♰漆黒カラス♰(7月1日)
♰漆黒カラス♰(7月1日)
朝一で天世の反応をうかがおうと思っていたのだが帰ってからの俺は子供じみた遠足前のような興奮になかなか寝付けなかった。つまり寝坊したのである。遅刻ギリギリで学校にたどり着くと天世の下駄箱を盗み見る。やはりもう来てしまっているようだ。そこに上靴はない。俺はなるべく平静を装って教室に向かう。中休みのたびに天世の様子を見に行こうかと思ったがどうしても動くことができなかった。立ち上がろうにも縫い付けられたように腰が重い。昨日の高まりが今となっては後悔として押し寄せていて正直天世のことを考えると脳漿をぶちまけて死にたい気分にすらなる。がそんなそぶりを見せることは俺にとっては敗北宣言なので平静を装う。そして俺はそんな脳漿をぶちまけたい気持ちと同時に漫画のようなドラマチック大逆転をうっすらと捨てきれないのだがそれを認めると今後のダメージのでかさをこれまでの糞みたいな人生で何度も刷り込まれているのでそんな気持ちは視界に入れてはいけないと言い聞かせる。いつものように机に突っ伏して置物と化することに集中するしかないのだ。二回打撃を加えられたが授業中もいつものように絵に描き散らそうという気分にはどうしてもなれなかった。そういう俺の対応がつまらなかったのか今日加えられた打撃はその二回にとどまった。こんなことは久しぶりだ。
変化は俺のほうにあった。授業が終わり次第すぐさま鞄をつかむのは俺の日課だった。そして下駄箱に向かって靴を履くと違和感がある。靴の中にはノートの切れ端が入れられていた。一日中かけて抑え込んだ気持ちが一気にかき乱される。心臓は痛いぐらいに動きを強め息を吐くのもつらい。ぜえぜえと乱れる息を整えるために数を数える。
この二つ折りの切れ端はまるでパンドラの箱だ。もちろん見ずに捨てることは簡単だ。でもそうはできない。そうはならない。それに全く関係ない相手からの全くどうでもいい用件の可能性だってゼロではない。そういいながらもそんなことがほぼあり得ないと俺は知っている。このタイミングでこんなことが起きる偶然ってあるか?今まで一度だってそんなことが起きなかったのに?二つ折りされた紙、ただそれだけを開くだけの動作にたっぷりと時間を費やすことになる。まるで鉄でできているかのように力と神経をすり減らす。覚悟を決めろ。何度そうつぶやいたかわからなくなったころに何とか俺は紙を開いた。
時計塔で待つという趣旨の文言と稲岸天世の署名がそこにあった。およそ女子らしさと離れた几帳面に整った文字だった。
恐怖と歓喜が同時に身体を駆け抜ける。俺は描いた絵に署名なんてしなかった。それに天世に対して絵を描いていると伝えたことも一度もない。なのに天世は俺を見つけてくれた。天世はあのアートが俺の内面が生んだ産物だと理解してくれていたのだ!
俺はすぐさま駆け出したい気持ちがあったが染みついた影日向を練り歩くくせはそう簡単には抜けない。そもそも時計塔とはこの中央校舎、その屋上にちょこんと乗せられていて塔というほど高さも尖りもなく物置のような長方形の建物だ。そしてその正面には時計の文字盤がはめ込まれている。塔の上面にはポールが立てられ入学式や卒業式、そういうなにがしかの行事の時に校旗や国旗が掲揚される。そして屋上に続くこの中央校舎の真ん中の階段のみなのだ。それは同時に他のクラス、学年、教師と出会う確率も高い。特に3階以上となれば俺の教室よりも上のフロアとなるため違和感を感じる人間もいるかもしれない。はやる足を押さえつけているうちにだんだんと俺が希望的観測に踊らされているのではないかという懸念がどんどん持ち上がって今度は重りのように足を重くする。それでもいかないという選択肢を選ぶことはできなかった。時間を確認するとまだ4時を過ぎたばかりでさすがに校舎内にはまだ少なくない数の生徒が残っている。
俺は階段の前を一度通り過ぎるそぶりをしながら上から誰も降りてきていないことを確認して登るという消極的歩法を駆使することで幸い誰にも出会うことなく4階まで登りきる。ここから先はいよいよ屋上なのだがどの学校にももれずこの学校も普段は屋上は締め切られている。ラノベや学園マンガみたいに常に屋上フルオープンなど安全面や隠れてタバコを吸うようなカスどもを増長させるだけなのでまともな見識さえあればそんなことはあり得ない。
だから俺は天世が呼び出した時計塔、を屋上に続く階段の行き止まり、そう思っていたのだがそこには誰の姿もない。
