♰漆黒カラス♰(6月1~30日)
♰漆黒カラス♰(6月1~30日)
クソッタレみたいなド田舎でクソッタレみたいな両親からクソみたいにひり出されて生まれ育ってそこにあるのはクソみたいな風景ばかりでしたので今や俺といえばクソの代名詞、どこにでもいるクソッタレ17歳。
生まれ持っての才能の欠片も容姿もそして親の財力もなーんにもない俺はどこにでもいてどこにもいけないなんにもなれない17歳だ。なるほど、お先真っ暗ってわけだ。
俺、四石博音の説明はこれで終わり。
絶望。
そうだ。
俺は絶望という言葉の意味を自覚している。
そして周りにいる人間は絶望の意味も知らない。んで笑っていられる。だからあいつらはカスだ。クソじゃない。
クソである以上臭うのは当然のことでもちろん当たり前にそいつは不快感だ。
つまり俺は嫌われ者なのだ。
賢くもない悪くもない並の頭を持つ俺は市立のなんでもない高校にかよっている。勉強に追われることもなければスポーツに打ち込むわけでもない。あるのはモラトリアムという名の嘘っぱちの自由だ。
授業の内容なんてものにまったく興味がない俺はただひたすらノートに鉛筆を走らせ続けていた。
いつから覚えたのかよくわからない。俺が唯一自ら掴んだものといえばこの絵を描くということだけだった。
もちろん誰かに見せられたものではない。
というのもこの絵は俺が今感じてる世界の歪みを暴き出すための武器だからだ。持ってるやつに持たないやつが嫉妬をしてる。そんな単純に女々しい動機じゃない。持たざるやつが持ってると勘違いして調子に乗っているのが許せないだけなのだ。そしてそれを受け入れるこんな世界も。
だから来たるべき時が来るまでは見せるものじゃない。
たしかに俺にあるのは絶望だけだった。
夢も希望もなかった。望みも幸福もなかった。
でも武器はあった。
それは世界と心中する充分な可能性を秘めている。
俺はこの武器でマトモになんて言葉の嘘を見ぬいて、そしてそれをさらけ出すのだ。
ヘラヘラと笑ってられるような、そんな生易しいものじゃないぞと。
生まれつきの格差社会で俺を含めたお前らはもう負け組なんてものに陥っているのだと。
だから俺が書く絵は真実だけを強調している。脳みそがセックスのことばっかりでいっぱいな色情狂ならばペニスばかりの面を書いてやるし、物欲に支配されていれば金を口いっぱいに詰め込んだものをかきなぐる。
授業が終わり、あちこちで席をたつ音が聞こえ始めるその前に俺は慌ててノートを閉じて机にしまいこんだ。
まるで自分がひとつのレーダーにでもなったかのように周りに気を巡らせる。
「…お、それ今週のジャンプ?読み終わったら次俺ね」
「ヤバイわ…マジでヤバい。今回の新連載神がかりすぎだろ」
「ねー昨日のMステ見た?」
「バッチリ録画までしといたっ!やっぱり上峰くんのかっこ良さはもう…」
よかった。どうやら誰も俺の話をしてはいないらしい。俺がいくら平々凡々の負け組であろうとそれを自覚していないカスどもが俺のことを口にだすのは耐えられないのだ。
ふぅーと深々溜息をつくと俺は机に突っ伏した。
相変わらず俺の周りはクラスにぽっかりあいた穴みたいで誰も寄り付きはしない。
後頭部になにかあたったようだが気にしない。クスクスした笑い声が聞こえ始めてきたけれど気にしない。椅子がおもいっきり揺れたけど気にしない。
チクショウチクショウチクショウチクショウチクショウチクショウチクショウチクショウチクショウチクショウ…!!
