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水の楓  作者: あまねく
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5

 「ただいま戻りました」

 ゆっくりと穏やかに時が流れるアクアスケッチ。時刻は二十時を回っていた。

 すでに店内に客の姿は無い。

 来週の予約をチェックしながらミーティングをしているのはオーナーである和歌村、そしてインストラクターのチーフを勤める藤田勝ふじたまさると最年少の小林大介こばやしだいすけ、そしてアクアスケッチ唯一の 女性インストラクター上尾玲子あげおれいこだった。


 「お疲れさん。えらく時間がかかったな」

 「ちょっと棚の立て付けが緩んでいたんで直してたんです」

 「ああそいつは悪かったな。疲れたろう。とりあえずこっちでコーヒーでも飲まないか、湊太郎」

 「ありがとうございます。頂きます」

 アクアスケッチのソファーはコの字型に並べたらたボックス席が二つ。中央にはテーブルが置かれている。

 湊太郎はカウンターのコーヒーメーカーからコーヒーをカップに注ぐと上尾の隣に腰を降ろした。


 「汗くさっ、ちょっと湊太郎。あんたはあっちのソファーに座りなさいよ」

 上尾が示したのは対面のボックス席だった。

 湊太郎はこの言葉に悪意が無いことを知っているが、面と向かって臭いと言われるのは少し複雑な心境だった。しかも年上の『お世辞に綺麗な』先輩の言葉なら尚更である。

 ちなみに『お世辞に』とつけたのはその毒舌と不精さ故だった。

 スタイリッシュでスラッとしたシルエットは引き締まった筋肉の賜物であるし、長い黒髪をアップで雑に纏めて上げているとはいえ、整った顔立ちは一見すると一流のモデルに見えなくもない。しかし化粧という化粧の跡は皆無であるし、その頬は日に焼け、モデルとは程遠い肌のコンディションとなっていた。


 「すいません。でも仕方ないじゃないですが、あそこ12月でも異様に暑いんですよ」

 「そうだぞオレコ、男が流す労働の汗は一粒で三文の価値があるんだ」

 「オーナー。いい加減そのオレコって言うのやめてください。私は上尾玲子です」

 「もうお客様にもオレコで定着しているし無理じゃね?」

 そう告げたのはチーフの藤田である。

 そしてそれに同意するように口を開くのは小林だった。


 「そうそう。今日のファンダイブでもみんなからそう呼ばれてたしもう無理っすよ」

 「五月蝿い。小林、それ以上口を開くとひねり潰すわよ」

 「すんませんッス、センパイ。ちょーしこきました」

 テーブルに頭を叩きつけるようにこうべを垂れ謝罪する小林。そんな状況を苦笑しながら湊太郎は向かいのボックス席へ腰を降ろした。

 砂糖の入っていないブラックコーヒーに口をつけ啜る。

 苦い。

 しかし最近やっとこの苦味にも慣れてきたところだ。

 旨いと感じたことは無いが、いくつかの味の違いが分かるようにはなってきた。それはこのショップでアルバイトを初めて半年で得たスキルの一つであった。


 彼は瀬戸湊太郎、16歳。市立鷹城高校たかぎこうこうの一年。平日は別の場所で、土日はこのアクアスケッチで雑用を任されていた。

 彼がここでバイトをしているのには理由があった。

 それは彼が将来プロダイバー資格を目指しているからである。しかしそれは夢の終着点ではない。

 彼が目指しているのはダイバーではなく海洋学者だった。海をこよなく愛した父と同様に、湊太郎も幼い頃より海と触れ合うことで自然と、その将来を海に関するものと考えたのだ。その実益と趣味を兼ねて、物心着く前からお世話になっていたこのアクアスケッチのアルバイトを申しでたのだ。


 現在彼が取得しているライセンスは下から数えて6つ目。

 世界最大のダイビングネットワーク、PADIが発行するライセンスであり、正確には他にもライセンスの種類は存在するが、


  OWD オープン・ウォーター・ダイバー

  AOW アドバンスド・オープン・ウォーター

  EFR エマージンシー・ファースト・レスポンス

  RED レスキュー・ダイバー

  SP スペシャリティ

  MSD マスター・スクーバ・ダイバー


 湊太郎はこのMSDをすでに取得していた。

 これを取得できた者は並外れたダイビングへの情熱を持っていると言っても過言ではないし、それなりに資金も必要となる。

 湊太郎は父がプロダイバーだったこともありダイビングに触れる機会にも恵まれていたからこそ16歳という年齢で取得できたのだ。


 「そういえば湊太郎……」

 「はい。何かあったんですか?」

 「実は、今日お前の学校の生徒がきたぞ」

 「へ~。それはすごいですね。一人で申し込みに来たんですか?」

 「親父と一緒だよ。古い友人の娘でな、お前と同じ一年生だ。秋本楓ちゃんって知ってるか?」

 宙を眺め思案すること数秒。


 「秋本さん……。いや、ちょっと解らないですね。正直クラスの女子も全員覚えてるか怪しいですし、他のクラスとなると検討も付かないです。どんな娘だったんですか?」

 「あの娘はかなり美人よ。見たところ彼氏がいる様な雰囲気じゃなかったし、手をつけるなら今ね」

 「何下品なこと言ってるんですか上尾さん。俺はそういうの興味ないですから」

 「湊太郎はソッチの趣味か……」

 「違いますよ藤田さん」

 「ムキになると逆に怪しいぜ湊っち」

 「小林さんまでっ!?」

 「まあ落ち着け湊太郎。俺は別にお前がどっちだろうが構わないが、もし彼女を見かけたら声くらい懸けてやれよ。大事な大事なお客様。そして誰かと違って可憐な少女だからな」

 「オーナー?誰と違ってるのかしら」

 「誰だろうなあ~。楓ちゃんはお母さんの静久しずくさんに似て可愛いからなあ。誰かと比べるのは失礼かもしれないなあ~」

 「な、なんですって!?」

 今にも叫びだしそうな上尾をスルーするように和歌村は皆を見渡すと、パンっと大きく手を鳴らした。これはこの場にいる全員が知る閉めの合図であった。


 「さて、今日のミーティングはこれまでとしよう。よし解散」

 「「お疲れ様でした」」

 皆の挨拶がフロアに響き、一日の終わりを告げる。約一名、和歌村に噛み付いて離れない女怪がいるが、いつものように穏やかな一日に変わりは無かった。

 改めて湊太郎は思う。

 少し引っかかる苗字であるが、秋本楓の名前に心当たりは無い。学校ですれ違うことがあったとしても、名前と顔が一致しなければ挨拶をすることも、ましてや気づくことも出来ないだろう。

 オーナーからは暗にフォローしてほしいと言ってるようにも受け取れた。

 しかし気負う必要はないだろう。ここで働いている以上、そのうち会えるのは間違いないからだ。


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