の仕事から遠ざけられる。いねの身の回りの世話を小鈴がするようになると、久本は元いた自分の部屋に引き移る。夜の秘め事は当分ご無沙汰となる。

 同時に、1人の娘が塩崎家に雇われる。久本の世話をするために、野間からやってきた。

 小娘の名は菊。18歳というものの、身体は小さく、痩せていて、どう見ても13,4ぐらいしか見えない。

 彼女の姉が遠藤家の小作人の所に嫁いでいる。その姉から遠藤家に、妹を使ってくれまいかとの依頼があった。遠藤家はいねのおめでたが近い事を知っている。当分の間、いねは若旦那の世話は出来まい。そう思って若旦那の身の回りの世話に下女を1人雇ってはくれまいかと塩崎家に頼み込む。塩崎家としては遠藤家の願いとあっては、無碍に断れない。引き受ける事になる。

 小作人に子供達は14歳くらいで奉公に出る。早い者で10歳くらいの子もいる。18歳と言えば嫁に行く歳である。

 菊の父はつてを頼って、あちこちと嫁の話をお願いしてきたが、菊は体が小さく、見るからに脆弱な体つきをしている。嫁に迎えても、ものにならぬと断られる。

 菊が18になるまで過ごしたのは、亡き母の看病のためだった。彼女の母は体がすぐれず病弱で、菊の手を借りて生きてきた。3ヵ月前に亡くなる。残ったのは菊と父、2人の兄である。

 21歳になる長男は近々、嫁を迎えるが、食い扶持を減らすために、菊を奉公に出す事になった。

 菊が塩崎家にやってきたのは、旧暦の2月下旬である。

野良着姿の父親に連れられて、つぎはぎだらけの野良着を身につけただけの菊は、垢にまみれて泥まるけの格好をしていた。

 野間から大野まで歩きずめで約4時間、早朝に家を出て着いたのが10時前後。丁度塩崎家の朝食の時間で、菊と父は椀に一杯の飯を振舞われる。余程の空腹だったのか、2人は餓鬼のように貪り食う。

 食事も終わる。父親ははいつくばるようにして、正太郎に頭を下げる。

「娘をよろしゅうお頼み申します」


 菊は父親と並んで頭を下げている。

「菊というのか、これからは庄助の身の回りの世話をせいや、遠藤家の顔に泥を塗るような真似はするなよ」

「へえ」菊は小さいがしっかりとした声で答える。

「菊、ここに置いてもらうだけでもありがてえと思えや。しっかりと奉公するんだぞ」

父親が娘に言い含めると早々に帰っていく。

 うめが土間に蹲る菊を立ち上がらせる。

「汚ねえのう。体洗ったかや」

菊は恐る恐る大きな眼でうめを見上げるとかぶりをふる。

「おい、誰か、湯を沸かせ」うめが奥の台所に声をかける。

 台所の裏手で、下女達が菊を素裸にする。がりがりに痩せてはいるが、白い肌が生々しい。藁の束で菊の体をこする。髪も洗い、後ろに束ねる。新しい野良着が与えられる。

 久本は菊を見て心がときめく。どう見ても14,5の少女の体つきだが、百姓の娘とは思えぬ程色白で瓜実顔をしている。磨けば器量よしになる。

 体をきれいにした後、菊は久本といねの前に座る。

「菊、ここに置いてもらえるだけでも有難いと思えや」

 日頃無口ないねがしっかりとした口調で言う。塩崎家の若旦那の嫁としての貫禄を身に着けたいねは、大きくせり出したお腹をさすっている。

「へえ」菊はカエルのように這いつくばる。


 朝寝坊の久本は陽が昇ってから起きる。板戸を開けると菊が畏まっている。久本が顔を洗い、口を漱いでいる内に、久本の部屋の後片付けをする。

 朝食は10時。

 塩崎正太郎は網子や番頭からは親方と呼ばれている。彼らは所帯を持つと、住まいを与えられる。収穫の内、一定の割合で魚を貰うのが原則だが、正太郎の時代には銭で支払われるようになっている。

 独り身の網子は朝夕の食事が与えられ、衣類などの日用品も支給される。銭は盆と暮れぐらいしか懐にする事が出来ない。

 朝食は板の間と土間で行われる。板の間に座れるのは独身者で、年季の入った者だけだ。その他は下女と一緒に土間で食を摂る。

 親方や若旦那の食事が終わるまでに食事を終わらねばならない。皆の気持ちを考えて、正太郎はゆっくりと食べる。

 菊は台所の上り框の隅の土間で飯を食べている。

彼女の眼は久本を見ている。久本もそれを承知している。十数人いる使用人の1人1人に眼を配る。菊と眼を合わせて、ゆっくりと箸を運ぶ。

 菊が来てから、久本の気持ちは一変している。無味乾燥ないねよりも、いじらしくも、必死な思いで久本の身の回りを世話する菊の方が可愛くてたまらない。

 日中は菊を連れて、外を出歩いたり、伝馬船に乗って過ごす。櫓を漕ぐ時間も1時間から2時間3時間と長くなる。おかげで久本は海の男らしくなる。

 菊は久本の部屋の外で、正座して、彼が寝入るまで待っている。旧暦の2月とは言っても節季は春分前後である。昼間は少し陽気さが戻っているが、朝晩の冷え込みは厳しい。半袖の、太ももを露わにした着物一枚だけの格好だ。久本は菊を部屋に引き入れて、酒の酌をさせる。10帖の部屋は1人でいるよりも多少暖かくなる。

 菊が来て2ヵ月がすぎる。新暦で4月の頃だ。春も陽気になる。海の荒い波も穏やかな日が続く。波打ち際は瑠璃色の波にあらわれる。青い海はそのまま飲料用の塩水として利用できる程澄んでいる。

 

 久本はうめに呼ばれる。

「菊ともう寝たかや」

久本はびっくりする。そんなことをしたらいねが怒るだろうと思っている。それに菊は18とはいうものの、痩せて抱く気にはなれない。久本は首を横に振る。

「早う、子供をつくれや」久本は2度びっくりする。

 うめの言い分はこうだ。

 菊と寝る事は菊にとっても本望なのだ。子供を身ごもれば、菊も塩崎家の一員となる。経済的に保障され、野間の彼女の実家へも何かと援助の手が差し伸べられる。

 血縁者は1人でも多いほど、身内の結束も固くなる。

 子孫が残せないと、家は途絶してしまうおそれがある。

いねのお腹の子が将来無事に育つという保障はないのだ。旦那衆が女を囲うとは、甲斐持ちといわれ、誇りとされる。

 久本は自分の時代とはずいぶんと次元の違う考え方をするものだと知る。妻以外の女と寝るのは不倫ではない。むしろ奨励される事なのだ。もっともこれは、旦那衆に限られるという条件付きだが・・・。


 そういわれても久本は菊の痛々しい体を抱く気にはなれない。

 それに・・・。菊の白い顔を見て思う。

 久本の一挙一動を必死になって見守る菊を哀れと思う。

久本の機嫌を損ねると野間に帰される事になる。困るのは菊の父や兄たちだ。ただでも少ない食い扶持が一層少なくなり、生活が苦しくなる。

 久本が菊を優しくすると、小鈴がたしなめる。

「若あ、菊は小間使いなんだよ。他の女達に示しがつかないから、びしっとやってくれよ」

 菊を人間扱いにしていない。道具として扱っている。うめもいねも正太郎もみなそう信じている。病気にもなれば里に帰されるが、里から引き取れないと言われるとそのまま打ち捨てられる。少しの風邪ぐらいで寝込む事は出来ない。寝込んでも誰も相手にしてくれないのだ。

 菊もその扱いには慣れている。生まれつきそう育てられているからだ。若旦那に優しくされると、一番つらい思いをするのは菊本人だと知った。

 食事に最中、久本は注意をして菊を見る。

 彼女は他の使用人に遠慮して、椀一杯の飯と少しの漬物とおかずを摂るのみ。育ち盛りなのに、空腹に耐えている。その上早朝から夜遅くまで働く。小鈴がいねの身の回りの世話をするようになって、フロに水を入れたり、風呂の湯を沸かすのも菊の仕事となっている。仕事がきつい筈なのだが、菊は仕事がもらえたと、むしろ嬉々として働いている。

