平日、動物園のランチタイム
「動物園に行きたい」
少しだけ頬を赤く染めて無邪気に笑う彼女――ユカのその言葉に、僕は一瞬戸惑った。
「東山?」
「うん。わたし行ったことないんだ。コアラ見たいなー」
彼女は動物園に思いを巡らせ、照れ隠しなのか視線を外す。二分ほど前、僕はたまたま二人きりになった学校の教室で、入学した時から思いを寄せていたクラスメイトの彼女に思い切って告白した。僕の約一六年の人生で初めての告白。最初、彼女は僕の突然の告白に驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔でうなずいてくれた。いざ告白が成功してしまうと気が抜けて何を話していいのか思いつかず、沈黙に耐えかねて〈今度、デートしない?〉と何げなく僕から話題をふった。彼女は少しだけ考え、動物園をリクエストしてきた。そうか、彼女は知らないんだよな。
僕たちの通う高校は吹奏楽部の名門校だ。彼女は小さいころからアルトサックスを習っていて、地元三重県の中学校では吹奏楽部だったらしい。そして高校でも吹奏楽を、せっかくだから名門校でと思い立ち、わざわざ愛知県名古屋市の高校にまで通っている。
デート=動物園。
多分、僕たち高校生のデートなら誰でも思いつく定番の場所だろう。名古屋の動物園といえば東山動植物園。日本で初めてコアラを公開した動物園のひとつでもあり、全国的にも有名な動物園だ。しかし名古屋市民なら誰でも知っている都市伝説がある。
東山動植物園に初デートで行くとそのカップルは別れる。
東山動植物園の手こぎボートに乗ったカップルは別れる。
ほかにもバリエーションはいくつかあるようだが、結論として別れの名所としても有名なのだ。実際に別れたって話を聞いたことはないんだけどやっぱり不安になってしまう。僕自身は東山動植物園は好きなんだけどね。小さいころは家族でよく行ったし、ヤギのえさやりとか大好きだった。しかし初めての彼女と初めてのデートで東山動植物園か……正直、別の場所がいいなというのが本音だ。
「ね、あした行こうよ、動物園デート」
今日で高校生活最初の四日間にも及んだ中間試験が終わり、明日は試験休みだ。僕は特に予定はない。今日までほとんど一夜漬けで試験勉強をしていたからのんびり寝ていようかな、と考えていた程度だ。
「吹奏の練習があるからさ。あしたくらいしかゆっくり休めないんだよね」
吹奏学部は平日休日問わずいつも練習している。彼女は毎日名古屋に来ているとはいえ、通学のためだけだもんな。入学して数ヶ月たつけど、授業が終わっても部活動で毎日遅くまで学校にいる彼女は学校以外の市内の場所にはあまり行っていないのだろう。彼女の笑顔を見ていると〈デートはほかの場所にしようよ〉と言い出せない雰囲気だ。なるようになる、かな。別れの名所だなんて迷信迷信。
「あ、ごめん。あした予定あった?」
少しだけ申し訳なさそうな表情を彼女は見せる。
「ううん、ないない。行こう! ぜひ!」
いかんいかん、彼女の顔をさっそく曇らせてしまった。僕は大げさに喜んでみせる。
「そうだな……お昼くらいに待ち合わせしようか?」
「動物園って、何時からやってるの?」
「たしか、九時開園だったかなあ……」
「んじゃ、開園時間から動物園に行こうよ」
彼女は笑顔を見せると言葉を続ける。
「それとも、カヅミくんは早起きは苦手?」
「いや、普段学校行くのと変わらないから平気だけど……」
僕は名古屋市在住だから午前中から行動でも問題ないんだけど、彼女は三重県在住だからせっかくの休みくらいはのんびりさせてあげたほうがいいかな? と考えていた。というか、いきなり〈カヅミくん〉なんて下の名前で呼ばれてどきどきしてる。〈カヅミ〉って名前は女の子っぽいからあまり好きじゃなかったんだけど、今こうして彼女から自然に呼ばれるとなんかすごくしっくりくる。うん、彼女ができて調子に乗ってるって自分でもわかる。
「待ち合わせは動物園の最寄りの東山公園駅にしようか。開園一〇分前の、八時五〇分くらいでいいかな?」
「だめだめ! そこの駅で待ち合わせしよ。一緒に行こうよ」
そこの駅って、学校の最寄り駅? いいけどほかの生徒とかに見られるとちょっと恥ずかしいような……。
「大丈夫。あしたは学校休みだからクラスメイトには見つからないよ」
〈へへっ〉と彼女はいたずらっ子のような笑顔を見せる。ああ、ばれてるよ。
