19
嵐の前、なのだろうか。もしかするともうすでに嵐に突入したのだろうか。始まりは目眩を覚えるような既視感と共に訪れた。
楓のペンケースからごっそりと中身が消えたのだ。
月曜の放課後、あの日松下美音に迫られた楓は振り絞った勇気で、強く否定した。
「あ、あの私……、せ、瀬戸君とは……なんでもないです。ただ彼のバイト先で少しお世話になっただけで……」
無表情のクラスメイトから針のような視線の全てが集中している。
その中で彼女の正面に立つ美音の唇が動く。
「バイト先ってスポーツジムのこと?」
「い、いえ……あのっ……もう一つの方です」
微笑みを浮かべた美音がピクリと反応を示した。
「もう一つってなにかしら。……私は知らないけど秋本さんは知ってるんだね」
「父の知り合いのお店で……大明にあるアクアスケッチという――」
「な~んだ、そこで湊太郎君に優しくされたのね。彼は誰にでも優しいから」
少しの静寂。相変わらず笑み浮かべた美音だが、少なくとも楓にはその表情が額面通りのものには見えなかった。
「そ、そのとおりです。瀬戸君は……」
「だよね。だから秋本さんも少し勘違いしちゃったんだよね」
「か、かんちがい……?」
「そう。……もしかしたら湊太郎君が自分に気があるじゃないか、とか……」
楓の脳裏にフラッシュバックする光景。
ほんの数日前、アクアスケッチで共有した時間、そして昨日の食事。終始笑みを見せていた彼の顔が鮮明に蘇る。
今思えば、確かにそれは夢のようなひと時だった。
困惑と不安の入り混じった不安定の心境だったが、言葉に出来ない悦びも同時に得ていたからだ。
彼の本意なんてわからない。でも、それでも、二人で過ごしたあの空間は生まれて始めて胸の疼きを伴う "ときめき" を感じていたからだ。
「でもこれで大丈夫。勘違いはお終い……だよね」
勘違い。
――それは私が彼へ向けてしまった感情への勘違い?――
それとも
――それは彼が私へ向けてしまった優しさへの……――
多分
――恐らく両方。彼と私との間にある感情全ては勘違い――
つまりそういうことだった、と美音は同意を求めたのだ。
『はい』
たった一言、そのたった一言でこの "糾弾" は終わるだろう。
喉元まで出かかっている言葉。でもその一言が出ない。
こうやって美音に指摘されたことで自分から封印してきた感情を改めて認識してしまったのだ。
「あれ?違った?」
さらに一歩近づく美音。二人の距離は半歩分も無い。
チクリと胸に痛みが走る。あの日々を繰り返さないためには、この痛みに耐えなければならない。
結局どちらが痛いのか、という葛藤に揺れる。しかし、彼女に刻まれた恐怖は、十数個の瞳に抗える訳もなく言葉を紡いた。
「せ、瀬戸君がわ、私なんかに好意を持ってくれるなんて……あ、有り得ません。それに私も……私も少し勘違いしてました。私は決して瀬戸君に好意を……好意を抱いてなんかいません」
振り絞った声、固く緊張する全身の筋肉。押し留めた感情は雫となって頬に筋を描いた。
それから美音と会話はしていない。もともと普段から積極的に会話をしていたわけでは無いので特に不自然ではないのだが、日常的な存在としての繋がりがより希薄になったことはヒシヒシと伝わっていた。
しかもそれは美音だけではなく、クラスの女子全体からも同様の印象を受けていた。
強い既視感。
場に居た堪れない、真空のような雰囲気。
知っている。
この空気は知っている。
それは時間とともに強くなる。
区別された生き物、まるで醜いイボイボの爬虫類へ向ける嫌悪感を伴いながら膨れ上がり、遂にはその感情の切っ先が自分を傷つける。
始まりを告げる静寂は、すぐに訪れた。
最初は無視。これはすでに始まっている。その証拠に自分に目を合わせてくれる者が誰ひとりいないから。
そして今日、あれから二日経った水曜日、お手洗いから帰ってきた彼女のペンケースの中身が何一つ無かったのだ。
周囲を見渡す楓。
次の授業の準備に教科書やノートを取り出すクラスメイト達。
困惑した顔で周囲を再度見渡す。でも見れば見るほど惨めさに涙が込み上げる。ギリギリで涙を堪える楓。しかし誰も手を差し伸べてくれる人は居なかった。
「秋本さんっ」
「せ、瀬戸君」
翌日の放課後、突如目の前に現れたのは湊太郎だった。
「もしかして今から合唱コンクールの練習?」
「あ、あの……私急いでるから」
教室を出たところで鉢合わせとなった楓が足早にその場を去るが、縋るように左腕を掴まれた。
「だめっ」