 久本はいつしか菊に心を惹かれるようになっている。


 春4月,清明の季節になっても海から吹き募る風は身を切るように冷たい。冬から春にかけて、誰しも手や足はひび割れて、あかむけしている。塗り薬などある筈もない。菊の手足は、フロの水くみで特にひどい。

 ある夜、久本は菊に酒の酌をさせていた。

「菊、側に来い」菊を抱き寄せる。菊は人形のように久本の側にすりよる。久本は綿入れを拡げて菊を入れる。夜の寒さはまだきつい。

「どうだあ、ちったあ暖かいか」

 菊は真っ赤になり顔を伏せている。これから起こるであろう行為に、恥ずかしさがにじみ出ている。

「菊、俺はまだお前と寝んぞ、もう少し大きくなってからだ、判ったな」

 菊はうるんだ大きな眼で久本を見上げる。意味が判ったのだろう、こくりと頷く。

「手を出せ」久本は菊の両手を自分の胸に差し入れる。身を切るような冷たさが全身に滲みる。菊はびっくりして手を引っ込めようとする。

「引くな、俺の命令だぞ」菊の小さな口を開けさせ、酒を飲ます。

「あつい・・・」菊の口から吐息が漏れる。肴も口に含ませる。菊は辞退しようとする。

「叱られるだ」眼がおびえている。

「ここは2人だけだ。何も言うな」

 久本は無理に口に押し入れる。菊は飢えているのだろう。噛みもせずに飲み込もうとする。

「よく噛め」久本は菊を思い切り抱きしめる。

 この世界に来て、久本は本当の幸福を掴んだと思った。本物の庄助が現れないことを願うのみだった。

 新暦は旧暦よりも約一ヵ月ばかり早い。旧暦の4月は新暦の5月に当たる。海音寺の和尚は暦については誰よりもよく知っている。

 立夏の季節(新暦5月)ともなると、朝晩の寒さも緩んでくる。菊の表情のも余裕が見え始める。他の下働きの女達とも打ち解けて、おどおどとした顔つきが消えている。久本が秘かに酒の肴を与えているので、体力的にも菊は大人びた感じになっている。

 朝1時間ぐらい櫓をこぐ。朝食後しばらく横になる。いねのお腹がだんだんとせり出してくる。彼女は久本が菊と過ごしていても何も言わない。むしろ、菊と寝て子供が出来るのを期待している風さえ見える。

 便所の臭いのも気にならなくなっている。この世界は久本にとって極楽みたいなところだが、テレビや新聞、喫茶店のような娯楽施設がないのが物足りない。菊が側にいてくれるだけが唯一の楽しみとなっている。

朝食後、寸時の仮眠後、菊を連れてあちらこちらを歩くようになる。一度は自分が住んでいた久米村にも出かけている。ゆっくりと歩いても1時間とかからない。


 道は畦道のみで、周りは田や畑、矢田川から水を引いて田植に忙しい時期である。

 当然ながら久本の家はない。久本は亡父からご先祖は高浜からやってきたと聞いている。久米村は戸数50戸程の茅葺きの家があるのみだ。

 平成の時代、諏訪神社やその北側にある光泉寺の付近には住宅が密集している。この時代は数十軒の民家が点在するのみで神社や寺の境内は広々としている。昔は神社や寺を中心として部落が出来上がっている事がよくわかる。

 諏訪神社は小高い丘の上に鎮座している。そこから大野や伊勢湾が見渡せる。鈴鹿の山々がずいぶんと近くに見える。

 陽が頭上に登る頃、神社で水をもらい、握り飯を食べる。久本はうめに菊を抱くには、もっと体力をつけてからにしたいと言って、2人分の握り飯を作らせている。側に控える菊に食べるように勧める。

「いいか、ゆっくり、よく噛んで食べろ」

 菊の顔からおどおどと表情が消えたとはいえ、飯を食べさせてもらうだけの下女には変わらない。一回の食事も椀に2杯と決められている。

 菊は大きな眼で久本を仰ぎ見る。久本が口をつけてから食べる。握り飯は4つある。久本は1つ食するのみ。

 春の日差しは暖かい。菊は小さな口を開けて、麦の飯をほおばる。日差しのせいもあろうか、菊の肌に生気がみなぎっている。

「どうだ、うまいか」久本は菊の口元についた麦飯をとって自分の口に入れる。菊はこくりと頷く。

 どう見てもまだ少女の顔だ。18歳と言えば高校3年生。親に甘えて、パソコンやゲームに熱中する年だ。恋心を抱く年頃で、青春を謳歌し、将来の人生設計の為に、色々と経験を重ねる歳でもある。

 急に、菊は黙りこくったように、食べるのを辞める。

「どうした」飯を喉につまらしたのかといぶかる。みると、菊は大粒の涙をぽたぽたと落としている。

「何か哀しい事でもあるのか」久本は菊の肩を抱き寄せる。


 神社の境内は、鬱蒼たる樹木が茂っている。大きい木には注連縄が張ってある。後の時代のような広場は拝殿の前のみだ。周囲には人影すらない。百姓は田植えに忙しい。握り飯をほうばりながら、のんびりと過ごす事が出来るのも、久本=庄助が塩崎家の跡取り息子であればこそだ。

「若さんが、やさしいもんで・・・」菊は涙をいっぱいためた目で久本を見る。

 久本にはそんな菊がいとほしくてたまらない。いずれ菊と寝る事になるだろう。菊に子供を産ませる事は、塩崎家のためだと教えられているが、久本にはそんな事はどうでもいい。菊が好きだから、寝たいと思っているだけだ。

 久本は菊と寝るのは、まだ1年くらい後でよいと思っている。菊がもっと体力をつけ、女として成長して欲しい。それまでに菊に色々な事を教えこもうと考えている。

「字を教えてやろう」握り飯を食べ終わった後、久本は地面に平仮名をかく。

 菊はびっくりして久本をみる。字が書けるのはお寺の和尚さんか、神主さん、庄屋さんなどの一部の人達だけだ。塩崎家の跡取り息子とはいえ、一介の網元の子供が字が書けるとは思ってもみない。

 久本は苦笑する。字ぐらいかけるが、この事は誰にも話すなと釘をさす。後々、変な面倒を起したくないからだ。

「お前の名前はなあ」久本は地面にきくと書く。

 菊は見様見真似で一生懸命にきくと書く。

「漢字でかくとな」菊と書かれて、菊の眼が輝く。

「これが、おらの名前・・・」

 久本は菊を抱きしめると、歌う様に声を出す。

――10月頃に咲くのが秋菊。12月が寒菊。6月が夏菊。菊は花の大きさで、大輪菊、中輪菊、小輪菊、大輪菊は厚物、管物、掴み菊。一文字、美濃菊、中輪菊は江戸菊、狂い菊、小輪菊は、一重、八重、魚子菊、袋井、肥後菊、伊勢菊・・・――

 菊は眼を見張って、久本の口元を見ている。久本が菊に詳しいのは、父が菊を栽培し、秋の文化祭によく出品して、多くの賞を貰っている。父から菊の事を聞いて育っている。そんなことは知らぬ菊は久本の該博ぶりに驚嘆している。

「菊はさしずめ、野菊の如し君なりしかだな」

 菊は意味が判らずキョトンとしている。久本には菊の無垢な表情がたまらなく好きなのだ。


 春も瞬く間に過ぎる。盛夏に、いねの子供が誕生する。まるまると肥えた男の子で、庄一郎と名付けられる。塩崎家に喜びの声が湧く。

 久本には嬉しいという実感が持てない。

・・・自分はどうせ種付け馬なんだ・・・そんな思いと、自分はこの世のものではない。いつ本物の庄助が現れるかそんな思いが交差している。その上に、いねという妻を愛する気持ちにはなれないのである。