裏切られた。瞬間めぐる血が沸騰するような怒りが身体を貫いた。そのまま引き返そうかとも思ったが俺は一応階段を登りきり事務的なスチールの扉のノブに手をかける。回る。驚くと同時にすっと熱が引いた。それは天世が何らかの手段で鍵を開け待ってくれているとわかったからだ。
たかだか4階建てというのにここは地上とは違う強い風が吹いているように思えた。青い空が視界いっぱいに埋められると太陽の熱と光を手で遮りながら俺は屋上に出ると後ろ手に扉を閉める。
そして天世の姿を探して右へ左へとせわしなく視線を動かしているとその声は上から来た。
「こっちだ」
時計塔の上で待つ、の通り天世は梯子で登ったのだろう時計塔の上に立っていた。強風で長い黒髪がなびいている。が天世の表情は逆光で真っ黒に塗りつぶされこちらからは黒法師にしか見えない。声からだけでは今の天世がどんな顔をしているのか窺い知ることができなかった。
黒いシルエットの天世の左手が持ち上がる。そっちから登って来い、という意図なのはすぐにわかった。
俺はこれまたスチール製の梯子をつかみ3メートルほどの高さを登ることになる。
そこで気づいた。夏冬の混用シーズンを過ぎ、天世もついに夏服の白い半そでのセーラー服に衣替えしている。黒い服で覆い隠されていた二の腕などがのぞいていることで天世自身の存在をより際立たせる。が、スカートは今まで通りの校則をきっちり守っていた。
いよいよ天世の目の前に立つことになったがその表情は唇の右端をひきつらせたような奇妙な笑い方を浮かべているように見える。そこからは天世の意思はくみ取れない。確かに表情を浮かべているのにのっぺらぼうとでもいった風な無機質さの中に感情が覆い隠されてしまっている。
しばらくの沈黙が風の音だけを俺たちの間に響かせる。
俺は何を言うべきか?俺が何を言うべきか?とりあえず歩を進め距離を詰めようとすると天世はそれで手を制した。
「近寄るな気持ち悪い」
脳髄に直接打ち込まれた痛みに俺はふらつきそうになりながら今度は暴れだす心臓を必死で抑えると惨めに息を吐きながらバレバレでも体裁を整える。
整えられるわけがない。冷たい汗を感じながら俺は恐る恐る天世の顔を見上げた。いつもは黒いその瞳に視線を奪われることもあった。が今そこにあるのはまるでぽっかりとどこまでも続く黒い空洞。底無しの闇。そしてそれは逸らされることなく俺にまっすぐに注がれている。つまり俺は虫けらでゴミクズでそのうえカスだ。クソですらない。天世のその視線も存分に俺を叩きのめしたがそれ以上に俺が打ちのめされたのはその黒い瞳に映る、汚物がつまってるとしか思えない伸ばしっぱなしの真っ黒の髪をした自分自身。こんな時ですら曖昧な下卑た笑みを浮かべて俺は何かしら天世に許しでも請うような本当に情けない表情を浮かべているのだ。
「わたしがなんで呼び出したかもうわかっているんだろ?」
言葉の意味は分かっているはずなのに身体になじんでこない。俺はいまだに打ちのめされた感情を動かすことができずにいる。天世の瞳には相変わらず汚い面したクズが浮かんでいるんだろう。
俺が何も答えずにいるとしびれを切らしたのか天世は大げさにやれやれと首を振るしぐさをすると右手をスカートに突っ込んだ。取り出したものが握られている。
しっかりと、握りしめられている。
つまりそれはぐちゃぐちゃに丸められた紙屑だった。ゆっくりと開かれなくても知っている。それは俺が昨日天にも舞い上がる気持ちで描いた天世だ。稲岸天世だ。
そしてぐちゃぐちゃになった紙屑は俺自身なのだ。天世にとっての俺は今やその程度、あるいはそれ以下なのだ。
「最初はいったい何なのかって少しばかり気が滅入りもしたが思ったが時間がたてばたつほどだんだんムカついてきた。
お前この嫌がらせ、いったい何の目的なんだよ。
私は割とお前のこと嫌いではなかったがお前はそうでもなかったんだな。まったく勘違いが恥ずかしい」
「ど、どうして俺が…」
描いたとわかった?と続けるまでもなかった。
「お前と同じこんな気持ち悪い絵、ほかに誰が描けるっていうんだ?美徳もセンスもない。自分の悪意の塊を煮詰めただけでそれを人に食わせようって気持ちがないから腐臭漂う、かといって猛毒ですらないただただ不味いだけのゴミだ。ああいいすぎたな、腹ぐらいは壊すかもしれないな、実際わたしもムカムカしてしょうがない」
