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#黒いカラスと死に損ないの少女と影うつろいの求道者(6月2日)

#黒いカラスと死に損ないの少女と影うつろいの求道者(6月2日)


「う~…」

 翌日もびっくりするぐらいの青空で、家から出たばかりのビイトは思わず目を細めてしまう。

 南の方のこの土地では夏の訪れがちょっとだけ早いらしくてすでに太陽は高い位置にある。

 今日も雲ひとつなくて、向こう側の壁の真っ白がひときわよく見える。壁は高く、切れ目なくこの街を囲っているのだ。

 ビイトは商店街の目の前を通って学校へむかう。どの店前も掃除されていてゴミなんてひとつもない。

 都会とはおよそ程遠いここだが配置された緑緑や整った町並みを見るといつも足取りは軽いのだけどそれも学校に近づくたびに失われていく。

 商店街を抜け、お城の前の交差点、ここを左に曲がってしまえばもうビイトの通う学園はすぐそこだ。

 ちょうどこの辺りからビイトと同じ色の制服がいっぱい。ほとんどの人は学区が違うためビイトと通学路が重なるのはこの辺りからなのだ。

 グループからこうやってつまはじきにされることを羊の群れの中に混じった狼だなんて気取った表現があるがビイトにはそれは当てはまらない。確かにビイトはオオカミの牙に当たる徹底的で圧倒的な暴力の象徴、イルフィンガーがある。けれどそれは牙というにはあまりにもおぞましくすさまじい。食肉に換えるために、命を守るために向かれるのが牙だというならイルフィンガーに与えられたものはあまりにも過剰だ。肉片すら残さずとかしつくす汚泥を生み出す指。

 行ってしまえばビイトは日常の破壊者なのだ。だから敬遠され、疎まれ、おそれから時として攻撃を受けることもある。

 ただビイトはそれを攻撃だとは思っていない。みんなはみんなの日常を守る、つまり正当防衛だと思っている。自分にはそれに抵抗する資格も権利も最初からありはしないのだ。

 だからと言って全くの平気と開き直れるわけでもない。後ろを歩いている女の子がやたらひそひそとしゃべっているのはビイトへの呪いの言葉ではないのだろうか。でも耳をそばだてる勇気もないし、急いでいる男の子がまるで大きな壁でもあるかのように大きく回ってビイトを追い抜いていってしまうのも、ビイトは打ちのめされてしまう。

 結局ビイトはうなだれ下を向いて歩く。ここから学園までは建物より地面の模様の方が見慣れているのだ。道路の白線の途切れている位置だとか、埋め込まれているタイルの欠けている場所だとか。

 今日もそんな風にビイトはお日様をさけるようにすみっこによって歩いていた。

 が、だからと言って平穏は難しい。

「あひぃっ」

 背中を思いっきり突き飛ばされビイトはよろけてしまう。小柄なビイトに耐えきれるはずもなくそのままビタン、と地面に手を着いた。思わず手を確認する。真っ黒な手袋は破けてはいない。よかった。でもほっと一息もつくわけもいかず恐る恐る顔を上げると、カバンを肩から提げた男子が自転車で走り去っていく後ろ姿だけが見えた。

 ぶつけられた。それはすぐにわかっているんだ。

「ごめんなさい…」

 その背中を見送りながら口の中で呟いた。

 真逆のようなその言葉もビイトにとっては至極当然だった。この世界の加害者はビイトただ一人、それがイルフィンガーと腐ったヘドロの詰め合わせとして存在しているビイトが導き出した結論なのだ

 ちょっと泣きそうになってきてビイトは黒手袋越しに目元をグシグシぬぐうとやっぱり地面を見たまま学校に向かってまた歩き出す。

 すぐに校門が近づいてきた。門柱に学校名が刻まれただけの古い公立校だ。

 門をくぐるとビイトは一年生の教室がある一号校舎に向かって歩き始めた。この学校は二つの校舎が渡り廊下で繋がり、コの字状になっている。それで一号校舎は校門から向かって奥の方だ。中庭にはわりと大きな木が植えてある。それはこの学園の最初の卒業生の記念植樹、ということらしく40年ぐらい前に植えられた木らしい。その木はいつも青々とした葉っぱをいっぱいつけていて、それが太陽の光を浴びると余計キラキラしていて、思わずみとれてしまう。

 ビイトが好きなのはそういうことなんだ。

 そういう風に世界のすばらしさ、そのひとつひとつを感じてしまう、確認できてしまう、そんなときだけこの真っ赤な目も、真っ赤な髪も、そして手袋の中に納まった枯れ枝みたいに節くれだってねじれた指先だって、少し忘れることができた。

 今日もビイトはちらり、とその木を横目で見ながらタイルが敷き詰められた道を校舎に向かって歩いていた。

 枝枝が激しく擦れる音が聞こえたかと思うとすぐにドンという衝撃がビイトの鼓膜を全身を揺らす。

「あはゆあっ!!」

 変な声がでた。思わず肩を震わせると、恐る恐ると木の方をよおく見てみた。枝が大きく揺れ、緑色の葉がざわざわと、そして舞い散る。

 何か落ちてきたのかな、と視線を下げていくと…

「…失敗だ」

 音の正体は昨日逢ったあの少女、那烙だった。べちゃりと地面にうつぶせに崩れた姿勢からギギギと聞こえてきそうな様子で身を起こす。

 支えを失った人形のような歪な姿勢で立ち上がると制服についた汚れを払い始めた。

 那烙は今日も学校指定の制服を校則どおりきっちりと着こなし、首元には季節はずれのネックウォーマーをかぶっている。

 がその長い黒髪の節々に緑色の葉っぱが絡みつき顔とネックウォーマーは砂にまみれている。

 というよりも…血が出ちゃってる。頭部から額と頬を伝ってネックウォーマーを赤く染める一筋の血。ひざ下までスカートの中に隠れているから見えづらいが足もなんか、ちょっと妙な感じに曲がってる。

 え、アレ、もしかして???