 夫婦としての会話もなければ、情を交わし合う事もない。いねは塩崎家の一員として、他の下女同様に黙々と働くのみ。それがこの世界では当然な事としても、平成の世に生きてきた久本にはもの足りないのだ。

 彼の心を満たしているのは、今や菊のみだった。いつも大きな眼ですがるように見る。久本に嫌われないようにと、必死についてくる。菊には他の下女たちのような、力強さも逞しさもない。目鼻立ちの整った憂いを含んだ表情が、久本には何物にも代えがたいものなのだ。

 産後のいねには相変わらず小鈴がついている。赤ん坊の世話などで、当分の間は夫婦として同衾出来ないのである。

 久本は相変わらず、菊を伴って野や山に出かける。

久本がこの世界に来て1年になろうとする。本物の庄助が現れる気配もない。

 この世は毎日が同じことの繰り返しである。久本の時代のような目まぐるしさはない。生きる事の厳しい時代であった。


 新暦の9月中旬、菊が10月一杯で暇乞いをする事になった。久本にとっては晴天の霹靂である。その理由を菊に問うても答えようとはしない。黙ったまま俯くのみ。

 久本は母のうめに尋ねる。彼女は事も無げに言う。

 菊の実家は、今年不作で年貢を納める資力もない。やむにやまれず、菊を名古屋の遊郭に売ることにした。今ならまだ高い値がつくので、庄屋に借金するよりはましだというのだ。

 久本は呆然とするが、手をこまねいている訳にもいかぬ。

父の正太郎に、菊を買えないかと相談する。

 正太郎は庄助=久本の顔をじっと見る。

「お前がよう、菊のお腹をはらましたってなら、考えん事もないがなあ」

 塩崎家にとって、菊は飯を食わせてやるのが精一杯の使用人なのだ。何かに役に立つのならともかく、フロを沸かすくらいしか使い道がない。大金をはたいて買う程の価値はないのだ。

 明るくなりかけた菊の表情が暗くなる。泣きたくなるのを必死でこらえているのだ。


 数日して人買いが塩崎家を訪れる。

 彼らは小作人や貧しい漁師の家を訪れる。遊郭に売る娘を捜しては、銭で買う。器量の良い娘は高く売れる。遊郭での年季奉公が終われば帰される筈だが10人中9人までが過酷な待遇と、性病などで、5年から6年で死んでしまう。

 むずかる子に――人買いが来るぞ――と叱りつけるとピタリと泣き止む。それ程恐れられ、毛嫌いされていた。

 人買いが来たと聞いて、久本の心は騒ぐが、どうする事も出来ない。

 人買いは菊の品定めをしに来たのだ。

「ごめんよ」人買いは、ザンギリ頭に、半纏を羽織っただけの、眼の鋭い男だった。髪は白くなりかけている。初老という感じだ。

 玄関の土間にずかずかと入り込んでくる。遠慮というものを知らないのか。

「菊って娘はどこだい」台所でたむろする女達をじろじろ見る。

 小鈴が相撲取りのような体で人買いはを見下す。

「あれだ」顎で、板の間で小さくなっている菊を示す。

「どれどれ」人買いは勝手に板の間に上がり込むと、菊の前にどっかと胡座を組む。

「磨きゃ、器量よしになるなあ、こりゃ上玉だわ」

 あたりを憚らす大声を出す。着物の上から菊の体に触る。

「うん、肉付きもええし・・・」

 菊は必死になってこらえている。若い娘が人目も憚らず体のあちらこちらを触られているのだ。

「あそこの具合はどうじやあ、おい足を拡げろや」

 人買いは無理やりに菊の太股を拡げようとする。菊は真っ赤になってあらがう。

「世話をかけるんじゃねえや」ドスの利いた声に、菊は震えだす。

 菊の太股があらわにされようとした時、座敷にいた久本が飛び出す。

「これ以上菊に手をかけるな」

「何しゃがんだ、てめえは!」

 不意を突かれて人買いが立ち上がる。肩をいからして久本を睨みつける。久本も負けずに睨み返す。菊は久本の後ろに身を隠す。

「人買いさんよう、今日の所はこれで帰っちゃくれまいか。この子はよう、10月一杯で野間に返すからよう」

 正太郎が熊のような体を現わす。底引きするような声で言う。低いが、ずっしりとした重みのある声だ。眼がかっと見開いている。息子に手をかけてみろ。ただではおかんぞ、そんな凄みが体中に溢れている。

「まあ、こんだけ見えりゃええは」

 人買い虚勢を張って、土間にぺっと唾を吐く。足音荒く屋敷を出ていく。

「小鈴、塩まいとけや」うめは太った体に不快さをにじませている。

「へい!」小鈴は玄関先にぱっと塩をまく。

 いねは台所で朝食の片付けをしながら夫の仕草を見ていた。彼女は無表情で黙々と働いているが、その目は夫への怒りに満ちていた。

「庄助、ちょっと来い」正太郎は奥の座敷に消える。久本は言われるままに、正太郎の後に続く。母のうめも部屋に入ってくる。

 正太郎は仏壇を背に胡坐をかく。横にうめが据わる。

「庄助、菊の事はあきらめろや」

 正太郎は不肖の息子が可愛い。出来るなら菊のお腹に庄助の子供が宿っていればと願うのみ。

「いねの手前もあるだろうが、馬鹿な事をするんじゃないよ」うめがたしなめる。

 久本は言い訳が出来ない。深々と頭を下げるのみ。この世界では久本は恵まれた境遇にいる。それも多くの貧しい者の犠牲の上に成り立っている。庄屋の娘を貰ったのも、経済的にもっと大きくなれると見込んでいるからだ。

――好いたの、惚れたのは、御法度なのだ――

 久本は自分の無力を責めるしかなかった。


 菊が女郎として売られることが決まっても、久本は菊を連れて、あちらこちらを歩き回る日が続く。正太郎やうめは息子のわがままを見て見ぬふりをする。

 久本と連れ立って歩く菊の顔からは快活さが消えている。女郎の過酷な運命は人づてに聞いていて、菊も知っている。地獄のような環境に突き落とされるのも、後数週間に迫っている。

 1ヵ月ぐらい前から、久本は青海山に登っている。山というよりも丘に近い。ここから見渡す海は青々としている。

 久本は小さい頃の事を思い出す。この世界ほどではないが、大野、新舞子海岸はわずかに砂丘があった。昭和30年代頃から急速に砂丘が消えていく。一説によると、潮の流れが変わったとか、木曽川、長良川上流にダムが出来たためだとか言われている。昭和30年代後、知多半島沿岸は護岸堤防で覆われる事になる。四日市市の公害問題も起きて、伊勢湾の空も海も汚れていく。大野や新舞子、西の口海岸、常滑方面には昔から色々な漂流物が流れ着くが、久本の子供時代には、油やプラスチック、木の屑などが流れ着くようになった。

