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鉛色の空、風は強く湿り気を帯びている。
マフラーが無いと肌寒かった昨日とは打って変わり少し気温が高いのは、南から湿った空気を運んでいるからだ。
天気予報では曇りのち雨。昼に差し掛かる頃から明日にかけて大雨を告げていた。
足早に学校を目指すのは先週この街に越して来た16歳の少女。
腰まで伸びた髪は、洒落っ気のない真っ黒なゴムひもで纏めただけ。前髪も伸びに伸び、ろくに手入れもしていないことが一目で判る。細いフレームのメガネの奥にある瞳は前髪に隠れ、その輪郭がはっきりと見えることは無かった。
転入に間に合わせた制服は下ろし立てであることを主張するように皺一つ無く、新品特有の香りを放っていた。
落ち着いたショコラ色のブレザーを彩るのは、控えめなサイズの赤いリボン。グレーのプリーツスカートには薄くチェック柄が施されている。
全体的にシックなデザインであるが、その落ち着いた雰囲気が思春期を謳歌する爛漫な少女たちに清楚なイメージを附加していた。
ただしこの少女に対しては、その効果が発揮されることはない。
むしろ裏目に出ていると言っても過言ではないだろう。
明度が低いデザインが裏目となり陰を増した少女は、今にもテレビから這い出て来そうな亡霊を連想させている。さらに感情の起伏に乏しい表情や動作が、接した人に強力な陰鬱さを印象付けている。
彼女の名前は秋本楓、市立鷹城高校1年C組に11月から通うことになった女の子である。
この鷹城高校が居を構えるのは鷹城市中心街より西に30分ほど歩いた城跡公園の横。
楓が父と暮らす西区の賃貸マンションから歩いて20分、中央区と西区の境目にあった。
鷹城市は古くから城下町として栄え、北区が湾岸工業地帯、東区中央区がオフィス街と繁華街になっており、西区南区には巨大な住宅街が広がる政令指定都市であった。
その立地から西区南区にかけては市立美術館や博物館、図書館などの公共施設が多数存在し、学校なども数多く点在している。
その中でも鷹城高校は県内でも有数の歴史を誇る進学校であった。といっても有数なのは歴史だけであって、県下指折りの進学校という訳ではない。
近年大規模な改修工事が終わり建て替えられた校舎やその他設備は、鉄筋建築でありながらところどころ木材を使い格式を表現していた。
特に愛着も無い豪奢な鉄扉門をくぐり昇降口を目指す。
登校する生徒はまばら。時間の余裕は十分すぎるほどあるが、混雑を嫌う楓はその時間帯を避けるためだけに予鈴半刻前には登校した。
朝練を始めるには遅い時間帯である。予想通り昇降口はガランとした状態で口を広げていた。
靴を脱ぎ上履きを取り出す。上履きといっても学年によって赤、青、緑と三色に区分けされた雑多なスリッパである。濃い青に彩られた真新しいスリッパに足を通すと静かに教室へと歩みを進めた。外と比べるとひんやりと冷たい空気が肌を撫でる。
楓は自身の身なりに関して主張すべきポリシーがあるわけではないがスカートに関してだけは例外だった。
風が吹けば下着が見える。防寒性も無い。この二点、特に防寒性という点に於いて真冬でもスカートを強制させることが苦痛で堪らなかった。
当然それが一般的な女子の意見からは逸脱したものであるということは理解している。オシャレのためなら寒さも厭わない。気になる男子の気を引くためなら寒さは二の次。ダサいのは嫌。馬鹿げていると本心では感じながらも、そういう女子たちを否定するような気持ちにはなれなかった。
温厚な性格からきてるわけではない。他人を否定すると自分も誰かに否定されているという強迫観念に襲われるのだ。結局自らの精神を安定させるための手段として彼女は「他人を否定しない」ことを選択した。
そうやって心を縛る枷ごと護りに入った彼女は、自ら孤立を選択する。
結果的に否定される結末が待ち受けていることも理解しながら、今の自分を護るために問題を先送りにしたのだ。だから彼女に友達はいない。転入したてだからではない。沢山のことを諦めてきた彼女は友人を作るという発想すら無かった。
孤立孤独を好んでいるわけでもなければ、嫌っているわけでもない。孤立や孤独から来る恐怖はすでに乗り越えた壁であり、楓にとって乗り越えられなかった恐怖、壁は排斥と暴力、つまりイジメだった。
彼女はそれをひたむきに耐えるという選択をもって乗り越えようとした。
その結果は語るに及ばない。
限界まで耐えた彼女が壊れる寸前、幸運にも降って沸いたのは父の転勤話。楓は望んでこの街に来たのだ。
そしてその彼女が新天地に望むことは新たな友人でもなければ、楽しい思い出でもない。進学するための学業ただ一つであった。
物心つく前に母は他界しており、シングルファザーとして自分を育ててくれた父は再婚はおろか、新たなパートナー探しをすることも無かった。
父がどういう思いで育ててくれたのかを聞くことは無かったが、自分に向けてくれる労力や愛情は十分に伝わっていた。だからこそ父を自分から解放するために楓は看護師を目指していた。
楓はその昔、中卒で就職することを告げた際、普段は温厚な父を激怒させた過去を持つ。
それは男手一つで15歳まで娘を育ててきた父を侮辱する行為だったのだと気づくのに時間は掛からなかった。その日から楓は夢も無いまま進学することになったのだが、それなら卒業と同時に必ず就職可能で独り立ちできることを条件に進路を考え、出した答えが看護師だった。
甘くない世界だということは分っているつもりである。将来追うことになるであろう苦労や苦悩はその時に考えると決意し、将来の目標を遂行するために学校へ通っている。
教室の前にたどり着いた楓が木製の扉スライドし、1年C組へ入室する。
楓より早く登校している生徒が3人。そのうち会話している男女2人が楓を一瞥すると何も無かったかのように会話を続けた。
もう1人教室にいた女子は机に突っ伏したまま顔を上げることはなかった。
窓際の席についた楓はカバンを置くと、静かに読みかけの小説を取りだすとその本に集中した。
彼女が生まれるずっと前に亡くなったSF作家の作品である。恋愛小説は読まない。好みで言えばズバリ星新一だったが、彼の作品について語り合ったことがあるのは父だけであった。