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アクアスケッチは十六時を回り、和やかな雰囲気に包まれている。
ソファーに座りログブックにダイビング記録を記入しているのは、谷口と橋本のカップルコンビと楓だった。
初めての海洋実習。
時間の経過も忘れて必死に課題に挑戦した結果、あっという間にその日の実習は終了した。
海中に居たのは時間にして五十分程度。二十五分程度の実習を二回に分けて実施した。一時間にも満たない回遊にもかかわらず、楓は全身を疲労に襲われていた。
しかしその疲れは何故か心地よさを伴っていた。それは疲労自体がダイビングの余韻だったからだ。
自分ではまだまだぎこちない動きだし、浮遊調節もままならない状態だが、それなりに様になってきたように思う。
たとえ姿勢が丸みを帯び、フィンキックの支点が膝だったとしても、精一杯取り組んで得た、今の最高のパフォーマンスだった。
その努力と必死さは玲子や湊太郎も感じており、また楓の意志が想像以上に強いことに気づかされていた。
自信に欠けた普段の彼女からは想像が出来ない意地を見たのだ。
海が好きだったり、ダイビングへの憧れをもってこの世界に入ってくる者が多数いる中で、半ば強制に近い形で足を踏み入れた。
しかし彼女はプール実習が始まって以来、不安を述べる事はあっても文句や愚痴、諦めの言葉を口にすることがなかったのだ。
玲子が楓のログブックに目を通す。
ダイブナンバー:1-2
日付:12月18日
潜水地:鷹城湾、岩瀬岬
開始時タンク圧:190
終了時タンク圧:150
最大深度:6m
潜水時間:24分
透明度:8m
温度:気温9℃、水温16℃
コメント:初めての海はとても美しかった。
玲子がログブックの端に目を通す。そこにもう一文添えられている。
『もっと上手くなりたい』
切実な願い、そして何より前向きな想いだった。これは紛れも無く楓がダイビングへの気持ちを肯定的に捉えたこと示す証拠でもあった。
玲子がふと視線を楓に移す。
目が合った。
楓は恥ずかしそうに、そして顔色を伺うように視線を注ぐ。
思わずふっと笑みが漏れた。
「楓ちゃん。ちょっとペンをとってもらえる?」
「は、はい。……あのう、色は?」
「ん~……じゃあ青かな」
楓がテーブルの端に置かれたペン立てから一本ボールペンを渡す。
受け取った玲子がログブックの空いたスペースに文字を記入した。
『これからもっと海に浸かりましょう。あなたは絶対に上手くなる!』
ログブックを受け取った楓が、メッセージを受ける。頬は普段より五割増で緩んでいたように見えた。
次の実習がOWD最後の海洋実習である。
日程は12月23日、木曜日、祝日を予定している。
ベッドに倒れこむ楓、自室の空気の冷たさが鳥肌を誘う。しかし今は毛布に包まれる気分じゃない。
魔法が解けたシンデレラはどんな気分だったのだろう。
楽しい夢を邂逅し、悦に浸る余裕はあったのだろうか。
楓に分かるのは、現実がもたらす憂鬱さが払拭されないことだけであった。
継母や義姉妹はシンデレラにきつく当たってくる。
しかし彼女には王子様が存在した。辛く厳しい苦境から救い出してくれる救世主が。
ふと楓の脳裏に一人の男子の姿が思い浮かぶ。
はにかんだ笑顔、優しい言葉、手の平から伝う熱。
しかし、楓は彼の優しさにすがることは出来ない。
学校でしゃべる事はおろか、目を合わせることも……。
胸の奥に確かに存在する特別な感情は、決して実ることが許されない想いだった。
『二十三日、最後の実習を最後にダイビングを辞めよう』
楓は静かに決意した。
ダイビングは想像以上に楽しかった。恐怖も消えたわけじゃないが、二度と忘れることの出来ない光景を、体験をさせてくれた。
それにアクアスケッチの玲子さんやオーナー、チーフの藤田さんに小林さん、そして瀬戸湊太郎。皆いい人だった。
今日出会った橋本さんに谷口さんも気さくで楽しい人だった。
きっとアクアスケッチに関わる全ての人がそうなのだろう。協力して居心地を重視した空間を創る努力をしている。
でも、私は居られない
そう決意したのだ。
湊太郎を好きにはならないと……。
それが自分への嘘である事は今日、改めて認識した。もともと叶わない恋だということも自覚している。でも私が好きでいることさえも皆への罪になってしまう。
少なくとも、『好き』になってしまった気持ちを消化できない私は、自分のため、そして美音と交わした約束のためにもアクアスケッチにいる事は出来ない。
大粒の涙がこぼれた。
堰を切ったようにあふれ出す雫。
もう涙は止まらなかった。
今夜だけは、今夜だけはこの気持ちを大事にしたい。
明日には全て忘れよう。だから今夜だけは彼を想う。
その夜、押し殺していた鳴鳥のさえずりは、やがて嗚咽を伴い深い夜を切り裂いた。
外はぽつぽつと雨が滲みはじめていた。