 そう思ったところで那烙を見ると彼女はじっと空を見上げていた。だけどその目を見るとそれはとてもそんな優しい言葉じゃなくて、空を睨みつけていた、という方が正しいのかもしれない。

「な、那烙さん…その、保健室…行かないと…」

 ビイトは震える声でそれだけ絞り出すのが精一杯だった。本当はすぐにでも手を引っ張っていきたかったけれど昨日の声が頭に蘇ると、勇気とかそんなものはへなへなとすぐに力を失ってしまう。

『呪いつきなんかといる方がよっぽど危ないぞ』

 この言葉はずっしりとしていて、とてもビイトにはどうにかできそうになかった。

 那烙はその声で気付いたのか、ビイトのほうに向き直った。

「言われなくても行く。じゃぁな」

 手のひらでビイトの言葉と存在を押し返す。昨日と変わらない徹底的な拒絶。

 ひょこひょこと足を引きずっていく那烙はやっぱりとても一人にして置けなくてビイトは追いかけていく。

「あ、あの、でも保健室まで送るよ」

「呪いつきがか?」

「で、でも危ないし…足、折れてるかもだよ?」

「いや、折れてるだろ、これは」

 と那烙は足をぶらぶらさせたあと眉間にしわを寄せた。痛かったんだろう。やらなかったらいいのに。

 ビイトはむりやり那烙の前に身体を割りこませて肩を貸す。那烙はビイトのほうをじっと見た。

 その目はとても冷たい。だけど嫌悪侮蔑憎しみ殺意そういうものは感じない。ビイトがそれに気づけないのは今までその種類の目を浴びせられたことがないからだ。そいつの名前は哀れみ。

 ただ知らないものだけに普段浴びせられる視線よりもビイトは得体のしれない恐怖を感じた。

 歩き出すの忘れてしまったことを思い出すぐらいの時間、まったく目線を逸らせなかった二人の膠着を解いたのは那烙だ

 むにぃ、ビイトのほっぺたをひっぱったのだった。

「な、ななななっ」

 思わず後ずさろうとするものの肩を貸しているせいで離れることができない。

「そんないやそうな顔するなら別にいいぞ、送らなくても」

 那烙はいつものように無表情というかしかめっ面というかそんな顔をしていた。

 けど指は離さずそのままでびよんびよんとビイトのほっぺたをひっぱる。加減なんてしらないから地味に痛い。涙がちょっと浮かぶ。

「い、いえこれは…その…」

「その、なんだ?言ってみろ」

「その…その…目、目が」

「目がなんだ呪いつき」

 その目が怖い、なんて一言も言えるわけがない。そして那烙の手も休まることがない。地味に痛いからマジで痛いにそろそろランクアップ中。

 ただイルフィンガー以外は触れても大丈夫とはいえこうやって他人に触られたのはいったいいつ以来だろうか。思い出せない。そもそもそんな経験があったのだろうか。そう思うとちょっと唇が緩む。

 それに気づいた那烙は今度はビイトも知っているあの目、嫌悪の色を浮かべた。でもそれはビイトの呪いに向けられたわけじゃない。

「なんだおまえドエムかマジで気持ち悪いな」

「う、上から落ちてくる人に言われたくないもん」

「なにが『もん』だ、お前男子高校生だぞ。自分がちょっと小さいからってかわい子ぶってるのはマジで痛い。お前自分の歴史がかわいいで詰まってるとでも思ってるのか。

 それにわたしとお前を一緒にするな。わたしは死にたいだけで痛みが嫌いな健常者だしお前は呪いつきの上にドエムの変態の合わせ技だ。まったくもって立ってるステージが、人間レベルの差がそこにある」

 何度も言われ続けてきてもやはり面と向かって呪いつきといわれるのは答える。おまけに変態扱いされるし人間ステージの低ランク認定されるしなおかつそれを全く否定できないのはした唇をかむしかない。

「おいおい泣くなよ。わたしみたいな死にたがりが呪いつき様なんかにかなうわけないんだから。いじめてるって思われるだろ」

 ほっぺたを引っ張るのはいまだ現在進行中。どうみても実際そうとしか思えないのだが。

 ふとその指が緩む。ビイトが那烙に目を向けるとさっきまで赤い染みだったネックウォーマーがもう半分ほど染まっている。血を出し過ぎた奈落はふらつき額に手を当てる。

「っう…あ」

「だ、大丈夫?すぐに保健室に」

 べったりと手に張り付いた赫を見つめて那烙は弱弱しく頭を振った。

「別にいい。このまま死ぬなら」

「……別によくないっ!!!」

 空気が一変する。ビイトの豹変に那烙は目を見開いた。

「な、なんだよ呪いつき。なに本気になっているんだ」

「なんでっ死にたいなんて!君は僕と違ってこの世界に祝福されているのに!愛されているのに!この世界に誰よりも誰よりも愛されているのにっ!それなのに死にたいなんて世界への裏切りだよ!背徳だ!この世に死んでもいい人間なんて僕しかいない、いないんだからっ」

「うるさいな…お前にわたしの何がわかる」

「わかるわからないとか関係ないもんっ!とにかくダメなのっ」

「あーうざい、うるさいうるさいだまれだまってろ今回はあきらめる。それでいいだろ」

「今回だけじゃなくて」

 そこまで言いかけたところでビイトの額に指が突き付けられた。

「お前は特別だから他人にあれこれ言う権利があるって思ってるかもしれないがわたしだって死にたいって気持ちを優先する権利はある。わかるか?特別なのはお前だけじゃないんだ。そもそもさっきまで小動物のそぶりを見せてたくせに急に大声を出すんじゃない。正論かざせばおまえにも正しさが宿るとでも思ってるのか?チキンがイキるんじゃない。むかつく」

 突きつけられた指が曲げられ思いっきりはじかれる。そう、デコピンだ。

「あうっ」

 肩を貸してるせいで額を抑えることもままならずじんじんとする痛みがビイトを襲う。涙が出る。

「いちいちオーバーだ、さっさといくぞ」

 運ばれる側なのにこの那烙という女子生徒はその傍若無人を崩すことはないのだ。そしてビイトもそれに逆らえるほどのメンタルはないんだ。


 那烙を保健室へ送り届けるとビイトは遅れて教室に向かった。授業開始のチャイムはキンコンカンとなっていてビイトが、遅れました、すいません、なんていいながら教室に入った瞬間、教室は一時停止を押したみたいに動きがぴたり、と止まった。

 ビイトがドアの前でおろおろしていると時計の秒針みたいになにごともなく授業が再開して、さっきまでと同じ、ビイトなんて存在が教室に入ってきたことなんてなかったことにされる。やっぱりビイトは一人ぼっち、さみしく窓際の自分の席に着いた。

 醜いアヒルの子、という話があったけれど、僕はそれみたいなものだなぁ、なんてビイトは思う。一目でわかる呪いつきのビイトはいつだって仲間はずれだ。白に黒が混じるように、真っ赤な目と真っ赤な髪、小柄な身長、捻くれた指、体内ヘドロ、どれをとっても目を覆いたくなるほどに醜い。だからといってあのお話みたいに最後は黒いカラスいつかカラフルに、なんて夢想するほど無神経に未来の希望を信じることもできなかった。おとぎ話とは違う。