「あー、それならそこの地下鉄の駅の改札口のところに八時半待ち合わせでいいかな?」
「うん、オッケー」
彼女は照れながら右手の親指を立てる。その後、彼女は吹奏楽部の個人練習で部室に行くと言い残して教室を出て行った。僕もすぐに帰ればよかったんだけど、なんだかうれしくって意味もなくしばらく教室でニヤニヤしていた。そしていつもと同じ帰り道。だけど今日は周りの見え方がいつもと違う。みんなしあわせなんだろうな、なんて何の根拠もないのにほがらかな気持ちになる。今の気分を表現するならスキップして帰りたいくらいだ。まあ学生服着た男子高校生がひとりスキップする姿はかなり怪しいのでやらないけどね。さて、明日は何を着て行くかな。
翌朝八時。約束の三〇分前には学校の最寄りの地下鉄の駅の改札口前にいる僕の姿があった。平日だから改札口を通る通勤通学の人がいつもどおりたくさんいる。みんなが学校や会社に行っている時にデートだなんて、ちょっとだけ優越感を感じる。さて今日は彼女と何を話そうか。携帯電話をポケットから取り出すとメモ帳を開く。昨日はなかなか寝つけなかったので、布団の中で会話のネタをひたすらメモっていた。気づけば四〇近くのキーワードが並んだ。これくらいあれば今日一日はもつかな。
「カヅミくんおはよー」
携帯電話から顔を上げると改札口の向こうでトートバッグを手にした彼女が手を振っている。改札口に備え付けられている時計を見上げると八時二五分。もうそんな時間か。いかん、つい顔の筋肉が緩んでしまう。引き締めないと。
「おはよー……あ、ごめん。切符買ってなかった。ちょっと待ってね」
かっこ悪いな自分。慌てて切符の自動販売機に駆け寄ると東山公園駅まで購入。しまった。彼女は地下鉄でこの駅に来るんだからホームで待ち合わせてもよかったなあ。
「ごめん、お待たせー」
自動改札機に切符を通して彼女と向かい合う。どちらからともなくお互い笑顔になる。そのまま並んで階段を下りてホームへ向かうと電車がすぐに来た。シートに並んで座ってのんびり動物園へ、と思っていたけど混雑した電車に立ったまま乗車し、一度乗り換えてようやく東山公園駅へ。
「朝のラッシュのことすっかり忘れてたね」
彼女は苦笑い。
「うん、僕も忘れてた。なんかいきなりデートっぽくないね」
僕も苦笑い。
「うわー、それっぽいー」
彼女は地下鉄ホームの壁面に描かれた動物のイラストを見てはしゃぐ。たしかに動物園に来たな、って感じがするな。改札口を出ると3番出入口を目指す。平日のためか動物園に向かっている人は思ったよりも少なく感じる。
「うわ、ヤマハだ!」
3番出入口を出たところで彼女が叫ぶ。ここはヤマハの音楽教室やピアノのショールームなどがある。彼女はサックスを吹いているし、楽器関係は気になるんだろう。九時少し過ぎに東山動植物園の正門に到着。入園券を購入するのって初めてだな。中学生までは無料なんだよね。
「はいどうぞ」
僕は入園券の一枚を彼女に手渡す。
「はいどうぞ」
彼女は入園券を受け取ると同時に五〇〇円硬貨を僕の手のひらにそっと置く。払わせてくれないか。お互い高校生だしね。
「ねえ、コアラ! コアラ行こ!」
そう叫ぶと彼女は僕の手首をつかんで引っ張る。平日だしそんなに混雑していないから大丈夫だよ……というか手をつかまれてる……いや、もちろんうれしいんだけど。
コアラ舎は正門からかなり歩いた先にある。彼女は〈はやくはやく〉とせかす。学校ではあまり見せない彼女の積極的なところに少しだけ意外だなと思いながら、僕も歩調を合わせる。開園したばかりだからか、コアラ舎の中は親子連れが数組いるだけだった。
「コアラ! コアラ! かわいー! 寝てるー!」
彼女はガラスの前に陣取り、子供のようにはしゃぐ。僕もコアラを見るのは何年ぶりかな。小学生以来か。お客が少ないのをいいことに僕らは一時間近くコアラを眺めていた。ようやく彼女は〈そろそろ出ようか〉と自分から言い出したにもかかわらず、名残惜しそうに何度も振り返りながらコアラ舎の外に出る。
「あ、ボート! ねえ、ボート乗ろうよ」
しまった。コアラ舎の近くに例のボートがある池があったんだ。ボートに乗るのもデートの定番だよなあ、一般的には。楽しそうな彼女の表情を見ていると断れない雰囲気だ。彼女に手を引っ張られてボート乗り場へ。様々な形のペダルボートと手こぎボートが並んでいる。ペダルボートなら、まだ大丈夫なのかな……?
