不在証明
ドッペルゲンガー、それは貴方と全く同じ姿する生き物。その姿を見た者はこの世界から消されてしまう。
気付くと私は真っ暗な世界に立っていた。たった一人で立っていた。ここはどこ?私は誰?なんてお決まりな言葉を並べてみるが、本当に自分がいったい誰なのか理解していない事に気が付いた。この世界では私は何者でもなく、ただ暗闇に浮かぶ物体だった。
世界を暫く歩いてみた。途中で眠気がない事に気が付いて横になってみると体がふわりと宙に浮かんだ。そうして自分がこの世界で浮遊出来ることを知った。時間はたっぷりとあるようだから暇潰しに何度も練習する。全身から力を抜いてふわりと浮く自分をイメージすれば、ほら簡単。進む事だって自由自在。鳥のように力強く羽ばたくわけではないから、ひょっとしたらこの世界に重力という概念がないのかもしれない。だけど、この世界は真っ暗で変わることのない景色。浮いてもその高さだってわかりやしない。
それでも何もする事がないから浮き続ける。浮き続けてわかったことはこの世界に果てがない事。あるかもしれないがそれはかなり遠い場所なのかもしれない。進めど進めど果てのない世界。世界の外に出てみたいな。
そんな事を思いながら浮いていると暗闇の中に光を見つけた。その光は縦に長く続く円柱のように続いている。深い深い闇の底に続いているようで、近寄って光に触れてみた。すると、突然体が光の中心へと吸い込まれそのまま地面へと引っ張られる。下へ下へ。地面に叩きつけられると思った瞬間再びふわりと浮いた。目を開ければ光の根本に立っていた。光の円柱の中心に。そこにもう一つ光の柱が増えた。その中心に居たのは一人の涙を流す男の子。金色の髪の毛が光に反射してとても綺麗だった。
それがあの子と私の始まり。
肩に触れようとしてみるけれど、通り抜けてしまった。泣かないで、泣かないで。けれどその涙は拭えない。どうしよう、どうしたらいい?
「……で……泣かないで」
今のは音?誰の?私のだ。私の声だ。私は話せたのか。また新しい発見。そんな事を思っていると男の子と目が合った。その瞳を見た私の背筋は震えた。濡れ羽色の黒い瞳は私の住む世界と全く同じ黒をしている。この子も閉じ込められているんだ。助けてあげなくては。
「私の事が見える?」
男の子はコクリと頷いた。
「君は誰なの」
「ぐすっ……れいにー」
「レイニー?」
男の子はまたコクリと頷く。
「どうして泣いているの」
「お母さんが死んじゃったんだって」
「……」
「お母さん……会いたいよ」
この子はきっと、死についてきちんと理解はしてはいないけれど、母親に二度と会えないってことだけはわかっているんだ。
ここはどこ?どこだっていいじゃないか。私は誰?誰だっていいじゃないか。そんな事より私はこの子の笑顔が見てみたい。
「じゃあ私がお母さんになってあげる」
「え」
「今日から私があなたのお母さんよ」
「……おかあさん」
「そうよ、お母さ」
ぶつり。光の柱が二本、あの子と一緒に消えてしまった。
嘘でしょう?これで、おしまい?このままあの子と会えなくなってしまったら私はただの嘘つきじゃない。そんなの嫌よ。外の世界なんて知らなくていい。だからもう一度あの子、レイニーに会わせて。
そんな私の危惧を吹き飛ばすかのように数日か、はたまた数時間後か。再びあの柱が現れた。それも私の真上に。
それにならうように光の柱がもう一本現れる。そこにはあの子がいた。
「……おかあさん」
真っ暗な世界の私の光。目元が熱くなる。こぼれるのは涙。あの子が光と共に近寄ってきて拭いてくれようとするが通り抜ける。何度も何度も拭こうとしているけれどやっぱりダメであの子の眉が下がる。
「お母さんも死んじゃったの?」
目元に雫が溜まっていく。ああ、泣いちゃダメ。
「違う、違うの。大丈夫だから。お母さんはここにいるから。触れないけどちゃんといるの」
抱き締めるようにあの子の周りを包み込めば笑ってくれた。するとどうしてだろう、いつの間にか私も笑っていた。
暫くして今度はすぅっと私は一人ぼっちの暗闇に戻された。大丈夫、また必ず会える。そんな確信があった。
次に会うまでにあの子の事をたくさん考えた。綺麗な身なりをしていたし、きっと食べる物には困っていない。綺麗な金の髪と白い肌、でもこの世界と同じ黒い瞳は少し苦手。身長はまだ低いから五歳くらいかな。早く早く。あの子にまた会いたい。