 結局呪いはどこまで行っても呪いで祝福なんて言葉に置き換わるはずもなく。

 たしかにビイトのこの呪われた指は誰かを傷つけよう、誰かに復讐しよう、と思うならとても役に立つ力なのかもしれない。なにしろ触れてさえしまえばそれは腐り落ちるなれの果てと化す。

 ビイト自身もそう思ったことは実はちょっとだけある。でもすぐにそんなことは、バカらしくなって首を振ってしまう。

 なぜならビイトはこの世界が大好きなんだ。白い壁、青い空、輝く太陽、そういうもの全部をぎゅっと抱きしめて眠ってしまいたくなる。それにビイトはこの世界に生きる人たち、みんなが大好きだ。みんなにはこんな素晴らしい世界で幸せになってほしいと思う。温かい場所で、涼しい場所で、家族のそばで、恋人のそばで、それぞれの居場所で幸せになってほしいと思う。

 だからそんな世界と人たちを傷つける、なんてバカなことはできるわけない。

 ビイトは窓の外を眺めながらとりとめもない考えに思いをはせる。いつものように斜めに傾いた塔が目に映る。

 この塔は学校の施設のはずだが校舎とかは鉄筋コンクリートなのにたいして、あの塔は石造りで古い、中世の時代から抜け出したようにくすんでいる。この学校よりもよっぽど歴史があるはずだ。まるで日本の建築のように思えない。絵本に描かれる中世西洋の世界観から抜け出してきたようだ。ツタに覆われてこそいないものの塔のそちらこちらはカビみたいに苔がこびりついている。そして見てるだけでいまにも倒れそう、と不安がざわざわと掻きたてられるまでに斜めに傾いている。

 この塔が何のために建っているか、いつ建てられたものなのか誰もくわしいことは知らない。そして中がどうなっているのかも。ほとんどの人はあの塔について考えることをもう諦めたのか改めて口にする人は誰もいなくなってしまった。

 ただ塔の最上階に当たる部分には大きな時計盤が据え付けられている。もしかしたらかつては時計塔としての役割を果たしていたのかもしれない。ただし長針と短針は動くことなく時間でいえば4時25分で固まってしまったままだ。

 ビイトは毎日毎日、ずうっとあの塔を見ている。おかげで窓の数やバルコニーの位置からあの塔が六階建て、とかはっきり答えられるのはひょっとするとビイトだけかもしれない。

 塔の向こう側に白い壁と青い空が見えた。高いし、遠い。目に見えているのに、届かない。でもここからは出ることができない。

 出たい…?なんだろう?ビイトは今一瞬自分の考えたことがよくわからなかった。壁って越えることができるの?越えたからってどうなるの?ため息を重くついてからビイトはもう一度じっと、塔を見た。なんだか胸が押しつぶされるようで、これが不安なのかそれとも別の何かなのかよくわからないでいるとチャイムが鳴った。

 休み時間になるとあっちこっちで人の集まりができる。

 でもビイトの周りには誰も来ない。もはやビイトとクラスメイト、いやこの世界の住人との間にできた異様な空気の吹き溜まりはゆるぎなくかき消しようない。何度かビイトだって席を立ってみんなの輪に入りたがったこともあったけど今はもう諦めてる。大人しく席についている。近寄るだけで眉をひそめる、それはまだ優しいもので面と向かってののしられることも、近寄るなと拒絶されることも、そしてやめてと怯えられることだってあった。ビイトなんて動かない方がいいんだ。どうして自分はすぐに人をいやな目に合わせるんだろう。

 そんな暗たん鬱々した学校生活を送るビイトにもほんのわずかな光がある。

 それは

「…さまぁ…いとさまぁ…」

 したったらずの声でビイトははっと顔を上げた。

「むぅ~、びいとさまぁ、またメギドドアーばっかり…ひどいひどいひどいですよ、目の前にはみたまがいるですよ?」

「あ、ご、ごめんね…」

 この女の子の名前は玉串三珠たまぐしみたまといって、同じ年齢というにはちょっと小首を傾げたくなるほどなのだ。うん、大人びているっていうわけじゃない。そのまったく逆。中学生でも通用するのかな、と心配してしまいたくなるのが彼女、みたまなのだ。顔の作り、小さな体型、ぺったんぺったん。それ以上にたとえば小首をかしげたその様子、しぐさ一つ一つがみたまの幼さを演出していた。今日は髪を両脇で結んでツインテールにしている。ただそれでいえば小柄なビイトも似たようなものだ。

「ごめんねですんだらけーさついらないですぅ…うぅ~」

 みたまは胸の前で両手を握ってビイトを恨めしそうに見上げた。え、と喉をつまらせながら思わずイスからのけぞる。

「けーさつ、いらないですかぁ??ねぇねぇ、ごめんですんだらけーさつ、いらないですか??」

 こんな風に責められてもビイトとしては一体なんと答えていいのやら…はっきりいって全然見当がつかない。むしろ言語の処理と倫理の正当性が全くかみ合っていないとしか言いようがないのだ。

「いや、警察はいるんじゃないかな…?」

「じゃ、メギドドアーばっかりみないで欲しいですぅ…それより、なにか、なにかいうことないです?ねぇねぇ、びいとさまぁ」

 ちなみにメギドドアーというのはビイトがよく眺めているあの斜めに傾いた塔のことだ。といっても正式な名前でなくそう呼ぶのはこの少女、みたまだけである。メギドといえばゲーム、ラノベ等ファンタジーでよく目にするが意味でいえば神と悪魔の最終決戦、つまりハルマゲドンが行われる場所を指すのだという説もある言葉だ。そんな歴史や威厳をまとったものものしい言葉がこんな公立高校の片隅にそびえたつ古びた搭にあてられているのか、そしてなぜタワーじゃなくて、ドアー、扉なのか。みたまはそれに答えてはくれたことはなかった。まぁ目の前にいるお世辞にも思慮深いとは言えない考え足らずな少女のことだ、それこそ本当にゲームや漫画で見た言葉の取り合わせで大した意味はないのだろう。

「え、えと…」

「う…うぅ…」

 みたまが両手を握って頭の横に持ってきたのでビイトはやっとで髪型のことをいっているのだ、とわかった。でもみたまといえばしょっちゅう髪形を変える。それは食堂の日替わり定食みたいなものでその日の気分で降ろしたり上げたり結んだりまとめたり、逆に続けて同じ髪型で登校する方が珍しかった。そんな風だからいつものこと、逆に日常過ぎて別に何も思っていなかったんだけど、それがみたまには不満らしい。