 久本が中学校に入ったころには、青海山は団地化して、住宅が密集していた。それでも山頂から見下ろす伊勢湾はきれいな景色だった。その頃の思い出が蘇ってくる。

 青海山に城壁があった筈だが、今は鬱蒼たる樹木の覆われて、久本の時代の面影はない。樹木の間から眺める伊勢湾の海は心が洗われる程美しい。

 山に登っても、2人は口をきかない。久本が字を教えようとしても、菊はぼんやりとした眼で久本を見るばかり。

 昼近くになる。握り飯を食べる。しばらくして、

「若さん」菊は思いつめたように言う。眼に一杯の涙がたまっている。表情が硬い。

「おらを抱いてくれ・・・」小さいがはっきりとした声で言うと、久本にしがみつく。

 久本は菊を抱き締める。松の木陰の下に菊を押し倒す。

「若さん・・・」蚊の鳴くような声で久本を求める。眼に一杯の涙をためながら、菊の顔は紅潮し、喜色にあふれている。

 しばらくして2人は起き上がる。菊は迷いを振り切ったように晴れ晴れとした表情で、久本を見つめる。

「菊、逃げよう」久本は菊の耳元に囁く。

「えっ!」菊は驚愕の色を見せる。

 久本はその場に座り直す。

「ええか、丑3つの鐘が鳴ったら、浜に来い。船で伊勢へ行くんだ」

 久本は熱っぽく語る。2人が一緒になれるのはこれしか方法がない。女郎に売られれば、遅かれ早かれ死が待っている。


 この考えは数日前から頭の中にあった。伊勢に行けば神社が沢山ある。江戸時代末期にかけて、

・・・ええじゃないか・・・の掛け声でお陰参りが行われるようになっている。

 久本は神主に負けず劣らずの知識があると自負している。どこかの神社に駆け込み、雇ってもらおうと考えたのだ。

 伊勢なら塩崎家の目も届かない。

 菊は久本の熱っぽさに魅入られたように聞いていた。

・・・どうせ女郎に売られるなら・・・恋しい若さんと一緒に逃げた方がよい。

 2人は気持ちを1つにする。固く抱き合ったまま、しばらく身じろぎもしなかった。

 陽が沈みかける頃に屋敷に還る。何事もなかったように、2人はそれぞれの立場に戻る。

 菊はフロの水汲みと、フロ焚きをする。

 久本は何もすることがないが、周囲を安心させるために、小鈴から赤ん坊を取り上げてあやす。


 陽が沈み、舟も陸揚げされる。網子や船頭、番頭たちが帰ってくる。女子供を含めて、一同が塩崎家で夕食を摂る。

 いねは豊かな胸をひろげて、赤ん坊に乳をやる。

正太郎と庄助=久本がフロに入る。その後にうめ、いねが入る。塩崎家の使用人はその後にフロに入る。

 夜は暗い。灯りと言えば菜種油や鯨油などの灯明のみ。ローソクは高いので、神社仏閣や、裕福な商人、庄屋だけが使用する。塩崎家は主に菜種油を使っている。網子などは菜種油さえ使えない。

 夕食後、久本は自分の部屋に籠る。まんじりともせずに暗闇の中で眼を開けている。


 海音寺の鐘の音が戌の刻(夜7時)を告げる。お寺の小僧が寝ずの番で鐘を撞く。和尚の話だと、長さ3尺もある太い線香を焚く。一本で約一刻持つ。もっとも晴れた日や雨の時などで燃え尽きる時間が違うと聞いている。時間の調整は月の満ち欠けや星座の位置で行うという。

 戌の次は亥、その次は子、それから丑。

暗闇の中で、時間が停まったような感じになる。

 菊は今頃どうしているのか・・・。下働きの者たちの住まいは、屋敷の東側にあるあばら屋である。8帖程の広さに数人が雑魚寝する。男女別々であるが、雑居部屋である。皆朝から夜まで働く。夕食後フロに入ると、前後不覚になって寝入ってしまう。

 この世界に来て1年余りが過ぎている。あの世界では自分が消えてしまって、大騒ぎしているだろうか。それとも・・・。

 後継ぎのない久本家の財産は親戚の間で処分されてしまっているのかも知れない。

 自分の世界に戻ることは物理的には不可能だ。塩崎家の跡取り息子という身分には未練があるが、例え苦しくても菊との2人だけの生活の方が何物にも代えがたい。


 知多半島や伊勢湾は地図で見慣れているが、実際には遠くに行ったことはない。櫓を漕ぐのも、新舞子から古見、長浦、南の方では榎戸の沿岸まで、時間にして1時間前後。不安がいっぱいだ。

 それでも海を選んだのは、陸路よりは安全と踏んでいるからだ。明治になったばかりで世情は不穏である。強盗、物取りが跋扈していないという保障はない。それに久本の時代のような道路はない。道不案内という不安がある。

 この世界に来て、網子や船頭たちから伊勢湾については色々と教えらてている。大野海岸から大体真南に進むと伊勢の二見が浦につく。四日市の港へは西の方向、津や松坂の港はその間と聞いている。

 丑の刻(午前3時)の大野を出ようと考えたのは、5時か6時ごろには、朝もしらじらと明けてこよう。対岸の伊勢の山々も視認出来る筈だし、塩崎家の連中が気付いても、その頃には二見が浦の方に近ずいている筈だから、追っ手からも逃げのびると計算した。

 久本の頭の中は興奮して、目まぐるしく動いている。

――駆け落ち――そんな言葉が浮かぶ。

 江戸時代には駆け落ちは厳重に処罰されると聞いている。今はどうだろうか。

1つ言えることは菊の実家に害が及ぶ事は必定だろう。塩崎家に菊を紹介した遠藤家の顔に泥を塗ることになるだろう。塩崎家としても、大切な跡取り息子が下女と行方をくらますのだ。世間の恥さらしとなる。

 もし捕まったら、2人とも無事には済まないだろう。久本は監禁されるだけで済むかもしれない。菊はそれ相応の仕置きを受けるだろう。

――菊は死を覚悟している――

 久本は菊の気持ちを察している。女郎に売られると決まって、菊は久本に操を捧げている。きっぱりと過酷な運命に従おうとしたのだ。菊のためにも絶対、失敗は許されない。

 いつもなら、菊を相手に酒を飲んでいる。今日は疲れたと言って、酒の肴をもらい受けて部屋に籠っている。2人分の着物も用意している。

 二見が浦に上陸する時、乞食のような成りをしていたのでは怪しまれる。こざっぱりとして船から上がりたいのだ。

 他に見落とした事はないだろうか。久本はあれこれと思いめぐらす。


 ウトウトしている内に、鐘がごーんという鈍い音を響かせる。丑3つだ。

 久本は暗闇の中を起き上がる。荷物を持つと外に出る。屋敷と言っても玄関は開け放しだ。泥棒が入ってこないというよりは、入っても盗んでいくものが何もない。銭などは正太郎が握っている。唯一の財産といえば、羽織袴や女物の婚礼衣装ぐらいなものだ。それも正太郎夫婦の部屋にある。屋敷を抜け出す事は簡単だ。

 浜辺へと走る。岸辺につないである数十隻の伝馬船のうち、一隻のともづなを解く。船は陸揚げは大変だが、海に出すのは1人でも容易だ。

「菊・・・」小さく叫ぶ。

「若さん」菊はすでに来ている。月は出ていない。海は引き潮のようだ。

 10月ともなると、朝夕は底冷えする。菊に着物を一枚はおらせる。船に乗ると、菊は舳先に陣取る。

 伝馬船はゆっくりと岸を離れる。久本は櫓を操る。日頃鍛えた甲斐があった。力強く腕を振るう。

菊は久本を見つめている。その顔に不安の影はない。久本にすべてを任せきっている。地獄に堕ちようとも悔いはない。そんな表情がありありと見える。

「菊、二見が浦へいくぞ」

菊はこくりと頷く。


 海は波もない。風もなく、天は久本たちに味方しているように見える。櫓を漕ぐ音だけが死んだような海に響き渡る。

 大野村から常滑村まで、大体1時間と聞いている。それから考えると、二見が浦まで3時間ぐらいで着くはずだ。朝の6時には上陸出来る。その後は吉と出るか凶とでるか、運命の分かれ道となる。

 真南に船を進めると、常滑港と野間の富具崎の近くを通りすぎる事になる。このまま四日市港へ舟を回す手もあるが、二見が浦に着くのに時間がかかってしまう。知多半島内や伊勢湾内の網元たちは不慮の事故や豊漁、鯨の群れが上がってきた時の為に、のろしを上げて連絡を取り合っている。四日市港の近辺でうろうろしていたら、たちまち所在が知れてしまう。ここは短距離をとって真南に進むのが得策なのだ。

