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水の楓  作者: あまねく
16/25

15

 月曜に始まった期末試験、最後の教科は選択授業の家庭科で、中にはすでに気が抜けている者も少なくない。

 隅々まで独特の緊張感が支配していた学校はあと少しでその重圧から解放する鐘を鳴らすことになる。それがここで生活する生徒達にとっての年末を告げるチャイムであり、年越しへの準備を謳う報せとなる。

 さすがに受験を控えた三年生にとっては余裕のある時期ではない為、任意の参加となっているが、持久走大会に合唱コンクールといった恒例行事が残り二週間足らずの間に盛り込まれていた。


 筆記試験を早々に終えた楓は握っていたペンを置き、自らが記入した答案に目を通している。

 試験開始から40分弱。

 すでに試験を終えたものは机に伏して時間の経過を焦れるように、緩い体感速度に身を任せている。この状況で他に出来ることは回答を見直すだけであることから、多くの生徒が、腕をクッションに顔を埋めはじめていた。

 楓は机に顔を伏すという行為に抵抗を感じ、二度目の確認に入っていたが、集中力はすでに欠けており、意義の薄い行為に仕方なく身を任せている。


 転入してから初めての試験だったが、美音のフォローの甲斐もあってか戸惑うことは無かった。

 転入当初は授業の進行度の違いから苦労したが、本来まじめな性格の楓にとってはキッチリと予習復習を欠かさなかったことで苦しむことは少なかった。

 たった数ヶ月前までの学校生活では、考えられないほどの安穏とした日々を迎えている。

 





 夏の残滓が色濃く残る9月初頭、教室に一人残された楓は机を後部へと移動させていた。

 黙々と動く彼女の他に人影は無い。

 特徴的な長い黒髪は乱れ、制服はところどころ埃にまみれている。

 さらに注視すると彼女に点在する異常はこれだけではない。上履きは汚れ水気を含んでいるし、弱紺のセーラーカラーにはチョークで信じられないような悪戯書きが施されていた。

 止めど無く溢れていた涙は、教室の掃除に身を委ねることで止めることができた。ただそれは堪えるというわけではなく、考えないようにしただけであった。


 精神的苦痛で始まったイジメは、すぐに肉体的なものも含むようになっていた。

 消しゴムのカスや紙くずを投げれる。しかもそれは次第にエスカレートし、空き缶やペットボトルに変化した。

 助けてくれる者は居なかった。

 紙くずを投げられ始めた当初は、驚いて振り返ったりもしたが、皆一様に視線を逸らし笑いを堪えている姿を目にした。

 何度も何度も頭を目がけてゴミが飛来する。その都度後ろを振り返り止めてくれるよう懇願したが、相手にしてくれる者はいなかった。


 誰も助けてくれない。


 半数のクラスメイトは腫れ物を扱うように彼女の存在を無視し、もう半分は執拗に嫌がらせを繰り返していた。

 耐え切れず教室を出ると堰を切ったように笑い声が響いてくる。

 そんな日々。


 私が……私が何をしたの……

 なんで……こんなことするの……

 どうして私なの……


 苦しみと悲しみ、そして怒りと憎しみ。

 日に日に負の感情に支配されていた楓、それでも学校に行き続けていたのは父に知られたく無かったから。憔悴しながらもその一心からギリギリ踏みとどまっていた。

 ただそれも肉体的苦痛がエスカレートしていくうちに、限界を向かえた。


 「もうやめてください。お願いします」

 放課後、額を床につけてクラスメイト全員に土下座した楓。

 恥もプライドも何もかも捨てて許しを請う彼女に返ってきた仕打ちはとんでもないものだった。

 一見気立ての良さそうな少女たちが、ニヤついた視線を男子に送ると、一人が彼らに耳打ちをした。

 クスクスとした笑い声が次第に大きくなる。

 すでに涙を流し精一杯振り絞った声で楓が叫ぶ。


 「私を許してください。お願いします。お願いします」

 何度も何度も叫ぶ楓。教室からは何人かが耐え切れない様子で教室を出る。

 それでも楓の懇願は続いた。

 そこに歩み寄る複数の人影。

 そして優しく差し伸べられた手は楓の顔をゆっくりと上に向けさせた。

 赤く腫れた両目を見開き、自分に差し出された手が頭からゆっくりと肩へと伸びた。

 微笑みを向けたクラスメイトの男子。

 対して極度の緊張状態だった楓が一気に弛緩した瞬間だった。


 頬に刺激が走った。

 それが人生で始めて受けたビンタだったことに気づく間もなく、両肩が強く押さえられた。

 爆笑に包まれる空間で数人の男女が一斉に歩み寄ると四肢を押さえ始めた。

 恐怖駆られた楓が反射的に全力で暴れる。しかし彼女にはどうすることも出来なかった。口に雑巾を詰め込まれ制服は汚されスカーフ、そしてスカートがあっと言う間に剥がされたのだ。

