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熱いシャワーを浴び、生乾きの髪を纏めて施設を出たのは3時間以上の限定水域ダイブ講習を終えた後だった。
全身の力を奪われたように身体は重く気怠い。初めての潜水、上手くいったかと問われると閉口せざるをえない。水圧による耳の痛みが想像以上に強烈で、耳抜きも忘れて浮上をしたかと思えば、その耳抜き自体も上手くいかず1mの潜水に3分以上も費やしたからだ。
呼吸は乱れに乱れ、半ばパニック状態だったが、なんとか5mの潜水ができたのはひとえに玲子と藤田のサポートの賜物だった。
身振り手振りのジェスチャーで深呼吸を促し、時にはマグネット式の水中ノートで指示を出してくれていた。
そしてやっとのことで水底にたどり着くことができたが、それで終わりではない。
遊泳するためには泳ぐという行為の練習が必要だし、泳ぐためには浮力をコントロールしなければならない。
通常水の中に入ると深さと共に水圧が増す。水圧が増すと浮力が減少し沈んでしまう。それを補うためにBCDジャケットやドライスーツに空気を送り浮力を調節するのだ。
ただしそれは繊細な感覚に頼る作業であることは間違いない。
空気が少ないと沈んでしまうため、定期的に空気を補充するのだが、多すぎるとあっという間に浮いてしまうのだ。しかも浮き始めると水圧も減少し、さらに浮上が加速されてしまう。
そうなってしまうとジャケットから空気を抜かなればならないのだが、素人の楓にその作業が出来るわけもなく、玲子や藤田に手を取ってもらうということを繰り返す結果となった。
それでも集中的な特訓の介あってか、始めた時に比べるとかなり進歩を見せていた。
正直玲子も藤田も内心ホッとしていたことは楓の知ることろではないが、中には完全に拒絶してしまう人も居るだけに、最後まで頑張った楓は本人が思っているよりも度胸のある女の子という感想を抱いた。
「楓ちゃん大丈夫? 気分悪くない?」
帰りのワゴン車の中で隣に座った玲子が問いかける。二人はワゴンの中列にしっかりとシートベルトをしめて腰掛けている。
「だ、大丈夫です。ただ、ちょっと耳が変な感じです」
楓は潜水に伴う耳抜きや、耳への浸水の影響で耳に違和感を感じていた。といっても一時的なもので時間が経てば治る程度のものである。
「初めての人は大体そうなるわね。慣れてくるとすぐに違和感はなくなるんだけど、とりあえずつばを飲み込んで見みて」
「つばですか?」
「そうそう、飛行機や新幹線で耳がツーンとするのを治す感覚でやってみて。それに今日も耳抜きの作業でつばを飲み込んだり、鼻を抑えたりしたでしょ。あれはいわゆる圧平衡を行うためのもの。水圧と身体の圧力を同じに保つことが目的なのよ。で、多分いま楓ちゃんの身体は上手く圧平衡出来ていない。単純に水が抜けきれてないだけかもしれないけど、手っ取り早く違和感を解消するための手段としては簡単だからやってみる価値はあるでしょ」
「確かにそうですね」
楓はそう呟くと言われたことを素直に実行に移した。
「どお?」
再度楓がつばを飲み込む動作を行う。瞳は運転席と助手席の間の空間を目標もなく見つめている。
「……少しだけ良くなりましたけど、あまり変わらないです」
「う~ん残念。まあよくあることだし時期に慣れるわ。もし痛みが出たりとか違和感が解消されないようだったら連絡して。最悪何か別の問題があるかもしれないし」
「わ、わかりました……」
「あまり深く考えなくてもいいわ。それで、今日潜った感想はどう?」
「感想ですか?」
「うん。是非楓ちゃんの感想を聞きたい」
「えっと……」
少しの逡巡。車内には藤田の趣味であろうレゲエミュージックが流れているが、今の楓にその音は届いていない。
真面目な性格故、必死で良い感想を考えるが、利口な答えが思いつくことはなかった。
「単純でいいのよ。例えば良かったとか悪かったとか、もっと潜っていたかったとか、もう二度と潜りたくないとか、なんでもいいから」
「…………正直に言うと怖かったです」
「でも楓ちゃんは頑張って乗り越えたわ」
「それは、玲子さんや藤田さんが居たからです……」
「でもその恐怖と戦ったのは楓ちゃんよ。私たちはサポートしただけ。正直楓ちゃんの恐怖がどれほどのものかなんて全然わからない。でも辛そうな印象は受けたわ。でも楓ちゃん全く泣き言も言わないで黙々とチャレンジし続けた。その結果今夜楓ちゃんは一つの壁を乗り越えたのよ。楓ちゃん自身の力で」
「私の力……」
「そう。私たちは手伝っただけ。そしてこれからも手伝うわ。それにダイビングって一人でやるものじゃない。バディを組んで二人でやるものでしょ。はじめは寄りかかるだけかもしれないけど、それでいいのよ。助け合うためのバディなんだし、スキューバダイビングの基本よ」
「楓ちゃん。俺は今日ずっと君の写真を撮ってきたけど、始まる前と今の顔は全然違うと思う。浮上してマスクを外したときにみせた君の顔はビックリするくらいの笑顔だった。達成感に溢れていた。だから大丈夫。俺は今まで何百人って初心者を見てきたけど、君は立派なダイバーになれる。俺が保証するよ」
「わ、私がダイバー…………」
「そうだよ。今日がその第一歩だったんだ」
「……なれるでしょうか」
「絶対になれるわ」「絶対になれる」
二人が同時に告げる。なかばハモるように車内に響いた回答に玲子が不満そうに口を開いた。
「ちょっとチーフ真似しないでください。そもそもどうして私と楓ちゃんの会話に入ってくるんですか」
「おいおい、俺が混ざっちゃだめなのか」
「ダメです。楓ちゃんが汚れるじゃないですか」
「ちょっ、いくらなんでも俺は一応上司だぞ」
「一応上司ですが何か? 敬えとでも?」
「と、当然だろ」
「もちろん敬いますよ。今日撮った写真データ全て渡してくれたら」
「なにっっ、そ、それは関係無いだろ」
「関係あります。やっぱりお店の評判を落とさないためにも、楓ちゃんを守るためにも帰ったらカメラのSDカードは私が預かります」
「俺が今までお客さんの写真で問題を起こしたことがあったか?」
「あったら私がクビにしてますよ」
「か、楓ちゃん、オレコは酷い奴だから気をつけたほうがいい。君もいつ牙を剥かれるか」
「私の牙は男性専用だから安心してね楓ちゃん」
「いやいや、オレコは無差別だ。間違いない。能ある鷹は爪を隠すっていうだろ。こいつは燕の皮をかぶった鷹なんだ。無害のふりして爪を立てる鷹にもなれば、可愛いふりして巣から糞を爆撃する燕にもなる。ホンマ恐ろしいやっちゃで」
「ふ、ふ、糞ですってっ!」
「ピーチクパーチク餌をねだる雛鳥を装う悪女かもな」
「な、な、な……」
絶句した玲子が憤怒の形相で藤田に食ってかかる。それから数分間はこの不毛な争いが続いていたが、楓はこの騒がしい空間が楽しくもあり、愛おしくも感じ始めていた。
正直、恐怖がすべて払拭されたわけじゃない。でも、それでも、ほんの少しだけの手応えのような、自信とまではいかないが、この疲れきった身体に仄かな高揚感と、充足感を自覚をしたのだ。
季節は冬が始まったばかり。寒さは日に日に増していくが、楓にとって一番熱い冬が始まりを告げていた。




