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水の楓  作者: あまねく
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 一回りほど厚みの増したシルエットが2つ、室内を照らす灯りの下に浮かんでいる。

 時計はすでに19時を回っている。この施設が郊外に在ることもあり外は真っ暗だ。


 「そういえば楓ちゃんの学校って来週からテストだって?」

 白い湯気のこもったプールサイドでメッシュバッグの中身を取り出した玲子が楓に問いかける。


 「よくご存知ですね。確かに月曜日から期末試験ですけど……、あ、あのバッグから中身を取り出したほうがいいですか?」

 「そんなに慌てなくていいわよ」

 ほのかに笑みを見せた玲子が楓に近づくと、足もとに置かれたバッグのファスナーに手をかけ、小刻みな音を響かせ手早く開いた。


 「私が言うのも変な話だけど、試験は大丈夫なの?」

 「は、はい。多分問題無いと思います。それに、明日は土曜ですから」

 「さすが私が見込んだ子ね」

 「誰が見込んだって?」

 「あらチーフ、いたんですか?」

 すでにプールに入り何やら黒く無骨な物を手にした藤田が口を挟む。


 「ここまで運転したのは俺だ。それに今日は楓ちゃんのデビュー戦だぞ。ちゃんと思い出になるように写真に収める必要がある」

 「それでプールにわざわざそんな大きなカメラを持ってきたんですか」

 「オレコは分かってないな。いいかよく聞けよ。このカメラはキヤノンの――」

 「さあ楓ちゃん。チーフの話を聞いていたら夜が明けるから無視するわよ」

 「えっと……いいんですか?」

 「アレ聞きたいの?」

 玲子が顎で示す先では、手にした防水用ケースに容れられた一眼レフカメラについて熱弁する藤田の姿があった。


 「さあ、じゃあ早速だけど、このメッシュバックにはエアとウエイト以外の機材は全て入っているわ。うちのレンタル品を使う場合でも、お店で前もって中身は確認すること。一つでも欠けてたらエントリーすることが出来なくなる。もし今後自前の装備を買ってもらったとしても、絶対に中身は確認しておくこと。いい?」

 「は、はい」

 「じゃあ機材の取り付け方から。まずタンクに、BCDジャケットを装着する。しっかりジャケットとタンクを取り付けないとダイブ中にズレてバランスを崩したり、最悪後頭部にタンクがヒットすることもある。つまりとても痛い」

 「わ、わかりました」

 玲子がタンクに自前のBCDジャケットを取り付ける。ジャケットの背中側にはタンクを固定することができるように、ベルトが取り付けられているのだ。

 楓も玲子の動作を真似するようにジャケットを取り付ける。


 「そうそう。上手ね。じゃあ次はタンクにレギュレータをセットする。これを付けないと呼吸することが出来ないからね。ポイントはセカンドステージのチューブが右側に来るようにセットすること。はじめの頃はよく向きを間違えるのよ」

 「あの、タンクのバルブは閉めたままでいいんですよね」

 「閉めた状態で行うように。といっても今開けるとものすごい勢いでエアが出るから取り付けることは出来ないわ」

 「確かに……そうですね。変なこと言ってしまって」

 「いやいや、いいのよ。疑問に思ったことはそうやって口にしてくれたほうが私もやりやすいから遠慮せずにバンバン言ってね」

 玲子が自分のタンクにレビュレータを取り付ける。その所作は慣れた手つきで、一切の迷いもなくあっという間だった。


 「こうセットしたらいいですか?」

 楓も見よう見まねでタンクにレギュレータを取り付ける。背負ったとき身体の右側に空気を吸うためのセカンドステージが来るように、対して左側にはBCDジャケットとドライスーツに空気を送るためのチューブが来るように。