突然のことに思わずその手を振りほどく。その態度は明らかに拒絶の色が濃く滲んでいた。
「ご、ごめん……。え、えっと……土曜のことなんだけど」
今週末、楓は人生で初となる海洋実習の予定が組まれている。恐らくその日についてのことなのだろうが、楓にとって今重要なのは、湊太郎と接触している現状だった。
窮地といっていいほど自身の立場を危うくしている状況で、クラスメイトに見られるわけにはいかなかった。
「ごめんなさい。早く行かないと行けないから――」
「待って、もしかして俺のこと避けてる? 昨日や一昨日も俺と目が会うと逃げるように引き返していたし。もしかして……俺のこと嫌い?」
――そんなことない――
と言えたらどんなに良かっただろう。
強い眼差しが向けられる。しかしその視線に応えることが出来ず咄嗟に顔を伏せる。
「ごめんなさい」
数秒の刻が流れる。
俯いたままの楓。
歯がゆさに満ちた表情の湊太郎が口を開きかけた瞬間、場を展開させたのはクラスメイトの女子三人だった。
横並びに二人の女子。
「あっれー、瀬戸君何してるの?」
「秋本さんも、もうすぐ練習始まるよ」
そして笑顔で寄ってくる二人の後ろには、無表情の松下美音の姿。しかしすぐにいつもの笑みが浮かび上がる。
「湊太郎君、ごめんね。私たち今から体育館で合唱コンクールのリハーサルなの。申し訳ないけど秋本さんを返してもらってもいいかしら。でも、もし急ぎの用事だったらそちらを優先してもらっても構わないけど」
「い、いや。……特に急ぎってわけじゃないんだ」
「そうなんだ。じゃあ秋本さんは連れて行っても大丈夫かな?」
「ああ、……ごめんな秋本さん、また改めて連絡するから」
美音の息をのむ所作、そして二人の女子の眼差しが突き刺さる。
「……い、いや……大丈夫です。必要なことは玲子さんから聞きますから、そ……それじゃ私は先に行くので」
楓が逃げるように駆け出した。咄嗟に引きとめようとした湊太郎の腕は虚しく空を切ることしか出来なかった。
「秋本さん、なんか感じわるーい」
「転校してきてからずっと無口で、何考えてるのか全然わかんないし」
湊太郎の両脇を挟むように陣取った女子が口を開いた。対面には美音。彼女は楓が走り去った廊下の先を見据えながら二人に忠告する。
「二人ともあんまり悪く言ったらダメだよ。彼女の性格なんだから」
はいはい、っと軽快に返事を返す二人。湊太郎は未だに楓の残滓を追いかけるように遥か遠い廊下の果てを見つめていた。
「湊太郎君?」
「…………松下、ひとつ聞きたいんだけど」
「なにかしら? でも秋本さんのことなら私は何も知らないわよ」
「それって」
「私も最近、彼女が何か変なのは気がついてるんだけど、私が声をかけても今みたいな様子だし、もしかしたら私、秋本さんに嫌われてるのかも……」
「いや、彼女に限って――」
「でも秋本さん無口だから私が何聞いても答えてくれないし、昨日だって話しかけたら逃げるようにどこか行っちゃうし……」
「そっか……」
「だから湊太郎君が気にすることは無いよ。私が誠意を見せればきっと彼女もわかってくれると思うし……。だからもし湊太郎君が彼女を気にしてるんだったら、少し私に任せてみない?」
「任せるって……」
「女子同士の方が良い場合もあるってこと」
「なるほどな……、俺だけじゃなくて松下にも同じ態度なら、何かあるのかもな…………」
腕組みをして考え込む湊太郎。少なくとも月曜の昼食が終わるまでは普通だった。楽しく食事をして昼休み一杯話し込んだ。そして別れの際の彼女は、綻んだ唇が微笑んでいるようにさえ見えた。
しかしその火曜から現在、つまり木曜の放課後に至るまで、あの表情が嘘だったかのように硬い態度を見せている。
「松下、申し訳ないけど彼女のことお願いしてもいいかな。多分頼れるのは松下しか居ないと思うんだよ」
「もう何言ってるのよ湊太郎君。そんなこと言わなくても私はそのつもりよ。だから安心して」
「さすが松下だな。お前が居て助かるよ。じゃあ俺からいうのも変だけどあいつのこと頼む」
「はいはい、なにか分かったら話せる内容の範囲で教えるから待っててね」
満面の笑みを浮かべる美音、湊太郎は三人に時間をとらせてしまったことを簡単に謝罪するとA組の練習場所へと駆けていった。
翌日金曜の午後、合唱コンクール本番、楓が属する2年C組の発表はコンクール開始から1時間経過した頃だった。
三十数人がステージに並び唄う中、向かって左端に一人だけジャージ姿の女子の姿があった。
本番直前の昼休み。何らかの理由で制服が汚れてしまったからである。




