20
12月後半を過ぎた午前6時、外はまだ暗い。
天気は曇り、風はほとんど無く気温は7℃に届いていない。テレビでは今日の最高気温が11℃だと告げている。
大きめのスポーツ用トートバックに着替えやタオル、そして防寒用のトレーナー類、その他コンタクトレンズの予備やログブックの確認を行うと、楓は洗面所へと向かった。
冷たい水が眠気を遠ざける。
基本的に寝付きも悪ければ、目覚めも悪い。
昨夜はいろんなことが頭の中を駆け巡りベッドに入って2時間が経過した頃にやっと眠りに就くことができた。
といっても夕飯を摂ってリビングをあとにしたのは21時。それから課題を片付けたのが1時間後。
そして翌日の海洋実習の予習と復習を1時間行い床に着いた。
ベッドに備え付けられた薄暗いスタンドライトの灯りを頼りに、読みかけの小説に手を伸ばすが合計で4回、それ以上のページをめくられることは無かった。
うつ伏せの状態で枕に顔を埋める。
あの時、湊太郎の手を振り払った時の驚いた顔が頭から離れない。
自分の冷たい腕が彼を傷つけたかもしれない。
『善意』で構ってくれた湊太郎の好意を拒絶し、あの場から逃げた。困惑した顔で追いすがる言葉さえ聞き入れる間を与えなかった。
でも責任は全て自分にあるのだろうか。
……分からない…………。
瀬戸湊太郎へ好意を寄せる多くの女子。彼女らの気持ちを踏みにじる行為だったことは間違いない。その結果"報復"を受けている。
元凶は彼がもたらしたもの。
平穏に過ごしてきた些細な日常が音もなく崩れ去ったあの日、恐怖で息が詰まりそうだった糾弾に耐え取り繕った。
しかしそれは湊太郎が周りに印象づけた楓への好意、友達かそれ以上の感情を抱いているのではないかという疑いを払拭させるには至らなかったからだ。
……元凶は湊太郎…………。
しかし楓はその湊太郎を憎むことは出来なかった。
最後に見た彼の表情が何度も繰り返し駆け巡り、その度に心の何処かに痛みを覚えたのだ。
同時に華やかだった松下美音の色のない感情と視線が棘となって突き刺さる。クラスの半数以上の女子から向けられる、少なくともそう感じることが出来るほどのマイナスの空気は体感温度、心象温度ともに日に日に下がり厳しさを増していった。
トートバックの横にもうひとつのバックが添えられている。中には湿り気を帯び汚れた制服が詰められている。これは今日中にクリーニングに出す予定だった。
スーパーで買った甘いインスタントココアの粉をカップに入れお湯を沸かす。もふもふのネコスリッパの上は薄水色のマーブル柄が入ったパジャマ姿だった。
「ックシュン」
くしゃみが出るが風邪をひいてるわけではない。
楓は食パンをトースターにセットし、エアコンを入れると、着替えるために一端部屋を目指した。
相変わらず少し緊張気味にアクアスケッチのドアを開いたのは8時10分前だった。
集合時間は8時に指定されていた。
事前にアクアスケッチの玲子から必要なものや時間は知らされていたが、改めて昨夜連絡があった。
それは今日がかなり寒い事が予想されることから、防寒着に対してのレクチャーだった。ヒートテックに代表される発熱保温ウェアがあれば上下ともに2枚、さらにその上のトレーナーで2枚。これだけあれば寒さも無く潜れるという内容だった。
楓は既に一枚、カーキー色のコットンパンツの下に履いているが、直前の着替えでは前記した内容で防寒予定である。
アクアスケッチに到着した時点では茶色のニット帽に白いダウンジャケット、コットンパンツにニット帽の色に合わせたファー付きのショートブーツの姿だった。
「おはよう楓ちゃん。そのダウン暖かそうね」
「お、おはようございます玲子さん」
「じゃあとりあえず今日一緒にダイビングを楽しむ仲間を紹介するわね」
「一緒に……ですか?」