ぎゅっと拳を握った。この手は浮かれたカスどもと戦う武器だ。真実を描き出す指だ。だけどいまのこの俺に浴びせかけられる侮蔑すべてを殴りつけてやりた…
「何だやる気なのかよブツブツ文句言いやがって」
ばっと跳ね起きた。え、あ、きかれた?いやそもそも正面にいたなんて気づきもしなかった。
声だけで誰だかはわかったけれど、それでも俺は万が一を考えて顔を上げた。
ギリだ…このクラスの中心人物。身長も一番高いし、野球部で毎日運動しているせいで体つきなんかも俺より大きい。
そして坊主頭の下には一応、見れなくもない顔立ちだ。クラスのアホな女の幾らかはこいつに好意を寄せていることが俺だってわかる。
「…な、ないよ」
「ああ?」
カスがアホみたいな強がりしやがって。けれど目を合わすことなんてできない。
「だ、だから文句なんて言ってないから…その…」
「あーもううぜえな」
ギリは机を蹴っ飛ばす。腹におもいっきり縁が食い込む。むせ込む俺を振り返りもしない。クラスに湧き上がる嘲笑。
クソクソクソクソクソ…だから俺は何でもありませんよという姿勢をどうにか作ってなんとか寝たふりを決め込むのだ。
昼休みなんて本当に最悪だ。教室はもちろん、屋上、理科準備室、体育館前、校舎裏、どこをどうやって見付け出したのかあっちこっちで飯を一緒に食らうためのグループがはびこってる。俺はババアがこしらえた弁当箱片手に人目につかないところをただただ探したかったのだ。
それは入学した時から始まって最近やっとで見つけた。
この忘れられたのか置いていかれたのか判断できない原っぱになった更地だ。
なんてことはない。第2校舎裏からそのまま敷地をこえればよかったのだ。金網に穴をこしらえるのに1週間も要したけれど。
まぁもともとこのあたりはボロっちい民家が立っていたのだが今や住む者もなく更地になって未だ買い手がつかない。
何しろこんなクソッタレの田舎に未来を見つけることなんて無理難題に近かったし、徐々にこの町が過疎という名の死に向かっているのは大人たちだけじゃなく俺達だってなんとなく感じていることだ。今や俺が出た小学校のクラスの人数といえば20人以下になってしまったときいた。
だからそんな未来のない町でろくに手入れもされなかったので次第に雑草が我が物顔ではびこりあっという間の原っぱになってしまった。
その原っぱの真ん中に今日は見慣れないものがあった。
真っ黒く直立したシルエットはすぐに女だと気づいた。それは腰までかかる髪がなびいていたからだ。
そして違和感の理由もすぐに思い至った。
もう夏服のシーズンだというのにそいつは未だ冬用の黒い学生服を見にまとっていたからだ。惰弱な女子たちがこぞって似合いもしないスカートの丈を詰めてハムみたいな太ももを見せるのに躍起になってるこんなご時世にそいつは校則通りきっちりひざ下10センチの着こなしをしていた。それが逆に印象的だった。
髪をかきあげ女は振り向く。陶器みたいな真っ白の肌は一瞬アルビノなんてものを想起させたけどそいつは笑うでもなく。鋭い目付きで俺をその場に縫いつけるようだった。あまりにも丹念に鍛えあげられた刃物は人を魅入らせるとはよく言ったもので女の目つきはまさにそれだった。
俺は慌てて目をそらすと女は不愉快そうに眉を潜めた。
「なんだお前」
俺はすぐにそいつが誰か気づくに至った。美人だけど変わり者で男子には近寄りがたく、女子には陰口を叩かれる。プリンセスオブロンリネスと俺が勝手に名付けた稲岸天世だ。
それにしてもなんだお前ってなんだ。ここに至るルートは俺が知る限りあのフェンスにこじ開けた穴、つまり俺の不断の努力の結晶しかないはずなのだ。天世は勝手にそのルートを使っておきながら我が物顔で俺に詰め寄っている。
「聞こえてるのか?」
「う、ううう、ううううるさいなっ。聞こえてる」
「ふーん」
天世は他人事のように頷くとそのまま俺の方に近づいてくる。そしてピタリ、と綺麗に2歩分の距離を取る。
なんだ俺なんだ俺なんでこんなので呼吸乱してるんだばかじゃないの?よく考えろよ、教室の中では隣の席の女子なんてこの距離よりもっと近いのだ。だから俺はこんなことに動揺する必要なんてない、ない、ない!
天世はそのまま俺のことを頭の先からつま先まで、言葉通りの値踏みをする視線で見つめてくる。
やめろやめろやめろやめろ俺はそういうのが嫌なんだ。まるで身がゴリゴリ削られるような苦痛なのだ。俺を見るな。
「お前なぁ…風呂ぐらいちゃんと入ってるのか?フケだらけじゃないか。別に髪を茶色や金色、ましてや真っ赫に奇抜に染め上げてカッコつけろとは言わないが、ちょっとぐらい身だしなみに気を付けろよ」
「そ、そんなのお前に関係ないだろっ」
自分の容姿のことを言われる。それがある特定の人種にとっては致命的なのが分かっていない。
「目の前に汚いのがあると不快だろ。言われるのが嫌ならここから去ればいいだけだ」
…
……
「ふ、ふざけ…るなっ!こ、こここは俺の場所だ。お前こそどっか…いけよぅ」
「はぁ?なにを持ってお前の場所だっていうんだ」
「金網の破れ…くぐってきた、だろ?」
「それがどうした」
「あれ、あれ空けたの俺、俺だか…ら、だから俺の場所なんだよ」
「なるほど、せっかくいい場所見つけたと思ったのに先約がいたわけか。それはすまない。
けどあれだな、わざわざ金網ぶち破ってまでこんな場所に逃げこむなんてあれか?どうせお前、ぼっちってやつだろ」
「…そ、そのまま返す。ぼっちなのはお互い様じゃないか」
