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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【喜怒哀楽短編集】

崩れる凡常を眺めつつ

作者: 姥妙 夏希

この世に幾つ、脆い物質はありますか。


まだ社会常識もなく、ある意味で純粋だった時の自分が、大人達に聞いた言葉。無知であるが故に、聞けた言葉。答えが分かってないが故に、聞けた言葉。


今は、答えを知っている。




匕首(あいくち)が良い人を、たった一人でもいいから見つけられたり、或いはたった一人でもいいから、良き薫陶(くんとう)を受けれる人を見つけられたり、そんな一縷の望みを残して毎度朝起きる。東雲の空、暗い藍色に微かに朱色の柔らかい光がさしていて、景色が綺麗に思えた。重い躰を起こして、哀鳴啾啾、鳥も獣も昆虫も、哀しそうに鳴いている音を聞く。


毎朝哀しそうに鳴いているのには、訳があるのだろうか。哀毀骨立の絶頂に立って、何時も鳴いているのだろう。では、獣や鳥、昆虫も意外とその厳つい見た目とは裏腹に、脆い物質のかもしれない。また新たな仮定が思い浮かんだことに、莉菜は微笑みながら寝台から降りた。


この前、大人達にこの世には幾つ脆い物質があるのか、と聞いた時、彼らは言葉を濁しながら、では自分で探してみなさい、と告げた。その時から早1ヶ月。今も大脳の中で、髄の奥深くまでその質問が染み付いているまま、答えを探している。そして、まだ見つかった試しはない。


誰にでも瑕疵はあるとは思う。しかし、その瑕疵を更に、更に深く考えすぎて、それこそ自分で自分の傷を抉り出し、開いていくかのように、自分自身を脆くしていく者達こそが、脆い物質なのだろうと直感的に考えた。杞憂?少し違う。心配しすぎるのは、悪いことではない。


そう思うのは、心の底の何処かで、それを無意識のうちに求めている自分が存在しているからだろうか。


ふ、と自嘲の笑みを口から漏らし、莉菜は窓辺で哀しい鳴き声にそっと耳をはせた。




「莉菜さん、お早う御座います。」


冷たい朝の挨拶に寂しさを抱く間もなく、只々機械的に挨拶を返す。前まではあった寂しさも、抱くことなんてなくなり、慣れとは恐ろしい、と考えながら食卓の席につく。絢爛豪華な食卓とは裏腹に、鴉雀無声の空間がある。皆一人一人、己が得の為に動いていて、後は興味など欠片もない。


「...御母様、昨日はうちのに逆らってきた子会社を、取り敢えず壊滅寸前まで追い込んでおきました。」

「良くやりましたね、翔さん。これからも、引続き頑張って下さい。」


反吐が出そうな会話を淡々と繰り返す兄弟姉妹、そして親を交互に見ながら、莉菜はご飯を摂取し続ける。味も素晴らしいはずであろう御馳走は、ちっとも美味しくもなく、ただ単にエネルギーを摂取する為の物としか見ていない。故に、莉菜は食べるではなく摂取という言葉を使う。


愛情というもの、心配という概念がない、まるで羅刹の一族のよう。いや、そちらの方がまだマシかもしれない、一応仲間には優しいというところがあるのだから。そこさえない、この一族は羅刹よりもたちが悪い。


冷たい空気が食卓に膨張していく。莉奈は、そのさまを只々見つめながら、食事を摂取し続けていた。



心を抑える、ということを覚えたのは何時だろう。何時の間にか、自分の心には強く抑えている部分があるのだと、前に思ったことがある。阿諛傾奪の一族を見る度に、心に嫌気がさしたのだろう、何も感じないように努めたけれど、心の奥底には未だ深い何かがある。


少しでも触れると、瞬く間に膨張し、止まらなくなるような激しい怒りが。


触れれば危険、でも触れなければそれもそれでまた危険。扱いに困るところだと自分の心に苦笑を漏らしながら、莉奈は廊下を振り仰ぐ。空が見えないことに、憎い演出だと笑うしかなかった。此処には、吹き抜けの天井がない。


自分もあの一族の一員だと考えると反吐が出そうになる。濁った血反吐が。でも、それさえ出せない自分は...只々己の無能さを遠くから虚しく見つめながら、彼らに従うしかなかった。涙を零すことも許されず、立ったまま静かに、でも激しい怒りを溜め込んでいた。




反吐の吐きそうな朝餉の後、学校に行く途中、お友達の美佳さんが、微笑んで「私も一番脆い物質、見つけたいわ。」とニコニコしながら言った。こんな家族を持っている私でも、美佳さんの天然さには笑ってしまう。とても素敵なお友達だと改めて思い返しながら、莉奈は白い歯をこぼし続ける。


「そうしましょうよ、一緒に見つけましょう。」

「あら、楽しみだわ!!」


百合を象った装飾をつけた学生鞄を片手に美佳が器用にくるくると回る。それから、「頑張りましょう。」と優美に言う。莉奈は顔を綻ばせ、勿論ですよ、と返した。


羅刹の一族の、毒牙が彼女に迫っているとは分からずに。




「惨めねえ、貴方。」


隣に横たわった何かを見つめたあと、母が笑いながらそう言った。歪んだ笑みが、莉奈の視界を遮る。冷たい空気を纏った女が、静かに、だけど不気味な笑いを浮かべながら此方へと近づいてくる。不快極まりない、苦い感じを味わいながら、莉奈は立ったまま、彼女を睨めつけた。


「貴方、まだ駄々捏ねてるのね、惨めよぉ、惨め。」


母の手には、木刀か何か硬そうな物がしっかりと握られている。その先端には、濁った赤色のものがこびりついており、気味の悪い色を作り出していた。下に横たわっているのの横に、百合を象った装飾が見える。瞬時に、誰なのか気付いて、莉奈は顔を歪めた。


「こんな友達は、貴方には合わないわよ。身分が違いすぎるじゃない、ねえ?」


意気揚々とそう言う母を、莉奈は震えながら見つめる。美しい白い指が、莉奈の頬を優しく撫で、それから離れた。


「そもそも貴方にはもっと良い人達がいるわ。身分の良い、丁度良い人たちが、ね。」


ゴリッ、と不気味な音を立てて母がハイヒールで彼女を踏み、蔑みの言葉を呟いた。聞き間違いでないのなら、「汚い鼠共め。」と。怒りが込み上げてくる。純粋な、怒りが。目の前が真っ暗になった。




静寂に包まれた空間で、莉奈は「ははっ。」と乾いた笑いを漏らした。虚無感が心から湧き上がってくる。顔についた血を、袖で拭い取ったとき、不意にあることが頭に浮かび上がった。


一番脆い物質は...人間なのだと。


呆気なく、殺せる。私でも、他の人でも。


匕首(あいくち)が良い人を、たった一人でもいいから見つけられたり、或いはたった一人でもいいから、良き薫陶(くんとう)を受けれる人を見つけられたり。そんなことさえ、人間は叶えられない。壊れていく、すぐに。


光がちらちら窓から見え、騒音や叫び声が聞こえてくる。ドタドタ、と階段を大人数が駆け上がる音が聞こえる。



崩れてく、こんなにも早く。脆く。虚しく。容易く。


もう二度と戻れない凡常を、崩れる凡常を眺めつつ。


莉奈は零した涙を袖で拭って、微笑んだ。

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