序幕 「巫女の予言」 その1
『狼は小羊と共に住まい、豹は子山羊の傍らに寝そべる。子牛と獅子の子が共に草を食み、一人の牧童がこれらの動物たちを導くだろう』
イザヤ書より
なだらかな起伏を経て青々と茂る草原の海に、黄色い菜の花畑が埋め尽くさんとばかりに広がっていた。整備された街道の脇には紫と白のクロッカスが群生し、初夏の爽やかな晴天の下、自然の織りなす調和的で美しいコントラストは普段なら道行く者たちの目と心を楽しませたに違いない。
しかし、今その道を行く荷馬車の御者たちの目は、明媚な風景に向けられてはいなかった。皆、一様に無言で手綱を取っている。わずかに居ずまいを正すことすら、はばかられるような張りつめた空気が流れていた。
そもそもが、異様な隊商であった。二頭引きの荷馬車三台の前を、武装した四騎が先導し、左右を三騎づつ計一〇騎が固めている。さらに最後方の荷馬車の後ろ、装甲を施された大型客車が四頭立てで殿についていた。客車の開け放たれた後方扉からは、目つきの鋭い男たちが二〇人ほど、御者同様口を閉ざして座しているのが見えた。
隊商は並足で進んでいたが、その姿を見るや暴れ馬に出会ったかのごとく人々はあわてて街道の端に走り、怯えるように膝をつく。その間を通り抜ける装甲馬車の横腹に、白地に王冠をかぶり両翼を広げた赤い鷲――フランクフルト大公の紋章が描かれていた。
やがて一団の行く手に背の高い樫が生い茂る森林の入口が現れた。広さ五〇〇〇〇エーカー(約二〇〇平方キロメートル)を誇る帝国中部に名高いラインハルトの森であった。
街道はそのまま森の中へと続いていたが、入り口にたどり着いた先頭の騎士が右手を上げると、それを合図に後続は停止した。荷馬車の左右を警護していた六騎の内五騎が一度前方に集まり、一騎が最後方の大型客車の傍らに駆け寄ってその壁面を叩く。すると客車の側面にある八つの小窓が一斉に開け放たれ、同数の弩が車外へと向けられた。
「進め!」
先頭の騎士の号令と共に、御者たちの鞭が一斉に振るわれる。馬たちは歩み出してすぐに速足となり、続々と森の中に進んでいった。
初夏の晴天とはいえ、大木ともなれば二〇ヤード(約一八メートル)を優に超す樹々に囲まれた森の中は、陽光が遮られて陰り、ところどころに泥濘があった。騎行に向く場所とは言えない。しかし整備された平地の街道とは逆に速度を上げる矛盾を、隊商の誰も口にはしなかった。むしろ、先ほどより緊張の度合いが、森の中の空気のように濃密になっていった。
小一時間ほど過ぎたあたりであろうか、先頭を行く四騎の中で最も視力に優れた一人が、前方に人影を見つけた。二拍ほどおいて残りの三人も気がついたが、騎行の速度を緩めようとはせず、逆に鞭が入った。
「出たぞ!」
先導する騎士が怒声にも似た号令を発し、抜剣する。後続の荷馬車も速度を上げようと御者が鞭を振り上げた、その瞬間だった。
うなりをあげて飛来した矢が、先頭の荷馬車の御者に突き刺さった。正確に側頭部を射抜かれた御者が、手綱を握ったまま御者台より転げ落ちると、制御を失った馬は驚いて後ろ足で立ち上がった。道を塞がれた後続が急停止する。そこに今度は左右から何本もの矢が射かけられた。
「敵襲だ!」
側面の騎士が叫び、大型客車から武器を手にした男たちが次々と降り立つ。先頭の騎士は街道に現れた人影に向かって突進した。
迫りくる騎馬に対し、人影はまるで動じた様子を見せず、まとっていた黒い外套の前を跳ね上げた。
右手に刃渡り二フィート(約六〇センチメートル)ほど、独特なS字型の鍔にわずかな意匠が施された両刃の剣を持ち、左手には刀身が櫛型をした珍しい短剣を携えている。身に着けた胴当ても籠手も炭のように漆黒で、頭巾に縫いつけた兜の額当てだけが鈍色をしていた。
馬上より振り下ろされた斬撃を短剣で受け止めると、黒づくめの男は左手を返した。櫛型の刃に剣を搦めとられた騎士の体勢が思わず崩れる。そこに黒衣の男は右手に持つ両刃の剣を叩きつけた。
鎖帷子ごと右の上腕を半ば切断され、こらえきれず騎士は駆ける馬からずるりと落ちた。双剣の男はすでに新たな敵と刃を合わせていた。
「ライヘルト、伏せて!」
二人目の首筋に斬撃を叩き込んだ直後、鋭い女の声が黒衣の男の背中に飛んだ。ライヘルトは反射的に腰を落とすと、黒い頭巾をかぶっていた頭部があった位置を弩の矢が風を切って通り抜ける。一拍後、ライヘルトの左方向で兵士が仰向けに倒れた。
ライヘルトがちらりと右に視線を送ると、短髪の少女は弩を放り出し、やや短めな直刀を抜き放っていた。その背後から、深い葡萄色の羽帽子をかぶり、同色の外套を風になびかせて青鹿毛の馬を駆る騎士が現れた。
「殲滅せよ!」
決して大きくはないがよく通る声が辺り一帯に響く。立ち往生する荷馬車の左右に、街道脇から鬨の声を上げながら兵士たちが殺到した。