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水の楓  作者: あまねく
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 前日の雷雨が嘘だったかのように青空が広がっている。

 持久走にはもってこいの天気だ。

 土曜の夜に降り始めた雨は降ったり止んだりを繰り返した結果、なんとか水曜日に回復した。

 雲ひとつ無い澄んだ空気が冷気を肌に突き立てる。

 肺に溜め込んだ空気を細く長く、そしてゆっくりと吐く。

 唇を離れた吐息の中の水蒸気が、冷たい空気によって凝結を起こし、微細な水滴を形造る。

 白い息がタバコの煙の様だと思った。

 我ながらこの状況で余裕があることに少しだけびっくりしている。

 濡れ鼠よろしく、制服に汚水を掛けられたときは、ついに始まってしまったと言葉に出来ないほどの恐怖に襲われた。しかし同時に悲しみと悔しさを味わっていた。

 住む場所を変えても同じ轍を踏んでしまう自分への失望。

 転校という手段をとってくれた父への申し訳なさ。

 そしてなによりも、イジメの原因を一瞬でも湊太郎へ向けてしまった自分の弱さ。都合の良さが自己嫌悪を生んだ。

 



 週を跨いだ月曜の教室も先週末を変わらぬ雰囲気が漂っていた。

 机の中には大量のゴミ。さらに机上には小学生じみた罵倒の単語が書かれている。鉛筆で書いてあるのは簡単に消せる為なのだろう。教師にはバレない、またはバレても問題ない程度が指標だと思われる。

 男子とは接点が元より無いので、どうかは分からないが、少なくとも女子からはシカトがデフォルトのようだった。


 「ドブ臭っ」

 どこからとも無く、呟く様に悪意の含まれた言葉が投げかけられ、同時にクスクスと笑い声が響いた。

 くだらないと思いながらも、気分が沈む感覚に襲われる。

 前髪で狭い視界が一層狭く感じた。

 机のゴミを掻き出しゴミ箱へ運ぶ。

 席に着くとペンケースから消しゴムを取り出し、机を綺麗にする。

 ここで泣いてしまったらお終いだと思った。

 いろんなものを諦めてきた。

 直近では、湊太郎との『交友』。

 そしてそれに伴ってスキューバダイビングも辞める決心をした。

 居心地のいい素晴らしい人たちとの出会いも、感動的な水中の世界も手放すことを決意した楓だったが、どうしても、譲れないものはあった。

 悪いのは全部他人。

 そういうことにして自分が可哀想だと思い込むのは簡単だった。

 でもそれで涙を流すことだけはしたくなかった。

 秋本楓という個体が、自身の責任が一切無くて、どこにいても、環境を変えても、迫害を受ける。これを認めてしまうということは、それは世界に拒絶されているということである。

 つまりそれを認めてしまったら、もうこの世界にはいられない。

 だから絶対に涙は流さないと思った。

 泣いてしまわぬよう黙々と、消しゴムをつかんだ手を動かす。

 先週末の合唱コンクールは一人だけジャージ姿だった。

 僅かに開かれる唇からの音色は、隣に立つクラスメイトには届かない。好奇の視線は全て無視どころか視線を一度も上げることは無かった。

 だけどもあの場所に立つということは、楓にとっては大きな意味があった。

 この世界で生きることへの決意を示したのだ。

 他でもない自分自身へ。

 



 鞄に忍ばせている折りたたみ傘の出番は奇跡的に無く、制服の上に学校指定のオーバーコードを羽織り帰途についた月曜の放課後、結局この日中、自分に対する扱いが変わる事は無かった。

 正直イジメは怖い。

 学校では常に孤独と敵意に晒される。

 他人がどう思おうが……、悲しいことに何も思っていなくても、全ての言葉に敵意を感じてしまい皮肉と受け取ってしまうほど、神経をすり減らしていく。

 荒み、塞ぎこんでしまうのは自衛の常套手段。

 楓も過去、そうだっただけに容易に自分の転がり落ちていく様が想像できた。

 しかし、簡単に屈服する気はなれなかった。

 少しヤケになっている自覚はある。

 悔しいのだ。二度も苛められている現状が。

 だから今日一日中考えていた。

 『私の何がダメでイジメられるのだろうか?』と……


 ビッー!

 不意に大きな音が響いた。

 驚いた楓が音のした方へ振り返る。

 颯爽と楓の横を通りすぎたのは赤色のスポーツバイク。しかしすぐにウィンカーを出していることに気付く。左折出来るような道は無い。

 つまり……

 黒いジャケットに身を包んだライダーが、白いヘルメットに手を伸ばす。

 バイクはすでに停車しており、すらっと伸びた脚がしっかりと地面を踏みしめていた。


 「やっぱり楓ちゃんだ」

 長い黒髪がファサっと空を切る。細い顎のライン、白い肌が作る整った容姿とは裏腹に、ドドドドと大きなエンジン音を響かせ鉄の塊に跨っている姿は豪胆だった。


 「れ、玲子さんっ」

 驚いた楓が恐る恐る玲子の傍へ近づいていく。


 「どお? かっこいいでしょ」

 屈託の無い笑顔で問いかける玲子に楓が何度も首を縦に振る。


 「は、はい。玲子さん、とってもカッコいいです」

 「いやいや、私じゃなくてこのバイクよ」

 玲子としてはバイクを見てほしかったのだが、楓が注目したのはライダーの方だった。それに言われて気付いた楓が慌てて口を開いた。


 「あ、あの、えっとバイクもすごくかっこいいです。真っ赤で、そしてすごく大きいですし」

 「ありがと。やっぱバイクは赤色よね」

 「玲子さんはバイクに乗られるんですね」

 「高校卒業してからずっとよ。そしてこのバイクはボーナスを元手に買ったばかりの新品なのよ。新品。もう朝から土砂降りでしょ。せっかくの休みなのにどうしてくれんだーって不貞寝してたら雨が止んで、バタバタ家を飛び出して一っ走りしてきたってわけ」

