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「お疲れ、湊太郎君」
「お疲れ様でした」
時刻は21時50分。
湊太郎は受付をしている田島桃子――この田島スポーツジムのオーナーの娘であり、鷹城高校の2年に在籍する女子――に挨拶をすると足早に帰途についた。
現在高校生である湊太郎の夜間外出が許可されているのは、学校側の取り決めとしても、社会的な取り決めとしても22時までであり、基本的にはこの時間を過ぎてからの外出は認められるものではない。
よって必然的に湊太郎のアルバイトの時間は21時45分で終了し残り15分以内で自宅へと帰らなければならない。
しかしそれは、あくまで建前である。
学習塾の前に屯している中高生は22時を過ぎてもその場に残っている事が多いし、近くのバス停も同様に多く学生達が帰途に着くためバスの到着を待っている。
まあこれについては学習塾から帰るというポーズでもって免罪されているだけなのだが、 今日び22時を過ぎた程度では指導されることはあっても補導されることは無い。
だからと言って、未成年を就業規則を曲げてまで働かせることは反社会的であるし、商売を営む上では致命的な犯罪である。
というわけで湊太郎はどんなに忙しくとも、この時間には退勤を命ぜられていた。
本当ならば営業時間終了後の清掃まで働きたかったのだが、学校側の許可もジム側の許可も降りることはなかった。
ジムの場所は学校から見ると東、つまり中央区側にある。
湊太郎は大明地区に屹立するジムを出ると西区方面へ歩みを進めるが、見慣れた小道の中腹で普段は消えているはずのライトが未だに灯っていることに気付いた。
それは毎週末世話になっているアクアスケッチだった。
通常営業時間は20時までである。
そこから掃除やミーティングを行い、翌朝の準備を終わらせて完了である。
どんなに遅くとも21時過ぎには完全に無人となるはずであった。
リンリン――とドアに設けられたベルの音と共に湊太郎が「お疲れ様です」と声を掛けると、ショップに残っていたオーナーの和歌村が湊太郎に視線を移し「おう」と短く返事を返した。
「どうした高校生、バイト帰りか?」
湊太郎はハイと返事を返すと続けて口を開いた。
「電気がついてて気になったんで……。オーナーは何してるんですか?」
「大人には残業しないといけない日もあるんだ」
「それにしてはカウンターが賑やかなようですけど」
湊太郎が視線を向けるカウンターテーブルには黒い光沢を放つ一眼カメラと数種類のレンズが散乱していた。
このカメラは水中写真を撮影する為にオーナーが自腹で購入したものである。
専用のケース内にカメラを装着し水中へとエントリーするのだが、そのケースはストロボ照明も専用アームに取り付けられており、サイズも重量もそれなりの物となる。
すべてのパーツを手入れするとなると時間だけでなくスペースも必要だろう。
「家でやるとホコリが入るし、ガキんちょ共が悪さするからな」
「ああ来年で小学生でしたね」
「上の子がな。下はまだ4歳だ」
「なるほど、確かにそれじゃあ家でやるのは厳しいですね……」
「そういうことだ。ま、かみさんには申し訳ないけどな」
和歌村はそう告げると再び視線を手元へと傾け作業を再開した。
「ところで湊太郎。楓ちゃんには挨拶できたか?」
「秋本さんでしたよね」
「素直でかわいかっただろ」
「いやいや、顔もクラスも分らないんですから会えるわけないじゃないですか」
「なんだ。まだ会ってないのか。そんなの気合だ気合。俺の若い頃なんか違う学校の女子を追っかけて校門前で待ち伏せしたもんだぞ」
「今やるとストーカーになりますよ」
「馬鹿タレ。こんなもんがストーカーに入るか。それに俺が追っかけてた女子は競争率が高くて、他にも大勢出待ちしてたもんだ」
「お~、それはすごいですね。当然オーナーがゲットしたんですよね?」
「そこは……お前聞くなよ……」
「……なんか……すいません。で、でもそれがあったから今の奥さんと結ばれた可能性もありますし」
「いいこと言うじゃないか。まーあくまで青春の1ページっつーことだな。男は苦い経験をして大人になっていくんだ。どうだ湊太郎。お前は彼女の一人もつくらんのか?」
「自分はそういうの興味ないですから」
「興味ないことはないだろ」
「全くないって言ったら嘘になりますけど、好きな人が出来ない以上どうしようもないですし……」
「付き合ってから好きになってもいいんじゃねーのか?」
「じゃあそれで好きになれなかったらどうするんですか?ごめんなさいって謝って終わるんですか?」
少し強い口調で湊太郎が反論すると、和歌村は一瞬だけ視線を上げ「結果的にはそうなるだろうな」と告げた。
「それってすごく相手に対して失礼だと思いますけど」
湊太郎は和歌村の反応に呆れると、その感情を隠す事もなく言葉を返した。
「だから自分にはそいういの出来ないです」
「古風っつーか、頭が硬いっつーか。そういうところは親父に似る必要は無かったと思うんだがなあ。性格も含めて年々近づいてるぞ」
予想外の言葉に湊太郎は内心で驚きながらも、父に似てきたという和歌村の言葉に嫌な感情は抱かなかった。それよりも大好きだった父の姿をこういう形でも追えているのならば、それはそれで嬉しいとさえ思えた。
「褒め言葉として受け取っておきます」
水を得た魚とは言いすぎであるが、満面の笑みで返した湊太郎を見た和歌村は豪快に笑い声をあげた。
「お前もイッチョ前に言うようになったじゃないか」
「一応高校生ですから」
「なるほどなるほど。だったらもうそろそろ帰る時間だ。補導されても知らんからな」
「わかってますよ。そもそも長居するつもりは無かったですし、灯りが気になっただけです」
「時間外でも気に掛けてくれるなんてバイトの鑑だな。そこまで想ってくれるなら楓ちゃんのフォローを頼んだぞ」
「いや、だから顔も判らないのに」
「そんなの調べれば一瞬だ。俺なんて他校の生徒を調べられたんだ。同じ学校なら楽勝のはずだ」
「それはそうですけど、でも」
「でもじゃない。今夜こんなところに顔を出したお前の負けだ。観念して楓ちゃんのフォローしろ」
同じ学校の同じ学年から、秋本楓なる人物を探し出すことはさほど難しいことじゃないだろう。しかしフォローしろと言われても何をしたらいいのかが判らない。挨拶ついでに握手を交わして、『これからもアクアスケッチをご贔屓に』なんて言ったところで会話は終了。あとに続くのは微妙な沈黙である。知識的な部分を披露するのもなんだか厭味ったらしいし、いきなりそんな雰囲気に出来る自信もない。湊太郎は思考を巡らせるが有効な手立てが浮かぶことはなかった。
「フォロって言われても……。それにもし仮に見つけたとして何をすればいいかも」
「そんなの簡単じゃーか。小学生でも出来るさ」
「いや具体的にフォローの内容が」
「友達になったらいいんだよ」
「ともだち?」
想定外の切り口に思わずリピートした湊太郎は困惑した表情で和歌村を見つめるが、その反応を楽しむように彼は笑みを浮かべ口を開いた。
「簡単だろ」




