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水の楓  作者: あまねく
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4

 可愛らしい鈴の音を響かせドアが開くと、楓は父に続いて中へ入った。


 「邪魔するよ」

 「いらっしゃい、ってこいつは珍しい……秋本じゃないか」

 大柄の男が出迎える。

 身長158cmの楓にとっては平均的な体格の父ですら大きく感じているが、傍に寄ってきた男の身長は更に高く手を伸ばしてもそのてっぺんに届くとは思えない背丈だった。

 圧倒的なプレッシャーが楓を襲う。太い眉と力強い瞳。服の上からでも判る盛り上がった筋肉が、強烈に雄々しさを主張していた。

 そして何よりも楓の目を引いたのは手入れの行き届いた立派な口髭と、綺麗に剃り上がったスキンヘッドだった。


 『ヤクザ!』


 反射的に思い浮かんだ言葉は陳腐なものだったが、口に出すことは出来ない。その見た目から連想する単語としては的を得たものであるが、それがもし的確な表現であればあるほど声に出すことは躊躇わせる単語であるからだ。

 その迫力に耐え切れなかった楓がサッと父の背後へと身体を隠す。しかしそんな彼女の心境を知ってか知らずか、司は親しげに男へと右手を差し出すと肩を叩いた。

 そして「久しぶり」と握手を交わす。


 「どうした急じゃないか。元気にしてたか?」

 「ああ健康そのものだよ。ただし最近腹が出てきたけどな」

 「腹よりも髪の心配をしたほうがいいんじゃないのか。少し薄くなってるぞ」

 「ハゲに言われたくないよ」

 「馬鹿野郎。ハゲだから言えるんだ」

 大きな笑い声が空間を支配する。そして嬉しそうに近況を話す二人を尻目に楓は、そっと司の背から顔を出し、店内をゆっくりと見回した。

 それはここが如何なる場所なのかを知る為の行為である。

 少なくともアクアスケッチと可愛らしく付けられた店舗から出てきたのはとても人相が良いとは言えない巨大な男。

 一体何を売っているお店なのか想像も付かなかった。

 入口から縦に細長い店舗は扉の横に観葉植物のプランター、大きく育ったユッカが植えられている。その隣には壁沿いに細長いテーブルがあり、机上には幾つものパンフレットが並べられていた。

 そして視線をさらに上へと移すと、壁面に飾られているのは鮮やかなブルーが目を引くパネル写真。

 名前も分らないカラフルな生物、海草や魚の群れ、イルカやクジラ、そしてそんな彼らと共に海中を泳ぐダイバーの姿が収められている。


 『綺麗』

 楓の素直な感想だった。

 彼女は海に対して好きだという感情を抱いた事はなく、むしろ縁のない場所としての認識が強い。

 興味が無いワケではない。

 しかし海なんてものは独りで行くにはハードルの高い場所であるし、何より山に囲まれた盆地から、電車を乗り継いで海に行く理由は今までどこにも無かったのである。

 だから彼女が感じた『綺麗』は、テレビの中の出来事、他人事に対する感想と同等の、それ以上でも、それ以下でもないただの『綺麗』だった。


 店内の奥へと視線を移動する。

 そこには縦に細長く設置されたカウンターテーブル。カウンターの中では長髪の男性が何やらノートパソコンに向かって指を動かしている。

 その正面には六畳ほどのスペースにソファーが並べられ、四、五人が賑やかに談笑を行っていた。

 照明は電球色、落ち着いた雰囲気の漂う橙色で、仄かにコーヒーの香りが漂っている。


 「喫茶店?」

 囁くような独り言。しかしその独り言が唐突に会話へと変化した。


 「ここは喫茶店じゃないよ」

 気がつくと楓の身体は父の背中からは完全にはみ出している。しかも目の前には覗き込むように顔を寄せた巨大な男の笑った顔があった。


 「君が楓ちゃんだね。僕は和歌村広樹わかむら ひろき、このショップのオーナーをしています。何年も前に僕たちは会ったことがあるんだけど、僕のこと憶えてるかい?」

 楓は唐突に投げかけられた言葉に驚きながらもその言葉を頭の中で反芻する。しかし彼女の記憶に該当する答えは見当たらなかった。

 よってそのことを伝えようと口を開くが思うように声が出ない。

 それは和歌村の持つ無自覚な迫力が、声を出せないほどに彼女を萎縮させたからだった。

 そんな楓の心情を汲み取った父の司が口を挟む。


 「和歌村。お前があまりにでかいから楓がびっくりしてるだろ。もう一歩分後ろに下がれよ」

 今の二人の距離は歩幅一歩分。それは楓の基準で一歩分だった


 「ああ、すまんすまん。近かったな。うちのカミさんにもよく言われるんだ。びっくりさせたなら申し訳ない。僕はこう見えて心優しい臆病者で通ってるからそう身構えなくても大丈夫だよ」

