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水の楓  作者: あまねく
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7

 この会議が始まったのは16時丁度で、今はそれから20分が経過していた。

 聞かされていた予定ではあと10分でこの会議が終了し、新たに渡されたプリントを教室に届け、荷物をまとめて学校を出れるのがさらに5分後。そこからバイト先へダッシュすること15分、17時までには10分も余裕がある。

 遅刻することはないだろう。

 そう思案するのは1年A組のスーパーサブ、瀬戸湊太郎である。


 彼のクラス内での役割はクラス委員でもなければ、何か特定の委員会に所属しているわけでもない。

 さらに付け加えると、部活動にも所属してはいなかった。

 ではどうして湊太郎がこの生徒会主催のクラス説明会に出席しているかというと、それはひとえに彼がクラスに対して提案した『頼み事』の対価が行使されたからである。

 湊太郎が委員会活動、引いては部活動に所属してないのは放課後バイトに明け暮れているからである。


 この鷹城高校でのアルバイトは許可申請を行い受理されることで正式に認められることとなる。ただし成績、素行の如何によっては無条件でアルバイト活動の一時停止、改善が認められない場合は無期禁止処分となる。

 進学クラスであるA組に所属している湊太郎にとって成績の低下がもたらす影響は一般クラス生徒に比べると甚大なものであるが、入学からすでに半年以上経過した彼にとってその心配は稀有なものであった。それは湊太郎の親友である光一も認めるところであり、湊太郎の生真面目さが評される一端でもあった。


 バイトの理由は2つ。

 ひとつが、将来の進学費用の足しにすること。

 といっても瀬戸家は一般家庭と比べても経済的な面に於いて劣っているという事実は無い。それは亡き父親が遺してくれた財産と、さらに手に職をつけていた母親の収入がそれなりにあるからだ。


 湊太郎の母である瀬戸裕子せとゆうこは看護師として市営病院に勤めている。もともとカラっとした気質で面倒見が良い人柄も相成り、人望が熱く頼りにされていた。そんな彼女の働く姿に焦がれたのが若き日の湊太郎の父親である瀬戸勇せといさむである。