天世はふぁさっと髪をかきあげ、改めて俺の目を見据えた。
「孤立と独立を同じ意味に捉えるな。私は群れない。お前は群れから外された。そうだろ?その差は大きいじゃないか」
とニヤニヤと悪意を口元に浮かべる。
けれどそんなものは。
「端から見てればどっちも一緒だろ。魂のあり方に差異があるっていうんだったら俺だってあんなカスどもに混じりたくない。カスと共に過ごすなら俺はクソでいたい。」
「ものはいいようだな」
「お互い様だ」
というのが俺と天世のファーストコンタクトだ。
厄介なやつだと思った。次の日はいなければいいのにと思った。
とりあえず俺はその日家に帰ると真っ先に風呂に入った。髪を洗った。1回2回3回、そろそろ毛根の命が心配になってやめる。
次の日の朝、俺は多分歯磨き以外の用事で初めて洗面台に向かっていた。寝癖でボサボサでさえないを通り越してあんまり自分でも見たくない姿がそこにある。中途半端にもっさりと伸びた前髪はそのまま眉毛の少し下まで伸びきっている。髪質のせいか知らないけれど俺の髪はどうしてもふわっとならずにのっぺり頭に乗っかる。クラスのなかにはもちろんさわさわふんわりな、それこそ俺より髪が長くたってそれを維持できているやつがいるのだがあれはなんだろうか?才能なのだろうか?それとも毎日鏡の前でなんかスタイリング?ジェル?良く解らんオシャレアイテムで整えているのだろうか。
などと考えていると後ろで姉貴が興味深げに、むしろおもちゃを見つけたみたいな目で俺を見ているのが鏡に写ったので慌ててその場を離れる。
色気づいちゃったのかこのーなんならセットしてあげよっかとか言われたのだがそんなことをすれば即クラスでいじり倒されるのが火を見るよりも明らかだ。
少しは天世を見返したい気持ちもあったのだけれど俺はクラスの視線が怖い。
登校して下駄箱から上靴を取り出す。しゃがみ込んで上靴を履くとおもいっきり後ろから突き飛ばされた。
額に激しい衝撃。それはぶつかった下駄箱。背中で大爆笑を聴く俺は振り返らない。反応を見せたら余計こいつらは楽しんでくるのだ。う、うううううううううちくしょう。笑い声で俺は突き飛ばしたやつが義一と特定する。今日のノートには義一を描いてやろうじゃないか、と学校指定のかばんを握りしめた。この中には俺の世界と戦うための武器、つまりはアートブックがある。
俺はこれだけはどこに行こうと肌身離さないことにしている。愚鈍なカスどもはこの芸術を理解できずに揶揄するだけだろう。だけどお前らの存在価値はそこに描かれたもの以下なのだ。
「おい、なにさっきからブツブツ言ってるんだよ、さすがにおかしくなっちまったか?」
「やだーさっきから下駄箱に頭ひっつけてなんか喋ってる…え、なに、それ、友達なの?ぷっ」
そうだ、まだ下駄箱だった。俺は意識を引き戻されると後ろを振り返らずにそのまま教室に向かって歩く。
授業中は義一の顔に傷口を描きまくってそこから指先がはみ出してくる、そんな絵を描いた。汚い本質が隠してるつもりでも溢れ出してるってことだ。
昼休みが始まるともうあんな場所にはいられない。俺はまた金網を抜ける。そこには天世がいるのだろうかと思いながら。
俺はなんか会いたくないような会いたいようなもやもやだ。正直昼休みぐらいは誰の目も感じずに落ち着きたいという気持ちもあるし、かといって昨日受けた侮蔑に髪だってしっかり洗って寝ぐせもきちんと直してきたのを見せつけたいような、そんなのもあってなどと思いながらくぐった身体を起こすと少し離れた木陰に天世がいた。
どこから持ち込んだのかアウトドア用の小さな折りたたみ椅子に腰を掛けると、片手でもそもそとパンをほおばりながら文庫本をめくっている。
どうやら俺には興味がないようでさっきからパンを食べる手もページをめくる手も止まらない。俺は改めてここは俺の場所だ!とアピールするのもできない。あのくつろぎ様は居つく気満々なのだ。しかしこうも顔を上げてくれないと俺としてもすごい居心地が悪い。なんか話しかけたほうがいいのか、と考えたところで天世になんていう?昨日言われてからちゃんと髪洗ったんだよって?今日はフケなんてないぞって?なんだそれ、カッコ悪い、というか、う、意識しすぎだろ…
あまり近づきすぎるのも余計な緊張を覚えてしまうので俺はそのままフェンスに背中を預けて直接草の上に座り込んだ。
相変わらずババアの作る弁当の中身は茶色ばっかりだ。きれいでおしゃれな弁当を食いたいとまでは言わないけど唐揚げやら煮物やらで占拠されたおかずの群々は彩りという意味では致命的だ。
俺はそれをもそもそと口に運びながら天世の様子を伺う。パタン、と天世が本を閉じた。俺は慌てて目線を弁当箱に落とす。
少し、金属が軋む音。天世が椅子から立ち上がったのがわかる。
「お前なぁ…チラチラ見たり露骨に目を逸らしたりするな。なんだ、私にいいたいことあるっていうなら言えばいいじゃないか」
「……ここは俺の場所って言ったのに」
ぐるぐるめぐって出てきた言葉はそれだった。指先で俺は自分の前髪を弄ぶ。
「ああ、それなら昨日謝っただろ。立ち入り禁止とでもいいたいのか?」
「……別にいいよ」
前髪いじりいじり。
「ふーん、なるほど」
天世はしゃがみ込んでニヤニヤ底意地悪い笑顔を浮かべている。その目線は俺に指先、つまりいじってる前髪だ。
「昨日はちゃんと洗ったんだな。寝ぐせもないしちょっとはましになってるじゃないか。なんだ、朝は鏡の前でにらめっこでもしてきたのか?このにわかおしゃれさんめ」