「あ、髪型、変えたね、うん」

 ビイトは慌てて付け足すようにいうのだけどみたまはぷくぅ、と風船のようにほっぺたを膨らませるだけ。

「うーーーいいですいいです、別に、もういいですぅ~!!どうせ、みたまのこの髪形、かわいくなかったですよぅばーかばーか!みたまってほんとバカ…うぅ」

「いやいや、その、みたまさんはいっつもかわいいからっ…あ、あう」

 とっさに取り繕った一言。ビイトは言ってしまってからみるみるうちに赤面してうつむいてしまった。何しろ無視されたり虐げられたりするうちにただでさえ陰気でコミュニケーション下手になってしまったビイトにはそんなロマンス小説のような歯が浮く一言が自分の口から飛び出したことで一気に体の血が沸騰しそうだ。ビイトの身体に流れてるのは血じゃなくなれの果てだが。

「ほ、ほんとですかぁ?びいとさま」

 言葉こそ疑っているもののその表情を見ればすっかり機嫌が直っているのがわかる。

「え、そ、そうだよ。うん…あ、あといつも言ってるけど、さまはいらないよ。びいと、で僕は充分だから」

「でもでも、だってびいとさまはびいとさまですよぅ。さまをつけろデコスケ野郎ってやつですよぉ。だからこれでいいんですぅ。

「で、デコスケ野郎??」

「様式美ってやつなのです!萌えの基本はお約束とギャップの組み合わせなのですからみたまは古今東西インターネッツまでのありとあらゆるお約束に詳しいのです!それもこれもびいとさまの満足感をたかめるためなのですよ?我々の業界ではナンバーワンの実績と顧客満足度を誇るのです!どうです?みたま、えらいですよね」

「へ、へー…」

 いきなり業界なんて言われても一体どの業界なんだろ…壁に囲まれたこんな狭い世界でもまだまだビイトの知らない世界がたくさんあるんだなぁ、と窓の外に目をやる。

 その視線の動く先に気づいたみたまは露骨に眉間にしわを寄せた。子供が無理やりピーマンを口に詰め込まれたようなむえーっとした表情を隠す気もない。

「…それにしてもびいとさま、よく飽きもせず毎日メギドドアーを見てるですね。おもしろいですか?」

 いつもニコニコ笑っているようなみたまなのに、メギドドアーに関してはまるで吐き捨てるように言った。別にメギドドアーこと斜塔を見るつもりはなかったのだがこの話題の時ばかりはいつも知っているみたまと同じ女の子とは思えず気持ち悪さを感じる。むしろ不気味さだ。ちょっと思考の方向がぶっ飛んでいることがあってもみたまという女の子が何かについてはっきりとネガティブ感情をまき散らすタイプにはどうしても思えないのだ。あるいはそんな女の子がぶちまけたくなるほどあの斜塔とみたまの間には因縁、確執、割り切れないものを抱えているのかもしれない。

「みたまさん…メギドドアーについて、何か知っているの?」

 みたまはビイトをじっと見つめては視線を落とすことを何度か繰り返した。そこでようやく口を開いたころにはいつもの笑顔は完全に顔から消えてしまっていて同時に幼さも消えた整った容姿だけがそこに残る。急に大人びてしまったかのようだ。

「あの塔には死にぞこないの人でなしが住んでるです…やなやつです、いつもあの塔から見下してばっかり…」

 死にぞこない、真っ先に浮かんだのは昨日知り合ったばかりの女の子、那烙だった。というよりもビイトの知っている人たちの中で唯一の自殺未遂を繰り返すのは彼女だけなのだ。

「あ、びいとさま、今、他の女の子のこと考えたですね?」

 じと、とみたまが睨みつける。ギクリ、とビイトはしどろもどろになりながら言葉をつないだ。

「え、あ、なんで…?」

「ひ、否定しなかったですぅ!!うあぁぁん、やっぱり、他のっ他のっ女の子のこと考えたですね!!

 うにゅる、なんでですかぁ?まだまだみたまは萌えキャラ道を修めきれていないってことですか!?

 さすが冥府魔道よりも厳しいといわれる萌えキャラ道。びいとさまのはぁとを掴むためにはまだまだ萌えの境地に近づかなきゃ…みたま、頑張るですぅ!!ファイトー、ファイトファイト、み・た・まー!!」

 かわい子ぶるなと今朝言い放たれてしまったビイトだがそんなビイトにとってみてもみたまの使ううにゅるやら演出されたバレバレのあざとさはちょっときつい。もちろんそんなことは口に出すことはできないのだが。そんなビイトの心中はまるでお察しされずみたまはぎゅっと拳を握るとどこか遠くのほうにまるで萌えキャラの星でもあるみたいに睨みつけながらさらなる萌えキャラ道へまい進することを誓った。

「あ、あの、でもみたまさん、そんなに頑張っても、僕、萌えキャラが何なのかよくわかってないんだけど」

 だから別に頑張らなくてもいいよ、という言葉はさすがに飲み込んだ。多分これはみたまというガールを徹底否定する言葉のような気がするのだ。

 みたまはじっとビイトの目を見た。それはふざけてなんていない、とても真剣そのものだった。さすがのビイトも少し引いた。

「びいとさま、自分の胸に手を当ててみるですぅ」

 その迫力に気圧されてビイトは言われるままに自分の胸に手袋越しの手のひらを当てた。

「それで、目をつぶるです」

「?」

 それにも従う。視界が消える。

「今、見えているもの、それが萌えキャラなのです」

「え!?」

 思わず間抜けな声がでてしまった。いやいや見えたものなんて何も無い!あえていうなら真っ暗闇だよ!まるで禅問答のようにつかみどころのない、みたまの話にビイトはますます萌えキャラが何なのかわからなくなってしまった。それとも萌えキャラの未来はお先真っ暗という高度な皮肉だったのか…いや、みたまの性格だとそこまで考えが回るはずもない。

 おりしもちょうど、休み時間終了のチャイムが鳴る。

「う、とりあえず今回はここまでですぅ。つ、次はもっと萌え萌えさせちゃうですからっ!!か、覚悟することっ!!」

 ビシィ、とみたまはビイトに指を突きつける。

「と、これがまぁ、萌えのひとつ、ツンデレですぅ、びいとさま、わかったですか?

