教室主義茜色派5
まあ俺も健全な男子高校生であるからして。
異性だとか恋人だとか、そういった方面に興味がないとは言わない。いや、むしろ興味津々だと断言してもいいだろう。
だが森瀬からそれを言われたときに、俺の頭に浮かんだ感情は歓喜や羞恥などではなく、むしろ疑念と違和感だった。
俺と森瀬の間に、入学して知り合って以来、そのような展開へと至る伏線があったとは関知していない。
現実は小説ではないのだと言われてしまったらお終いだが。しかし、何かしらの切欠があってもよさそうなものなのに。
「……なんで?」と、思わず訊いてしまった俺を、いったい誰が責められるだろう。
――言わずもがな。
それは森瀬双里をおいて他にいなかった。
「勇気を出して告白した女子に、なかなか酷いコト言うッスよね、末吉」
「え、ああ、えっと、……すまん」
「冗談ッスよ。末吉はからかい甲斐がありすぎるッス」
「…………」
「黙らないでほしいッスね。少なくとも、付き合ってほしいって言ったのは冗談じゃないんスから」
森瀬の本気は判断しづらい。基本的にダウナー系の彼女は、表情の変化が読みにくかった。無表情というわけではないのだが、変化が小さいのも事実である。加えて冗談めかした発言も多い。冗談と本気の境界が見定めにくい。
まあ、姉さんの鉄面皮に比べれば幾分マシではあるのだが。あの姉の表情を読んできた経験から言わせてもらえれば、森瀬の発言は、本心かどうかはともかくとして、少なくとも本気ではあるようだった。
けれど、
「何か、理由があるのか?」
俺は問う。
浪漫を期待しないわけではないが、素直に信じるほど純真でもない。俺たちくらいの年齢ならば、たぶん誰もが敷く防御線だ。
「さすがと言うべきか、敏いッスね、末吉」
案の定、と言うべきか。
白々しく言ってのける森瀬に、俺は肩を竦めて答える。
「コーヒー奢ったから付き合ってくれ、なんて普通は言わねえだろ」
「まあ、あんまり乙女っぽい発言ではなかったッスね、我ながら」
「『好き』だって告白されたなら浮かれたかもしれないが。『付き合ってほしい』と頼まれただけってのは、言い回しとして引っかかる」
「ん? 末吉は、あたしに告白されたかったッスか?」
「そういう話じゃないから」
隙あらばからかってこようとするな、こいつは。
「あははっ」と森瀬は愉快そうに大笑した。「んー、やっぱり末吉に頼みたいッスね、これは」
「……何をだよ?」
「いや、非常に言いにくいんスけどね……」
煮え切らない態度の森瀬。
視線で返事を促すと、彼女は意を決したように言う。
「実はこの前、知り合いに告白されたんスよ」
「……はあ」
俺は関心なく呟く。そんなことを言われても、というのが正直な感想だった。
「おめでとう、とでも言えばいいのか?」
「絶対に言われたくないッス、そんなこと」途端、苦い顔になる森瀬。「それに、断ったッスから」
「で?」
「断ったんスけど……、その、引き下がってもらえなかったんスよ」
「はあ。まあ、ご愁傷様というかなんというか」
「……、それでつい、あたしには付き合ってる彼氏がいる、って言っちゃいまして」
「いるのか?」
「嘘ついたッス……」
言いにくそうに森瀬は答えた。まあ、それは森瀬の自業自得だろう。
けれど、だいたい言いたいことは読めてきた。
それを言葉に出してみる。
「まさかおまえ、俺に恋人の振りをしろ、なんて言わないよな……?」
「そのまさか、だったりして?」
てへぺろ☆ などと宣って森瀬はちろりと舌を突き出す。
俺の手刀は、その脳天にばっちりと突き刺さった。
「舌が痛い!?」
「確かにイタいな、お前は!」
「そういう意味じゃないッスよー」
ひーどーいー、と森瀬は大袈裟に呻いて見せる。俺は意に介さなかった。
「どういうつもりだよ……」
頭を抱える。正直、何かの冗談ではないのかと言う気さえしていた。
「あたしとしても苦肉の策というか、仕方なかったんスよー」
「自業自得だろうが、下手な見栄張りやがって」
「見栄で言ったわけじゃないんスよー、『特定の相手がいないなら、僕が追いかけるのは自由ですよね!』とか言われたんで、つい誤魔化しちゃったんッスよー……」