「べ、べべべつにそんなの関係ないだろ」
「顔真っ赤だぞ。照れすぎ。っていうか、普通寝ぐせとか髪洗うとか当たり前なんだからそんな必死に髪触ってアピールしなくてもいいのに…意外と子供だな、お前」
「……うるさい」
「すねるなよ、ますます子供っぽいぞ」
「…ほっとけ」
結局天世を追い返せずに次の日も昼休みは天世と一緒にご飯状態だ。一緒といっていいのかもわからないが。
天世は相変わらず文庫本を読んでいる。ちらりとタイトルが見えた。「侏儒の言葉・西方の人」タイトルはきいてもピンと来ないが作者が芥川龍之介ということでなるほど、化石みたいな文学を読んでいるのか。と俺は強がる。なんか本当はそういうものを手にしている時点でアートレベルが天世に負けているような気がしてるけどそれは認められない。アートレベルっていうのは単純だ。大多数で流行なんて混ざれない奴が走る、マイナーだったり古かったりする、ようは少数の通好みのための作品を愛でることでプライドを保つ行為だ。が、そういう歴史的著作者に対抗出来る俺の読書遍歴といえば…最後に読んだのは課題図書のことしか思い出せない。なんだっけあれ。寮生活の主人公が逃げようとしたりしなかったり…
「この本読みたいのか?」
天世が俺の視線に気づいてタイトルが良く見えるように持ち直す。
「ち、ちげーよ。なんか化石みたいな本読んでるなぁって思っただけだ」
「いちいち噛むなよ…もう知らない仲でもないだろ。
それにお前、化石みたいだとか言うがな、ここに書かれているのは源流だぞ。現代の小説のなかにも受け継がれている部分がいくつもある。だからいうなればこれはそれが最も直接現れた形。ある意味一つの純粋な文学の形とも言えるだろ。それはもちろん時代が移り変わって付け足されたものが不純物になるという前提付きの話ではあるけれどな。
まぁ芥川先生の言葉を借りるならこういうことだ。
『シェクスピイアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衛門も滅びるであろう。
しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。
わたしは大正十二年に「たとい玉は砕けても、瓦は砕けない」と云うことを書いた。
この確信は今日でも未だに少しも揺がずにいる。
又
打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)
又
わたしは勿論失敗だった。
が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。
一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。
無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。 (同上)』」
絶句、というか唾を飲んだ。もちろんさらさらと暗じた天世の言葉、そのすべてをきちんと意味をとれたわけではないけれど。天世を支える言葉の一つがこれであるのだろう。俺は自分の絵のことを考えた。あの絵もこの先、とにかく誰かに爪痕を残すために描き続けなければ、とか。
「侏儒の言葉はひとつひとつが磨き上げられた言葉の連なりでそのいくつかは本当に暗記してしまっているな。これもそのなかの一つ。まぁお前にとってはどうでもいいだろうけど」
「…割と考えさせられた」
「そうか?お前も文学を愛してるってわけか」
天世のこんな笑い方は初めてみる。
「俺の場合は文学じゃないけど」
「じゃあお前はって…なんかお前お前いうのもめんどくさいな。いい加減名前聞いとくか」
「……」
今度は違う衝撃で絶句した。この3日、まったく俺の名前を知らなかったというわけだ。普通そういうのは初日に訊くだろう…俺もてっきり知っているものだと思った。俺も悪い意味では目立っているはずだから。
「四石博音…」
「ひろと?どんな字なんだ?」
「博多のはく、に人でひろとだよ」
「ふうん、珍しいな、音という漢字か。なんかタイミングがいいな。ちょうどさっきハンマアのリズムについて暗唱したばかりだし…でもリズムって呼ぶと女っぽいしな…そうだ、ビイト。お前のことを私はビイトって呼ぶことにしよう。
さて、私もまだ名乗っていなかったな。私は」
「稲岸天世だろ。しってる」
「…ス、ストーカーか?」
「いや自分が悪い意味で目立ってることを自覚してくれないと。それは俺も一緒だけど。
だいたい天世って名前、天上世界ってことだろ。なんかそれってイメージと違うよな」
「いってくれるじゃないか」
「天上世界って言えば天使やら神やら善人やらしかいないイメージだから。どっちかというとそんなとこから追い出されてそうじゃないか。ツンケンしてて態度悪いし。ぼっちだし」
「最後のぼっちは余計だけどそれ以外は否定する気はしないな。
ツンケンと言うがな、私は周りが浮かれて軽いものばっかり求めすぎて私の好きなもの、そういうものをめんどくさい、意味わからない、ですぐ片付けられてしまうのがいやだったんだ。なに読んでるのって聞かれても表紙を見せるだけであぁ、とかうわそんなの無理無理とか言われ続けてしまうし。一番マシなのが頭いいんだね、か。
結局私はなんか違うコミュニティーからここに落とされたんじゃないかって思うことはあったよ。だから私はそいつらから離れることを選んだ」
「天上世界から奈落の底におっことされたってこと?