 で、でもツンデレなんて萌えの中でも古典的かつオーソドックスかつメジャーだからさすがにわかってるですよね!こ、こんなサービスめったにしないですぅっ」

「い、いや、知らないけど」

「うぅ、ばかばか、びいとさまのイジワルですぅ…全然わかってないですぅ…」

「ご、ごめんなさい…」

 ビイトの言葉にみたまはすっかり肩を落としてしょげながら自分の席に帰っていった。


 放課後になってしまうとビイトはメギドドアーの前に立っていた。

 ここは学園裏の敷地。校舎裏には不自然なほどひらけた原っぱがある。もともとは取り壊して武道館でも作る予定だったのかもしれない。が結局建っているのはこの斜めに傾いだ塔。学園斜塔、みたまの言葉でいえばメギドドアーだ。

 改めて目の前にするとすさまじい圧迫感を感じた。それは今にも倒れてしまいそうなほどのこの傾きから湧き上がる危機感、そんな言葉で説明できるような感触のものではない。身の危険、命の危険、存在の危険、そんなものではなくそれよりも軋轢、焦燥感というか、限られた時間、限界、リミット、自分でもよくわからないもやもやがビイトの身体に流れていた。

 今はこの塔に不吉なものを覚えていた。

 それは、みたまが言った言葉。『死にぞこないが住んでいる』

 頭の奥底が警告でも放つように疼く。ビイトは頭を振ってその感覚を追い出すと気を取り直した。死にぞこないと呼ばれるこの斜塔の住人。

 それが那烙のことだったらいいな、とビイトは思う。死にたがっている那烙さんを止めてあげたい。

 那烙さんは僕と違って呪われてなんかいないんだからその気になればきっとこの世界で楽しく過ごせるはずなんだから。

 そんなことを考えながらビイトはもう一度メギドドアーを見上げた。

 …アレ?アレアレ?

 ビイトは思わず目元をグシグシとこすった。見間違いじゃない。六階のバルコニー。そこに女の子が立っている。その真っ黒な長髪に首元に巻いた白いネックウォーマーですぐに那烙だってわかった。

 那烙はしゃがみこんでなにかしている。そして首に何かすると、バルコニーの柵を乗り越えようとしていた。

 ダメ!!止めないとっ!!

 そんなことしちゃうとパンツが見えちゃうよっと目を覆ってから、ビイトは自分の間違いに気づいた。

 違う、落ちたら死んじゃうよっ!!ビイトは走って那烙の真下に。だけど、那烙はそのとき、ちょうど柵を乗り越えたところだった。

 ビイトは両手を広げて那烙を受け止めようと、でも怖かったので思わず目をぎゅっとつぶった。

 …那烙はいつまでたっても落ちてこなかった。

 他のところに落ちた?でも全然そんな音もしなかったし。ビイトは恐る恐る目を開ける。

「あ」

 那烙はブランブランとまるでミノムシのように風に揺れていた。

 それでビイトはさっき、那烙が何をしていたのかわかった。首吊りの準備だ。

 とわかったらこんなのんきにしている暇はない。

「な、那烙さんっ、那烙さんっ!!」

 ビイトと目があった那烙はつまらなそうな顔をして目をそらす。ただ風に任せてぶらぶらしていた。

 すぐに助けないと、駆け出すビイトのちょうど目の前に塔に入るための扉があったけどそれは太い鎖と大きな鍵で硬く閉ざされている。

「な、那烙さーん、鍵、鍵はっ!?」

 ビイトは六階のぶら下がり少女、那烙に聞いてみるもののやっぱり那烙はぶらぶらしてるだけだ。

「そ、そんなにいつまでもぶらぶらばっかりしてたらろくな大人になれないよっ!!」

 那烙はそれでもぶらぶら。ビイトは説得に失敗した。そもそもそのぶらぶらは那烙のぶらぶらとは違う意味でのぶらぶらだ。

 そんなビイトに呆れてしまったのか完全なるシカト。

 でもよく考えたら当たり前だ。首に縄が食い込んでるというのは気道が潰れているということ。まともな応答なんて出来るわけがない。

「あ、あ~!!!」

 何をしていいかわからなくて、ビイトはとりあえず叫んだ。

「…うるさい、バカ」

 え、と思わずビイトは見上げた。一瞬那烙の声が聞こえたような。でもそんな。気付くと那烙さんはスカートのポケットから刃物を取り出していた。それは昨日、ビイトが手首を切ろうとしていたカッターナイフだ。

 那烙はそれを自分をぶら下げている縄に当てる。

 あ、切る気だ。そう気付いた時にはビイトはもう一度両手を開いていた。今度こそ受け止めないと。

 那烙はギリギリ、ギリギリ、とカッターナイフを縄にこすり付ける。人の体を支えることができる縄。さすがにカッターナイフごときではなかなか切れないらしい。

 徐々に細くなっていく縄にビイトの鼓動はバクバクだ。いっそのことすぐに落ちてきてくれればよかったのに。じらされているようでどんどんと恐怖心や不安のほうが持ち上がってくる。本当に助けることなんてできるのか、とか絶対に痛いはずだ、とか。

 ブツリ。もちろんビイトには聞こえなかった音だけど。

 ドスン!!

 土煙が舞い上がる。

 果たしてビイトの…ビイトの腕の中には…なんの感触もなかった。

 那烙はおもいっきりビイトのとなりの地面に転がっている。右手と左足が変な方向に曲がってるのがちょっと面白いポーズになってしまっているのだがここは現実なのではっきりいって大参事なのである。

「お前、ここは受け止める場面だ」

 那烙は頭から血をだらだら流しながら倒れこんだまま顔だけを何とかビイトのほうにむける。

「ご、ごめんなさい」

「ちっ…また失敗だ。なんでこんなに死ねないんだ。この高さなら死んでもおかしくないのに」

 那烙はすぐに立ち上がるとスカートに、そして髪に付いた土を払う。そして忌々しげに自分が落ちた場所を睨みつけた。塔の先から射す太陽が眩しい。

「え、えと、大丈夫?」

「わたしを見て大丈夫と思うなら目医者に行け」

「で、ですよね…」

 たしかに頭からだらだらと流れた血は那烙のネックウォーマーを赤く染めていた。でもしっかりと両足で立っているし、眠たそうな、不機嫌そうな顔を見ているとたいしたこと無いようにも思えてしまうのだ。不思議。塔が斜めに傾いているとはいえ6階、おおよそ15メートル以上の高さから落ちてこんなものだと大丈夫といっても差し支えないような気もしてくる。