 体力を消耗しないように、ゆっくりと櫓を漕ぐ。

 常滑の港が左手に見えだしたころ、朝の気配が東の空に現れる。常滑の保示の漁村から3キロほど沖合を進んでいる。もうそろそろ自分たちがいないのに気付くはずだ。

 久本はともかく、菊がいないのに下女たちが気付くだろう。久本が菊を欲しがっているのは屋敷の者は皆知っている。当然久本の部屋を覗くだろう。

 一刻も早く野間の富具崎をこえねばならない。そこさえ超えれば、狼煙をあげられても、9分9厘逃げ切れる。運を天に任せて、体力を消耗しないよう、ゆっくりと櫓を漕ぐしかない。


 潮の流れは季節によって異なるが、伊良湖水道を入った海流が、知多半島に寄り添う様に流れる。それが名古屋港に突き当たる。四日市、津、伊勢の方から遠州灘抜けていく。この逆の場合もあるが、寒い季節はの流れは知多半島の海へと入り込んでくる。潮は船に向かって流れている。

 船は思ったよりは進んでいない。

野間の富具崎が遙か左手に望む位置まで来たときは、東の空から、朝日が顔を出していた。その上に悪い事は潮は引き潮から満ち潮に変わっている。それが潮の流れを加速する。

 久本は潮の流れを頭に入れていなかった。

「あっ・・・富具のみさき・・・」菊は指を指して叫ぶ。後年野間の灯台が出来る場所だ。

「父っさあ、兄さあ」菊の声は悲鳴のように聞こえる。

「菊、野間に帰りたいか。久本は菊がいじらしい。

 菊は久本の方を振り返る。眼を真っ赤にして泣きはらしている。菊は激しくかぶりをふる。帰りたいが帰る事は出来ない。菊の胸の内は、張り裂けんばかりなのだろう。

 野間を過ぎると船の進路は伊勢湾を横切る事になる。伊良湖水道も近くなる。静かな海に三角波が立つ様になる。潮の流れも速くなる。

 久本は力一杯に櫓を漕いでいるが舟はなかなか前に進まない。

 陽は昇り、闇は完全に消えている。青い空が広がっている。久本の息遣いが荒くなる。菊は心配そうに久本を見ている。休むわけにはいかないが、久本の動きが緩慢になってくる。

 突然、菊が目を吊り上げて叫ぶ。

「若さん、あれ、あの音・・・」

「何だ、どうした」

「かねの音が・・・」

「かね・・・」久本はハッとする。罪を犯した者が海に逃げると、漁師たちが鉦や鍋を打ち鳴らして追いかける。

 この世界に来て1年、1度だけその光景を目にしている。

この世界の者の目や鼻、耳などは久本より鋭敏なのだ。

「追っ手か!」菊は頷く。

 久本は疲れも忘れて必死に櫓を漕ぐ。

 やがて北の海原に、赤い幟を押し立てた伝馬船の影がポツンと見えだす。それがぐんぐんと近ずいてくる。

 必死に漕いだところで、久本の体力は限界を超えている。ものの5分もすると櫓を投げ出してしまう。数隻の船が大きくなってくる。漕ぎ手が2人だ。潮の流れもなんのその、矢のような速さで追ってくる。鉦や鍋を打ち鳴らす音が、久本の耳にもはっきりと聞こえてくる。

・・・これまでか・・・久本はその場にへたり込む。捕まれば菊はひどい仕置きをうける。久本はそれを想像するだけでも耐えがたいのだ。

「菊!」久本は彼女の側に寄る。

「死のう」久本の声に菊は泣き出しそうな顔で頷く。菊は死ぬ覚悟を決めている。思い焦がれる若と一緒なら、地の果てまで付いていこうと決めている。

 久本は碇を自分と菊の体に縛り付ける。菊をしっかりと抱きしめる。

「あの世で夫婦になろう」菊は眼を瞑っている。涼し気な眉毛がかすかに頷く。2つの体は海に投げ出されるように飛んだ。そのまま、朝日が照り付ける海の中に沈んでいった。



 久本が気が付いたのは、恩波楼から20メートルばかり南東方向に行った所にある伊紀医院のベッドの上だった。

「ここは?」天井の蛍光灯が眩しかった。自分は菊と一緒に海に飛び込んだ筈だがと、不思議そうに辺りを見渡す。

「先生、気が付いたようですよ」診察室にいた看護師が奥に声をかける。

 数分して小太りの中年の女が入ってくる。白衣姿で眼鏡をかけた柔和な表情をしている。

「大丈夫?」久本の脈を診る。久本は体を起こす。

「もう少し横になっていて下さい」

「ここは?」と久本。女医は伊紀医院だと説明する。

「何で、ここに?」

 女医はそれには答えず、待合室の方へ声をかける。

「今日は日曜でしょう。休診日だけど、私がいてよかったわ」言いながら部屋を出ていく。代わりに恩田三郎が入ってくる。久本は初対面だが、恩田は久本を良く知っているという。

「久本さん、大丈夫かいな。わし恩田ですわ」

 細長の、眼の落ちくぼんだ顔で久本を覗き込む。折りたたみ椅子にどっかと腰を降ろす。

「何で、わし、ここに?」久本は尋ねる。

「何も覚えとらんのかいなあ」恩田は呆れた顔で説明する。


 10時に恩田の家に来るという約束だった。10分立っても20分立っても久本が現れない。電話を入れるが通じない。もしや恩田の家が判らず、その辺でうろうろしているかも知れないと思い、10時半に表に出る。家の南側、10メートル先に護岸堤防がある。堤防を上がる階段がある。堤防の奥の方が騒がしい。

・・・何事か・・・階段を上り、堤防の上に出る。

護岸堤防の中の波打ち際は、幅10メートル程テトラポットが敷きしめてある。波がその尽きる所を洗っている。

 みると久本が海に飛び込もうとしている。堤防は鉤型になって、東の方で折れ曲がっている。折れて20メートル南に矢田川の河口堰がある。堰の周囲に数人の釣り人が声を張り上げていた。

 久本が海に飛び込もうとしているのを大声で制していた。

「久本さん!」恩田はびっくりして階段を降りる。釣り人の2人が駆け寄ってくる。テトラポットはぬめぬめして歩きにくい。恩田が波打ち際に辿り着いた頃は、久本が海に飛び込んだ後だった。

 恩田は泳ぎが得意だ。すぐにも海に飛び込む。海中から久本を救い出す。波打ち際にきた釣り人に伊紀医院に知らせるよう頼む。日曜だが、女の先生が病院の隣の自宅にいる筈と思ったのだ。

 2人の釣り人の手を借りて久本を伊紀医院に担ぎ込む。たっぷりと水を飲んだのか、久本は意識不明だった。

 救出が速かったので、一命を取り留めた。

「まあ、びっくりしただわ」恩田は大袈裟な声を出す。

 

 久本はぼんやり聞いている。菊を抱いて海に飛び込んだ感覚が生々しく蘇生してくる。自分だけが元の世界に戻ったのだろうか。

「今、何時?」

「もうそろそろ、11時半だけど」恩田は腕時計を見る。

「わし、明治4年の大野にいた。それも1年以上も・・・」久本は呟くように言う。

 恩田はしげしげと久本を見つめる。

「久本さん、白日夢っていう夢を見てたのと違う?」

 恩田は久本の気持ちが落ち着くまで土地の話は伸ばす事しかないかと考えている。

「久本さん、着ているものがずぶぬれなもんで、わしんとこのものもってきたでなあ」恩田はズボンやシャツなどをベッドの側に置く。久本は自分が患者用の寝間着を着ているのに気が付く。

「伊紀先生も、大した事ないと言っとるわ」

 恩田は土地の事は2~3日したら、そっちに行くからと言いにこして去っていく。


 恩田が消えて、久本は1人きりになる。

「夢・・・」あまりにも生々しい。夢とは思えない。

 久本は起き上がると、恩田の持ってきた衣類に着替える。ずぶぬれになった自分のカラーシャツやズボンがビニール袋に入れてベッドの横に置いてある。

 久本は伊紀先生に、治療費は明日持ってくると言い残して病院を出る。伊紀医院の南に4メートル幅の道路がある。その前方に倉庫がある。その前が護岸堤防になっている。

 道路は15メートル程西に続いている。その突き当たりを歩くと、恩田の家の前に出る。

 久本は冠木門をくぐって恩田の家に入る。本人は留守で奥さんに、明日昼過ぎにここに来るからと言い残す。少し歩いて護岸堤防に登る。矢田川河口堰の側に、数人の釣り人が糸を垂れている。久本をみて手を振る者もいる。