 そう告げながら和歌村が一歩分だけ後ろに下がる。

 楓にとっては二歩分。トータル三歩分の距離である。

 それが功を奏したのか未だに多少の困惑を残しつつも、はっきりとした口調で楓が答えた。


 「ごめんなさい。分らないです」

 大男から大きな笑い声が響く。

 その声量に楓は再び驚くが、数秒前とは違って萎縮してしまうような感覚に襲われることはなかった。


 「そうかそうか。楓ちゃんはまだ幼かったからね。別に憶えてなくても謝る必要はないさ。だから改めよう。今日が二人の出会いということで、よろしく秋本楓ちゃん」

 二歩の距離が再び一歩の距離となり、和歌村の手が差し出される。

 楓は他人と握手をする機会に恵まれたことがなく、実質初体験の事にたじろぎながらも差し出された手を恐る恐る握り返した。


 「こ…こちらこそよろしくお願いします」

 スイカすらもひと握りで潰せそうな大きな手がガッチリと楓の手を包み込む。しかし厚くて硬い手の平からは想像も付かないほどの優しさと、温もりのある手の感触だった。


 「まあ立ち話もなんだから奥に腰掛けてくれよ。何か用事があって来たんだろ」

 和歌村が司に対して含んだような笑顔を見せる。

 「俺はブラック。楓には砂糖3つ用意してくれよ」

 「かしこまりまして」

 そう告げた和歌村は二人を奥へ通すと、二つあるボックス席の空いてる方へと案内した。






 「僕たちは人生の楽しさを少しだけお手伝い出来ればと、そう思っています」

 とびっきりの笑顔で熱弁を振るうのはこのアクアスケッチのオーナーである和歌村広樹。

 煎れたてのコーヒーに口を付けるをのを忘れてはや15分、彼は熱く語っていた。

 しかしそれは強要や押し付けのを感じさせる論調ではなく、単純に好きなことを一生懸命に表現しているだけであった。


 『よくこんなので店がもってるな』

  ”敏腕営業の端くれ”を自覚する秋本司は素直にそう思うが、存外楓は彼の勧誘に興味を示していた。

 和歌村がしている行為は勧誘、商売を営む者の視点でみると営業である。そしてこの和歌村の商いは、


 『スキューバダイビング』である。


 各種ライセンス取得を目指す養成コース。

 そして純粋に海を楽しむファンダイブ。

 ダイビングに伴う装備品の販売とメンテ。

 そしてそれを行うのはオーナーと他3人のインストラクター。ここは海遊びのスペシャリストスクールであった。


 「楓ちゃん。海に潜るってどういうことだと思う?」

 尋ねられた楓は思案する。しかしその答えは出てこない。


 「だよね。判らないよね。これって潜った者にしかわからないんだ。僕はもう何万回と潜ってる。そして何百人て人のお手伝いをしてきたけど只の一人も潜る前にこの答えを分かったことがある人は居ないんだ」

 ならばと、潜る以前に砂浜で遊んだことすらない楓はその問いに対する思考を止める。


 「でも今わかって欲しいことがあるだ。いや、今楓ちゃんに伝えたいことがあるんだ」

 「それは……なんでしょうか?」

 「楽しいんだよ。びっくりするくらい」

 今までにないほど破顔した和歌村が、それは本当に楽しそうに告げた一言だった。


 「確かに海は危険だよ。恐ろしい生き物だって居るし、死亡事故だって起きてる。でもそれは僕たちに任せてください。僕とここに勤めるインストラクターが全身全霊を込めて安全を教育して、安全を確保して、最高の時間を提供します。少しだけでも興味があるなら、なんてセコいことは言わないよ。一度やってみよう。幸運にも君のパパはこの遊びにお金を出してくれる気だ。安い金額じゃないから普通ならこんなこと言えない、だけどたまたま楓ちゃんはこうやって僕と縁が出来た。はじめる自由もあれば、はじめない自由もある。ならやってみても損はないと思うんだ」

 和歌村の気持ちを受けて楓は自分が海中に漂う姿を想像する。しかしそれは自分でも稚拙だと認識できるほど現実味のない想像だった。

 和歌村は是非やろうと、

 父は興味があればと、

 そして楓は、


 「私にできるでしょうか?」

 正直、普段感じることのない強い好奇心に心が揺さぶられている自覚はあった。入口にあった写真。名も知らぬ生き物と幻想的な景色。

 それをほかの誰でもない自分の、自分の目が、自分自身が体験するのだ。

 予想だにしなかったこの展開。

 父が自分をここに連れてきた真意は聞けてない。でもなんとなく想像はついている。引き篭る私を見かねて連れ出してくれたのだろう。だからそんな父を少しでも安心させるなら、スキューバダイビング体験を承諾する選択が無難である。

 と楓はそう思っていた。

 しかし和歌村の話を聞き続けることによって、今はその気持ちに変化が生じた。

 それは純粋にダイビングが面白そうという気持ち。

 自分よりも遥かに大きく、そして年も離れた大の大人が嬉しそうに語ったのである。


 でも、と彼女は思う。

 結局迷惑をかけてしまう事にならないか、それに本当に潜れるのか、自分にその勇気があるのだろうか。

 そして楓は素直に気持ちを吐き出した。

 「深い海を前にして平常でいられる自身は無い」と。

 彼女を支配している感情は好奇心よりも不安の方が勝っていた。

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