16
静かにガラス製の戸を開く。時刻は16時5分前。一旦帰宅し馴染みだしてきた制服から私服に着替えた楓は、几帳面なほどに時間を確認し、約束の時間に合わせるようにアクアスケッチを訪れた。
まだ数えるほどの来店数である彼女は少し落ち着かない様子で店内を見回した。するとすぐに聴き覚えるのある声が複数返ってきた。
「いらっしゃいませ楓ちゃん」
「よく来たね」
奥のソファー席で二人の女性を相手にしているのはチーフの藤田。さらに手前のソファー席で男女4人を相手に話しが弾んでいるのはもう一人のアクアスケッチのスタッフである小林だった。
と同時にソファー席の数人が、こんにちはと楓に会釈した。
躊躇した楓も反射的に会釈を返すが、こんにちはと声を出すことは無かった。
「いらっしゃいませ楓ちゃん。今日はよろしくね」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」
そしてカウンターの奥から現れたのは上尾玲子である。いつもなら後ろで束ねた髪を無理やりアップに纏めているのだが、今日に限ってはポニーテールの出で立ちだった。
「楓ちゃんの私服。いつも思うけど可愛いわね」
茶色のダッフルコートの下に灰色のワンピース、もちろんその下にはジーンズも履いている。靴は以前父に買ってもらったインヒールのショートブーツであるが、フリルリボンに似せたフリンジ付きの仕様で、楓にしてみればこれでもかなり頑張ったチョイスなのは間違いないが、他人に自慢できるメンタルは持ち合わせていない。
そんな事ないです。それに今日の玲子さんだってとても素敵です――っと思考するが、声に出せないところが彼女らしさである。かろうじて取れた反応は恥ずかしさから視線を地面に向けたことと、ふるふると顔を左右に降ることだけであった。
「今日は態々来てくれてありがとう。それじゃあ早速だけど、本日の趣旨を説明したほうがいいわね。とりあえずこの椅子に掛けてちょうだい」
微笑を浮かべた玲子がカウンターに腰を掛けるように促すと、楓はゆっくりと腰を降ろした。
学校の椅子と比べると倍以上の高さになるバーチェア。楓にとってその座り心地は少し不安定であり落ち着かないものであったが、不思議と悪い気分にはならなかった。
すぐに差し出されたのは甘い香りを放ち白い湯気をたてたホットココアだった。
「実は楓ちゃんのお父さんに装備を整えてほしいて頼み込んだのよ」
「……装備? ……玲子さんが、わ、私の父に?」
「そう。私が楓ちゃんのお父さんに電話して楓ちゃんの専用ダイビング機材買って欲しいってお願いしたの。それでとりあえず軽器材ならって許可をもらったの。やっぱり自分専用の装備って特別だから」
「す、すいません。わたしなんかのために」
「いやいやこれもお店を潰さないための営業だから気にしないで。それに重器材を今回購入しなように勧めたのは私だから」
「そ、それは、なにか理由があるんですか?」
「まあいくつか理由はあるんだけど、簡単にいうと楓ちゃんの目指すポイントに合せて機材を決めたほうがいいと思ったから、かな」
「目指すポイント……」
「この前少し話したけど、うちのダイバーには何か目標を持ってもらいたい。でも、その目標に対して障害になるような機材を選択してたら、その装備もお金も無駄になっちゃうでしょ」
「え、えっと……各装備にも潜り方によっては、向き不向きがあるってことですね」
「そうそう。まあでも極論をいうと大体にはカバーできるのよ。でも出来るだけ呼吸は楽なほうがいいし、寒いのも嫌だし、動きづらい、ましてや痛いのは絶対に避けたいでしょ」
「はい、そ、そうですね」
「その延長線上で、目的に対して可能な限りストレスの無い状態で潜って欲しい。もちろんデザイン重視でも構わない。中にはファッションとして重視する人も多い。だけどまずはうちのお店があるんだから、レンタル品で自分に合ったものを探す方が、体感できるし効率的だと思うの。だから暫くは重器材の購入は控えてもらって軽器材だけ揃えてもらおうと思ったの」
「軽器材には向き不向きは無いですか?」
「もちろんあるわよ。でも結局は消耗品だし、取替は簡単にできる。初心者ということを踏まえればバランスの取れた装備を好きなデザインで選んでもらってもリスクが無い」
ハキハキとした玲子の口調が、楓の脳に素直に入ってくる。ここ数日のやり取りで、ある意味命を預けた関係性から肉親以外に心を許した始めての相手だった。幼い頃に切望した母という存在に近い、楓自身の自覚としては姉という形容に近い感覚を感じていた。