天世は笑い飛ばす。それは俺にとっての鋭い攻撃だ。目に怒りが込められているのが否応でも伝わってくる。そしてそんな感情に支配されていてもなお、天世という存在は真っ白で強い意志を込めた黒い瞳でなびく髪は陽の光を跳ね返す、人の手で作り出せない美しさを感じてしまう自分は本当に道化だ。結局目の前に立つ天世は俺が描いた天世など全く敵わない強さとアートを兼ね備えている。俺はとんでもない阿呆で自らが失敗したことをはっきりと思い知らされた。
そしてこれから先天世は二度と俺と関わり合おうとしないだろうしはっきりと断罪された俺ももちろん天世と関わろうとしないだろう。言葉で強がったところで俺にはもう天世に合わす顔がないという事実は変わらない。
顔がなくなってしまったのなら俺はいったい何なのだろうか。人ですらないのか?ならば真っ黒なカラスか?見た目は黒く、内面はただドロドロと汚い。
思考が言葉遊びの果てに逃げ出していることが天世には気に入らないようだった。
「で、いい加減お前わたしに何か言うことないのか?」
俺はたぶんここからは思い出の中の天世を繰り返し繰り返し反芻して自分の間違いを一生悔いていくのだろう。今だに天世の右手に握りしめられている紙屑はこの一か月が確かにあったという唯一の証拠になるのだろう。天世にとっては唾棄すべきゴミでも俺にとっては一か月の天世との思い出の集大成でもあった。だから。
「そ、それ…返して」
と天世の右手を指さすのが精いっぱいだった。ただそれは最も天世の逆鱗に触れる行為でもあったようだ。
「お前わたしに謝罪もなしにいまだこんなゴミクズに拘っているのか。そんなにこれがご自慢の絵だっていうのならわたしの靴にねじ込まなきゃよかったんだ。はっ、もういい、終わりだ終わり。返してやるからさっさと死ね」
投げつけられる紙屑。俺は必死に飛びつく。ひときわ強い風が吹き舞い上がる。右手を伸ばす。絶対に掴む。紙が指先に触れそうになる。逃げるように軌道を変える。さらに踏み込む。俺は足元を見ていなかった。ここは時計塔の上でそんなに広い場所じゃない。だから左足が大きく空を切ったとき倒れこみそうになりながら今聞こえたものが信じられずにいた。
「ビイトっ」
大きく引き戻された俺は目に映ったものがなおさら信じられなかった。いつの間に駆け寄ったのか天世は崩れそうな俺の制服を何とかつかんで引き寄せようとする。たたらを踏んで大きく回った俺はその次に天世が視界から奈落に落ちるのを見た。
何度もハンマァハンマァと繰り返し繰り返し振り下ろされるところを夢想し続けた。脳漿をぶちまけて死にたいなんてことも何度も思った。が、実際肉がつぶれる音は耳元にこびりついて剥がれないような粘っこさを持っていることを俺は知った。一瞬のはずの音がずるずると耳の穴から侵入していく様子は足元から真っ黒なヘドロがまとわり這い上がってくるのと似ている。ここが時計塔といっても校舎の屋上の上に立っているのだから実際のところ高さは2メートルとわずか、3メートルもない。なのにその音以降何も聞こえない。風が強さを増したように囂々と響き渡る。雲が流れる速度が速まった気がする。七月の赤い太陽がじりじりと肌を焼くのを感じながら俺は天世が落ちた側の淵をのぞき込むまで足元のヘドロを振り切るように持ち上げるように何とか歩く。
黒い髪が水面のように広がる。閉じられた瞳の瞼は長くただただ悪夢に魘されているようにすら思える。
頭から流れた血は屋上の無機質なコンクリートに吸われながら赤黒い染みを作り出していた。
口元からは荒い息が吐き出されている。
天世の首は大きく上を見上げるように曲がっていた。
もしあの首が折れているとしたら…?素人の目にはただただ曲げているようにも、あるいはその角度はあり得ないところまでいっているのか区別もつかない。天世が身動きも声を上げもしないのは頭を打っただけにとどまらず首の骨を折ったせいなのではと考えるとこんな時でさえ天世の心配ではなく自らが犯人に仕立て上げられるのではという恐怖が登ってくる俺は本当にカスなのだと思い知らされた。音が遠ざかり膝と手をついたままの俺は周りの景色が薄らいで遠ざかっていく。指の感覚も周りの熱もすべてが曖昧模糊としてきてグルグルと混じりあっていく。灰色に溶けた世界で右も左も天と地も失われ音もにおいも熱も閉ざされる。比喩表現などではなく本当に目の前が真っ暗になった。それはディスプレイの電源を抜くような一瞬の暗黒だ。俺の意識もそこに引きずり込まれる。落ちる。
暗転。
黒白。
消失。