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「おはよう」
読書を始めて2つ目のショートストーリーが終わる直前、不意に女子の声が響いた。
手元に落とした視線を変えることなく突然の出来事に固まる楓。するともう一度、今度は若干トーンの落ちた柔らかい声が聞こえてきた。
「おはよう秋本さん。学校には慣れた?」
この言葉にやっと自分に向けた挨拶だと認識した楓が顔を上げると口を開いた。
「お…おはようございます。ま、松下さんのお陰で施設の造りは憶えました。…ありがとうございます」
「そんなこと別に気にしなくていいわ。クラス委員の仕事のうちよ」
柔和な表情で挨拶を交わした少女は松下美音。二日前の月曜に転入してきた楓を何かと世話してくれるC組のクラス委員だった。
品行方正。整ったスタイルに大きな目。クラスメイトが信頼を寄せる美少女だった。
「やっと特別課外が終わったのよ」
楓の後ろの席に手荷物を置きながら松下美音が告げる。
鷹城高校では課外授業は2年から必修となるが、1年生の課外授業は特進クラス以外は希望者のみとなっていた。
A組が特進クラスなので、B組で課外を受けてきた彼女は疲れも見せず手鏡を取り出すと前髪を整え始めた。
楓が何も応えられないでいると特に気にした様子もなく手鏡をブレザーのポッケに仕舞い、代わりに携帯電話を取り出すと細い指で操作を始めた。
彼女の小指には小さなワンポイントのネイルアート。薄桃色のハートマークが印象的だった。
眉は細くほんのり化粧が施されている。女の楓が見ても惚れてしまいそうなナチュラルな魅力を発していた。
ただ唇だけは厚く塗られたグロスが艶を出し、色が入ってないのがせめてもの優等生のポーズとして強く自己主張していた。
一瞬魅入った楓が身体を前に向け視線を再び手元に落とす。予鈴まではあと5分、教室も次第に人が増えあわただしくなって来た。
「うっす美音」
彼女の隣に荷物を下ろた男子が美音に声を掛ける。
「おはよう光一君。朝練はもう終わったの?」
「ああ今日も朝から嫌というほどしごかれたよ。うちのキャプテンはサッカーしてる時より俺らを苛めてる時のほうが楽しそうなんだ」
「それは災難だったわね。でもその甲斐あってレギュラー獲れそうなんでしょ?」
「獲れそうじゃなくて獲ったんだ。週末の試合は約束通り見に来てくれるんだろ?」
「約束?そんな約束したかしら?」
「おいおい忘れたとは言わさないぞ。夏休み前にレギュラーになったら見に来てくれるって約束したじゃないか」
少しだけムッとした声色で返答した光一が、じっと美音に視線を送る。
彼はC組では一番の出世頭でムードメーカー、一年にして見事にレギュラーを獲得しはやくもエースとしての頭角を現わし始めた溝口光一だった。男子にしては少し長めの頭髪に180cmという高身長で、口を開けば三枚目、黙っていれば二枚目なのにと、残念な感想を持たれる男子だった。
「ん~…そう?」
「ちょっ」と待ってくれと口を開きかけた瞬間、その言葉を遮るように人影が現れた。
「光一!わりぃジャージ貸してくれ」
「瀬戸くんっ!」
突然現れたのはA組の瀬戸湊太郎。学年トップの成績を保持する光一の幼友達だった。
清潔感のある短髪に少し細身の体格、背は平均より少し高く顔立ちも整っていた。必然的に女子のお墨付きをもらうほどの好青年であるが、誰とも付き合う事もなく奇跡的に絶賛売り出し中の身だった。
「ソータロー聞いてくれよ。美音のやつ俺との約束を憶えてないって言うんだぜ」
「なっなに言ってるのよ光一君」
「馬鹿だな、からかわれてるんだよ。松下が他人との約束を破るわけないだろ。なあ松下」
「も、もちろんそうよ。光一君が必死だったから少しからかっただけ」