「まあ一緒というのは少し語弊があるけど、こちらは橋本香織さんと谷口正治さん。今日私たちとは別にファンダイブを楽しまれる方たちよ」
「お、おはようございます」
「おはよう」
ソファーに腰掛けていた男の谷口が軽く会釈をすると、続いて横に座っていた橋本が腰を上げ手を伸ばしてきた。
「おはようございます。今日は一日よろしくね。えっと……」
「彼女は秋本楓ちゃん。なんと花の高校生よ」
玲子がフォローする。
「ええっ、すごい。この店で始めて高校生を見た気がする」
少し興奮気味の橋本が楓の右手を勢いよくとると、有無を言わさず握ってくる。楓の冷えた手とは対照的にカイロのように暖かい手だった。
「俺、野郎の高校生は見たことあるけど女の子は始めてみたよ。オレコさん、こんな可愛い子が居たならもっと早く教えてよ」
「谷口さんに橋本さんというパートナーが居なかったとしても、それは無かったでしょうね」
「うっわー少し傷ついたかも」
「アンタの本性がオレコさんには見抜かれているのよ。馬鹿だ馬鹿だとずっと思ってきたけど高校生に手を出したら犯罪だからね」
「おいおい待ってくれよ香織。いくら俺でも言いすぎだぞ。楓ちゃんが引いてるじゃねーか」
「いきなり楓ちゃんって呼んでる時点でアンタの軽薄さがわかるわよ。っというわけで楓ちゃん。このおじさんには近づかない方がいいよ。何されるかわからないから」
「俺はまだ25才だ。大体お前26じゃーねーか。俺がおじさんならお前はおばさんってことだぞ」
「私は20才と75ヶ月なの」
「それは無理がありすぎるだろ。なあオレコさんも楓ちゃんも現実を見るように言ってやってくれよ」
「あら、実は私も20才とウンヶ月目よ」
「さっすがオレコさん。私と同じ年ですね☆」
満面の笑みを浮かべる橋本。楓とは全く逆の人懐っこい性格に、店は色が変わるほど楽しい空気が流れ始めている。
「ウンヶ月って120ヶ月くらい?」
「あら谷口さん。確か将来は水葬がいいって仰ってましたけど今日が命日ですね」
笑みを見せる玲子。しかし反面彼女から発せられる迫力は気圧される何かがあった。
「じょ、冗談ですよ冗談。やだなーオレコさん……。ほ、ほら湊太郎君も何かフォローしてよ」
奥から両手に黄色メッシュバックを抱えて現れた湊太郎が口を開く。
「残念です橋本さん。……安らかに眠ってください」
「ちょっと湊太郎君までー。ホントマジですいませんでしたオレコさん。オレコさんの年齢は永遠に20才ということで脳味噌に刻んでおくので許してくださいよお」
「分かって頂けて嬉しいわ。本当に良いお客様に巡り会えてこの店は幸せですよ」
外の寒さの欠片もない暖かさが場を支配し笑い声が響いた。
しかしこの中で、ある二人だけは内心その限りでは無かった。
「お、おはよう秋本さん」
荷物を入口間際に降ろした湊太郎が声を掛ける。
「お……おはようございます」
視線を足元へ向けた楓が頭を下げる。
正直気まずい。
先日、廊下で別れて以来である。
もしかすると自分の態度に腹を立て責められるかもしれない。あの時の話の続きを望んでいるかもかもしれない。それくらいの覚悟はして来たのだが。頭を垂れたあとで一瞬だけ覗いた彼の表情は一緒に昼食を摂った時のように穏やかなものであり、また少しだけ寂しさを含んだものだった。
内心、その時の湊太郎もかなり気まずい気持ちを抱えていた。本音としては彼女が自分を避けていたことをについて踏み込みたい衝動に駆られていたが、美音にお願いした手前、今は彼女に踏み込むことは出来なかった。
だからもし楓が自分を何か誤解しているのなら、それを解くべく精一杯"いつもどおり"接することに決めたのだった。
「今日は寒いから少し覚悟してたほうがいいよ」
「だ、大丈夫です。昨日玲子さんから沢山忠告を頂いたから」
「そっか……。今日はオレコ先輩と秋本さんの実習に俺も付きそうから分からないことや不安なことがあったらなんでも聞いて、俺も何かあったら都度助言するから。緊張してると思うけど、……安心して楽しんで潜ろう」