「っというわけで、今日は楓ちゃんに軽器材を選んでもらおうとおもったの。はい、じゃあ軽器材とはなんでしょう」
突然の振り。しかし楓にとってその答えを捻り出すのは容易なものだった。ただ、言葉にすることが問題なだけで。
「え、えっと、あの……、マ、マスクと」
「うんうん。マスクと他は分かるかな?」
「シュ、シュノーケルと足につけるフィン……です」
「正解。さすが楓ちゃん。ということで、カタログがあるし、実物もいくつか用意があるから早速決めましょうか」
「ほ、本当にありがというございます。こんなことまでしていただいて……」
嬉しい半面、気にかけてえもらえることが心苦しかったのも事実である。楓は自分の価値を限りなく低い位置に追いやることを常として生きてきた。それは完全に習慣化したものであるし、それが彼女の歪な自衛手段でもあった。その結果として楓は感情を表現することが下手だった。
「いいのよ。気にしないで。それに高校生のお客様、しかも女の子を指導するのが密かな夢だったの。その第一号の楓ちゃんの為なら、私はなんでもするわ」
楓にだけ向けられた屈託ないの微笑み。それは学校では近くに居ながらも精神的距離が限りなく遠く離れたクラスメイトたちが、互いの友人らに向ける縁のない笑顔と同等か、それ以上の代物だった。
その言葉に真っ赤な顔をした楓はとっさに俯きながらも口元の緩みを矯正することが出来なかった。
「ただいま戻りました」
軽器材のチョイスも佳境を迎え、冬の日差しも完全に西の彼方に沈んでしまった頃合、不意に店内に響いたのは聞き覚えのない男性の声だった。目の前の玲子は視線だけ入口に目をやると、「お疲れ様」と口を開いた。
同時に背中側のソファーに腰を下ろす藤田や小林、さらには談笑していた他の客も同様に返事をするが、ただ一人楓だけは、この男性が何物なのか理解出来ずにいた。
ジロジロと見つめることがきるわけもなく、楓は一瞬だけ視線を向ける。しかしそれは本当に瞬間的なもので、かろうじてわかったのは男性的なシルエットだけであった。
「いや~疲れました、オレコ先輩。あの倉庫そろそろ限界ですよ」
「私もそう思って、オーナーには言ってるんだけどね。かわりが見つかるわけでもないし、なんとか整頓してだましだまし使うしか今は手がないのよ」
「やっぱりそれしかないんですかねえ」
カウンターに近づいてくる気配が楓の背中を通り過ぎ店の奥へと通り過ぎる。
「ちょっと湊太郎。こちらのお客様にご挨拶しなさい」
「あっ――とごめんなさい。手が汚れてたんで気が回りませんでした」
そう告げた男性が振り返り頭を下げる。
「瀬戸湊太郎と申します。こちらにはアルバイトとしてお世話になっていますので、これから宜しくお願いします」
「あの、え、えっと……わ、わたしは……」
この時楓は、このお店に来店して始めて感じる種類の驚きに包まれていた。
それはどうして『彼』がここにいるのか、彼が発した挨拶が全く頭に入らなかったことから、理解出来なかったせいである。
「瀬戸湊太郎と申します。こちらにはアルバイトとしてお世話になっていますので、これから宜しくお願いします」
下げた頭、数瞬の間に網膜に焼き付いた少女のシルエットと表情。少しの戸惑いが手に取るように見受けられた。
しかしその瞬間、湊太郎の心を支配したのは、別の感覚から訪れた、彼女以上の驚きだった。
どうして彼女が――。
しかし考えるまでもない。そもそも彼女はアクアスケッチの顧客であるし、オーナー直々に学校でのフォローを任された相手であった。
さらに最近は自覚的に彼女を意識していたこともある。
たった一度の些細な接触がどうしても頭から離れなかったから。さらにその相手がダイビングを楽しもうとしている。自然と興味が沸く相手だった。
「あの、え、えっと……わ、わたしは……」
顔をあげる湊太郎。目の前にいたのは、予想どおりの女の子だった。
驚いた仕草は以前と同じ。そしてなにより前髪に隠れ、かろうじて隙間から覗く大きな瞳は、無性のいじらしさを備えたもので、今は戸惑いを浮かべていた。
「C組の秋本楓さん、だよね」
「は、はいっ」
上ずった声でとっさに返事をする楓。それ以外に発する言葉は1フレーズも浮かばない。
「僕はA組の瀬戸です。はじめまして、やっと会えた」
屈託ない笑顔。湊太郎自身もびっくりするほど自然に出た表情であり、『やっと会えた』という言葉も同様だった。