 そんなビイトの推察など全く気付くことなく次は空を睨みつけた。

「くそ…最近は滅多にあいつすら来なくなったし…どうなってるんだ…」

「あいつ?」

「お前にはどうせ見えやしない」

「え…?」

 そこで質問は終りだ、とでも言うように那烙はくるりと背を向ける。誰かの理解なんてまったく求めてはくれない。

 死にたい以外にも那烙は孤独と孤高を守ろうとしているのかもしれない。ビイトはだれも基本かかわろうとしないが那烙は自ら誰にもかかわらないようにしているというか。

「そ、その保健室とかはっ!?」

「必要ない。朝も世話になったばっかりなのにそう何度もいけるか。お前も見ただろ、あの女最近私に無遠慮というか顔がもう来るなって表情隠してないからな。というかもともと保健室なんて行きたくもないし、血の手入れぐらい自分でもできるしあいつがいなけりゃ死ぬわけもない。手首に続いて飛び降り、首吊りも失敗となればまた新しい死にざまを見つけるしかないのか」

 那烙はつかつかと斜塔の扉へと歩いていった。両開きの扉には太い鎖と南京錠でしっかりと施錠されている。

 那烙が6階から落ちてきたってことはさっきまで中にいたってことだから外からしか施錠できないこの扉はいつの間にか施錠されていたことになる。が、ビイトは違和感を覚えるというかそこまで気が回らなかったし当の那烙もそのことをなんとも思っていないようだ。

 そしてガツン、と南京錠に一撃、蹴りを入れる。錠の位置は腰以上、胸未満といった高さなのでたぶん正面から見ていると校則通りののキッチリスカートの那烙といえどそれなりのサービスショットになっていただろう。カチンと錠は跳ね上がりそのままどさりと落ちてギギギ、と扉が開く。

 え、なんてキック力…いや、こういう仕掛けなの?ビイトがすっかり混乱していると那烙が振り向く。

「わたしは今から顔を洗って拭くぞ。どうする。来るか?」

 那烙は聞くけれど、それは問いかけというより、命令、オーダーなのだ。ビイトははい、としか言えないイエスマン。

 メギドドアー、ビイトがずっと眺めていたところ。正直言えば入ってみたい気持ちはあった。那烙はちょっと怖いけれど、まさか取って食われるなんてことはないだろうし。

 石造りの重厚な扉をくぐるとひやり、とした空気がビイトにまとわり付いた。ねばっとしていてそれは心地よいというよりも寒気のほうを感じてしまう。

 塔の中は傾いた見た目と違ってまっすぐに廊下が続いている。これでわかったのはもともと建っていた塔が傾いたいのではなく傾いたように見せかけているということだ。石造りの廊下だから照明は蝋燭のほうが雰囲気が出るのだろうが実際のところここにも現代文明の手が加えられているようでまるで病院のような青白い蛍光灯が天井に輝いている。その両脇に所狭しと並べられた絵の数々にビイトは美術館を思い出した。

「うぁ…」

「どうした、変な声を出すな」

「これ…」

 その絵の数々は全て同じ人間が書いたのだと思われた。だってあまりにも描き方がそっくりだし、すべての絵にはとある共通点もあった。

 壁にかけられた絵はそのほとんどが鉛筆でノートの裏に書いたような、そんな線描画だった。

 う…、となにかこみ上げてくるものがあって思わずビイトは口元を押さえる。でも目を逸らすことができない。まるで糸で引っ張られているかのように、ビイトの目はその絵に引き寄せられ、吸いつけられてしまう。

「ふん、いい絵だろ?それ。しょせん面の皮、という形を失えばみんなそんなもんだろう?」

「あ…」

 ビイトはなんと答えていいかわからなかった。ここに飾ってある絵。そのどれもがいびつに歪んでいる。

 例えば目の中に左目、輪郭、鼻、口、全て飲み込まれている少女。口の中に口以外の全てを書き込まれ泣き笑いのような表情浮かべた少年。タイヤの中に全て飲み込まれた車。

 一瞬にして、ビイトはこの絵、全てに共通するコンセプトがわかった。多分、一番印象に残ったものをひたすら大きく、写実的に描き、残りを投げやりに乱暴に、それこそ幼稚園の落書きと同じレベルでその中に放り込んでいる。

 ピカソがいびつに歪んだ絵を書いていたけれどたしかアレは一枚の絵に色んな角度からのカタチを収めようとした結果だったと思う。

 だけどこの絵にはそんなものはない。ただ投げやりに、わからないだろうがこれだけがオマエの存在価値だ、とあざ笑うような、そんないやらしさが噴出していた。そうだ、悪意ばっかりなのだ。

 こんな高尚な芸術、馬鹿な君らにはかけらも理解できまい、とでもいうような。

 ビイトが、この世界のありとあらゆるモノを愛しているそんなビイトが自分以外でこんなにも嫌悪感を抱くのは初めてだった。

「右に扉があるだろ?そこでまっておけ。わたしは顔を洗ってくる」

 那烙はきょろきょろとしているビイトをほうっておいてどんどんと奥へ進んでいった。

 ビイトは言われるまま右を見て扉に入っていく。今度の扉は倉庫にでも付いているような粗末なスチール製でドアノブまで付いている。全く塔の雰囲気にあっていない。ガチャリとドアノブをひねった。

 殺風景な部屋だった。石造りの部屋には場違いな、まるで事務用の簡素なグレイのスチール机がひとつ。そして病院で使っているような無感傷なベッドがひとつ。それとビイトの身長ほどの5段つくりの木製本棚。それだけの殺風景な本当に女の子がすんでいるのだろうか、という部屋だった。ぬいぐるみやポスターとかいう小物はもちろん窓にかかるカーテンも灰色一色だ。牢獄というか、監禁というか、そんな言葉がひどく似合う部屋だ。

 本棚にだけはびっしりと本が並んでいたけれど、テレビも何もない。

 椅子はそのスティール机の前に一個しかなかった同じく事務用の片袖のキャスター付きの椅子。なので座っていいのかもわからない。ビイトは手持ち無沙汰と居心地の悪さを同時に感じてしまって本棚をぼんやりと眺めた。

 『ドグラマグラ 夢野久作』『箱男 安部公房』『少女地獄 夢野久作』『黒死館殺人事件 小栗虫太郎』『歯車 芥川龍之介』『獣儀式 友成純一』『変身 カフカ』『異邦人 カミュ』『屍の王 伊佐名鬼一郎』『超人間X号 海野十三』『ドリルホールインマイブレイン 舞城王太郎』…