 「そうそう。うまいうまい。楓ちゃんは機材セットの才能があるわね。ちなみにエアタンクの残圧計を見て」

 「残圧計ってこのレギュレータから伸びているこれですよね?」

 楓はレギュレータから伸びる一本のチューブをたどるとスピードメーターの様なメモリのついた計器へ視線を落とした。


 「数値はどう?」

 「えっと……ゼ、ゼロを指してます」

 「それが今の正解の数値よ。そしてエアタンクのバルブを開放したらその数値が200前後まで増えることになる。いまからそのバルブ開放を行うけど注意点があります。これはとても大事なことだから絶対に忘れいなように」

 「は、はい」

 「タンクのバルブを緩めると当然タンクから圧縮された空気がものすごい勢いで外に出ようとするわ。でもそれはレギュレータの中にエアが充満すると停止する。でも瞬間的に高圧の空気がその残圧計にも流れ込む。だからもしもの時を考慮してタンクのバルブを開放するときは残圧計を地面に向けて、自分や他人に向けない状態をとってからバルブを開けるの。もしかしたら残圧計のカバーガラスが割れて飛んでくるかも知れない。限りなく可能性は少ないけどね。ちなみにバルブは最後まで回すこと。中途半端なところで開放を止めない、そして最後までバルブを開放したら半回転分だけバルブを戻す。これは絶対的なルールだから忘れないように。大丈夫?」

 「はい、だ、大丈夫です」

 「よし、じゃああとは簡単よ。残りのチューブをセットして、自分に合ったウエイトを準備する。あとはそれを背負って身体と固定する。全てが終わったらバディと最終チェック。チェックポイントはウェイト、セカンドステージとオクトパス、エア残圧、タンクのバルブ。ここまで完了してエントリーとなる。それじゃあ早速私とバディを組んで水に入りましょう。機材は15キロ以上、かなり重いけど順番に背負うのを介助する。まあ今日から私を練習台と思ってくれたらいいわ。まだまだ練習する機会はたくさんあるからね。セッティングもバディの介助もゆっくり上達して行きましょう」

 「ちょっと自信はないですけど、が、頑張ります」

 「よし、その意気だぞ楓ちゃん! 写真は任せとけ」

 「チーフは黙っててください」

 

 プールに入り、どの程度時間が経過したのか楓にはわからなかった。彼女にとっては時間の感覚を忘れてしまうほどのプレッシャーを受けていたし、目の前の課題に対して没頭していたこともある。だた、ひとつ言うとするならばレギュレータのセカンドステージを咥えて呼吸をするということの違和感が想像以上に大きかったこともある。

 今彼女は、凸型を180度ひっくり返した形のプールに入っている。中央部は水深5mもあるが、両サイドは胸ほどの深さになっていた。楓はそこで呼吸の練習をしていたのだ。玲子は『啜るように息を吸う』がポイントだと告げた。

 水中で焦ると呼吸が乱れる。呼吸が乱れるとエアを急激に消費することになる。それに最悪パニックに陥ると重大な事故に繋がる可能性も増す。だからこそ玲子は呼吸の大切さを実践とともに時間を掛けて説明していた。


 「上手よ。とにかく呼吸は一回一回を意識すること。長く深い呼吸を繰り返すこと。よくあるのは、吸う頻度の割に吐く頻度が減少して頭痛を招くことかしら。地味に体力を削られるから注意してね」

 『はい』っと楓は水中で呼吸を繰り返しながら心の中で返事をする。時間が経つにつれ、口に入れたセカンドステージをどの程度で噛めばいいのか力加減が分かってきたのだが、初めてすぐは緊張から全力で噛みしめ、あっという間に顎が疲れてしまった。まあそのお陰もあって少しずつではあるが冷静さを取り戻すことが出来た。

 それにしきりに玲子が深呼吸、深呼吸と何度も叫び導いてくれたのもあった。

 玲子が立ち上がるように指示を出す。楓は素直にいうことを聞くと膝立ちの体勢から身体を起し立ち上がる。

 ずっしりと背中のタンクの重みが身体にのし掛かる。正直かなり重い。


 「よし、呼吸も問題なさそうだから、次のステップと行きましょう。少し難しいけどマスククリアよ。ダイビング中にマスクが外れたり、浸水したときに冷静に対処できるようになるためには必須科目だから頑張りましょう。ちなみに楓ちゃん。今コンタクトレンズをつけてたわよね」

