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入口に設けられた来客を告げるベルを響かせ、遠慮がちに身体を滑り込ませたのは制服姿の楓である。
内部は前回同様オレンジ色のライトに照らされており、エアコンによって温められた空 気は外の肌寒さを一蹴してくれる様に優しく出迎えてくれた。
同時に「いらっしゃい」と女性の声が届く。
「こ、こんにちは。遅くなってすみません」
反射的に挨拶を返した楓が頭を下げ、改めて店内を見渡すとそこには一人の女性が腰に手を当て佇んでいた。
白のYシャツ、袖は肘まで巻くり上げている。ジーンズはダメージ加工されているのか使い古されたのか判らない程度に色が褪せて、足元はボロボロのスニーカーを履いている。
しかしそのラフな出で立ちとは裏腹に、楓が彼女から受ける印象は、気品や優雅を感じさせる圧倒的な女性の美だった。
緩くねじって編み込んだ髪はそのままバレッタでルーズに留めているが関係ない。宝塚スターのような鋭い瞳、すらっと伸びた脚に胸部から腰に掛けての流線。
同世代の女子では到達できない大人の魅力がそこにはあった。
「こんにちは楓ちゃん。私は上尾玲子、これから一緒にがんばろうね」
玲子から差し出された両手が、楓の空いた左手を包むように掴み握手を交わす。
玲子は戸惑うばかりでろくに返事も出来ない楓をリードするように奥へと通すと、手前のソファーへ腰を掛けるように促した。
「あ、あのっ、こ、こちらこそよろしくお願いします」
頭の中では遠の昔に告げていた言葉を、やっと振り絞った楓が申し訳なさそうに浅く腰を降ろした。
「楓ちゃん。そんなに遠慮しなくていいのよ。ここはまあ溜り場のような感覚でいてくれればいいから」
「溜り場?」
楓にとって溜り場という習慣が、日常的な部分で存在しているわけもなく、さらに言えば単語としても存在しているわけも無い。つまりその言葉の意味に思考が巡るのに随分と時間を要した。
「溜り場……」
「そんなに悩まなくてもいいから」
思わず唇から笑いが溢れた玲子が口を挟むと、白い湯気を上げるカップを楓の前に差し出した。
「ココアは嫌いじゃないでしょ?」
「あっ、はい。だ、大丈夫です」
「このココア、すぐ近くの輸入雑貨屋から買ってきたんだけどすごく美味しいのよ。でも残念ながらうちのスタッフにココアを愛でる人は居ないから」
そう告げた玲子も自分用に注いだカップに唇を近づけると香りを楽しむようにゆっくりと口をつける。
その仕草を目で追っていた楓もつられるように両手でカップを掴み、息を吹きかけ恐る恐る唇をつける。
一口、そしてゆっくりと味わったあと二口、そして三口。
はぁ~っと思わず溜息が漏れる。
「美味しい?」
目を細め笑みを浮かべた玲子の問いに楓は大きく頷くと、カップをテーブルに置いて口を開いた。
「とても、……とても美味しいです。それに」
「落ち着いたでしょ?」
「はい。とても……」
それはよかった。
玲子はそう告げると少し待っているように楓に告げるとスタッフルームの奥へと姿を消した。
時間は17時を少し回ったあたり。ソファーに座っているのは楓一人だけだった。
先週末に訪れたスキューバダイビングショップ『アクアスケッチ』で、楓は最終的にその手ほどきを受けることになった。
彼女の中では自分がダイビングをするという絶対的で避けられない不安から、この話しを断る選択をしたつもりだった。
しかしそんな楓の不安を肯定し、一度チャレンジしてみてはどうかと諭したのは父だった。
『逃げてもいい。諦めてもいい。だから一度くらいチャレンジしてみてもいいんじゃないのか? 実は僕も母さんと潜ったことがあるんだ。楓が生まれる前、新婚旅行先なんだけどな、あれは楽しかったよ。いつか子供が生まれたら家族で潜れたらいいねってあいつも言ってたよ』
珍しく母のことを語る姿を見た楓は、父の瞳が遥か遠い過去を見ていることに気がつき、 言葉にならない寂しさが胸に広がっていく感覚を覚えた。
それは過去に想いを馳せる父の姿が発端となり、求めても与えられることの無かった『母性』への渇望に襲われたからである。
だから楓は、今までそうしてきたように、今回も『我慢』を選択した。
前向きに楽しむためにスキューバダイビングを選択したのではない。
求められたことに応えるためだけに海に潜ることを選択したのだ。