気を使ってくれる彼の優しさが楓には痛かった。
だってそれは、湊太郎に悪い点など全く無いことが初めから分かっていたからだ。
「は……はい……。よろしくお願いします」
バンに積み込まれたのはダイビング用の装備が詰まったメッシュバック、そして10本以上のエアタンク、他にはウエイトや潜水ポイントを示すオレンジ色のブイだった。
鷹城市中央区から車で40分。途中コンビニで水や昼食を買い、公衆トイレで用を足し、潜水用のトレーナー姿に着替えたあと、ポイントに到着したのは9時半丁度だった。
ここまで運転したのはアクアスケッチのインストラクターでは最年少の小林だった。といっても今年で26才。沖縄出身の妻子持ち、高身長で彫りの深い造詣は女性客に固定ファンがいるほどの人気を有している。
しかし敢えて付け加えるとすれば、剽軽すぎる性格から一般的には残念な二枚目という評価を得ていた。
鷹城市北区から東区北部へ抜け到着したのは半島というより島に近い岬の側面だった。外海からの波や風を上手く防いでいる岩礁地帯の手前がダイビングポイントである。
他に人は居ない。
それも当然といえば当然である。あと十日ちょっとで新年を迎える季節なのだ。よっぽど好きな者でなければダイビングをしようと考えることはないだろう。
本日小林が橋本と谷口を連れ3人でファンダイブを行う。
楓は彼らとは同行せずに、玲子と湊太郎との3人で第一回目の海洋実習を行う予定である。
全員でバンから10m程離れた場所に荷物を降ろす。岩場の隙間に大きめの砂利で出来た浜があるのだ。
あっという間に荷物を降ろし、玲子が簡易の天蓋テントをセットする。折りたたみの椅子が人数分。それぞれが荷物を納め、機材のセットに取り掛かった。
タンクを立てBCDジャケットを取り付けると、続いてレギュレターをタンク上部に固定する。
楓は少し手間取ったものの、向きや緩みも問題なく取り付けることができた。続いてタンクをジャケットの腹が上になるように寝かせると、フィンやマスク手袋等の装備をジャケットの中に収納した。この状態でとりあえずの装備の前準備が完了である。
周りはすでにその作業を終え、ドライスーツを纏いつつあった。
楓も遅れないようドライスーツを手に取ると、背中のファスナーをいっぱいに広げ足を通した。
「まって秋本さん」
「は、はい」
湊太郎が待ったをかける。
「その状態で足を入れると足首の裾が捲れるから」
「……そっか」
そういえばそうだったと楓は急いで右足を抜くと、ズボンの裾の内部に入った靴下を、ズボンの上を覆うように履き直した。
「うん、それで大丈夫。ちなみに靴下は一枚?」
「い、一応2枚……」
「オーケーなら大丈夫。水温はまだ16℃以上はあると思うけどさすがに一枚だと辛いからね。登山用とかの厚手の靴下なら一枚でも十分なんだけど」
湊太郎はおせっかいとは思いつつも助言すると楓がセットした機材に目を通す。
「ぱっと見る限りこっちも問題ないね。ちゃんとしたチェックは背負ってからまたやるから」
「は、はい」
「湊太郎っ。楓ちゃんの邪魔ばかりしないでちゃんと手伝ってあげなさいよ」
すでに準備を終えた玲子が腰にウエイトを巻きつけながら口を挟む。
「わかってますよ。……とりあえずドライスーツを着ようか」
「ご、ごめんなさい。すぐに着ます」
楓以外の全てのメンバーがスーツに着替え終えていた。小林と他二人に関してはすでにダイブ前のブリーフィングに入ろうとしている。
慌てた様子で楓がスーツに足を通した。
スーツのサイズはフリーのS。楓に合せて購入したものではないので少し内部に余裕がある。上下4枚も着込み、ひと回り以上太さの増した楓でもすんなりと足から胴、そして両手と最後に首も問題なく通すことができた。
「首は大丈夫?」
「は、はい。大丈夫……です」