 駆け出しのプロダイバーとして働いている最中ではなく、オートバイから転倒し救急車で運ばれてきた事が切っ掛けだった。

 その後紆余曲折を経て結婚に至ったのである。


 その後、父である瀬戸勇は不運な事故でこの世を去ってしまい残されたのは、母と湊太郎と、一歳年下の妹である深悠みゆうの三人であった。

 湊太郎は自分の夢の為、どうしても進学を諦めることは出来なかった。しかしそのせいで妹に進学をさせないという選択肢は皆無だった。

 その件について湊太郎は母と話合ったことがある。

 その際、進学費用は父の遺金と自分の収入で十分賄える旨を伝えられてはいたが、その言葉を素直に受け入れることは出来なかった。


 その結果、湊太郎はアルバイトに精を出しているのである。

 進学先の大学は地元の国立大学、海洋資源、海洋生物の研究にも定評のある大学だ。更に奨学制度を利用するつもりなので、瀬戸家の経済状況に荒波を立てることは無いだろう。

 しかし何かと物入りとなることを考えれば、早いうちから資金を貯めておくことは近い将来必ず役に立つことは当時15歳の湊太郎の目から見て明らかだったのだ。


 以上の点から湊太郎は平日17時から22時を、父の友人が経営するスポーツジムで働いている。と言ってももっぱら雑用としてこき使われているだけであるが……。

 そして土日をダイビングショップのアクアスケッチで過ごしているのである。


 ちなみにもうひとつの理由は、そのダイビング費用である。

 ライセンスを取るにしても、ファンダイブとして潜るにしてもお金が必要なのである。

 ひと月に何度かは付き添い、荷物持ち、バディ役として海に出ることはあるが、自分の機材のメンテナンス代までを賄うにはやはりそれなりの資金が必要だった。

 その為、湊太郎は部活動はおろか、委員会活動も辞退出来ないかクラスメイトに懇願したのだが、その要求が全て望む通りに認められることは無かった。

 しかしそれはクラスメイトとしても湊太郎の如何によっては譲歩するという想いの現れだった。


 結果、持ちつ持たれつということで、湊太郎はクラスメイト専用のスーパーサブ。非常時の助っ人という条件で認められたのである。

 アルバイトに支障を来さない限りは無条件でどんなことでも引き受けるようになったのである。

 普通ならば、これ幸いとばかりに湊太郎が酷使されてもおかしくないのだが、そうなら無かったのは、湊太郎の人柄の良さ、嫌味の無い爽やかさの成せる業であった。

 つまり本当に非常時にだけ、その役割が回って来ているのである。

 そして今日のAクラスの非常時、それはクラス委員長が風邪で欠席したことである。従ってその役割が湊太郎に回ってきたのは必然だった。


 会議室には各クラスから1~2名、委員長と補佐、または友人が詰めており50人前後が等間隔に並べられた平机に座り、正面に座る生徒会の説明に耳と目を傾けていた。

 湊太郎は会議室の最後列の出入り口側に腰を降ろしている。この場所ならば終わった瞬間ダッシュで教室へと戻ることができるからである。

 目前に迫ったイベントの説明が淡々と進められている。どうやら合唱コンクールでの曲目も全てのクラスで決定したようだった。


 退屈な空間に耐え切れず何度も時計の針を見つめては溜息が漏れる。

 出入口側ではなくグラウンドに面した窓側ならば、まだ今ほど退屈せずには済んだのだろうが、今座る席から見える景色はあまり代わり映えのしない後頭部と、名前も知らない生徒らの横顔だけであった。


 その時、ふと斜め前の席に見知った横顔、斜め後ろ顔と言った方が正確であるが――を発見した。

 それはC組の委員長である松下美音の姿、そしてその隣に以前失礼にも程があるが、光一のスメリーなジャージをぶつけてしまった女の子の姿だった。

 あの日、至近距離で見た彼女の瞳は、一瞬の戸惑いを見せるとすぐにその前髪の奥へと隠れてしまった。その仕草、そして距離に驚き、自らも彼女を直視出来なかった。

 思い出すだけで恥ずかしくなってしまうが、正直に言うと『照れた』だけ、しかもそれを即座に自覚してしまい、余計に恥ずかしくなったのだ。


 無意識に彼女の横顔へと視線が集中する。

 漆黒でツヤのある長い髪、耳を覆い、この角度からは頬も隠れている。しかし微かに見えるのは前髪の隙間から覗く長い睫毛と薄桃色の唇だった。

 立ち上がり手を伸ばせば届く距離に座る彼女。

 しかし彼女から発せられる空気は何か張り詰めている様な、他人を拒んでいるような気がしてならなかった。


 「以上で本日のクラス委員会会議を終了します。一同、礼」

 突然の号令、それは会議終了を告げる合図だった。

 名も知らない女子を無意識に見つめていた湊太郎は、遅れて頭を下げると急いで机上を片付ける。周りの生徒たちも次々に席を立ち始め出すと、湊太郎も習うように席を立った。

 そしてきびすを返すその瞬間、もう一度『あの席』へと視線を注いた。

 それが意識的だったのか、違ったのかは解らない。ただ湊太郎はどうしても視線を送らずにはいられなかった。


 「あっ」

 長い前髪を揺らす彼女はまだ机の上を片付けていたが、その隣に座していたもう一人の彼女が湊太郎の視線に気が付いた。思わず目と目が合ってしまう二人。

 すると松下美音はにっこりと微笑むと肩の高さで可愛らしく手を振り唇を動かした。


 「瀬戸君ちょっといい?」

 数瞬戸惑う湊太郎。あまり時間がある状態では無いからだ。

 しかし湊太郎が躊躇したのはそれだけはない。本当は自分があの女の子に視線を送っていたことに気づかれてしまったのではないかと言う思いがあったのだ。


 「教室に帰りながらでいいから」

 彼の戸惑いに気付いた美音が言葉を付け加える。

 『急にこんなところで声なんか掛けて端なかったかしら?』

 美音は内心そんなことを思いつつ視線を送ると、ひと呼吸置いた湊太郎は「じゃあ廊下で待ってるから」と簡潔に言葉を返した。

 「すぐ行くわね」と更に返答した美音は隣で整理している楓に一言二言声を掛けると足早に会議室を後にした。


 「別に用事があったわけじゃないの。ただ瀬戸君と少し話しがしたくて」

 そう告げる彼女の名前は松下美音、C組のクラス委員で、光一が想いを寄せている相手だった。

 整った顔とスタイル、屈託ない笑顔で毎日魅せられては、あの光一なら一溜まりも無いだろう。ただでさえ惚れやすい性格をしているだけに、篭絡とまではいかないまでも、その手前、彼女のお願いならば手となり足となり財布にまでも成ってしまうのは間違いなかった。