次に会ったときあの子はまた泣いていた。
「どうしたの?」
「皆にお母さんのお話をしたら、可哀想って言われたの。お母さんはもういないんだって」
私の事が見えない人たちからしてみたら、この子の言葉は死んだ母との記憶に縋ろうとする哀れな男の子にしか映らないのだろう。それはいけない。これは私の撒いてしまった種だ。
「レイニー、いい?お母さんとのお話も会ったことも誰にも言ってはダメよ。二人だけの秘密。守れる?」
レイニーは少し不思議そうな顔をしていたけれど直ぐに無邪気な顔で笑顔で頷いた。
「僕守れるよ!お母さんとの約束だもん!」
可愛い、可愛い私の子。あなたの事は私が守るからね。
そうして、またあの子と別れた。
私があの子に会えるのは数日だったり数時間後だったりとまちまちだ。そこに規則があるようには感じられない。けれどあの子が泣くと必ず光の柱は私の前に現れた。
そんな時を繰り返しているとあの子は少しずつ成長していった。何年も時が過ぎた。あの子の成長はこの空間から出られない私に唯一時間という概念を感じさせてくれるものだった。この前歳を聞いたら十と言ったか。微笑ましい、そう思うと同時にあの子の成長をもっと近くで見たいと思った。
ある時、レイニーが実験をしようと言い出した。
「これは?」
「ブレスレット!母さんに似合うと思って買わせた!」
買わせた、近頃レイニーの言葉に違和感を覚える時がある。
「買わせた、じゃなくて買ってもらったでしょ?」
「うう、ごめんなさい」
「わかってくれたならいいのよ」
そう言いながらこの子の頭上に手を浮かべて撫でる動作をする。
「母さん、これ貰ってくれる?」
恐る恐る差し出されたそれを受け取ろうとすると通り抜けてしまう。
「……ダメね」
「じゃあ、床に置いてみるね」
少しがっかりした私とは裏腹に、次こそはと試し続けるこの子の姿は眩しく見えた。
「あ、」
触れた、ブレスレットに触れた。
「やったね、母さん!」
「嬉しい、すごく嬉しい」
ひんやりとした感触が気持ちいい透明な石で作られたブレスレット。この子が初めてくれたプレゼント。
「ありがとう、レイニー」
そしてふわりと消えていく。
ふと見るとあの子がいた場所に黒い球体が残されていた。忘れ物だろうか。触れようとするとコロりと転がって逃げてしまう。また手を伸ばすがコロりコロりと避けられる。おかしい、明らかに意思を持っている。
繰り返される追いかけっこ。私が遊ばれているみたいだ。だけど、こんな事は初めてで楽しい。黒い色をしているためうっかりすると見失ってしまいそうになる。
やっと追いついて抱えあげた時、再び光の柱が現れた。だけど私は照らされていない。それでもあの子が立っているから何かの誤作動だろうと思い近寄ろうとするが体が動かない。
「レイニー、こっち!」
声を掛けてもあの子はこちらに気が付かない。別の方向を見つめている。
あの子の口元が動いた。『母さん』と、確かに。
「レイニー!」
けれど、声は届かない。こっちを向いて。
こんな事は初めてだ。
あの子は見つめていた方向に向かって駆け出す。行かないで、どこに行くの。
カチリという音を立てて光の柱がもう一本現れる。私の上にではなく、あの子が駆けていった方向に。そこには女がいた。小洒落たドレスを着た、綺麗な艶のある茶色の髪。少し目元に皺がある所から見るに三十半ばくらいだろうか。
そして私は気付いてしまった。あの子があの女に向かって『母さん』と口を何度も動かして抱きつくのを。女は戸惑いながら、『レイニー』と言って抱き締め返した。
視界が赤く染まる。触るな、私の子に触るな。そのまま私は黒の世界に崩れ落ちた。
どうして、あの子の本当の母親は死んだんじゃなかったの?あの子を育てたのは私なのに。
「返して!返しなさいよ!」
黒い世界を殴りつける。
「あらあら、随分な荒れようね」
「黙って!うるさい!」
「ちょっと、あんた落ち着きなさいよ」
「誰よ!話しかけな、い……で……。誰?」
「ここよ、ここにいるでしょ」
そう言いながら先程捕らえた球体が私の周りを回転する。
「ちょっとここ話しにくいわね、借りるわよ」
「きゃっ」
そう言いながら球体は突進してきた。だけどそのままブレスレットの石の一つに吸い込まれていく。
「私の名前はクロ。この世界の主よ」
