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水の楓  作者: あまねく
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 土曜未明から降り始めた雨は、月曜の午前中にピークを迎えた。

 厚い雲は夜明けを拒むように陽光を遮り大地を鉛色に染めている。

 市立鷹城高校の昇降口で静かに佇む少女の名は松下美音。早朝の課外授業が開始されるまでにはまだ三十分近くの余裕があり、他に人影は無い。

 ツバの大きな水色の傘に滴る水気を払い、自分の中ではすでに定位置となった傘立ての端に傘を収める。もちろん綺麗に巻かれた傘はバンドで留められていた。

 程なくして傘立ての底受けにじんわりと水が貯まる。

 松下美音はその様子を眺めつつ、鞄に付着する水滴をハンカチで拭う。

 泥にこそ塗れてはいないが、埃に侵食された傘立ての底受けは傘から染み出てくる雨露を含み濁り汚れていく。


 ――瞬間――


 彼女の脳裏にひとつの光景がフラッシュバックする。

 バケツに入った雑巾の絞り水。

 それを全身に浴びた少女。

 特徴的な彼女の長い黒髪から滴り落ちる水、そして制服を伝い、肌を伝い、汚水があっという間に小さな水溜りを作った。

 泣くだろうな……

 なんとなくそう思った。

 彼女は一言も発しない。突然のことで理解が追いついて無いのだろう。しかし周りに手を差し出す者はいない。そんな状況だった。

 趣味が悪い、っと思う。

 しかし手を差し伸べる気にはならない。

 だから美音は何物にも想いを馳せる事なく、ボーっと汚れた少女を眺めていると一瞬だけ視線が交錯した。

 濡れた前髪の隙間、さらにメガネを隔てた先にある大きな瞳が美音を捕らえる。

 その瞳に涙は無い。

 しかしただただ悲しそうだった。

 その後、彼女は静かにモップを取り出し無言で片付けをすると。静かに体操着を手にして教室を後にした。

 その間、誰も何も口を開く者はいなかった。

 ニヤニヤと薄ら笑い、リアクションに期待していた数名の者でさえも、唖然とその状況を静観した。

 

 気が重い。

 少なくともクリスマスを前にして浮き足立った世間とは完全に乖離している。

 実質授業は明日まで、明後日は持久走大会だし、その翌日は祝日。そしてクリスマスイブは、長かった二学期の終業式であると同時に、生徒主体のクリスマスイベントだ。それにもかかわらず、その潮流に乗れない。

 原因は分かっているが、考えたくもなかった。

 そして、その日と翌火曜は、ある一点の存在を除けば普通だった。

 

 




 「松下っ、ちょっといいか?」

 火曜の放課後、帰り支度を終え、教室を後にした美音の前に現れたのは瀬戸湊太郎だった。


 「湊太郎君……」

 多分あの件だろう。美音の直感が告げていた。


 「この間の件なんだけど……ほ、ほら秋本さんの事。……何か分かったか?」

 想像通り。

 何てわかりやすい人なのだろう。普段は飄々としてるくせに、と心で苦言を漏らす。


 「えっとね、湊太郎君。ここじゃなんだから、ちょっとついて来て」

 何度も練習し、何度も披露してきたいつもの笑顔で、そう告げた。だけどいつもより可愛さが劣っているような気がしてならなかった。

 美音が先導して訪れたのは視聴覚室だった。

 月・水・金で活動している英会話クラブの生徒は火曜ということで皆無。どうして美音がそのことを知ってるかというと、友人に誘われて何度か参加したことがあったからだ。

 ALTの外国人教師を囲んで英会話を実践し習得するのが目的であるが、実際はお菓子を囲んで楽しくおしゃべりをするだけの内容だった。それが悪いとは思わないが、誘ってくれた友人が感じるほど楽しいと思うことは無かった。