「手こぎボートのほうが、なんかデートっぽくない?」
うわあ、そうくるか。コアラのペダルボートもあるのに……ああ、彼女はさっさと販売機でチケットを購入している。でも六〇分間も二人っきりになれるなら、それはそれでいいかもね、と前向きに考えるか。そして彼女はさっそくボートに乗り込んで〈はやくはやく〉と僕を手招きする。まあいいか。僕は少しだけふらつきながらボートに乗り込む。当たり前だけど船首側にスペースが空いているので僕がボートをこぐんだよな。
「んじゃ、しゅっぱーつ!」
彼女は笑顔で池の中央を指さす。僕はそのテンションに苦笑い。小学生のころ、家族でボートに乗った時に少しだけこいだことがあるけど、正直得意ではない。
「カヅミくん、がんばれー」
彼女は口もとに両手でメガホンを作って笑顔を見せる。不思議と力が出てくるあたり、男の子ってホント単純だよな、と自分でも思う。苦労して池の真ん中辺りへ到着。普段の運動不足を反省するね。その後は六〇分間連続でこがされるわけでもなく、最初に少しこいだだけであとはボートの上でなんでもない会話を楽しんだ。気がつけば用意しておいた会話のネタのメモのことなんてすっかり忘れていた。彼女と自然にいろんな話ができるようになったのはちょっとうれしかったかな。ボートに乗ることのできる六〇分はあっという間。ボートから降りるころには少しさみしく感じたくらいだ。あんなにおかしな都市伝説を気にしていたくせに、ね。
ボート乗り場をあとにすると空腹に気づく。腕時計を見ると一二時少し前。
「ね、お昼どうしようか? どこかで食べる?」
東山動植物園内には軽食を提供するお店はいくつかある。でもこの時間だとさすがに少し混んでいるかもしれない。
「お弁当作ってきたよ」
少し照れながら、彼女は持っていたトートバッグの口を開いて見せる。
「え? ホント? ありがとー……」
まさか初デートで彼女のお弁当を食べられるとは予想もしていなかった。
「デートっていえばお弁当でしょ? だから午前中から動物園に来たかったんだよ」
〈気づいてよ〉と言わんばかりに彼女は肩で僕の腕に軽く体当たり。ごめん、女心がわからなくて。お弁当を食べる場所を求めて植物園エリアまで足を延ばし、空いているベンチを見つけて腰を下ろす。
「サンドイッチだけど、よかった?」
彼女はすぐにトートバッグからバスケットを取り出してふたを開ける。
「うん、大好き」
僕は彼女からサンドイッチを笑顔で受け取る。正確には、おにぎりだったとしても彼女が作ってくれたお弁当だったらなんでも大好きだけど。
「では……いただきまーす」
彼女は両手を合わせるとすぐにサンドイッチを口に運ぶ。
「いただきまーす」
僕も両手を合わせ、ゆっくりとサンドイッチを口に運ぶ。うまい。ハムかと思ったらベーコンだ。BLT? わざわざ早起きして作ってくれたんだな。そう思うとうれしさと申し訳なさが混ざった複雑な気持ちになる。
「ねえ、知ってる?」
彼女は視線を自分の手の中のサンドイッチに向けたままつぶやく。
「なに?」
「この動物園って、別れの名所なんだってね」
思わず口の中のサンドイッチを噴き出しそうになる。
「手こぎボートに乗ると別れるんだって。あと初デートに来てもだめだとか」
僕はサンドイッチを飲み込むと、そっと彼女の顔色をうかがう。そこまで知っててデートは動物園がいいって言ったの? 告白は迷惑だった? 心臓の鼓動が耳にまで届く。
「でも、カヅミくんはデート初めてじゃないよね?」
彼女は少しだけいじわるな表情で僕を見る。
「いやいや、僕も初めてだって! 初めての……彼女だし」
力説するのが少し恥ずかしくなり語尾が思わず小さくなる。彼女は視線を落とし、少しだけうれしそうな顔をしたように見えた。
「わたし、家が三重県でしょ? 初めての彼氏が隣の愛知県の人でさ。学校で毎日会うといってもちょっとだけ不安だったんだよね」
彼女はサンドイッチを一口。
「だから動物園、別れのジンクスがあるところでデートして、それでも好きだと思えるならいいかな、って。やっぱり恋愛って距離だと思うんだ」
彼女の一瞬見せた少しさみしそうな横顔にどきっとした。僕の知らない昔のいろいろな思い出があるんだろう。それでも今は僕のことを……嫌いではないんだよな。〈好きだと思える〉なんて言ってくれたし。距離……か。
「ねえ。次のデートはライブに行かない?」
彼女は無理に作ったような笑顔で僕の顔を見る。
「いいね。吹奏楽? どこであるの?」
「ううん、フュージョン。歌なしの音楽なんだけどさ。今池にボトムラインってライブハウスがあるの知ってる? そこに好きなサックス吹きのおにーさんが来るんだ」
彼女は楽しそうに笑い、独り言のように言葉を続ける。
「なんだ。やっぱり別れの名所ってうそなんだ」
彼女はサンドイッチの最後の一口をほおばる。動物園とライブ。デートはすっかり彼女にリードされてばかりだな。よし……!
「ごちそうさま! おいしかったよ。ランチタイムの次はヤギにえさあげに行こう」
僕は勢いよくベンチから立ち上がる。彼女は笑顔を見せると小さくうなずき、慌ててバスケットをトートバッグにしまう。
「んじゃ行こう、ユカっち」
思い切って彼女の名前を口にして右手を差し出す。さすがにまだ呼び捨てにはできない。彼女は少しだけ照れながら僕の手を取ると、お互い自然に笑みがこぼれる。今、僕ら二人は世界で一番近い距離にいる。今度は僕が彼女の手を引っ張って走りだした。
Fine