 「すごいです。バイクに乗れるなんて、あ、憧れます」

 「そお? 楓ちゃんも練習すればすぐに乗れるようになるわよ」

 「わ、私には大きいですし無理ですよ。き、きっと重くて動かせそうに無いですし」

 「何言ってるのよ。ダイビングも出来たんだから、やってみたら拍子抜けするくらい簡単にできるはずよ」

 「わ、私なんか無理ですよ。ダイビングは玲子さんが居たから上手くいっただけですし、そ、それ以外ではなんにも上手くはいかないんです……」

 「私なんか、っては言わない方がいいわ。楓ちゃんは頭もいいし、人の話をちゃんと聞くことができる優しい子よ。やろうと思えば何でも出来る。それこそ宇宙飛行士も夢じゃない。だからあんまり自分を卑下しちゃダメよ。自信をもっていいんだから」

 「い、いつか……自信が持てれば……いいですね…………」

 こうやって態々バイクを止めてまで話しをしてくれる玲子に対して心のそこから感謝と喜びを感じているが、その彼女の期待に応えることが出来ない自分が悲しかった。

 出来るだけ笑顔を作り言葉を返すが、優しい玲子の言葉に涙が少しずつ溢れてくる。


 「楓ちゃん、何かあったの」

 「あ、あの、いやっ、違うんです」

 玲子の前で涙を流すのは嫌だった。

 慰めてくれるのが分かっているから。

 励ましてくれるのが分かっているから。

 絶対に甘えてしまうのが分かっているから。

 だから楽しい話を聞いて元気を分けてもらえるだけでよかったのだけど、意に反して溢れ出した涙をこらえる事は出来なかった。

 ふと頭と身体、全身を温かい何かに包まれる。

 玲子だった。

 跨っていたバイクから降り優しく手を回してくれる背中が温かい。胸に抱き込まれ彼女の熱が伝播する。

 涙が止まらない。しゃくりあげる泣き声ごと包み込んだ玲子は、ぎゅっと力を込め泣き止むまで静かに抱いてくれた。

 たっぷり十分程度。

 なんとか落ち着きを取り戻した楓が、声にならない声で「ごめんなさい」と玲子から離れる。

 恥ずかしさと申し訳なさで玲子を直視することが出来ない。


 「よしっ、楓ちゃん。ちょっとおねーさんとドライブしよっか」

 「……」

 思わず顔を上げる楓。驚きのあまり声が出ない。

 玲子がおもむろにリアバッグからヘルメットを取り出した。

 あっという間に楓の頭にヘルメットを装着する。上下に開閉可能な風防付きのヘルメットだった。


 「備えあれば憂い無しってまさにこのことね。手袋は持ってる? ってそれじゃあ薄くて冷たいから私のとチェンジね。ちょっとゴツゴツしてるけど暖かいわよ。まあ……脚は悪いけど我慢。ちょっと一回りするだけだから」

 そう告げた玲子が楓の鞄を掴むと有無を言わさず、リアバッグに収納する。


 「あ、あのっ」

 「あとあと、とりあえず後で! 左足で後輪にあるステップを踏んでから右足を架けてね。とりあえず私の腰に手を回してくれればいいから」

 「え、えっと」

 「曲がるときは身体が傾くけど恐れずにそのまま身を委ねてね。無理に起き上がろうとしなくても大丈夫だから。オーケー?」

 「あの、えっと、お、オーケーです」

 「よし、じゃあ早速出発よ」

 強制的に楓を載せたバイクが進み始めた。置いていかれそうな急激な加速。座席から伝わる振動と流れる景色が恐怖を誘う。しかしそれも一瞬、すぐに楓の心を支配したのは、いままで感じたことの無い疾走感だった。

 自動車では味わうことの出来ない感覚だった。全身を覆う風が剥き出しの肌を撫でるが寒さを忘れるほどに衝撃的で刺激的だった。


 「気持ちいいでしょ?」

 玲子の叫び声のような問い掛け。

 感無量だった。

 今まで悩んでいたことがとても小さなことのように感じるほど……

 

 その日、楓は玲子の勧めで彼女の自宅に泊まることになった。幸いにも玲子の自宅は同じ西区でさほど離れた場所ではなかった。

 翌朝、火曜日の朝は激しい雨だったため、玲子の軽自動車で自宅に送ってもらい、玲子は父に挨拶を済ませるとその足で職場へと向かった。

 玲子の自宅では、どうして泣いたのか。

 どういう状況なのか。

 彼女は最後まで黙って聞いてくれた。

 その中には、ダイビングを辞めるという話も当然含まれていたが、話の腰を折る事はなかった。

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