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教室主義茜色派4

 結局、英語の授業はつつがなく終了した。

 そのまま午前の授業を終え、昼は姉さん手製の弁当を頂く。仕事で忙しいだろうに、まったく頭が上がらない。俺も自分の弁当を作るくらいの調理能力はかろうじてあるのだが、そのための早起きがどうしてもできなかった。

 早く寝ればいい、という問題ではないのだ。早朝に起床する、というその行為自体が俺にとって難易度の高いものなのだから。

 料理の腕で言えば、姉さんは俺より遥か上だ。味にも栄養バランスにも、加えて見た目にまで気を払われた高クオリティの弁当でエネルギーを摂取する。いつもありがとう。ごちそうさまでした。

 午後の授業を、弁当からの活力で乗り切る。

 人間は《慣れ》の生き物だ。入学したてとはいえ、高校での一日は既に生徒たちにとって日々のルーチンワークの一種にまで堕している。小、中と、曲がりなりにも経験してきての高校生なのだから。さすがに勝手は心得ている。順応に時間は取られない。

 俺もまた、すでに高校生活を一種の作業としてこなすに至っている。

 友人との雑談や、教師からの依頼ごと。廊下の端ですれ違った誰かや、伝達事項を伝えてくれた誰か。

 日常において、そういった諸々は全て誤差として処理されていく。

 楽しくない、というわけではない。充実していない、などと嘆くつもりもない。

 むしろ概ねの点に関しては、理想通りの生活構築に成功しているとさえ感じていた。

 大きな不満なんてない。俺の世界はしあわせだった。

 どうあったところで、日常とは時間の流れの底へ埋没していくものなのだから。


「…………」


 ただ。

 そんな中にも、ときおり異物が現れるものだ。

 たとえば人、たとえば物、たとえば出来事であったり、あるいは他の何かかもしれない。

 そして、たとえば。

 俺にとってのそれは――森瀬双里であったりして。


 放課後。

 三々五々教室を去っていくクラスメイトたちと別れつつ、俺は食堂へ向かった。放課後になっても、サイドメニューや菓子の類は購入することができる。

 俺は氷菓をひとつだけ買った。ソーダ味で当たりつきの、有名な棒アイスだ。

 それを齧りつつ、俺は昨日と同じく時間を浪費した。三十分も待てば、恐らくみんな帰宅しているだろう。

「……森瀬は」

 今日も、いるのだろうか。

 変わったクラスメイトのことを思いながら、前歯で氷菓を軋ませた。


     ※


 融けない程度にゆっくりとした速度でアイスを食べきってから、俺は教室へと戻ってみる。

 気体なのか不安なのか、自分でも判然とした思いのままドアを開くと、教室に人の姿はなかった。

「……今日は帰ったのか」

 少し拍子抜けした思いを抱いてしまったことには、自分で驚いた。

 俺は、森瀬にいてほしかったのだろうか。

 もともと、独りでいたいから教室に残っていたというのに。

 釈然としないモノを抱えたまま、俺は通学鞄から一冊の文庫本を取り出して開く。

 今日は読書に勤しむつもりだった。

 読書はたまに選ぶ趣味だ。本の虫と言えるほどは読まないが、活字離れと言われるほど読まないわけでもない。

 一昨日、姉さんが読み終えたという本を偶さか借りていたこと思い出したのだ。放課後に、教室で読もうと思って持ってきたのだ。昨日は寝ぼけて忘れてしまったのだが、今回は夜の内に用意しておいた。