 喉が潰れる程の絶叫を上げる。しかし声はほとんど出てない。

 はやし立てるクラスメイト、ケータイでその姿を写真にとる連中、拍手喝采に包まれた異常な空間の中でただ独り楓だけが地獄の苦しみに晒されていた。

 数分、たった数分で彼女は下着だけの姿となり体中に、しかも服を着ると見えない位置に油性、水性関係なく、サインペンでありとあらゆる罵倒が書き込まれていた。

 その中には卑猥な表現も多く、腹には大きく娼婦を連想させる淫猥な俗語が書き込まれてた。さらに『腐葉土』という単語が多く記されている。これは彼女の名前、『楓』が腐り土になるという連想から生まれた、低俗なあだ名でもあった。


 この日、楓は下着を剥がれることはなかった。しかし心を折るには十分な出来ことだったことに違いは無い。

 騒動はその後10分程続いた。

 無理やり着せられた制服、ずぶ濡れの上履き、腫れた頬に押さえられていた手足首には痣が浮いていた。

 そしてクラスメイトらはいつものように楓に掃除を押し付けると、部活や帰途についたのだった。

 全ての窓は開ききり、カーテンがまばらに風にゆれている。

 『腐葉土』

 『ごみ』

 『便所虫』

 『露出狂』

 その日楓は全身に残る恥辱の痕、心に刻まれた残酷な言葉を必死に思い出さないよう、ただただ、黙々と掃除に打ち込んだ。


 そしてこの日が最後の登校となった。

 自宅に帰り着いた彼女は何時間もバスルームから出ることは無かった。

 そして偶々いつもより早く帰宅した父に、追い打ちのように汚されていた靴が見つかってしまったのだ。

 

 今、楓が通う学校、鷹城高校でイジメは無い。

 体育着が汚されたり、靴が無くなったり、シカトされたり、ゴミを投げられたり、理不尽な言いがかりや暴力、考えうるありとあらゆる醜悪な嫌がらせは一切無い。

 しかしだからと言って心から安心できるわけではない。

 そもそも学校という空間、多人数と共同生活を行う場、それ自体が苦痛を伴っているのだ。

 疲弊した精神に刷り込まれたイジメへの恐怖は今も無意識に楓を蝕んでいる。

 その証拠として、楓は他人の目を見て話すことを極端に恐れる。

 また、自己主張が出来ない。どもるような口調でなんとか最低限の意思表示のみを行うのが関の山なのだ。


 陰気な奴。


 前学校での楓の基本的な評価である。

 しかしそれは、現在在籍する鷹城高校の1-C内でも同様の評価であった。

 従って友人らしい友人は居ない。

 昼食は一人でとっている。唯一、楓を気遣ってくれる美音は他クラスで昼食をとっているのだ。内向的な楓が自ら他人の輪に入れるわけもなく、気付けば一人となっていた。

 しかしそれでも楓にしてみれば、無視されているわけでもなく、嫌がらせを受けることもない。過去の自分を知る者も居ないとなれば、後は目立つことを避け、現状維持に努める選択をした。