 久本は河口堰の方へ歩く。

「もう大丈夫?」1人が声をかける。久本は頭を下げて礼を言う。その上で自分は堤防の上で何をしていたのか聞こうと思った。

「いやあ、びっくりしただわ」

 1人が久本が尋ねる前に口を切る。

「10時少し過ぎた頃かなあ、ぶらっと、堤防の上に登ってくるだらあ」久本を見ながら、覚えてないのかといった口調で言う。

「初めはさあ、海をみとるだけかいなあと思っとただわあ」

「10分立っても20分過ぎてもぼうっと立ったままだらあ」

 男は魚に餌でも取られたのか、てぐすを手繰り寄せている。新しい餌をつける。

「何か、魂が抜けたようでなあ、人形が立っとるようだったわなあ」竿を思い切りふって、海に投げ入れる。

 そばの男に「おかしかったわなあ」という。

 隣の男は久本を見上げて、くわえたばこで頷く。

「あんたの目がなあ、見開いたままだがや、何だい一体。あいつは・・・。わしらはそう思って見とっただわ」

 30分過ぎた頃、久本は何かに操られるように階段を降り始める。釣り人達は何をするつもりなのかと久本を見守る。よろけるようにしてテトラポットの間を歩き始める。その姿がいかにも危なっつかしい。

「おいおい、ありゃ、死ぬ気だぞ」皆大声でわいわいと叫ぶが耳に届かないのか、久本は波打ち際まで歩いていく。丁度その時恩田が堤防に姿を現す。釣り人の内の3人が恩田を追う様に駆け出した訳だ。

「あんた、何も覚えとらんのか」

「ええ、何か、もののけにとりつかれたみたいで・・・」

 久本はそれ以上何も言わなかった。明治4年頃の大野に戻っていたと言ったところで笑われるだけだろう。

 久本は釣り人に礼を言って家に帰った。


 「話はこれで終わった訳じゃねえんだ」

 久本は酔いの回った、焦点の定まらぬ眼で言う。一升瓶の半分が空になっている。ちびりちびりやっているようだが、休む間もなく、酒は久本の口に入っている。

 私は彼のいうにいちいち頷いて先を促す。


 久本は不思議な体験を事あるごとに人に話す。まともに聞いてもらえぬと判っていても話したくて仕方がなかった。面白がって聞く者もいるが、大抵は欠伸を噛み殺し聞き流すのみ。さすがの久本も、誰にも相手にされないと知ると、口が重くなって、話すのをやめてしまう。

 それでも自分は本当に過去へ行ったのだと信じている。それを証明するために、明治初年頃の大野町の事を調べだす。大野の古老を尋ねたり、海音寺の過去帳を見せてもらったり、住職にきいたり、市役所の教育委員会に出向き、大野村の資料を見せてもらったりする。

 結果は久本の期待を裏切るものばかりだった。

 塩崎家という網元もいなければ、久本が1年住んだ大野村の様子とは随分違ったものだった。

・・・やっぱり、ただの白日夢だったのか・・・

 久本はいつしかこの事を忘れようとしていた。


 年も改まった平成4年2月になる。

 久本の身に1つの異変が生じようとしていた。

恩田に土地を買ってもらい、その代金で家を建て替えようと計画していた。借家が一軒空いたので、そこへ家財道具を入れたりして、家の中を整理していた。

 3分の1ぐらい片付いた頃、久本は奇妙な経験をする。夜中すぎ、人の足跡が聞こえたり、影のようなものが寝ている久本の側で動いているような感覚にとらわれる。

 はじめの内は気味が悪くなって、幽霊でも出たのかと祈祷師でも頼もうかと考えた。だが、建物の壊しは2ヵ月後に迫っていた。今更お祓いしてもらっても、お金が勿体ないとそのままにしておく。幽霊ではない。誰かいるのだと、醒めた気持ちもあって、夜中、明りを小さくして布団に入っても眠らずにいようと考える。

 夜中1時頃、睡魔に襲われて、うとうとする。

ふっと、自分の体が軽くなった気分になる。はっとして眼を開ける。影のようなものが、久本の体の中から、煙のように立ち上がるのが見える。

 びっくりして起き上がる。影のようなものと目が合う。瞬間、影は消える。影の目を見た時、・・・庄助・・・久本は直感する。その影の眼つきは久本にそっくりだったのだ。

・・・庄助が俺の体の中にいる・・・そんな馬鹿なと思うが、そう信じるしかなかった。

「わし、嘘ついとらんでな」久本の目がすわっている。今までに何人、人に話したか判らない。誰も信じてくれない悔しさが滲んでいる。

 久本はコップ酒をグッとあおる。

「わしゃぁなあ、根が正直なんだわ。嘘こいてまでして、酒を恵んでもらう程、卑しかぁないんだわ」

 ケンカ腰で喚き散らす様に眼を怒らす。


 私は変な事を言わない方が良いと思った。大きく頷くと、

「まま、一杯いこまいかな」酒を勧める。

「おおきに、おおきに」久本は体を左右に振りながら、なみなみとつがれたコップを見詰めている。私は黙って久本の次の言葉を待つ。

「わし、嘘なんかつかん!」言いながら、ぐっと一杯ひっかける。


 久本は自分なりに、自分の体の中にもう1人の男が居るという現象を調べる事にした。本屋を廻ったり、図書館を尋ね歩いたりする。2ヵ月後に控えた建物の取り壊しも、しばらく延期する。

 一ヵ月が立ち、2ヵ月が過ぎる。久本は一応の結論を出す。人は死ぬと、霊的存在になる。霊は人によっては、生きている人間に取り付く事がある。憑依現象と呼ばれ、狐憑きとか、巫女などの口寄せは、霊が乗り移った行為と言われる。

「わしゃあなあ、推測だけどなあ、こう考えたんだわあ」

 どろんとした眼だ。呂律の回らなくなった舌で言う。

 久本が行った世界はこの世界の過去ではない。我々はこの世界が唯一無比だと信じているが、この無限の宇宙には無数の宇宙が折り重なり合っている。物質としての波動が違うために、1つの場所にいくつもの物質世界があっても不思議ではない。

 物質世界の波動は絶えず揺れ動いている。時として、他の物質世界の波動と一致する事がある。その場に出合わした人間は消滅したり、肉体だけを残して、霊だけがその世界に入りこんだりする。

 久本の場合、恩田家の前でそれが起こった。

 久本と庄助は別々に人間でありながら、2人が持つ波動が同じだったために、久本の霊的肉体の中に庄助が閉じ込められてしまった。

 久本が入水自殺をしたために、元の世界に引き戻された。今度は久本の物質としての肉体に、庄助が閉じ込められる事になった。

 庄助は久本の肉体から這い出ようとしている。

困った事に、久本が覚醒している時は、久本の肉体はその意識の下に統御されている。出るに出られない状況にある。

 久本の意識が低下した時、つまり、睡眠中か、うとうとしている状態の時に何とか久本の肉体から抜け出せるが、長い間久本の肉体に閉じ込められていた状態だったので、肉体としたの自分を取り戻すのに時間がかかっている。