じゃあ俺はお前のことを奈落って呼ぶ。俺ばっかりあだ名で呼ばれるのも気にくわないもんな」
「なるほど天上世界から落ちてしまって奈落の底か。なんだか運命を感じてしまうな」
天世は本のとある箇所を開き指さした。
『それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子である。薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。……』
「まぁこの文節に従うと私は地上から天上に落とされた哀れな偶像ってなるわけだが」
「…そんな立派なモノ扱い自分でするな。やっぱり奈落がお似合いだよ」
その日の放課後俺は珍しく図書室によった。芥川龍之介。ちょうどよく天世と同じ新潮文庫版の侏儒の言葉と西方の人がある。芥川龍之介ぐらいの歴史と知名度があれば各出版社から収録作が異なるバージョンがいくつも出てるのでこれは助かる。そして貸し出しカードを差し出すと図書係の女子は角をそれこそつまむむように持ち上げた。まぁそれはしょうがない、俺は汚物でクソでうんこでエンガチョなのだ。当然のことだ悔しくなんてない。
家に帰るとリビングのソファに腰掛けてページをめくる。文章も、言葉も、漢字も難しくルビと巻末の注釈がなければまともに読み進めることも出来ない。侏儒が小人のことなんて初めて知った。たっだいまーなんて間の抜けた声で玄関が開く音がした。あっれーひろくんなんで本とか読んでるの?インテリ気取り~?とぐるぐる俺の周りを歩くフリーターを無視。そうするとこのフリーターはばかーなんて言いながら台所の方に歩いて行くので諦めたか、と再びページに目を戻すも台所から聞こえてくる。
おかーさん、ひろくんが相手してくれない~。あーもうお母さん今から揚げあげてて忙しいからヒロト、お姉ちゃんの相手しときなさいっ!
…俺はこんなのはなんかおかしいと思うのだ。
結局再開できたのは飯を喰らい終わってフリーターの姉がテレビに釘付けになってからだ。バラエティー番組であそこまで夢中になれる姉の浅はかさには溜息をつきたくなるのだが…まぁやっと続きが読めるのだ。文句は言うまい。薄さの割には読み終わるまでかなり時間がかかった。それでも幾つかの言葉は頷かざるを得なかった。んでまぁこんな時代から批評家批判なんてものはあるんだなぁなんて思ったり。
いつの時代だってそうだ。真のアートには敵がいる。あいつらがそうだ。
俺はそれで少し天世に近づけた。そう思っていたのかもしれない。あるいはその次の日に侏儒の言葉の話をしたときに天世が見せた笑い顔とも呼べなくもない口元をつり上げた表情のせいで天世とのこれからを期待したのかもしれない。天世は校舎裏以外ではけして俺に話しかけるどころか目も合わせようとしなかった。廊下ですれ違ってもお互いの視線は交錯すらしなかった。
ただ校舎裏のあの原っぱだけは天世は俺を見た。俺と話した。沈黙する時間のほうが少なくなって感じていた居心地の悪さというか静かな空気のいたたまれなさも薄れていき、たまに言葉が消えても別にそれはそれで風の音と太陽の光が切り取る空間がそんなに悪く無いと思えていたりしてきた。
俺はあいかわらず眼球に黒目と白目が反転したような絵を描いてこいつには現実がなにも見えてないと独りごちたり、洋服の話ばっかりするような女の頭の真ん中からどす黒い花びらを生やした絵を描いたりとしていた。
その間も俺はちょっとずつ天世の勧める本を読んでいた。図書館の女はいつまでたっても俺の指に触れようとしなかった。そうやって俺は本ばかり読み続けた。
「地獄変」「ドグラ・マグラ」「箱男」「30年後の世界」。「黒死館殺人事件」「遅れてきた青年」「獣儀式」「痴人の愛」。「クリスマステロル」。「八月の博物館」「図書館の神様」「殺人鬼」「ドリルホールインマイブレイン」。
猟奇と狂気。そして物語と小説。文学と芸術への傾倒と思考実験。そういうものに俺もわずかながら足を踏み入れてきたなぁと思ったときに天世が言った。