さきほどまでは普段通り余裕を含む態度で喋っていた美音が、急に取り乱したように言葉を紡ぐ。これには傍で聞き耳を立てるわけでもなく、しかしこの状況で読書に没頭できるわけでもない楓にしてみると、彼女が誰に対して気があるのかは目を向けて確認するまでも無かった。
「そんなことより光一ジャージ貸してくれ。時間割勘違いしてて体育着忘れたんだ」
「珍しいな。コーボーモフデアヤマリってか。貸すのはいいけど3週間以上はもって帰ってないぞ」
「この際気にしない。一応洗って返すから明日まで借りとくけど大丈夫か?」
「もともと汚れてるんだ、洗ってくる必要はないさ」
「いや、しかし」
「いいんだよ。それにどうせ洗濯するのはソータローのかーちゃんだろ。俺が申し訳ないよ」
「それはそうだが」
「まっ気にすんな。つーわけで終わったら持ってこいよ」
光一が教室後方に設置されている棚から、ぐちゃぐちゃに丸められたジャージを取り出すと湊太郎に放り投げた。
「ああ、悪いな。サンキュ」
その言葉と共に楓の後頭部に衝撃が走った。
微かな放物線を描いて宙を待ったジャージは、勢いよく湊太郎の腕をすり抜け後ろに居た楓に直撃したのだ。
予想外。
あまり運がないことを自覚していた楓だったが、さすがにこの展開を予想できるまでは無かった。
乾いた音が響く。それは衝撃でメガネが床に落ちる音であった。ちなみに衝撃に反して痛みは無い。所詮はジャージである。
「ごめんね。大丈夫?怪我は無い?」
「わっりー秋本さん」
本気で心配しているような湊太郎とは打って変わって光一のノリは軽い。しかし楓にとってそれは取るに足らないことだった。故意ではないのは判っているし、少なくとも悪意があってそういうことをする人間の態度や仕草、口調は誰よりも敏感に感じ取ることができるからだ。
「だ、大丈夫です。痛くないから平気、気にしないで」
楓はクラスで注目されていることが恥ずかしく、蚊の鳴くような小さな声で口を開いた。
しかし湊太郎は落ちたメガネを拾おうとすぐ傍に手を伸ばしており、その声は誰よりも鮮明に耳元で響くこととなった。
くすぐる様な吐息が耳に触れる。と同時に甘い香りが鼻腔を刺激した。
女子に対する免疫が無いわけではない彼もこれは予想外の不意打ちだった。普段意識すること無い、意識したとしても充分コントロール可能な異性への羞恥心や好奇心が、強く溢れ出したのだ。
頬が紅潮した湊太郎が慌ててメガネを楓に渡す。その時湊太郎は初めて彼女の顔を視界に留めた。
それは彼にとっても、彼女にとってもお互いをはじめて認識した瞬間だった。
長い前髪に覆われたその隙間から覗いた大きな瞳が湊太郎を映し、スラッと伸びた眉の下で輝く力強い瞳が楓を映したのだ。
「ご、ごめん。メガネも多分大丈夫だと思うから、も、もし何かあったら遠慮なく言ってよ。光一、お、お前もちゃんと誤れよ。お前も悪いんだぞ」
本人も理解できない恥ずかしさに堪え切れず狼狽した湊太郎が早口で告げた。
それに反して楓は淡々としたものだった。
「本当に大丈夫だから気にしないで」
「うん。もし何かあれば後でも良いから言ってくれていいから」
「大丈夫だよ瀬戸君。もし何かあっても私が付いてるから。それに本人も大丈夫って言ってるしね」
「そっか。じゃあそろそろ予鈴がなるから行くよ。松下申し訳ないけどこの子のことよろしく頼む」
「うん。まかせて」
「それじゃ」
「おう湊太郎またな」
一連のやり取りが終わるのを見計らったように予鈴が鳴り響いた。すでに教室にはクラスメイトが溢れかえっている。
これは楓にとって喜びも苦しみも無い一日の始まりを告げる無感動の鐘の音だった。しかし、ずっと手にしていた文庫本は仄かに湿り気を帯びている。
同じページを開いたまま5分以上めくられる事は無かったからだ。