それはいつか訪れる水中での恐怖を棚上げし、今、目の前の要求を否定する勇気を持てずに場当たり的に対処しただけに過ぎない。
だからこそ、楓は今日、この日が憂鬱で堪らなかったのである。
やる気が無いわけではない。
ただ不安で不安で落ち着くことが出来ない状態だった。
だから先ほど玲子がいれてくれたココアの甘味が舌を潤す度に、朝から続いていた緊張が少しだけ解れたことに気がついた。
それにてっきりオーナーが出迎えてくれると思っていたこともある。
優しい方だと知ってはいるが、あの迫力を目の前にすると鼓動がワンテンポ早く脈を打つ。その覚悟をした上で恐る恐るショップに足を伸ばしたのだが、迎えてくれたのは気さくで落ち着きのある素敵な女性だった。
落ち着きを取り戻した楓が、思い出したように鞄からブルーの分厚い教本を数冊取り出すと、揃えてテーブルの上に置き、続いて筆記用具を取り出した。
教材にはダイバーマークが描かれたロゴと、
表紙に OPEN WATER DIVER Manual っとプリントがされていた。
楓が本日、ここに訪れた目的は、オープンウォーターダイバーライセンス(OWDライセンス)を得るために必要な座学を受ける為である。
ライセンス取得までのステップとしては以下が挙げられる。
ひとつは「知識開発」、つまり必要な知識を得るための講義である。
そして「限定水域ダイブ」、これは基本的な技術を習得するためのプール実習となっている。
そして最後が海洋実習「オープンウォーターダイブ」である。
この三つの過程をクリアし、最後の認定ダイビングで、認められることにてよって初めてOWDライセンスを得ることが可能となる。
ちなみに、このOWDライセンスはPADIが指定するダイビングライセンスとしては初級のものであるが、水深約18mまでのダイブが可能であり、また自己でダイビングの計画立案し、バディシステムを順守しながらダイビング行うことが可能となる。
つまりそれは駆け出しではあるが、一人前のダイバーとして正式に認められることになるのだ。
「楓ちゃん今日はよく来てくれたね」
不意に声が掛けられた楓が振り返ると、そこにはオーナーの和歌村がビニール袋を下げて立っていた。
顔は輝くような満面の笑顔。
楓は突然の衝撃に平静を崩さぬよう堪えながら挨拶を返すと、続けて口を開いた。
「き、今日は本当によろしくお願いします。あ、あの私……頑張りますから……」
「いやいや、気負わなくていいよ。今日は簡単な講義だしね。オレコは僕なんかより分かりやすく授業してくれるから、疑問に思ったことはなんでも質問するといいよ」
「は、はい。がんばります」
勢い良く頭を下げる楓を見た和歌村は少し苦笑いをすると、カウンターの文具たてに挿してあるハサミを取り出すと、ビニール袋の中身に切れ目を入れ、入口の観葉植物の方へと歩みを進める。
しかしその歩みは突如、玲子の一声によって遮られることとなった。
「ちょっとオーナー。土いじりは構いませんけど土がボロボロ溢れてるじゃないですか。それ誰が掃除すると思ってるんですか?」
彼女のハッキリとした声は語気に強みを含んでおり、ココアを入れてもらった時とはかけ離れて凄みを含んでいる。
しかし和歌村はそれを意に介す素振りもなく口答えを返す
「んっ?掃除をするのは掃除当番の役目だろ。そして今日の掃除当番はオレコ。お前だ」
「オレコって呼ばないでください。それに前から思ってましたけど、どうして私が掃除当番の日に限っていつも散らかすようなことをするんですか?」
「それは被害妄想っていうんだ」
「先週、先々週、それにその前も、やれ水中スクーターだの、カメラ機材だの、その梱包材を放置してたのは誰ですか?」
「そりゃ~……藤田だな……」
「ち・が・い・ま・す! チーフは口は悪いですけど、ああ見えて几帳面で典型的なA型気質ですから。誰かさんと違って!」
「ほお~。じゃあ犯人は小林か」
「私はハゲで髭面のおっさんが犯人だと言ってるんです」
「ハ、ハゲって言うな。ハゲは関係ない。それに俺のはスキンヘッドだ」
「スキンヘッドもハゲも毛無しには変わりません」
「ひ、ひどくね?楓ちゃん、この人ひどくね?」
「えっ……、えっと……あの……その……」
不意に飛んできたパスの処理が出来ずに言葉に詰まる楓。