「そろそろお前も自分で本を探すようになってもいい頃合だな。せっかくだからこの私がお前のために本屋を紹介してやろうじゃないか。そこらの本屋のような誰かが病気で死にかけてそれで泣かせればいいとかそんな薄っぺらな死ばっかり用意した本じゃ満足できないだろ?与えられただけの力でただ悪いやつをぶっ殺すだけのファンタジーもどうでもいいだろう?白痴のように知性が奪われたようなキャラクターが萌えだなんて持て囃されるような、あるいは男の都合みたいなもののためにただ主人公を好きになるっていうプログラムを与えられたキャラクターばかりのライトノベルなんて読みたくもないだろう?」
それが日曜日の待ち合わせだったので俺は思った。これはあるいはデートなんてものじゃないのか。そして思った。なるほどフラグたったんじゃねーの?そうだ、俺は絶好調に有頂天だったのだ。だから俺は一度も借りたことのなかった、そして借りたくもなかった姉の力を借りて髪も服装も整えた。良いか悪いかよくわからなかったが少なくとも自分でやるよりはよっぽどマシのはずだから。
そしてハンマァは振り下ろされた。それは芸術の永遠を刻むハンマァじゃなく、今までの自分をぶち壊す『鉄槌』の方のハンマァだった。
学校近くのバス停で待ち合わせをして連れていかれたのは古い家並みばかり並ぶ住宅街の中にある特に年月を重ねた家だ。木造のその家は相当にくすんでいた。開かれた扉の中は薄暗くいくつもの本棚が並んでいる。店の軒先にはワゴンの中に一昔前のベストセラーとでもいうのか、名前だけ聞いたことあるような本が粗雑に乱暴に投げ込まれていた。オール100円。そうだ、これが流行の行き着く先なのだ。飽きられてしまう。誰かにとっての一生に傷なんてつけることもできない。
「んじゃちょっと待っとけよ」
ワゴンの本を手に取り小馬鹿にしていた俺に構わず天世は店の中に入っていった。
「やーしろー」
「はいはい」
聞こえてきた声は店の建て構えから予想していた爺でもババアでもない。まだ声に若さが残っている男だ。
「ちょっと今日は知り合い連れてきてるんだ」
「こんなところ…若い子にはつまらないと思うよ?遊ぶなら他の場所にすればよかったのに」
「大丈夫だ。なんてたってわたしが見込んだ本読みだからな」
「へぇ、それは嬉しいね、いらっしゃいませ」
と言って軒先から覗いたのは薄水色の着流しのようなものを来た線が細くて色が白い、そして尚且つ整った顔立ちの男。多少やせぎすに見えるところも手伝い明治だとかそんな古い時代を彷彿とさせた。
人懐こい笑顔を浮かべているその男にたいていの人間は心を許すのだろうが俺はどうしようもなく嫌悪を、というよりも恐れを持った。
そしてその理由はすぐに分かる。
「やしろは文学に心を売ってしまったような男だからな。それは真っ当なものから奇天烈なものまで何でもござれだ。とりあえず何冊か好きな本をいうだけでもお前へのおすすめを探してくれるぞ」
なるほど、これが笑顔か。天世の笑顔か。あの昼休みの原っぱではついぞお目にかかったことがない。俺には向けられない表情。
「な、なんかハードル上がってるね、緊張しちゃうよ」
「ふふん、やしろなら大丈夫だ。わたしが初めて来た時だって」
言葉の続きを訊くのが馬鹿らしくなってきた。ついでに今自分がここにいるのも馬鹿らしくなってきた。さっきまでなんか変な希望に満ち満ちていた自分の後頭部にハンマァを振り下ろしたい気分だ。脳漿をぶちまけて死にたい。
俺に対する本を探しにやしろは薄暗くて狭い店内を歩く。天世は小さな子供みたいにひょこひょこその後をついていきながら
「でもわたしに読ませる本もちゃんと選べよ」
「はいはい」
なんていってる間も片手はやしろの着流しのすそを握りしめていた。
天世がやしろに向けた視線は17歳、恋愛経験なんてほぼ皆無童貞の俺にだってはっきりわかる。
天世はやしろに恋愛感情を持っているんだ。
すっかりと冷え切った俺はその中で自分を突き動かすものを感じる。それがどういう形になるのかはよくわからんがもうその二人の会話なんてどうでもよかった。
家に帰ってからはベッドの上で天井の形を眺めている。
蛍光灯に手のひらをかざす。
絵を描くしかない。
地獄変の話をしよう。あるいはドグラマグラでもいい。共通することはわかるだろうか?