 書の内容は、恋愛モノとミステリをない交ぜにしたようなエンターテイメントだった。割に面白く、時間の経過は早かった。

 小一時間ほど読み耽った頃だろうか。

 元来、あまり長い時間文字を追い続けられる性質たちではない。集中力が切れたので、飲み物でも買いに行こうかと、俺は文庫を机に寝かせた。


「――それ、面白いッスか?」


 その瞬間、心臓が飛び出るかと思った。

 横合いからいきなり掛けられた声に、正直俺は本気でびびっていた。叫ばなかったことは奇跡に近い。

「ずいぶん集中して読んでたみたいッスけど」

「……森瀬か。いつの間にここにいたんだ」

「何言ってんスか。さっきからずっと隣にいたじゃないッスか」

 全然気がついていなかった。

 俺はそんなに集中していたのだろうか。それがまた驚きだった。

「帰ったんじゃないのか?」

「あたしは図書室に寄ってただけッスよ」

 これが証拠ッス、と森瀬は一冊の本を掲げてみせる。

 それは海外SFを翻訳した文庫だった。森瀬が読むというのは、正直イメージにない。

 ちっとも驚いてなんていませんよ、という顔で、俺は森瀬に問いを投げる。

「本、読むのか?」

「人類に対する質問とは思えないッスね」

「…………」

「まあ、そうッスね。好きか嫌いかで答えるなら、愛してるって感じッス」

「……好きか嫌いかで答えてねえぞ」

「あっはっは」

 俺の一応の突っ込みに、森瀬は楽しげな笑みを見せた。

 何故かは定かではないが、このところ、森瀬は俺に対して突っ込み待ちをすることが多くなっていた。俺の突っ込みがお気に召したらしい。

 ……ちょっと素直には喜べないな。

「末吉は、読書、好きじゃないんスか?」

 森瀬に問われる。

「少なくとも嫌いではないな。まあ大好きってほどでもないが。高校生の平均よりは、たぶん読んでる方なんじゃないか」

「なるほど。――それは、いいコトッスね」

 森瀬が笑む。ふにゃっとした、裏表のない、本当に嬉しそうな笑みだ。

 それを見て、思わず言葉を失ってしまう。

 知らず、微妙な面持ちになっていた。それに気づいてか気づかずか、森瀬は俺の方へふと右手を伸ばしてくる。

 その握られた掌の中には、コーヒーの缶がひとつ見えていた。

 怪訝に眉を顰めた俺へ、森瀬が笑って言う。

「どうぞッス。すっきりするッスよ」

「いや……、え?」

「ん? まさかブラックは飲めないなんて言わないッスよね?」

「そんなことは言わないが……」

 そういう問題ではない。

 俺が森瀬に、飲み物を奢られる謂れがないということだ。

「あんま細かいコトは気にしない方がいいッスよ。ちょうど飲みたかったんじゃないッスか?」

 確かにまあ、その通りだ。買いに行く手間が省けて正直、渡りに船という感じではある。

「金は払うぞ?」

 せめてものつもりで俺は言う。

 だが森瀬は苦笑を零しながら首を振り、

「いいッスよ別に。あたしが勝手に買ったんスから」

「……じゃあ、いただきます」

「なんか、無暗に律儀ッスね、末吉」

 別に律儀なわけではない。何か裏があるのでは、と疑っているだけである。

 上手い話には裏がある、というか。所詮は缶コーヒーでしかないのだが、それが森瀬からだと思うと、その背後に何らか思惑を勘繰ってしまう。

 少なくとも、この状況で森瀬が俺に飲み物を奢る理由がないのは事実だった。

 俺はおそるおそる缶を受け取る。

 実際、自分でも何をそんなに恐れているのかという思いはあったのだが。

 どうも森瀬を前にすると、勝手の違う思いを得てしまうのだった。

「……、」

 毒でも入っているんじゃないか、なんて。しげしげと缶を眺めてしまう自分がいた。そんなわけがないというのに。

 さすがに失礼な想像だと反省する。俺はプルタブを押し上げて、ひとくち、中身を喉へ流し込んだ。

 当たり前なのだけれど。

 それは、なんの変哲もないただの缶コーヒーであった。


「――飲んだッスね」

 と、そこで森瀬が言った。

 嫌な予感を覚えつつ、俺もまた答える。

「……まあ、飲んだが」

「つまり末吉は、あたしに借りを作ったと」

「おい……まさか」

「――代わりに、あたしのお願いを、ひとつ聞いてもらいたいんスよね」

 俺は絶句した。

 疑っておいてなんなのだが、まさか本当に裏があるとも思っていなかった。

 つくづく意外性に溢れた奴だ。森瀬相手には思考を外されてばかりである。

「……まあ、聞くだけは聞くが」

 半ば観念するような気分で、俺は森瀬に向き直った。

 正直もう、逆らおうとか、抵抗しようとかいう気持ちがまるで湧かなかった。

 むしろこの思い通りにならない会話を、楽しんでいる自分がいた。

 独りになりたくて残った教室で。

 俺は今、ふたりでの会話に興じている。

 果たして、森瀬もまた笑顔で言った。

 俺へまっすぐに向き直り、まるでその日の天気を訊ねるような気軽さで。

 森瀬双里は――至極あっさりと宣った。


「――あたしと、付き合ってくれないッスかね?」


 俺は訊ねた。

「……どこまでだ?」

 森瀬は笑う。

「本気で言ってるなら蹴り飛ばすッスよ?」


 いや、全然笑えないから。

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