この二人のやり取りをハラハラしながら見ていた彼女にうまく繋げるような返答ができるわけもなく……。
「ごめんね楓ちゃん。このおじさん、こう見えてみ少し子供なの」
「こ、こども……ですか」
子供と言われて楓が改めて和歌村へと視線を移す。しかしそこには巨漢で筋肉質の男性の姿しかない。
「オーナー。残念ながらここはあなたの負けです。分かったのなら箒と塵取りを装備してから土いじりをしてください」
「いや、でも」
「でもじゃないですっ」
「はいはい。分かりましたよ」
「はいは一回、不貞腐れないでください。そもそも散らかさなければ何も言わないんですよ」
「へーい」
そう告げると和歌村は作業の手を止めると掃除道具を取るためにスタッフルームへと入っていった。
「ホント困った人ね。ごめんね楓ちゃん。騒々しくて」
「いや、あの、大丈夫です。それになんというか、改めて考えると仲が良さそうに見えましたから」
「え~。それはちょっと聞き捨てならないけど、まあオーナーのことで時間を浪費するのも勿体無いから早速講義を始めましょうか」
「は、はい」
玲子が楓の対面のソファーに腰を下ろすと、いくつかの教材とホワイトボードをテーブルへと預けた。
「じゃあ早速お勉強と行きましょうか。一応目を通すように伝わってると思うけどOWDマニュアルは読んだかな?」
「は、はい。一応全部読んできました」
「そう、それはよかったわ。じゃあ一つ問題です。海に潜るときに必要な道具はなんでしょう?」
突然の質問にびっくりした楓だったが、すぐに思考を切り替えると、うろ覚えながらも思い浮かぶ単語を口に出した。
「えっと、レギュレーターにBCD、それと酸素ボンベです」
「それだけかしら?」
「えっと……、足につけるフィンが必要ですね。あ、あとウェットスーツも」
「まだまだあるわよ」
笑顔で問いかける玲子とは裏腹に楓は必至に思考を巡らせる。
他に必要な道具があっただろうか? 懸命に答えを思案するが、これ以上の単語が思い浮かぶことは無かった。
「はーい時間切れ。でもいきなりでBCDの単語が出てくるなんて、さすが優等生ね」
「いや、わ、私なんて優等生でもなんでもないです」
「いやいや、中々いないわよ、レギュレーターとBCDを答える人は。でも肝心なモノが抜けてたわね」
「肝心なもの?」
「そう。まずは視界を確保するために水中マスクとシュノーケル。あと細かいことろでは、グローブだったり、今の季節だとフードだったり」
「水中マスク……、失念してました」
「海に行くときは忘れないようにしないとね。それで楓ちゃんが答えた道具を一つ一つ解説しましょう。今から挙げる道具が海中で人を安全に楽しませてくれるものだから、絶対に覚えないといけない」
「は、はい」
「そこまでかしこまらなくても大丈夫だから。じゃあまずは軽器材に分類される装備から」
「軽器材……」
「そう軽機材。三点セットと呼ばれることもあるけど、マスクにシュノーケル。それと水中を効率よく進むためのフィンね。これはもう実物を見なくても想像はつくでしょ?」
「は、はい。大丈夫です」
「もし判らないことがあったら気軽に話しを止めていいから」
「はい。ありがとうございます」
「えっと、それで軽器材があるって言う事は、それに対して重器材と呼ばれる物があります。それがBCDジャケットだったり、レギュレーターだったり、ボンベだったり。ちなみに酸素ボンベって言われることが多いけど、実は酸素ボンベではないの。正確にはエアーボンベ、エアータンクとも言うけど、あのボンベにはただの圧縮空気が入ってるだけなの」
「圧縮空気ですか?」
「つまりこの部屋の空気と同じ成分。乾燥させてあるけどね」
「そうなんですか……知らなかったです」
「これから覚えていけばいいだけよ。じゃあ次はBCDジャケットだけど、どんな形か想像できるかしら?」
「えっと、一応マニュアルに写真つきで載ってました」
「う~ん、ちょっとまっててね。実物があるから」
そう告げた玲子が部屋の最奥へ姿を消すと、すぐに黒いベスト型のジャケットと、いくつかのチューブが繋がった物を抱えて戻ってきた。
「このジャケットがBCDジャケット。このジャケットの中に空気を送りこんで浮力を調整するの。肩から伸びるホースの先のボタンで空気の注入と排出をするのよ」
玲子から手渡されたBCDを受け取った楓は、手に響く重量感に落とさないよう力を込めた。