思考が追いつかないけれど、少しずつ咀嚼して考える。
「クロ、あの女は」
「あの子の新しい母親よ。あの子の父親が再婚したのよ」
「でも、母さんって……あの子は昔からあの女の事を知ってたの?私に隠してたの?」
「さあね、私にもそこまでわからないわ。わかるのは、もうあんたはあの子に会えないって事よ」
何よそれ。そんな事突然言われたってわからないわ、でも。
「納得いかない?」
「いいえ、それが本当なら私はあの子の母親よ。あの子はさっき幸せそうだった。触れることの出来る生身の母親に、抱きしめられて。母親が我が子の幸せを選ぶのは当然じゃない」
「ダウトー、ウソつきはもう黙っていなさいよ。そんなの逃げよ、逃げ。あの女に盗られて悔しいくせに」
呆れた声でクロは言う。
「それでも、この世界で私と二人きりよりはきっとあの子にとって良い事よ」
「あんた、これを見てもそんな事が言えるの?」
再び光の柱が二つ黒い世界に現れる。レイニーと新しいお母さんが対峙している。心無しか空気が険悪だ。
「お前、誰だ」
「何度も言っているじゃない私はあなたのお母さんよ?」
その口調やや厳しめで、イライラしているように伺える。
「母さんが俺のネックレスを忘れるハズがない」
「だから、ネックレスは失くしたって言ったじゃない」
「ほら!俺が母さんにあげたのはブレスレットだ!」
「っ大人を舐めるんじゃないわよ!」
頬を打つ音が黒い世界に響いた。そのまま二人は消えていく。
「待って!行かないで。やめて、あの子を傷つけないで」
膝がガクガクと震える。
クロに聞けばレイニーは金持ちの家に産まれた子供で、あの女は金目当てにあの子の父親に色目を使って妻の座へとのし上がったらしい。つまりレイニーには何の愛情もない。
「わかった?このままじゃ世界はあなたたちに、何にも残しちゃくれないよ。さっさとここから出て行かないとあの子が壊されちゃう」
私は顔をキッとあげる。
「お願い、あの子の所に連れて行って」
あの子を、傷つけるやつなんかに任せちゃいけない。私は、
「私はあの子の母親よ」
「そうこなくちゃ」
黒い世界に白い光が溢れていく。光は私を外へと押し出す。
次に目を開けた時、私は暗い部屋にいた。それでも月明かりが差し込むような暗さは私にとって陽の下のように眩しい。寝間着を着た女は私を見て驚いている。
「なんで、あんたがここにいるのよ」
女の顔が青ざめる。違う、驚いているんじゃない、私に怯えているんだ。
ふと視界に写った鏡台に目を向ける、あの女が二人向き合っている。訳がわからない。
私が状況を把握する前に女が悲鳴をあげ出した。つんざくような悲鳴に思わず耳を塞く。すると女はたちまち砂のように崩れ、それらはブレスレットへと吸い込まれた。
ガチャガチャガチャガチャッ
部屋の扉が勢いよく回された。
「奥様!大丈夫ですか!?」
ああ、この家は警備を雇う程の財産があるのか。なんて考えながら適当に返事をする。
「鼠が出たの。窓の外にもう逃げたわ、お騒がせしてごめんなさい」
そう言えば、叩き起された警備の男は不機嫌そうに立ち去ろうとした。それを慌てて呼び止める。
「レイニーを呼んでくださらない?大事な話があるの」
それからレイニーは直ぐにやってきた。やはりこちらも不機嫌だ。
「大丈夫ですよ、お母様、この頬の腫れのことは父様に転んだと言う、の……で」
レイニーの言葉を遮るように抱き締める。そんな言葉を使わないで?母さんと呼んで?
「やめてくださっ!」
レイニーは突然の事に激しく抵抗した。それはそうだ、私の容姿はあの女に瓜二つ。あの女に負わされた傷がよっぽど恐ろしかったのだろうか。
「レイニー、レイニー、怖がらないで。母さんよ、やっと抱き締められた。ブレスレットもちゃんと持ってきたわ。後はどうしたら信じてくれる?」
暴れていた体が徐々に落ち着いていく。
「……母さん」
そっと背中に回された手は暖かい。
「母さん、やっと会えた」
そんな二人の様子を黒い世界から見つめていた黒い球体は上を見上げる。サラサラと黒い砂が降ってくる。その砂からは恨めしそうな念が伝わってくる。
「また戻ってきたのね。折角殺した母親があなたそっくりに姿を変えて戻ってきた気分はどう?私が二代目ドッペルゲンガーとしてあの子を生み出したのよ?凄いと思わない?
初代ドッペルゲンガーさん」
矛盾?うん、矛盾。まあ、気にしなさんな