「なかなか熱烈な男じゃないか」
と言いつつ、そんなに言い寄られても迷惑なだけだろうな、とは思う。
本当に困り果てているらしい森瀬の表情に、さすがに少し、同情を覚えた。
「……まあ、事情はわかった」
「引き受けてくれるんスか?」
身を乗り出す森瀬を、俺は片手で制して言う。
「いや、まだだ」
「少なくとも考慮はしてくれるわけッスね」充分ッス、と森瀬は前向きに言ってのける。「交換条件なら、大抵のことは呑むつもりッスよ」
「その前に」
ひとつ聞きたいことがあった。
それは、つまり、
「何故、俺なんだ?」
ということだった。
森瀬と俺は、確かに一応、友人だと言って差し支えないだろう。このクラスの異性の中では、お互い特によく話す間柄であるとも思う。
だが逆に言えばそれだけだ。
人間関係とは共に過ごした時間が全てである――などとは言わない。けれど時間が意味を持たないともまた言えないだろう。
その点において言えば、森瀬と俺の関係は浅く、そして薄かった。
「……別に、深い意味はないッスよ」
森瀬は小さく肩を揺らして答える。
眉根を僅かに寄せている様は、それが彼女にとっても本意ではないということを表しているのだろうか。
「昨日今日と見たところ、末吉が超ヒマそうだったというのがひとつで」
「おい」事実とはいえ、おい。
「単純に、他にこんなことを頼める相手が思いつかなかった、というのがふたつ目ッス」
「……俺が選択肢の一番上に来るほどにか?」
正直、意外だ。友人が少ないタイプの人格ではないと思うが。
そう言うと、森瀬は恥じらうように頬を掻いた。
「男友達は、実はそんなに多くないんスよ」
「女友達は?」
「イヤなトコ突くッスね、末吉。――そっちも、やっぱり少ないッス」
「……そうなのか?」
「知り合い、なら多いんスけどねー。こんな個人的なコト、頼めるほど親しい相手が、正直思いつかなかったッス」
「この学校にも、同じ中学から来た男子のひとりやふたり、いるだろう?」
「確かにいなくはないッスけど、同じ中学だからって話したことあるとも限らないじゃないッスか。二、三人思い浮かぶッスけど、正直、末吉との方がまだしも会話時間が長いッスよ」
「……なんか寂しいな、おまえ」
「余計なお世話ッス」
と、森瀬はジト目で睨んでくる。
表情変化の少ない森瀬も、不機嫌だけは判りやすい。
「そういう末吉こそ、見るからに友達少なそうなキャラじゃないッスか」
「おまえも大概失礼だよな」
怒らない俺が悪いのかもしれないが。
悪意がないのが判るからか、どうにも怒りが湧いてこない。
「俺は県外から来てるからな。そもそもこの学校に知り合いなんていないんだよ」
「そうなんスか。引っ越しか何かッスか?」
「そんなとこ」
と俺は誤魔化すように言った。この上、姉と二人暮らしだなどという情報まで流す必要はないだろう。
森瀬も「へえー」とだけ零したあとは、追及してくることもなかった。
それはそれで、なんとなく悔しい俺だったが。毒されている。
「――で、どうでしょう」
森瀬は一転、表情を引き締めて俺に向き直る。
さすがに頼みごとをする瞬間くらいは、真剣になることができるらしい。
「引き受けては、くれないッスかね……?」
「……」
「お願いッス! ただ恋人の振りをして、話を合わせて相手に会ってくれるだけで構わないッスから!」
哀願するような森瀬の表情。
正直に言えば、面倒なことこの上ない。何が悲しくて偽の恋人なぞ演じねばならんと言うのか。
恋愛系のストーリーとしては王道という気もするけれど、生憎とこれは現実だ。いざその状況に立たされてみると、厄介だという他に感想がない。
とはいえ――、
「ダメ……ッスかね?」
などと上目遣いの懇願を同級生の――それなりに仲のいい――女子からされて、頼られて、それを無碍に断れるような奴は男じゃないとも思う。
俺は別に女権論者でなければ、まして博愛主義者でもない。森瀬への手助けを同情からのボランティア行為だとは思わないが、かといって素直に引き受けて篤志家を気取るのなんて俺は絶対に御免蒙る。