 蛍光灯の灯りもつけずに教室中央の机に腰を掛ける。天気の影響もありかなり暗い。


 「湊太郎君。そんなところに立ってないでこっちに来たら?」

 「お、おう……。ところで大丈夫なのか? 勝手に入ったりして」

 美音が座っている机を通り過ぎ、湊太郎が窓際に身を寄せる。

 外は未だ激しく雨が降り注いでいた。


 「大丈夫。火曜は無人なの。ところで秋本さんのこと、だったよね」

 無言で頷く湊太郎。


 「秋本さんねぇ~……。あれから色々話そうと努力したんだけど、全然ダメ。一言も喋ってくれなかったわ」

 実際は美音からの接触は無い。声をかけることは只の一度も無かった。


 「そうか……」

 「でもひとつ噂で聞いたんだけど」

 「噂?」

 「う、うん……でもこれを湊太郎君に話していいかは……」

 「お願いだ教えてくれ」

 「噂だから本当かどうかは知らないけど、昨日もバイクで二人乗りをしてたのを見たっていうクラスメイトが居たり、どうやら悪い人達と仲良くしてるって……」

 「あの秋本さんが?」

 「あの秋本さんが」

 「いやいや、有り得ないよ。あの秋本さんがバイクで二人乗りとか、他人の空似じゃないか?」

 「私もそう思って聞き返したんだけど、間違いなく秋本さんだったって……。昨日の夜に新街で赤いスポーツバイクの後ろに座るところ見たって……」

 時計の秒針の音がカチカチと響いてくる。締め切った窓の外からはザーッという雨音も混じっているが、それ以上が二人の間に入ることは無かった。


 「嘘だろ……」

 「私もそう思いたいけど……」

 「お、俺、確かめてくる」

 駆け出そうとする湊太郎。驚いた美音が咄嗟に腕を伸ばし胸にしがみついた。


 「待って、ダメだよ……」

 「松下っ」

 悔しかった。すでに湊太郎の心を支配しているのが誰なのか、美音には理解できたからだ。


 ねえどうして?あの子なの?

 あんな冴えない女の何処がいいの?


 沸々と苛立ちが心を支配する。

 私の気持ちなんて知りもしないで……。

 その苛立ちは次第に強くなる。しかしそれに反比例して美音の気持ちは暗い水の底へと沈み冷たくなっていく。


 「男子がそんなこと聞いて、本当のこと言う訳無いじゃん。明日までに私が確かめるから、だから湊太郎君。今は行かないでよ…………」

 「だけど」

 「お願い。秋本さんのためにも、そして……」

 私のためにも…………。と言葉が出ることは無かった。

 「わ、悪い松下。俺、ちょっとおかしいな。そ、それに、そんなにくっついたら」

 胸に顔を埋める美音の肩を掴み、距離を取ろうと力を込める。しかし美音が離れることは無かった。


 「ごめんなさい。あと少しだけ……、少しだけこのままで…………」

 湊太郎からは美音の表情を見ることは出来ない。困惑した状態の湊太郎は、何もすることができなかった。

 五分ほどの静寂を切り裂いたのは強い雷鳴だった。

 ビクッと肩を震わせる美音。


 「大丈夫だよ松下。学校だから落ちても平気だよ」

 優しく恐怖を労わるように言葉を掛ける。

 その時、不意に美音が顔を上げた。

 潤んだ瞳、そして艶のある唇が暗い教室でも見て取れた。

 ドクン。

 高鳴る鼓動。

 美音が湊太郎の瞳を凝視する。その双眸は恐怖に怯える少女のものではなく、女を意識し決意したものであった。

 彼女がスルリとタイを緩め引き抜いた。Yシャツの第一ボタンを細い指先が撫で、静かに外し始める。

 光沢のある爪に掛かった最後のボタンも、ものの数秒で外れてしまった。

 ブレザーの上着を脱いだ美音がそっと湊太郎の背中へと両腕を回す。

 その間、湊太郎はなにも考えることができず、美音の一挙一動を追っていた。


 「ま、松下っ、あの、その、えっと……」

 「美音って呼んで湊太郎くん……」

 小さく囁いた美音が湊太郎のベルトへと手を伸ばす。

 二人の鼓動は急速に回転数を増し、すべての音を遠ざけていった。

 外は未だに雷鳴が轟いている。

 幾重も幾重も……幾重も…………。

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