 いや、楓にとって選択肢などは無く、自らの意思によって必然的に現状に落ち着いているのだ。

 しかし彼女は今、ある一点に於いて、今まで感じることのなかった感情、好奇心のようなものを感じている。


 それはダイビングだった。

 先週末、プール実習を苦しみながらもクリアした。

 5mの水底から見上げた水面はキラキラと光を反射し銀色の泡を飲み込んでいた。

 高鳴る鼓動に呼応した四肢は熱を帯び、恐怖は次第に身を潜め、呼吸を、姿勢を、泳ぎを整える作業に没頭した。

 今思い出そうとしても上手く思い出せないけれど、脳裏に焼きついた鮮明なまでの水色が、確かにその場に居た事を実感させた。

 それは汚れを浄化してくれそうな、強烈な水の色だった。

 地獄の世界で、額を床に擦りつけ許しを懇願した。自己の尊厳を捨て穢れた自分。

 その穢れを洗い落としてくれそうな程の会心の衝撃だった。


 呼吸はゆっくりと深く啜るように……

 姿勢は力まず流線型を意識して……

 頭のてっぺんからつま先まで意識した全身運動……

 不思議の国に迷い込んだおとぎ話の少女のように、不安と好奇心で一杯だった。


 暖房の影響で乾燥した教室にはマスクをした生徒も少なくない。時折響くのは咳きの音。鉛筆を走らせる音はすでに途絶えていた。

 今日が終れば明日から土日と連休だった。初めての海洋実習はアクアスケッチの都合からもう一週先の週末となっている。

 従ってお店に顔を出すのは必然的に来週となるのだが、上尾玲子の急な提案により、今日の放課後、16時にお店に顔を出して欲しいと連絡があった。

 「オーナーを通してお父さんの許可は貰っているから待ってるわ」と、少し強引な誘いであったが断る理由は無い。

 短く返事を返すと、何をするのかも確認することなく電話を終えていた。

 試験の終わりを告げる鐘が鳴り響く。

 やったーと歓声を上げる男子を筆頭に一気にざわめきだす教室。ここ数日の鬱憤を晴らすように校舎の空気が一新した。

 このとき、楓の心も無意識に弾んでいた。

 





 試験が終わると、15分ほどでSHRが始まった。事務的な連絡事項、羽目をはずさないように注意事が告げられると、待ちに待った放課後となった。時間は12時5分前。足早に教室を出るクラスメイトの波に逆い湊太郎の目の前に顔を出したのは光一と美音の2人だった。


 「おつかれ湊太郎君」

 「お疲れ松下。それに光一も一緒にどうしたんだ?」

 「どうしたって、お前、今日は何の日かわかるだろ?」

 「えっと……」

 少し考え込む湊太郎。しかし心当たりは無い。光一の誕生日は4月だし、松下美音の誕生日は正直知らなかった。


 「もしかして松下の誕生日とか?」

 「じゃねーよ。美音の誕生日は2月。まだまだ先だよ」

 「に、2月の20日だから」

 「えっ?」

 「あの、いや……私の誕生日は20日だから、よかったら覚えててね」

 「お、おう……。覚えとくよ……。それで今日は結局何の日なんだ?」

 「も~相変わらず鈍いなお前は。今年最後の試験が終った記念日だよ」

 「なんだよそりゃ……」

 少し呆れ顔の湊太郎。その表情の変化を悟った美音がすかさず口を開いた。

 「違うのよ湊太郎君。せっかく期末試験が終ったことだし、みんなでカラオケでもどうかなって思って」

 「そうそう。美音がどうしても俺とカラオケ行きたいって――」

 「そんなこと言ってないでしょ?光一君」

 一瞬だけ迫力の増した美音が光一の発言を否定すると、事の成り行きを説明した。要約するとテストの打ち上げをしようということだった。

 「悪い。今日これから予定があるんだ」

 「えっ――」

 思わず声が漏れる美音。逡巡する間もなく湊太郎が誘いを断ったことがショックだった。


 「なんだよ湊太郎。今日はバイト無いんだろ?」

 「バイトは無いけど、バイト先に行くんだよ」

 「なんだそりゃ? 遊びにでも行くのか?」

 「暫く顔を出してないし、平日の昼間に行く機会なんてほとんどないからな」

 「えっとジムのバイトだったよね?」

 「そっちじゃなくてもう一箇所バイト先があるんだ。昔から世話になってるところなんだけど」

 「湊太郎君ってバイト掛け持ちしてたんだ」

 「言ってなかったっけ?」

 「わたし初耳だよ~」

 「そっかそっか、平日の夕方は田島先輩のスポーツジムで、土日は大明のショップでバイトなんだよ」

 「わああ、ショップってアクセ系? 湊太郎君ルックスいいからシルバーアクセとかすごく似合うと思う」

 「いやいやそんなんじゃないよ……。まあスクール系の――」

 「湊太郎っ。そんなのより俺らと遊ぼうぜ。大体お前は――」

 「ちょっと光一君邪魔しないでよ。今私が湊太郎君と話してるんだから」

 「なんだよ美音。お前こそ俺の交渉術を邪魔するじゃないよ」

 「邪魔してるのはあ・な・た・でしょ」

 「相変わらず二人は仲が良いよな」

 「仲良くない」「仲良いだろ」

 光一と美音の声が見事に重なった。すでにA組の多くがこのやり取りに耳を傾けている。女子としては湊太郎の動向が気になっているようだし、男子としては美音が気になっているようだ。