それは絵を描くという行為のために愛すべき人の死を見つめるということだ。
地獄変では燃え盛る牛車の中に愛娘。ドグラマグラでいえば最愛の妻の腐る様子をひたすら観察する。
つまり俺が言いたいのは天世の壊れるところを見たい。それを絵にしたい。
見たこともない芸術がきっとそこにはまっているんだろう。
絵に限らず、家族や恋人を死なせることで何かを為すなんてのは物語上いくらでもありふれてる。つまりそれだけ実用的で効果的なのだ。なんて俺は言い切る。
がこの法治社会で人を殺すなんて、とも俺は思う。それに俺は死体なんて物体じゃなくそこに至る苦痛、あるいは精神の死を描いてみたい。今まで俺がこの手で描き続けてきた人間の内面のゴールといえばやはり精神の終わりなのかもしれない。
それはまるで天啓のようでするすると俺のからだに入り込むとそこからはどうやって天世を壊すべきか、それしか考えられなくなった。
ドグラマグラにしても地獄変にしても死にゆく被写体ははそれを受け入れていた。覚悟を決めていたのだ。同じ事をやって俺はそれを超えようとは思わない。だから俺は壊す。
精神的に人間を壊す。心を折る。ありがちだがそれは夢とか希望を手折るか、あるいは貞操を奪うか、だ。問題は天世がどういう希望を持っていて、どれだけの貞操観念を持っているか俺は知らない。だが曲がりなりにもあの書生のもどきの男…好意を寄せる存在がいるのだ。ならば結局は強姦が安易で手っ取り早い。
そしてそれをやるのは俺では駄目だ。憎しむ対象が近くにいては今度はそれを糧に生きていくだろう。
つまり理不尽でやり場のない暴力を与えるしか無いのだ。
が、特別ではないただの17歳の俺には気軽にそんなことを請け負ってくれるレイプマンなどのつてがあるはずがなくそれこそ電脳の深淵にでも探しに行くのしかないのだろうか。だけどインターネットなんて最近は監視対象らしいしそういう書き込みを行うリスクは高いように思える。
待てよ、落書きだらけの駅のトイレに天世の携帯番号でも書き込んでやるのはどうだろうか。が、それもだめだ。俺は天世の携帯番号なんて知らないじゃないか。結局俺が天世本人について知ってることなんて名前と少しの読書傾向だけに過ぎない。
天世の秘密、天世の弱み…唯一はあの古本屋の男だが俺個人としては二度と会いたくはない。わざわざ敗北感をかみしめに行きたい奴なんてどこにいる?
次の日からの俺は授業の中休みに机に突っ伏せるのをやめた。幸いなことに天世のクラスは俺のクラスからトイレに行く途中にある。ドアの隙間からそっと覗くことも不審に思われないはずだった。
幸いなことに天世の席は教室の最後方だったのでのぞき込むようなことをしなくても位置は確認できた。
女子男子の様々な会話に満ちた教室の中でも天世はきれいに背筋を伸ばしたまま文庫本をめくっている。
天瀬は自らを群れないといった。そして俺のことを群れから外されているとも。その言葉の正しさが証明されいてる。結局俺は都合のいいサンドバックとして適当な暴力や嘲笑というカスどもの暇つぶしに使われてしまっているというのに天世は一種美術品でもあるかのようにそこにいることそれだけで敬意を払われている。お高くとまっているだとか根暗だとか、そんな陰口は少なくとも天世の認知できる範囲においては行われないのだ。
次の中休みも再び俺はトイレに行くふりをして偵察をする。教室から出ようとした瞬間首根っこをひっつかまれて引き倒されたせいで背中が痛い。幸いといっていいのかわからないがクラスの連中は無様に倒れた俺をゲラゲラ笑うだけでそれ以上のことはなかった。
天世の教室の前を通り過ぎるとさっきとほぼ同じ光景だった。痛い目にまであったのに何の成果も得られず俺はため息をつく。休み時間も終わり教室に戻った俺は授業中に返された小テストの裏に俺を引っ張ったクラスメイトはその手癖の悪い腕が顔じゅうから生え散らした絵を描く。特に汚い笑い声をあげた女は目も鼻も耳もなくただひたすら口に埋め尽くされた顔面に仕上げた。人間未満のカスどもにはお似合いだ。
昼休みは校舎裏に行くのはやめた。俺が天世を探っているというぼろが出てしまうは避けなければならない。それに古本屋のことも思い出したくない。結局断れずにあの男に買わされた本の感想でも訊かれでもしたら最悪だ。あの時途中で逃げ出すどころか断れなかったのは本当に失敗だ。その時に俺は完全に格付けされてしまったのだ。負けてしまったのだ。天世の隣に立つ権利をあきらめてしまったのだ。
あの男に買わされた本は村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』だった。今は俺のベッドの上に転がっている。
校舎裏以外の安息地はなかなか見つからなかったが幸運なことに誰にも見つからずに平穏な昼休みを過ごす。
午後からも一応偵察に行ったが天世とクラスの様子は変わらない。ただただ本を読んでいるだけだ。そして周りはそれに対して一定の距離を保っている。このままでは学校生活の中で天世の弱み、あるいは秘密を握るというのは難題にしか思えない。
こういう時に俺には相談できる相手なんていない。いや相談できる話題でもないわけだが。俺は賢さに恵まれなかった頭脳を恨みながらもそれでも無い知恵を絞る、搾りつくす。そして出した結論はマッチポンプ。つまりは自作自演。
