第10話
「……お腹が空いてしょうがないの」
「は…? 何の話だ?」
何の脈絡もなく放たれた言葉に、セオは訝しげに眉をしかめる。
しかし、女はセオに語り掛けるというより思いを吐露しているだけのようで、構わず言葉を紡ぎ出し続ける。
「誰だって、美味しいもの食べてお腹いっぱいになりたいでしょ? アタシにとってのご馳走はニンゲンの男の淫欲の感情なの。…アナタ、若くて血気盛んって感じだし、美味しそうだわぁ」
「……へ? え、ちょ、もしかして…えぇ?」
くらくらする頭を何とか奮い立たせながら、必死に思考を巡らせる。
夢魔の女の台詞に流石に察するものがあったようで、鈍感なセオも漸く女の目的に気付いてさらに顔を赤くする。
「で、でも、夢魔は人間の夢を食べるんじゃ…?」
「あら、物知りねぇ。ニンゲンだって色んな味覚を持ってて色んなモノ食べてるじゃないの。それと同じよ」
クスクスと妖艶に微笑みながら、女のねっとりとした熱視線はセオを捕らえて離さない。
じりじりと後退るセオを、女は嘲笑うように見つめる。
まるで、自ら張り巡らせた蜘蛛の糸に絡み付いた哀れな蝶を嬲るように。
「そんなに恐がらなくてもいいじゃないのぉ、ショックだわぁ。大丈夫よぉ、痛くもないし取って食べたりしないから。…あぁ、別の意味で美味しく頂くけどね」
「冗談、じゃない…! はいそうですかって従える訳…っ、無いだろ」
僅かばかり残された理性にしがみ付きながら、それでも尚抵抗の色を見せるセオ。
すると、女は不思議そうに首を傾げる。
「どうして? 別に死ぬ訳じゃないからいいじゃない。…フフ、それとも怖いのぉ? だったら大丈夫よぉ、アタシが気持ち良くしてあげるから」
「そういう、問題じゃなくて…っ。俺はあんたとそういう事するつもりはない、って言ってるんだ…! 大体、俺はあんたの餌になんかならない…っ!」
さらに火照る身体を自分の腕で抱えながら、それでも必死に抗おうともがくセオ。
しかし、何故そこまで抵抗されるのは皆目見当がつかない夢魔の女は首を捻るばかり。
「餌になるのが嫌なのかしら? でも、アナタ達だって生きる為に動物を殺し、植物を殺すんでしょう? それと同じじゃない、むしろ殺さないだけアタシの方が善良だと思わない?」
「……っ」
確かに、女の言う事も一理あると思ったのか、反論の言葉は見つからなかったもののそれでも抵抗の素振りはそのままにセオは女を睨み付け続ける。
その折れない闘志に夢魔の女もまた火が点いたらしく、彼女の瞳に挑発的な炎が灯る。
「…そう、それならこっちも余計引き下がりたくなくなったわ。意地でもアナタを餌にしたくなった」
刹那、部屋中を漂う甘ったるい香りが一層増したような気がした。
──否、セオの勘違いでは無く部屋に撒き散らされた魔力が一層濃くなったのだ。
セオを意のままに操る魅了の魔法。
「……くっ、身体が…熱い…」
身体が疼く。口から零れるのは熱を帯びた荒い呼吸ばかり。
甘い香りに、思考も何もかも飲み込まれてしまいそうだ。
──そういえば…何で俺はこんなに耐えてるんだっけ?
──そもそも俺は何で此処に居て、何をしようとしていたんだっけ?
──何だっけ…もう、どうでもいいか。楽になれるんだったら…。
セオの双眸から、光が失われてゆく。
それに気づいた夢魔の女がゆっくり彼に歩み寄り軽くセオの肩を押しただけで何の手応えも無くセオの身体は壊れた人形のように背後のソファに沈み込む。
セオを手懐けたと確信した夢魔の女は微笑む。歪んだ笑みを口元に浮かべて。
ゆっくりと女がセオの肩に腕を回す。そして二つの影が重なった──その刹那。
突如窓ガラスが割れる音と共に、鋭く空気を突き抜ける音が辺りに響き渡る。
窓を突き破って放たれた光の筋はそのまま一直線にセオと夢魔の女──むしろ夢魔の女1人を狙ったものに思えた──に襲い掛かる。
突然の予期せぬ来訪に女は驚愕の表情を浮かべるもすぐさまセオから退いて背後に跳ぶ事で回避するが、反射的に身体が動いただけで一体何が起こっているのかも理解出来ていない様子。
驚愕と焦りに支配された表情を浮かべながら破られた窓を見遣れば、そこに一つの人影がある事に気付いた。
「セオ君っ、大丈夫!? ちょっと、君一体何なのよ!?」
人影──レネードは焦りと怒りを孕んだ双眸で夢魔の女を睨み付けながら室内へ慌てて入り込む。
彼女の両手には僅かに魔力が残っており、どうやら先程の光の矢はレネードが放ったものであろう。
だが、レネードは室内に入るなりその中に充満する甘い香りに不快そうに眉をしかめる。
「うわ、何この甘ったるい香り…気分悪くなりそう」
眉間に皺を寄せながら不快感を露にしていると、夢魔の女の方から話しかけてきた。
「あら、いい香りじゃない。少なくともそこの坊やはそう思ってるんじゃないかしら?」
女の言葉にハッとなってソファの方へ視線をずらせば、其処にはぼんやりした眼差しで荒い呼吸を繰り返すセオの姿。
この有様を目の当たりにして瞬時に察知したのか、レネードは憎しみの籠った視線を女にぶつけた。
「この甘い香り…夢魔特有の誘惑の魔法ね。同族のあたしは勿論、人間の女の子にも効かないし…人間の男だけを虜にするんだっけ。それを使うって事は…君、ただの夢魔じゃなくて淫魔ね?」
「よくご存知ねぇ。…って、同族なら当たり前かしら」
「同族じゃないわよ、君達と一緒にしないで」
レネードの言葉の通り、夢魔と一言に言っても様々な亜種があり、純粋に人間の夢を糧としている者が夢魔、人間の性欲を糧にしている者が淫魔と呼ばれる。
外見上は全く相違点は無く、糧となるものだけが異なる為に所持する魔力なども似通っており、その為他種族が夢魔と淫魔を見分けるのは極めて困難である。