「結構重いでしょ。身体に装着したらそんなに重くは感じないんだけどね。まあボンベを固定して背負うわけだからBCDの重さなんかより、ボンベの重さの方がよっぽどびっくりすると思うわ」
さらりと恐ろしいことを口にする玲子。すでに楓としては想像も付かないボンベの重さに不安を感じずには居られなかった。
「まあでも大丈夫よ。楓ちゃんよりも小柄な人だって背負えるんだから。それで次はレギュレーターだけど。これはボンベから充填される高圧の空気を、呼吸が可能な範囲まで減圧する装置のこと。真ん中の金具の部分から四方に広がるようにチューブが伸びてるでしょ。ひとつは口に咥えて呼吸をするための物。セカンドステージと呼ばれるわね」
「セカンドステージ?」
「ファーストステージがボンベと環境水圧に合わせた圧力までエアを減圧して、セカンドステージで呼吸を行う。まあこんな感じで覚えてもらえばとりあえずは問題ないかな」
「わ、わかりました」
「そして一本だけある黄色のチューブが、予備のセカンドステージ、緊急時の呼吸源となる、通称オクトパスと呼ばれる部位ね」
「緊急時の予備……。上尾さんは使ったことがあるんですか?」
「玲子で良いわよ。ちなみに私は実際に無いかな。滅多な事は早々起きないし、起こさせない。それに私たちインストラクターがしっかりしてればいいだけのことだから」
「れ、玲子さんは強いんですね」
「強い?私が?」
「……はい」
その返答に驚いた玲子が笑い声を上げると、ありがとうと言葉を返して、改めて説明の続きに入った。
「それでこのレギュレーターにはあと3本のチューブがあるけど、ひとつはボンベ残圧を計るための残圧計。そしてもうひとつがBCDに繋げて空気を送るチューブ。そしてすこし長めのこのチューブが、ドライスーツに繋げて、スーツ内部に空気を送る分」
「ドライスーツ? ウェットスーツとは何が違うんですか?」
「いい質問ね。ウェットスーツは言葉の通り、水に濡れるスーツのこと。もちろんスーツ内部は浸水するわね」
「冬もウェットスーツを着て潜るんですか?」
「まさか、実際ウェットスーツを着て潜るのは7月~9月の間だけで、それ以外の季節はドライスーツを着て潜ることになる。このドライスーツは言葉通り、ドライ。つまりスーツ内部に水が浸入してくる事は無いわ」
「そんなこと可能なんですか?」
「信じられないでしょうけどそれが出来るのよ。すごいんだから。私は2月にもなるとインナーを4、5枚は着て海に入るわね」
「そ、そんなに着ても大丈夫なんですか?」
「どんなに綺麗な景色でも、寒かったら台無しだから。防寒対策は過剰なくらいが丁度いいのよ」
「そこまでして冬の海に潜るなんてすごいですね」
「まあ、人は確実に少ないわね……でも冬にしか見れない景色も沢山あるし、生き物なんて夏と海では全く違うから、その違いを見るだけでも充分価値はあるわよ」
「そうなですか」
「まあいろいろ覚えながら、潜るだけじゃなくて、潜って何をするかを見つけたらいいと思う」
「潜って何をするか……? 潜って景色を見ることが目的じゃないんですか?」
「う~ん。それもひとつの目的だけど、それプラス、もう一歩踏み込んで、海中で何をするのか。例えば写真を撮りたい、とか特定の生き物を一年にわたって観察したい、とか夜の海に潜りたいとか、沈没船を探検したい、海中の洞窟を探検したいとか、やろうと思えばいろんなことがあると思うの。だからただ潜るだけじゃなくて、もう一歩先の目標を見つけて欲しいと、私たちアクアスケッチにスタッフは考えているわ」
「も、目標ですか……」
「なんでもいいのよ。でもそういう風に考えたほうが絶対楽しい。だから少しずつでいいからゆっくり考えてみてね」
その言葉に楓は実際に潜るという行為自体に現実感を感じて無いながらも、少しだけ胸にときめきの様なものを感じていた。
「さあ、先はまだ長いわ。次はダイブコンピュータの説明よ」
「腕時計のような機器のことですね」
「さすが楓ちゃん。じゃあパパッと進めるから、付いてくるのよ!」
「は、はい」
楓は玲子と接することで、ほんの数分前まで感じていた例えようも無いプレッシャー、ダイビングへの恐怖が薄れていたことに気がつくことになるが、それに気づくのは20時を回り父親の迎えで帰途に付いている途中のことである。