 「は、はい。今日の為に初めてつけてみたんですけど……やっぱり変ですか?」

 「変? いやいや、違う違う。いつものメガネも今のコンタクトもどっちも似合ってるわよ。でも私の好みでいえばコンタクトかな。前髪も今みたいにピンで留めてスッキリしたほうが男子にモテると思うわ」

 「そ、そんなモテるだなんて。正直わたしなんか……」

 「いやいや、私はイケると思うけど? 今度うちの馬鹿太郎を誘惑してみましょうか。絶対に楓ちゃんにメロメロになるわよ」

 「ば、馬鹿太郎さん?」

 「あれ? 知らないかな。うちの店でバイトしてるんだけど、えっと……楓ちゃんと同じ学校に通っている瀬戸湊太郎って知らない?」

 瀬戸湊太郎……。楓は頭の中で、同じ高校に通う男子の名前を検索するが該当する男子の顔が現れることは無かった。そもそも男子はおろか女子にさえも自分から話しかけることのない楓にとって学校関係者の固有名詞は教師を含めても両手で数えるほどしか憶えていないのが実情だった。


 「ごめんなさい。ちょっとわからないです」

 「いいのよ別に。話しがそれちゃってごめんなさいね。馬鹿太郎の湊太郎は忘れて、話をもとに戻すけど、コンタクトレンズの場合だと水中で目を開けると当然レンズがズレたり外れたりします。それを防止するにはどうしたらいいでしょうか?」

 少しの逡巡。

 考え込む姿に富んだ表情は無いが、それを補い余る美しさが玲子の目からも見て取れた。さきほどは冗談話で終わってしまったが、玲子の本心として楓の魅力は、そのまじめさと正直さだけではなく、普段前髪に隠されているが瞳の美しさにあると感じていた。自分への自信の無さからくる怯えたような瞳、顔色を伺うような視線を向けてしまう短所はあるが、それはこれからいくらでも改善することは出来る。

 その証拠として、課題をクリアした際に時折見せる喜びの笑顔は玲子もドキっとするような魅力を伴っていた。


 「えっと、ご、ゴーグルをはめるとか?」

 「ちょっ」

 突飛な回答に玲子は寸でのところで笑いを堪え顔を背けるが、黙って二人の様子を眺めつつ写真を撮っていた藤田が盛大に笑い声を上げた。


 「ちょっとチーフ。レディに失礼よ」

 「なんだお前もニヤついてるじゃないか」

 「わ、私はニヤついてなんかいません!」

 「あ、あの私何か変なことを……」

 マスクの上からでも分かるほどに真っ赤な顔をした楓が俯き加減で問いかける。藤田は変わらず笑い声を上げていた。


 「いやいや、ちょっと予想外の答えだったから驚いたけど、全然いいのよ。思ったことを言葉にすることは悪いことじゃない。こうやってチーフのように笑い転げる馬鹿もいるけど、逆に笑わしてやったぞって胸を張るくらいでいいわ」

 「あの、本当にすいません。へ、変なこと言って」

 「謝る必要はないわ。悪いのはこっちだから。それに謝るのならあの男の方なんだし」

 「わ、笑ってごめんね楓ちゃん。まさかゴーグルって答えが出たのは初めてだったから。それにマスクの下にゴーグルをつけたら確かに目は濡れない。これは考察すればする程、ハイレベルな妙案だ。一度試してみる価値があるかもしれないな」