 久本がうとうとしている時に、庄助の影が自分の体から這い出るが、それが少しずつ濃くなっているのを感じている。

 自分の体の中に、もう1人別な人間が入り込んでいると思うと、奇妙な気分だが、狐憑きのように久本の体を支配したりするわけではない。

「まあ、説得力がないかもしれんが、わしの推測は間違っておらんと思うとる」久本は小さな声で言う。こんな問題を実証するのは難しい。説得力に欠けるのもやむを得ない。

 久本は眼をギラギラさせながら「わしの推測が間違ってなかった事件が起こったんだわ」

「ほう」私は大袈裟に驚いて見せる。

「菊が、この世界で生きとったんだわ」

「えっ!」さすがに私もこれには驚いた。


 久本は言葉を続ける。

 4月頃、庄助の事は自分なりに納得できる結論を出す。

庄助が自分の体から完全に抜け出て、この世界の人間になることも考えられるが、それはその時と腹をくくる。もう一度家の建て替えの再検討を行う。

 春、暖かい日、久本は用事があって、武豊に出かける。胸騒ぎのようなものを感じる。何かに引っ張られるように、武豊と半田の境にあるカーマ・ホームセンターの東側にある”道草”という喫茶店に入る。

 店内は10帖程のこじんまりとした店でカウンターと6つテーブルがあるだけだ。

観音開きのドアを引いて店に入る。久本は思わず声をあげるところだった。

「いらっしゃいませ」声をかけたウエイトレスは、体形といい、表情といい、菊そのものだった。違うのは紺の服を着こんで髪を短くしているだけだ。

 呆然としながらも、久本は空いている席に座る。穴の開くほどウエイトレスを見詰める。

「あの・・・ご注文は」澄んだ声も菊そのものだ。

「ホット」久本はこれだけ言うのがやっとだった。

・・・菊だ、菊に違いない・・・

 コーヒーが運ばれる。

「あの、お姉ちゃん、名前なんて言うの」

 ウエイトレスは店に入ってから、じろじろと見る客に戸惑いを感じたのか、口の中をもごもごさせる。

「いやね、あんたによく似た人を、知ってたもんだから」久本は下手な言い訳をする。ウエイトレスは臆病そうに眼を伏せる。その仕草も菊そっくりだ。

「菊子っていいます」ウエイトレスは小さく言う。

「迷惑ついでにもう1つ聴いていいかな」

 久本は努めて柔和な声で言う。

「あなた、歳は19か20くらいでしょう」

菊子はコクリと頷く。

「家は野間大坊の東側に行った所じゃない?」

 菊子はびっくりして久本を見つめる。

 久本は全身に電気が走るような衝撃を受ける。菊は死んではいない。この世界の自分の生家に生まれ変わっているのだ。久本の確信は喜びに変わる。

せっつくように、親、兄弟の名前を言ってみる。菊子は不思議を通りこして、気味悪そうな顔をする。

 母は病死、菊子が看病していたが、母の死後、縁あってこの喫茶店に勤める事になった。父や2人の兄、常滑の農家に嫁いだ姉も、その通りだと答える。

 久本は我を忘れてなおも聞こうとした時、2人ずれの客が入ってきた。

「ごめんなさい」菊子は詫びるように言うと、客の接待に行ってしまう。

 しばらくしてから久本は席を立つ。お金を払う時、

「大野村の庄助、塩崎庄助って、判る?」レジにお金を入れる菊子に言う。

 途端に菊子の大きな眼が真ん丸になる。白い豊かな頬がピクリと動く。久本をじっと見つめたまま、彼女は身動きしない。心の奥底に潜む、あの世界の出来事が、彼女の心の表面に顔を覗かせようとしている。

 菊子の表情を読み取ると「また来ます」

 久本は喫茶店を出る。菊子は呆然としたまま久本の後ろ姿を見送る。


 次の日から久本は喫茶道草に通い詰める。菊子は野間から軽四で通っている。パートだから朝10時から昼の3時まで、趣味と言えば海を見る事、野間の灯台の富具崎は大好きだという。一度兄と釣りで沖に出て富具崎を見た時、訳も判らず涙がこぼれたという。

 久本が菊子とデートをするのにそれ程時間を要しなかった。久本は大野海岸や青海山などを案内する。

その上で、あの世界での菊との出会い、駆け落ち、入水自殺などを、出来るだけ詳しく話す。

 菊子の脳裡に埋もれていた記憶が薄紙を一枚一枚剥す様に鮮明になっていくようだった。

 それから2カ月が経ち、3ヵ月が過ぎる。夏の盛り、久本は菊子にプロポーズする。

久本は好きな酒を辞める。親から受け継いだ厖大な土地を活かして、アパート経営を目論む。のびのびになっていた家の取り壊しも業者に依頼する。新居は菊子の希望も取り入れる。設計士に間取り図を描いてもらう。建物の工事着工を9月中旬の吉日とし、結婚式は10月下旬の大安と決定する。

 お盆休みの前、久本は喫茶道草に、昼の2時に行く。菊子は昼の3時に仕事が終わる。その後2人でデートの約束だ。道草のマスターとも顔見知りになっている。

「あれ、久本さん、どうしたんですか」マスターが素っ頓狂な声を出す。

「えっ!何?」久本は菊子がいないので、マスターに問い返す。

「だって、菊子ちゃん、昼の1時に大野海岸で久本さんとボートに乗るんだって言って、昼頃でかけましたよ」

「わし、そんな事、いっとらんよ」

「おかしいなあ」

 久本はマスターから仔細を聞く。

 菊子は9時45分位に店に来る。それまではマスターと奥さんが店を切り盛りしている。モーニングサービスの時間が終わる頃、菊子は浮き浮きした調子で、朝出かけに久本から電話があった。大野海岸でボートに乗らないかというのだ。

・・・庄助だ・・・久本は庄助の影を思い浮かべる。菊子とのデートや、結婚の準備にかまけて、庄助の事が頭の中から払拭していた。

 庄助はついに久本の肉体から抜け出していたのだ。彼は菊子、いや菊を道ずれにして、あの世界に還ろうとしているのだ。


 急いで大野海岸に車を走らせる。

 平日だが、大野海岸は海水浴客で賑わっている。といっても、往年の面影はない。道路事情が良くなってからというもの、内海方面に客を取られて、バラバラと点在する程度だ。

 久本は有料駐車場に車を止める。護岸堤防の階段を上る。堤防の内側は僅かに残った白砂に、波が打ち寄せている。この堤防の内側は湾曲していて、沖からみると、野球場のスタンドのように段々となっている。沖には海水浴姿のアベックがボートを漕いでいる。段々の堤防の南の端にボートが数隻陸揚げされている。

 久本は走るように、海の家と書いた簡易小屋に歩を運ぶ。貸しボートの立て看板の横に、どっかと腰を降ろした浅黒い顔の男に近づく。

「あれ、お客さんもう終わったんだかや」彼はドラゴンズの野球帽を被っている。タバコをふかしながら双眼鏡で海を見ていた。久本を見ると大声を出す。ステテコ姿で、半袖のシャツを着ている。

 久本はびっくりする。庄助と菊子が沖に出た事を知る。

「実はね・・・」久本は早口で事情を話す。

 もっともあの世界の事は省略する。

ボートに乗った若い女は自分の恋人で、男の方は恋人を騙してボートに乗せて沖で死ぬつもりだと断定的な言い方をする。

 貸しボート屋のおじさんはうんくさそうに久本を見つめている。

それでも彼は、2人は1時半頃に来て、2時間の約束でボートを借りた。西ノ口方面の沖に行ってみたいと、男の方が話していた、と告げる。

「しかし、あんた、あの男とよう似とるなあ」

 久本は貸しボート屋を信用させるために、久米村の久本だと名乗る。

「久本・・・、ほんじゃあ あんたかいなあ。1年前に海に飛び込んだとかいう久本さん。恩田さんとは知り合いなもんでなあ」

 彼の安心した顔を見て、久本はせっつくように言う。後30分ぐらいで貸しボートが戻ってくる時間だが、多分返ってこないと思う。自分の言う事を信じて船を出してくれないか。ただとは言わない。あんたのいいだけの金は払う。2人が無事なら問題ないが、入水自殺でもしたなら、のちのち、あんたも面倒に巻き込まれる。無理を承知で頼まれてくれないか。久本の必死の説得に、貸しボート屋は不安そうな顔つきになる。船を出しても金を払ってくれるとの言葉に、どっちに転んでも損はないとふんだのか。