 名前を聞いたことあるのは芥川龍之介ぐらいで読んだことあるのはひとつもなくて。ほとんどの本が黄ばんだ背表紙なのでかなり年季が入っていることだけはわかった。

 ぎぎぃ、と背後から音が響きビイトはびくつきながら振り返った。

 タオル片手に髪を拭き拭き、那烙がそこに立っている。ネックウォーマーが真っ白になっているところを見ると新しいものと付け替えたらしい。服も学生服である黒いセーラーからまるで入院患者のような真っ白なものに変わっている。パジャマとかとはまた違う。生活感もない非日常な白い服は那烙の黒い髪がより艶やかに見せる。

「なんだ、ぼーっと突っ立って、どこかテキトーに座ってればよかったのに」

 などとつかつかと歩いて、那烙はぼす、とベッドに座った。

「え、えと、じゃぁ」

 ビイトは遠慮がちにイスを引いてスチール机の目の前に座る。

「…」

 那烙が来ると居心地の悪さはますますひどくなった。よく考えればビイトは自分がなんで呼ばれたかもわかっていないのだ。今朝も勢いでいろいろと言い合いはしたもののビイトは彼女のことを自殺志願者であるということ以外は名前しか知らない。本来は何も接点がない。那烙はそんなビイトの様子にかまわずにひとしきり髪を拭いたあとで口を開いた。

「なぁ、それが呪いだろ?」

 ビイトの手を指差した。ビイトはいつも黒い手袋をはめている。それは那烙が言ったとおり、ビイトの手が呪われているからだ。ビイトのイルフィンガーはありとあらゆる生きとし生けるものを腐らせるが逆に生きていないものには何の影響も施さない。鉄、コンクリート、ゴム、プラスチック、そういうものだ。

「そ、そうだよ…」

「なら、その指でわたしに触れてくれないか?死に損なっているわたしでもさすがに世界の呪いを身に受ければ死ねるかもしれない」

「だ、ダメだよっ、ぜ、絶対にだめっ!!」

 ビイトは両手を隠すように背中に回した。

「ま、そう言うのはわかっていたけれどな、言ってみただけだ。

 けど、見せてくれるぐらいはいいだろう?」

「見せるって…?」

「なに、呪いを直で目にしたことがないんだ。興味がある」

「だ、ダメだよ…汚いし…」

 ビイトは人前で手袋を外すのだけは絶対にいやだった。自分で見ることすらも嫌で一日中はずすことはない黒手袋。それにその指先の持つ呪いも。

「いいだろ?何も人を殺せといってるわけじゃない。その辺の草かなんかでいいんだ。

 ちょっと触れてみてそのイルフィンガーとやらが本当にこの世の呪いを秘めてるってところを見せてくれよ。

 行くぞ」

 ビイトの話なんて全然聞かずに那烙は全部決めてしまう。

 那烙は立ち上がるとビイトの手を引っ張り上げた。

「え、あ」

 いくら手袋をはめてるから大丈夫といってもこうやってためらわずビイトの手を握ったのは那烙が初めてだった。

「変な声出すな」

「でも、僕の手…」

「直で触らなければ大丈夫なんだろう?怯えてどうする?

 まぁこれで死ねるならそれはそれでわたしは万々歳だ。だから一向に構わない。

 なんなら呪われたお前にこのまま地獄まで連れて行ってもらっても大丈夫だぞ。わたしを道ずれにこの世の果てが地獄なんてそれはそれでとてもステキだ」

 那烙はちょっと面白そうに呟いた。

 ビイトの言葉の続きもまたずにグイグイと那烙は塔の外へ連れ出す。

 塔の周りには芝生といっていいのだろうか背の低い草が当たり一面に広がっている。

 そのうちのいくつかは白かったり、青かったりする小さな花を咲かせていた。

 ビイトと那烙はそんな中に並んでしゃがみこんだ。

 六月の陽だまりというには少し強すぎる日差しの中でも花はしっかりと根付いて優しく微笑んでいる。

「…こんなに小さくても立派な花を咲かせてるんだ…僕もがんばらな、ギャー!!」

 ほっぺたをぶん殴られた。

「人を叩いちゃダメだよぉ…」

 ビイトはほっぺたを押さえながら精一杯の恨みを込めて那烙を見た。

 でも那烙はいつもの不機嫌そうな顔のままで平然と言い放った。

「そんな、自己消失と自分に酔った、まるで鬱病患者みたいな言葉など聞きたくもない。

 なんだ、そんな言葉でわたしが『そうだね、この花みたいに強く生きなきゃ』、とでも言うと思ったか?

 馬鹿か、馬鹿か、バカがっ!!そんな酔っ払いと変わらない希望主義者の戯言など言うわけないだろっ

 あといちいちかわい子ぶるな」

「あ、痛い、痛い、痛いからっ、そういうことばっかりしちゃダメだよっ!!それにかわい子ぶってないし…」

 ビイトは背中をゲシゲシ蹴られながら一生懸命訴えるけれど、那烙はよっぽど気に触ったのかハナから聞く耳を持たない。

「ふん、あいかわらずお前はきれいごとばっかり並べるな。

 いいか、力のないやつはなに言おうと一緒だぞ。今わたしがしているように話を聞かない相手などいくらでもいるぞ。そんなやつにいうこと聞かせたいならビイト、お前が持たないといけないのは言葉じゃなく力だ。

 それも暴力だ。他人を自分のために踏み躙ることができるというひどく真っ当な精神的素養だ。

 わかるか?」

「わ、わかるわけないよ…誰だって話しあえばわかってくれるはずだし、きっとみんな、仲良く出来る方法だってあるはずだし…」

 那烙はぐしゃぐしゃと頭をかくと、ビイトを見下した。そこにある目の色は絶対的に揺るぎようもなくビイトを軽蔑していた。

「あ~…だからお前は間抜けの道化、ピエロなんだ。考えろ。

 もし、世界がそんな風に出来ているならお前のその孤独と迫害と自己嫌悪はなんだ?