そのあとは何をするのが効果的なのか考えたが結局は先ほども思い知らされた通り賢さに恵まれなかった。もっとはっきりといえば俺は愚鈍なのだ。なのでありがちなことからやるしかない。なおかつ犯人を特定されないように。
子供じみているのは百も承知で陳腐すぎて泣きたくなってくるのだが思いつくのはやはり私物を隠したり落書きをしたりまるでいたずらと鼻で笑われてしまうような行為だけだ。
いきなり天世の教室に入って何かをやるというのはリスクが高すぎることだけはわかる。いつも直帰する放課後を俺は人気がなくなるまでずっと1階の男子便所で息をひそめていた。とりあえずここの壁には鉛筆で『稲岸天世はド淫乱』と低能過ぎて恥ずかしくなる落書きを仕込んでおく。筆跡をごまかすために直線のみで丸みを全く帯びない文字を考慮する。マジックを使わなかったのはとりあえず簡単に消せればそんなに大ごとにならないだろうという俺なりの配慮である。というのは言い訳で正直なところ怯えに過ぎない。
1年通っていてもつまはじきものであり帰宅部の俺はこの学校のスケジュールをよく把握していない。ただ運動部に力を入れる校風ではないのは知っていたので18時には生徒の姿は消えるだろうと踏んでいた。その後は教師どもは職員室に集まるだろうし何より教師の総数など生徒に比べれば圧倒的に数は少ない上に職員用の玄関は別口だ。つまり下駄箱に何か仕掛けるとしてみられるリスクは最大限回避できる。
まだ予定の時間にはずいぶんあるので俺は下駄箱にどんな落書きをするべきか。トイレと同じくド淫乱とか猥雑なものにするか?それとも特定されにくいように学校に来るなとか馬鹿とか阿呆とかそんな思考が停止したものにするか。
そこで俺は抱えていた鞄のなかからノートが一冊覗いたときに閃いた。俺は授業にはすべて同じノートを使っているがそのうちの一つだけ背表紙の上を少しだけボールペンで塗りつぶしている。それは俺が持つ武器である印。カスの本質を暴くアート。世界に突き立てひび割れさせるためのナイフ。つまり俺がかき続けていた異形図を描き留め続けたノートだ。
思えば今の天世と打ちひしがれた天世、どちらの姿も絵に留め比較するというのはとても素晴らしいことのように思えた。それは世界最高水準の技術と芸術性に裏打ちされた建造物が天変地異でガラガラと崩れ去った廃墟を眺めることに似ている。
俺が描く異形図は早くて10分、モチーフや書き込みに手間取れば1時間以上かかることもざらだ。となるとそんな長い時間下駄箱に居座ることはできない。書いたものを張り付けるかあるいは上履きに仕込むかだ。貼り付けるとなると本人が登校する前に他の人間にはがされる恐れもある。かといって上履きに投げ込むのは本人以外の目に触れることはないだろう。
できれば衆人環視のもとにそれが天世だと認知され攻撃に晒されて欲しいのだが贅沢は言っていられないか。
となると天世をモチーフにするものは何か、だ。本がすぐに思いつく。だが本がはみ出した人体ではそれは揶揄としては弱い。本狂いなど一部の人間にとっては誉め言葉に過ぎない。もっと屈辱的な…屈辱的な、あまりに屈辱的な。
ここでさらにぴったりの何かを見つけることができればそれこそまるで小説のような仕込みになるのだろうが俺の能力ではそんなに都合がよくはいかない。あの古本屋の男を茶化した図案も思いついたがそこから俺と特定されることになっても困る。結局かび臭い文学にしがみついてアイデンティティーとプライドを守っているような女だ。
俺はノートを開くと丁寧に丁寧に天世の絵を描いた。黒い髪と黒い瞳。時代遅れを象徴するギミックとしてかび臭いからの連想で腐る。そうなると頭髪もまばらに頭蓋骨がのぞく方がいいだろう。覗いた頭蓋骨の亀裂には本が乱雑にねじ込まれている。頭頂部の左側、そして顎も腐らせる。頬肉は糸を引くように崩れ落ちる。左目も腐り落ちる。焦点の合わない左目。何事も語らない左目。右目は何の演出も仕込まずにありのままを描いた。一時とはいえ俺を捉えたあのまなざしだ。あの時の俺は本当に浅はかだった。が、それでも一度負けた俺はその目に尊敬を抱いているのも嘘ではない。
今までの一番の達成感を胸にノートから切り離す。四つ折りにすると予定通り人の気配が消え去ってしまった中央玄関から天世の下駄箱へ向かう。上履きを持って帰るタイプでもなかったようで目的のものはそこにあった。俺は折りたたんだ髪をその中に入れる。
俺は天世に絵を描いているなんてことは一度も言ったことがなかった。教室ではだれの目にも触れないようにしていた俺だがいつかは天世になら見せてもいいかと思っていた。形も向き合い方も違えど天世は天世なりにアートを愛でていたのだ。嫌がらせのために起こした行動だったのだがこうなるとまるでラブレターを差し入れるかのようだ。天世、天世はどんな反応をするだろうか。天世が好きな古い小説を読むときに見せる表情。怒り喜び悲しみありとあらゆる感情に踊らされていたがとにかく手元のものを大切に慈しんでいることだけは伝わってきていた。そしてそこに横たわる静謐さに俺は気高ささえ感じてしまっていた。俺の絵にもそういう愛情を示してくれるだろうか。