「判った、ここは1つ助け船を出そう」と大見えを切る。

「おっかあ、ちょっと沖に出るで、後を頼むぞ」

 海の家の裏が住まいになっているようだ。その裏手に海音寺の墓地がある。


 貸しボート屋は久本を促す。ボートが係留してある波打ち際まで歩く。そこに貸しボートを一回り大きくしたくらいの船がある。彼は船外機のエンジンを取り付ける。船を岸に出す。

「乗ってや」久本を乗せると、手際よくエンジンをかける。船はけたたましい騒音を発して岸を離れる。

 船尾に陣取った久本に、貸しボート屋は声をかける。横にいるのだが、船外機の音がやかましいので怒鳴るような喋り方になる。

「あんた、あの男とどういう関係?」

 久本は返事に窮する。黙って貸しボート屋の顔を見る。

「双子だらあ、あんたたち。さっきはびっくりしただがや」

 彼は久本の顔を見た時、てっきり本人が戻ってきたと思った。ただ、ボートが戻ってきていないし、久本の着ている服が違うので、別人と納得したと言う。

 久本は切羽詰まった気持ちの中にいる。庄助の事をあれこれと説明しても判ってもらえないと思っており。曖昧に笑って頷くのみ。

 貸しボート屋の顔には、結局兄弟が1人の女を奪い合っているだけじゃねえか。死ぬなんて言いやがって、嘘も方便で、俺を海に引っ張り出すための口実じゃねえのか。

 そんな小ばかにした表情が見られる。


 ものの5分も立たないうちに、西ノ口の海岸の沖の到着する。菊子たちのボートは見えない。

 暑い日差しが照り続けている。風もない。波も穏やかだ。沖には10数隻のサーフィンが赤や青などの色鮮やかな三角形の帆を拡げて疾走している。風がないためか、前に進まず苦労しているのが多い。

 貸しボート屋は一隻のサーフィンに近ずく。

「おーい、わしだけどなあ、うちんとこのボート、この辺でみかけんかったかなあ」

 サーフィンの帆を操っているのは学生らしい。貸しボート屋とは顔なじみのようだ・

「ボート?、ああ、アベックの乗ったやつなら、1時間半ぐらい前に、南の方へ漕いで行ったよ」

 南と聞いて、久本はハッとする。

「多分、野間の灯台だと思う」

「野間?そりゃ、ちっとえらいわ」

 貸しボート屋はぶつぶつ言いながらもエンジンをふかして疾走する。

「何で野間と判る?」大きな声に、「そりゃ、女の家が野間だからさあ」久本も負けずに大きな声をだす。


 貸しボート屋の顔に不安の色が広がる。入水自殺はともかくとして、野間までボートを持っていかれては、大野まで引っ張ってくるのに手間がかかる。貸しボートの料金だけでも不足している。彼は前方を見詰めたまま船外機を操る。


 30分ぐらいして野間の灯台が遠望できる沖まで来る。

久本の不安は的中する。貸しボートが波に揺られて漂流しているのが見つかる。手漕ぎのオールがきちんとボートの中に納まっている。2人の姿はない。貸しボート屋はボートの周りを2回3回と回る。

「本当に、あの2人は死ぬつもりだったのか」

 彼は険しい表情になる。とにかくボートを引っ張ってそれからだと言って、ボートを船に係留する。彼は一言も口をきかない。船を野間の灯台の2百メートル程南にあるレストランに向ける。

「レストランの所に船着き場があるでなあ。そこに船をつける」遙か遠方の建物を指さす。

「わし、レストランから警察に連絡する。あんた、身内や女の子の家に連絡してや」

 貸しボート屋は事の重大さを認識しているようだ。

 厄介な事件に巻き込まれた鬱陶しさよりも、問題の解決を図るために、どんな手を打ったらよいのか、彼は充分に心得ているようだ。

 岸に着くと船着き場に船を係留する。レストランに入る。レストランの主人と顔見知りなのか、

「すまん、ちょっと、大変な事が起こっちまってなあ、電話借りるでなも」

 久本には「あんたとこも早う電話して」

 久本は菊子の家に電話する。菊子の父親が出る。久本は経緯を話す。野間の灯台前のレストランまで来てくれと言って電話を切る。


 「わし、ちょっと、あの堤防の先で釣りをしている人に聞いてくる」

久本は電話中の貸しボート屋に言い残して外に出る。レストランの東側は県道だ。野間の灯台の北側に、海岸に突き出た堤防がある。数人の釣り人が糸を垂れている。久本は駆け足で堤防の突端まで行く。

「すまんが、ちょっと・・・」

 久本は釣り人に事の次第を述べて、ボートから人が2人、海に飛び込んだと思うが見てないかと尋ねる。

 釣り人は「判らんかったなあ、何せ、ボートは枯れ葉のように小さく見えたからなあ、そっちはどうだ、みたかや。側の釣り人に声をかける。

「さあ」頼りない返事しか返ってこない。これ以上聞いても仕方がないとレストランに還る。


 30分後、レストランの中に警察や菊子の父と2人の兄が集まる。海に飛び込んだものなら、死体は浮き上がるが、潮の流れで沖か、岸の方に流される可能性がある。警察は電話で野間の2キロ程北にある若松海岸の漁師にダイバーを要請する。

 ダイバーは潜るにしても5時近くになる、今は7時頃までは明るい。2時間ぐらいしか潜れないと言う。それでもいいからお願いしますと久本や菊子の父が頭を下げる。

 数名のダイバーの捜索にもかかわれず、2人の遺体は発見されなかった。

・・・2人はあの世界に戻ったのだ・・・

 久本は確信していた。庄助は自分の世界に戻るために久本たちが入水した場所で海に飛び込んだのだ。2人があの世界で追跡中の網子たちに助けられたか、あるいは溺れ死んだかは判らない。


 数日が過ぎる。どこからも遺体が上がったと言う話は聞こえてこない。

久本は警察の事情聴取を受ける。

 久本とそっくりのもう1人の男の存在は貸しボート屋の証言ではっきりしている。数人のサーフィンもボート中の2人を見ている。

 一時期、警察は久本の1人芝居ではないかと疑った。喫茶店のマスターの証言や、1時半頃に西ノ口海岸でボートを見たと言うサーフィンの証言などから、久本の単独犯は時間的に無理と退けられる。

 問題は、久本そっくりのもう1人の男の存在だ。

 貸しボート屋は双子の兄弟だと久本から聞いていると証言しているが、久本にはそんな兄弟はいないことが判明している。

 仕方なく久本はありのままの事実を話すが、あまりにも現実ばなれしているので、調書をとる警察の係官も呆れた顔で久本の口元を見ているのみ。

 2人が死んだと言う証拠がないので、警察としても事件として処理できない。菊子の父から捜索願いが出されて、それ以上の進展は見られない。


久本は周囲の好奇心の目にさらされる事になる。

海上で忽然と姿を消した事件としてマスコミが取り上げる。久本は懸命にあの世界の事を話す。

 好奇心で聴く者は、久本の言葉を真実として受け入れない。野次馬根性のみが優先する。

 やがて、久本の不思議な話を聞く者もいなくなる。

 久本の心の中は、ぽっかりと大きな穴が開いたままになっている。

――菊子――久本は誰よりも大切な人間を失ってしまった。家の建て替えなんかやる気も失われる。菊の面影を求めて、バーやキャバレーなどの世界をうろつくようになる。酒に入り浸り、我を忘れる日が続く。


 久本は酔いつぶれて、だらしなく座っている。私がいるのも忘れたのか、それとも自分の世界につかっているのか、ぶつぶつ呟いている。

・・・菊・・・彼の口から洩れるのはこの言葉のみ。


 私は一礼して立ち上がる。黙って玄関を出る。

彼の体験した世にも不思議な物語も、この世界では所詮夢でしかない。

 久本邸の門を出る。空に暖かい太陽が照り付けている。

――白日夢残照か――

 私は荒れ果てた久本邸を見ながら呟いた。


                            ―― 完 ―― 



 お願い

 この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織等とは一切関係ありません。

 なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません。

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