 「じゃあ責任もって明日チーフが試してください。結果はちゃんと私と楓ちゃんに教えるように」

 「OKOK。笑わせてもらったお礼に明日のファンダイブで試してみるよ。成功したら楓スタイルとして末代まで語り継ごうじゃないか」

 「いや、あ、あのそれは……」

 恥ずかしいのでやめてください。とはとっさに言葉が出てこない。その空気を察したのか玲子が口を挟む。


 「ほらほらいい加減邪魔しないで黙っててください。そもそも今日チーフは静かに機械のように写真だけを撮っててくれればいいんです。だいたい今日出張って来たのだって女子高生の写真を撮りたかっただけじゃないんですか?」

 「ちちち違うぞ。それは偏見だ。そもそも俺がこのカメラにかける情熱は――」

 「さーて彼はほっといて話を戻すわよ」

 楓は藤田に視線を移すが、動揺した藤田は何かを熱く語り始めている。楓としては彼の演説に耳を傾け続けるのは吝かではないが、目の前の美人インストラクターは早くも拒絶反応を示していた。


 「は、はい。お願いします」

 「マスククリアだけど、難しいことじゃない。コンタクトレンズの人は目を閉じたまま行う。じゃないとコンタクトが外れちゃうからね」

 「目は閉じたまま、ですね」

 「落ち着いて行うこと。目を閉じたらマスクの下側を浮かせて水を入れる。水が溜まったらマスクの上部をオデコに押さえ付けつつ、鼻から空気を吐き出すこと」

 「鼻から……」

 「そう。鼻から空気を出すことでマスク内部に空気が満たされる。あっという間にマスクの中の水は外へ排出される。ポイントは落ち着いて行うこと。だって口には呼吸ができるレギュを咥えているだから苦しむ要素は無い。怯えることは何もないわ」

 「じゃあ水中ではじめに私が見本を見せるから、終わったら楓ちゃんの番ね。タイミングは任せる。もし不安なら何度でも見本を見せるから」

 「わ、分かりました。よ、よろしくお願いいます」

 玲子の力強い瞳が楓を勇気づけるように視線を送り、二人膝つけ、水中へと頭を沈めた。両者が正面から向き合う形で玲子は、今からマスククリアを行うという合図の為、右手でOKサインを出すと両手をマスクに添え水を浸水させていく。

 彼女の心臓は早く、そして強く鼓動していた。自分にできるのだろうか? その答えはやってみないと分からないが、数十秒後には自信の有る無しにかかわらず、自分がチャレンジしなければならない。早くも緊張は最高潮に達していた。

 玲子のデモンストレーションが終わる。浸水から排水まで30秒ほどの作業。あっという間だった。


 目を閉じ鼻で空気を送り排水する。たったこれだけの単純な動作だと念じた楓がマスクに手を掛ける。しかしその先へと指が動かない。

 大きく深呼吸を繰り返す。

 一度、二度………………数分の時が過ぎる。

 しかし心臓の鼓動に緩む気配は無い。それどころか強くなっているようにも感じる。

 呼吸は問題無い、しかしひどく息苦しく感じていた。


 『大丈夫?』

 不意にそんな言葉聞こえたような気がした。マスクにはまだ水は浸水していない。恐る恐る目を開けるとじっと楓を見つめる玲子の瞳が視界に入ってきた。

 その瞬間、楓の心を支配していた恐怖心がスっと和らいでいく。

 ずっと怯えて、戸惑っている間も、彼女は常に自分を見ていてくれたのだ。何かあればすぐにでも手を差し伸べることができる距離で、今この瞬間は私だけのために、一挙一動を観察していたのだ。

 その玲子の想いが楓に少しだけの勇気を与えた。

 それは些細なものだろう。

 楓だって玲子が仕事で行っていることは理解っている。それでも、彼女が与えてくれた安心感は楓の背中を押すには十分な力を持っていた。

 大丈夫。

 失敗しても大丈夫。

 楓は大きく深呼吸をすると、両手をマスクに添えそっと瞼を閉じた。

 マスクへの浸水が始まった。

 しかし彼女の心臓の鼓動は今までよりもずっと緩やかであった。

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