 「俺と?俺と話しても面白いことなんかないよ。俺なんかより光一の方がよっぽど面白いと思うけど」

 「光一君?彼は確かに楽しい人だけど、どちらかと言うとお調子者って表現が的確だと思うの」

 さすがクラス委員長。見てるところはちゃんと見ている。湊太郎は並々ならぬ苦労を強いられているだろう美音へ、幾ばくかの同情を覚えた。


 「あ~……、確かにそうだね。あいつは誰とでも仲良く出来るっていう特技があるんだけど、人の話を聞かないっていう短所があるんだ」

 「それはそれは、とてもよく知ってるわ。ホームルームでも一番手を焼くのが彼なんだから、文化祭の時だって我先に色々提案してくれるんだけど、いざ決定っていう時に反対意見を出したり、しかもその決定案を出したのが本人なんだから、始末に負えないわ」

 珍しく、というより初めてみる美音の憤った言葉に、湊太郎は僅かの感動を憶えた。それは単純に完璧に見えた彼女にも、人並みの感情である『怒り』を表現することがあり、それを惜しげもなく自分の前で見せてくれたことへの戸惑いと楽しさだった。


 「ぷっ」と息が漏れる。

 その一音で我に返った美音が怪訝そうに見つめてくる。

 しかしその表情も湊太郎にしてみれば、堪えきれない可笑しさの一端だった。


 「松下でも怒ることがあるんだな」

 笑いを堪えながら湊太郎が告げる。

 『ぼっ』と火が出るように真っ赤な顔になった美音は自らの失態に気がつき顔を伏せる。

 穴があったら入りたい。正に美音は人生初のこの状態となった。

 ここで走って逃げるのは簡単だけど、ここで逃げたらもう次は無い。少なくとも『私』は彼に顔向けが出来ない。というかどんな顔して会えばいいのよ!?


 「わ、笑うことないでしょ。私だって人間なんだから怒ることもあるわよ」

 必死で平静を取り戻しながら美音が告げる。


 「ごめんごめん。悪気はないんだ。いつも完璧な松下が怒るなんて珍しいから」

 かっと赤くなった顔は今では耳まで真っ赤に染まっているだろう。しかし美音はこのチャンスを棒に振ることが出来るほど呑気な性格ではなかった。

 少なくとも美音のこのミッション、『共に教室へと歩みを進める上での最重要事項』は、瀬戸湊太郎と少しでも会話を行い、仲良くなることである。

 できることなら彼から異性の好みだったり、食べ物の好き嫌いだったり、趣味だったりを聞き出さなくてならないが、今のこの状況ではそれは無理だろう。残り時間も僅かであるし、ここから軌道修正をしようものなら、その会話の不自然さは今の比では無い。

 ならばこの現状を逆手に取り、より効果を発揮できる言葉を紡がなければならない。

 美音は羞恥を気合でねじ伏せると顔をあげ、湊太郎の瞳に視線を送りながら口を開いた。


 「わ、私を笑ったこと、本当に反省してる?」

 ドキドキと鼓動が早まるのが判る。

 「反省してる。笑って悪かったよ。本当にごめんな」

 「そんな言葉で許すとおもってるの?瀬戸君、女の子を笑ったのよ」

 「本当にごめん。なんでもするから許してください」

 「だったら一つ私のお願い聞いてくれる?」

 「お願い?お、俺に出来ることならなんでもするよ」

 さらに鼓動が早まる感覚に包まれる。そして心音が16ビートを刻む頃、美音は頑張って笑顔を作ると口を開いた。


 「これからは湊太郎君って呼んでもいい?」

 湊太郎にとっては意外だったとしか言い様が無い。

 自己責任とは言え、品行方正で教師からの信頼も厚く、美少女として男子からは人気のある松下美音を笑ったことで怒らせてしまい、これもまた初めて見せる美音の不機嫌な状態を許してもらうべくこうべを垂れると、お願いを要求されてしまい、どんな内容か待ち構えると、この程度のお願いだったのだ。

 だから湊太郎は「う、うん」と戸惑いがちに許可を含んだ返事を告げた。


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