俺は小さく溜息をつき、
「……わかった。いいよ」
「え、い、いいんスか? 本当ッスか!?」
半ば諦めていたのだろうか。森瀬は多少、大袈裟なまでに驚いていた。
その反応が純粋な驚愕で満ちていたことは、俺にとっては救いのひとつ、なのかもしれないと思う。してやったり、と笑われていたら目も当てられない。
俺はあえて強い口調を作り、
「解ってると思うが、タダじゃないからな。対価はきっちり支払ってもらう」
「もちろんッス! ……あ、あんまり高いと無理ッスけど……」
こいつは俺をなんだと思っているのだろう。
俺はにわかに苦笑を零し、
「舐めんな、金なんか取るか」
「じゃあ、何ッスか……?」
「……ふむ」
ぶっちゃけ全然考えていなかった。
ただで引き受ける、という対応を嫌って要求はしてみたものの、いざ聞かれると思いつかない。
たった一回、恋人の振りをして、森瀬に告白したという誰かさんに会うというだけのことでは、そう大きな顔をして恩に着せることもできない。そうなると、意外と何も思いつかないものだった。
「……う」
と、俺の無言を何と勘違いしたのか、森瀬は何故か身を引いて呻いた。
そして何やら緊張した面持ちで、
「よ、よもや対価はあたし自身――!」
「喧嘩売ってんのか」
「し、仕方ないッスね、背に腹は代えられません。身体までなら許すッス」
「身体『まで』!? までってなんだ、その先には何もねえよ!」
「間違ったッス。本当は唇まででした」
「なんだびっくりしたー……ってそれも充分おかしいからな!? 危うくスルーしかけたけれども!」
「ついにノリ突っ込みが出たッスね、末吉……」
――なんでそんなに突っ込みが活き活きしてるんスか……。
と、森瀬は若干引き気味だった。
正直俺にもわからない。わからないが、少なくとも、活き活きボケてくる奴に言われたくない、というのは事実だった。
「……まあ、思いついたらそのときに言う」
結局、結論はそんなところに落ち着いた。
森瀬は意外にも拍子抜けしたような表情を見せ、
「しっかりしてるんだか無欲なんだか、ぶっちゃけ判らないッス」
「別に。単純な話、何も考えてないだけだよ」
「ああ……」
それで納得されるのもなあ。
時間は、いつの間にやらだいぶ流れていた。
茜に染まり始める教室。暗赤色に沈みゆく世界は、淋しげな孤独感と、包まれるような安心感という、相反するようなふたつの感覚を演出する。
俺は、この時間帯の教室が一番好きだった。
昼でもなく、夜でもなく、けれど夕方とも言い難い微妙な時間帯。
逢魔時。
大禍時。
空間の輪郭がぼやけ、不安を煽る黄昏の中において。
俺のすぐ近くには、柔らかく笑む他人の姿が確かに在る。
そのことが、譬えようもなく心地いい。
「――じゃあ、末吉」
森瀬が言う。
「いや、恋人を演じるわけッスから、せっかくだし名前で呼ぶべきっすかね?」
「……まあ、好きにしてくれ」
「対太」
それだけで、どきり、と心臓が大きく跳ねた。
俺はその動揺を必死で押し隠す。
「いい響きの名前ッスよね」
森瀬は柔らかい笑みを崩さずに言う。
何故だかどこまでも楽しそうに、
「対太。対太ッスね……うん、馴染んできたッス。対太」
「連呼しすぎだ」
言いつつも、悪い気分にはならないものだ。
名を呼ばれると、自分がそこにいるのだという確信が持てるようになる。
だからヒトは、名前を大切にするのだと思った。
「まあ、妙な展開になりましたけど」
「おまえが言うか?」
「犬にでも噛まれたと思って諦めてほしいッス」
「だから、おまえが言うの、それ?」
「――ともあれ」
黄昏模様の教室で、森瀬は俺に、手を伸ばした。
「しばらくの間、よろしく頼むッスよ、対太」
「まあ、……よろしく」
――双里。
と。
こうして俺たちは名前を交換した。それはある種の儀式だった。
契約のための、いわば通過儀礼の一種。
ともあれ。
このような顛末で、俺たちの奇妙な契約関係は成立したのである。
とある麗らかな春の午後。
茜色の教室においての出来事であった。