「じゃあこっちに背中を向けて。ファスナーを締めるから」
「ありがとうございます」
楓が湊太郎へ背中を向ける。楓が両腕を胸の高さに持ってくると勢い良く湊太郎がファスナーを締めた。
「これで問題なしっと……。オレコ先輩。とりあえず準備完了です」
「じ、時間を掛けてしまって……すみません」
「オーケー、全然早い方よ。中にはおしゃべりに夢中で倍以上掛ける人もいるんだから。それに時間の余裕はいくらでもある。たとえ10分20分掛かったとしても気に止む必要は無し。それにせっかく海に来てるんだから、ゆっくりでいいのよ」
笑顔を見せる玲子に、引き込まれるように今日初めて楓の頬が緩む。
「やっと笑顔が見えた」
「えっ」
「楓ちゃん。今日、全然笑わないから。やっぱり緊張してるのかな。でも問題なし。今日やるのは前回プールでやったことのをそのまま海でやるだけ。時間が余ったら少しだけ回遊して終わり。簡単でしょ」
「…………は、はい」
「まあ硬くならないで。二人でフォローするから。さっき言ったとおり時間は気にする必用は無し。焦る必要もね」
「ありがとうございます。ふ、不安ですけど……がんばります」
「よろしい。じゃあ早速ブリーフィングを始めましょう」
「は、はい」
その場に集まり腰を降ろす三人。気温は天気予報どおり。風は無く、波もほとんど無い。ただ気温はまだ10℃を下回っている。
しかし寒気は無い。むしろ少し暑くすらあり、唯一外気に晒された顔が心地良い。
「じゃあ今日やることだけど、まずこのビーチから30mほど沖へ水面移動。このあと小林君がオレンジのブイを浮かべるからそこを目指して泳ぎます。そこから水中へエントリー。ゆっくり圧平衡、えっと耳抜きのことね。その耳抜きを行いながら水底まで降下します。到着したら深呼吸をして息を整える。準備が出来たらマスククリア。そのあとレギュレーターの着脱。バディから予備エアを貰う動作と、逆に渡す動作を行います。そこまで出来たら緊急時の浮上、そして浮力調整。慣れてきたら少しだけ回遊して終わり。プールでやったことと同じだから。落ち着いて一つ一つやりましょう」
「が、がんばります」
「その意気よ。基本的に全て私が手本を見せるから、その後にお願いね。水中用のマグネットボードを持っていくから細かい指示はボードに書くわ。がんばってクリアしましょう。あと、今日は湊太郎も一緒に潜って楓ちゃんのお手伝いをします。まあ私一人で充分なんだけどどうしても湊太郎が」
「わああっ、ちょっとオレコ先輩っ」
「っというわけだからあまり邪険にしないでね」
「じゃ、邪険だなんて……」
「そお?」
含みのある表情を浮かべた玲子が視線を湊太郎へ向ける。湊太郎は苦々しいような、複雑な笑みを一瞬だけ玲子へ見せると、勢いよく立ち上がった。
「秋本さん。オレコ先輩と俺が付いてフォローするから。……だから今日は楽しんでよ。初めてのダイビングなんだし。俺は、秋本さんに今日を楽しい思い出にして欲しい。そして海を好きになって欲しい」
「あらあら」
ニヤついた玲子の視線の先、そして楓の瞳に映った湊太郎は頬を少し赤らめている。
楓にとって今日嗅いだ潮の香りは、今まで嗅いだことのあるどんな海の香りとも一線を画したものとなる。
生涯忘れることのない、鉛色の空にくすんだ海原。街の喧騒のひと欠片も存在せず、また日常のしがらみが溶けて消えてしまうほどの非日常。異世界への扉を前にして訪れた一迅の風は、湊太郎との間にあった茨を一時だけ吹き飛ばすには十分なものであった。
「さあ行こう」
玲子が号令をかける。
湊太郎が差し出した手の平が楓を海へと誘っている。
楓は熱を帯びたその手をじっと見つめると、自分の冷たい右手をそっと重ね合わせた。
お互いに少しけ切なさを伴ったままではあるが、ぎゅっと握られたその両手は、今は海の中の世界だけを目指していた。