 「ねえねえ美音ちゃん。瀬戸君が行くなら私たちもカラオケ行きたい」

 その中の数人が三人の輪に入ってきた。続いて男子も慌てるように自己主張をする。


 「ちょっと待ったー。湊太郎、そして溝口光一君、是非僕たちも混ぜてくれよ」

 「ちょっと男子邪魔しないでよ」

 珍入したA組男子をけん制するA組女子。

 しかしその言葉に美音も思わず声を上げる。


 「いや私はまだあなた達もOKしたわけじゃ――」

 「いやいや男子はNGだが女子はOK。全然OKさ」

 「ちょっと光一君。何勝手に決めてるのよ」

 「花は多いほうが楽しいだろ」

 「だからってそれじゃ女子ばっかりの中に湊太郎君が埋もれちゃうでしょ」

 「大丈夫だよ。俺がいるし」

 呆れる美音。彼女にとってこの女の子らは湊太郎を狙っているライバルにか見えなかった。


 「哀れね……。だったらそちらの男性陣も参加していいわよ」

 「「いやっほおおおおおう」」

 複数名の男子生徒から歓声が上がる。美音にとってライバルが増えるくらいなら邪魔な女子の相手をする男子が少しでも居た方がまだ都合が良かった。

 すでにパーティは10名を超え盛り上がっている。

 しかし湊太郎はいつの間にかその場から姿を消していた。

 あとに残されたのはその事実に気づいていない哀れな羊たちであった。

 数分後、異常を察せたのは光一に届いていた湊太郎からのメールで、時すでに遅く彼が逃げた後のことだった。

 ちなみにカラオケパーティはなし崩し的に12名による大パーティで敢行されることになった。

 

 収集の付かなくなった教室をそっと後にした湊太郎はその足でC組へと訪れていた。思っていたより時間を掛けてしまった事で、半ばあきらめていたが、試験が終り次第アクアスケッチのオーナーとの約束である、秋本楓との接触を試みるつもりだったのだ。

 彼女は自分のことを知っているだろうか。

 湊太郎は鮮明に彼女のことを覚えている。まともな会話なんてしたこともないけど、鮮明に彼女ことを覚えていた。

 だから少しだけ自分を知っていて欲しいと思った。自意識過剰だと感じていたけれど、自分が気にしている分だけ、自分と同等かそれ以上の興味を期待したのだ。

 C組へ入る。すでに3割ほどの生徒しか居ない。その中でドアの傍に居た女子が口を開いた。


 「瀬戸君。誰か探してるの?ちなみに溝口君なら――」

 「いや、光一じゃなくて、えっと……、秋本さんって居るかな?」

 その言葉に声をかけてきた女子だけでなく隣で様子を伺っていた数名の生徒らも興味そそられるように驚いた表情をとった。


 「秋本さんはもう帰ったみたい。彼女に何か用事? 伝言なら伝えておくけど。それとも二人きりで話したいことがあるとか?」

 「あ、いや特に伝言とかは大丈夫。大した用事じゃないんだ。もう帰ったならまたそのうち出直すよ」

 「え~そうなの? じゃあ月曜にでも秋本さんにA組に行くよう伝えようか?」

 湊太郎は自分に向けられたあからさまな勘ぐりを敏感に読み取ると、早々に切り上げることにした。


 「大丈夫だよ。本当に大したことじゃないんだ。じゃ、じゃあ」

 「あ、まってよ瀬戸君。暇なら一緒に新街に行かない?」

 「用事があるからまた今度。それじゃあ」

 半ば強引に会話を切り上げると、ここでも逃げるようにその場を後にした。

 目的は未達成。仕方なく彼はアクアスケッチへと向うことにした。

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