 少し考えたらわかることだろ。

 お前には強さが求められているしそのための呪いだろうが」

「こ、これはまだ僕の努力が足りないから…。それにまったく友達いないわけじゃないし…」

「おめでたいな。馬鹿を通り越している」

 呆れたように那烙は深々と息を吐くと蹴ることをやめた。そこでビイトもやっとでホッと一息を付くことができた。

「で、でもほら、那烙さんも僕が言ったら蹴るのやめてくれたし…やっぱり、言葉は伝わるよ。無駄にはならないよ」

 那烙に向けて、ビイトはなんとか笑顔を作ってみせる。

「な…な…っバカなことを言うなっ!!お前の言葉に納得したわけじゃないぞっ、本当にもう、呆れ果てただけだっ。いつまでたっても世迷言、まったくこの世の不条理なんてものを知ろうとともしないその浅墓さにだぞっ。ようはあれだ…その…蹴る価値もないんだ。わかるか?愚かしいんだお前はっ!!」

 那烙は顔を引きつらせると早口でまくし立てた。

「でも、ほんとはやっぱり蹴るのはいけないって」

「うるさいっ」

 思わず那烙は立ち上がった。うわっ、怒られる、とビイトは身をかがめてじっと肩を震わせる。

「でももなにもあるかっ!!お前、本当はもう一回蹴られたいのか?どうなんだっ!?」

「う、うひゃー」

 ビイトはただ頭を抱え込んでがたがた震えることしか出来ない。そんなビイトに、もう言葉をかけるのがいやになったのか、やれやれと肩を震わせる。

「まったく…もういい、とりあえず、呪いを見せろ。わたしはそれを見にきたんだ」

「ほ、ほんとに…?」

「いいだろ、別に雑草だぞ?人間でもないし、誰かが育てた花壇というわけでもない。

 何をためらう必要がある?」

「雑草だって…その…一生懸命咲いているし…」

 背中はまだジンジンと痛むけれどビイトは言った。それでもやっぱり那烙の表情を恐る恐るうかがいながらになってしまうのだけれど。

「あまり同じことをいわせるな?

 わたしはお前と違って平和主義なんて愚かなこと、一度も考えたことないぞ。次はもっとひどい目にあわせるだけだ。痛いのが好きなのか?熱いのが好きなのか?そうじゃないなら言うことをきいておけ」

「は、はい…」

 ビイトはしょうがなく、右手の手袋を取った。

「ほう…これが例の呪い…『イルフィンガー』か…」

 ビイトの指先を見て那烙は興味深そうに目を細めた。だけどビイトにとっては見るのも嫌な、存在を消してしまいたいものに過ぎない。すべてを腐らせるこの指。泣きそうになってしまう。

 枯れ枝みたいに節くれだって捻じ曲がった五本の指。黒ずんだ茶色は汚泥の色。

 これが『イルフィンガー』。真っ赤な髪と、真っ赤な目、体内ヘドロ、それと共にビイトに与えられた呪いの証だ。

「じゃ、一度だけ、それもちょっとだけだからね…」

「前置きはいい、さっさとやってのけろ」

「…はい」

 那烙の声に気圧されながら、ビイトは震える指でそっと青い花を揺らす草に触れた。

 草はみるみるうちに精気に満ちた緑色を失い、茶色くなるとべちゃり、と粘っこい液体になって崩れ落ちていく。

 その様子に那烙は目を大きく見開ききらきらと光らせる。欲しかったおもちゃを買い与えられた子供みたいだ。

「ふふん、いいな、それ。さすがに全てを腐らせるイルフィンガー。イルフィンガーを見くびるな、その言葉に偽りないじゃないか。

 それ、人間にも利くのか?」

「試したことはないけど…多分」

「ますますいいな、それだったらわたしもうまく死ねそうだ」

 うっとりとビイトの指を見る那烙。その鼻からたらり、と血が流れる。ネックウォーマーがじんわりと赫く染まる。

「な、那烙さん、鼻血っ鼻血っ」

「む…?あぁ、興奮しすぎた…」

 那烙は汚れるのも構わず白服の袖でぐしぐしと鼻をこすった。

「気にするな、ドキドキしすぎると鼻血が出るんだ。これはアレだぞ…オマエのその『イルフィンガー』があまりにステキすぎたからついつい…なのだ…いいなぁ、ソレ…欲しいなぁ…」

 拭いたばっかりなのに、那烙の鼻からはまた血が…

 那烙の本気と狂気を感じてビイトの背筋にゾクッと悪寒が走る、ビイトは慌てて指を背中に回して隠した。

「だ、ダメだからねっ、絶対に触らないからっ。僕のこの指は人殺しのためにあるんじゃないよっ」

「…お前はいちいち人をむかむかさせるな。じゃぁあえて聞くがその指は一体なんの為にあるんだ?全てを腐らせる圧倒的暴力がお前の言うような平和的世界に必要なのか?」

「わ…わからないけど、人を傷つけるためじゃない、僕はそう信じていたいよ…」

「だけどそんな指、人を生き物を傷つける以外なんの為にある?」

「で…でもっ…ぼ、僕は…」

 反論したいけれどまったく言葉が湧き出ない。那烙が言うことが正しすぎることがビイトにも充分にわかっていた。ずっと、ずっとビイトはこの呪いと共に存在していたのだから、それが『呪い』そのものであって、どうあがいても他の物になりえないことをなによりも知っているんだ。

 むぎゅい~

「あ、いたっ、痛いっ」

 ビイトはほっぺたを押さえて那烙さんを見た。

「ど、どうしてつねるのっ!?い、今のはつねるタイミングなの!?」

「いや…なんか、お前、泣きそうな顔してじっと呪いをみてたからな…だから泣かしてやろうと思って」

 那烙は全然悪びれずに、むしろなんで怒るの、という疑問を隠そうともしない。

「や、やっぱりそれは僕が呪い付きで…僕のことが嫌いだから…?

 あ、当たり前のこと訊いてごめんねっ、誰だって呪い付きなんてだいっ嫌いだよね。ごめんなさい、忘れて」

「いや、違うぞ。別に呪い付きだから嫌いとかじゃない」

「え…?」

 一瞬、頭の中が真っ白になって、そこから急に顔が熱くなっちゃって、ビイトはうつむき加減。だけど、那烙の続ける言葉を聞くとビイトはもうがっくりなのだ。

「だって、普通泣きそうなやつみたら泣かすしかないだろ?こう、つねったりひっぱたいたり」

 那烙はすっごく楽しそうにビイトのほっぺたをぎゅーとつねってばちんとビンタした。

「ひ、ひぃ」

「あはははっ、お、お前、いいなっ、ちょ、そんなにゾクゾクする泣き顔見たの初めてだ。偽善ばっかり並べるからなおさらだっ」

 那烙はもう、体をくの字に曲げてしまって本当に上機嫌。

「や、やだぁっ、そんなことしないでよぉ…」

「そのかわい子ぶった態度がますます私をイラつかせるんだよなぁ。お前、それ、ますますいじめろといっているのと同じだ」

「う、う~~」

 ビイトは目に涙をいっぱい浮かべて那烙を睨むのだけど、那烙は笑ってばっかりなのだ。

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