教室主義茜色派3
明くる朝。即ち四月二十八日、木曜日。
午前六時半、俺はけたたましいアラームの音で目を覚ました。
というのは嘘で実は覚ましていない。
脳も神経も、まったく覚醒する気配を見せなかった。低血圧だから、あるいは単に意志が弱すぎるのか、俺は尋常ではないくらい朝に弱かった。
「……ぉう、あ」
言語として成立していない、まるで映画やゲームに登場するゾンビか何かのような呻き声を上げながら俺は俯せになり、左腕を伸ばして、ベッド脇の目覚ましを手探りで止めた。
腕立ての要領で上体を起こし、逆の右手で勢いよくカーテンを全開にする。
朝の陽射しを容赦なく自分の眼球へ送り込み、働かない脳髄の覚醒を促した。
目と口は半開きで、そのままゆっくり五分ほどを費やして、全身を世界へと順応させる。他人には、まあ、見せられない姿であろう。
していると、
「――対太、起きてるの?」
自室の扉越しに声が飛び込んでくる。
凛とした、鈴の鳴るような響き。それは壁を一枚隔てているにもかかわらず、まるで耳元で発せられたかのようにはっきりと届いていた。
決して怒鳴り声ではない。むしろ淡々とした口調なのだが、声音が独特だからか、とても聞き取りやすく、そして逆らいにくい。
一発で、姉の声だと理解した。
もっとも、そもそもこの家には、姉と俺以外にいないのだけれど。
……どうもまだ寝ぼけているらしい。
対太ってのは、つまり俺の名前だったなあ、などと抜けた確認を脳内で行いながら、
「いま起きた!」
と、声を返した。
扉の向こうからは、やはり冷静な、あるいは冷徹にも響く声が届く。
「朝食はできてるから、冷める前に食べること」
平坦で、事務的な言葉の羅列。
俺の姉――末吉雪音は、なんというか、昔からそういう人間だった。
使う言葉は最低限。必要な伝達事項以外は一切口を開かない。無口でも臆病でもなく、またユーモアに掛けているわけでもない。けれど姉は、いつも他人に《冷淡》という印象を与えてしまう。
もちろん家族である俺は、その対応にも慣れている。返す言葉は、こちらも最小限で構わない。
俺は返答に口を開く。
「わかった」
「私は先に出るから、戸締りはきちんと。元栓は閉めてある」
「了解」
「帰りは遅くなる。対太は?」
「……どうだろう」
その問いにだけ、少しだけ答えを迷った。
「たぶん、少しだけ居残るかな」
「そう」
「夕食は俺が作っとくよ。姉さんも、家で食べるんだろ?」
「そうね」
――じゃあ、行ってくるわ。
と、玄関ドアの開閉音が耳に届く。必要な会話はすべて終えたとばかりに。その切り替えのよさは、弟ながら見事なばかりとしか言いようがない。
「そんなだから、二十六にもなって独り身なんだよなあ……」
自分のことは棚に上げて、俺は歳の離れた姉の将来を嘆いてみた。本人に聞かれたら、間違いなく氷の視線で刺されてしまうだろう。
むしろここは、感謝すべき筋合いなのかもしれない。なぜなら俺は、姉が独り身であるからこそ親元を離れて暮らせているのだから。
――雪音の監督下で暮らすこと。
両親のいる地元から離れるために、それが課された条件だった。
この程度ならば、呑むのに否があろうはずもない。
もっとも、姉さんがどう考えているのかまでは、正直なところ想像がつかなかった。少なくとも表だって嫌がられはしなかったが、その内心は、俺には読めない。
心配してくれていることは、理解しているのだけれど。
ともあれ、
姉さんとの会話のお陰で、意識はずいぶんとクリアになった。
寝起きの、頭の中に靄がかかったような気分が俺は好きではない。別に嫌いというわけでもないが、昔から二度寝で遅刻するような事態が多々あったため、覚醒直後の自分には信用が置けない。
とりあえず顔を洗うとしよう。
そう考え、俺はもぞもぞとベッドから這い出ていった。
――俺は今日も、学校である。
※
教室を開けると、すでに全体の半数以上の生徒がわらわらと雑談に励んでいた。
自宅から慧嶺までは、自転車→電車→徒歩のぬるいトライアスロンでおよそ二十分ほど。割に近場であるがゆえに、むしろ出発はギリギリになってしまう。朝が極端に弱いことも影響しているだろう。
今のところは、なんとか無遅刻をキープできている。この先も維持していきたいものだ。
俺は自席へ向かった。
……森瀬は、どうやらまだ登校していないようである。
「――……」
いや、そんなことはどうでもいい。
俺は鞄から教科書を取り出し、机の中へと移していく。
今日の一限は英語だったか。当てられる順番ではないはずだが、一応、予習の確認くらいはしておこう。
そう考えて席に着き、筆入れを取り出しノートを開く。
おお我ながら、なんと優等生な行動か!
感動を脳内で自演しつつ、シャープペンをカチカチと数度ノックする。
声をかけられたのはそのタイミングだった。
「――末吉くん、おはよー。朝から予習なんて偉いねー」
ほにゃり、とか、ふにゃら、とか。擬音にするならそんな感じの、どうにも気の抜けた色の声が耳朶を揺さぶる。
雪音姉さんとも、もちろん森瀬とも全然違うそれは、けれども記憶にある声音で。
俺はペンを置き、顔を上げて挨拶に応える。
「氷見谷か。別に偉くはないが、おはよう」
「わわ、謙遜だねー」
よくわからない驚きを見せる彼女は、名を氷見谷叶というクラスメイトだ。席替えの際、俺の斜め前(つまり森瀬のひとつ前)に位置した縁から話すようになった。
小動物っぽい、とでも言うのだろうか。人当たりがよく付き合いやすい性格をしており、その喋り方には奇妙なリラックス効果がある。
ふわふわしているのだ。
話し方も、纏う雰囲気も、ついでにその髪型も。
「末吉くん、英語当てられてたっけ?」
あれー、とでも口走りかねない感じに、氷見谷は首を傾げる。
このクラス担当の英語教諭は、毎授業の最後で名簿の順に則って何名かの生徒を指名する。指された生徒は次の授業で、割り振られた分だけ教科書の英文を和訳してこなければならない、という方式を採っているわけだ。
「当てられてないけどね。まあ、念のために」
俺は答える。
というのも、休みの生徒がいたり、もしくは教師の稀に気紛れによって、和訳発表の担当が土壇場で変更されることがあるからだった。
全員が訳していることが前提で、あくまで発表者は代表に過ぎないという理屈。指されても文句は言えないわけだ。
「そう言う氷見谷は、俺の記憶だと、確か今日指されてたと思うけど」
「んー、実はそうなんだよねー」
ほにゃり、と何故か相好を崩して氷見谷は言う。
自分の席に座ると、椅子をこちらに引き寄せ、
「末吉くん、よかったらノートの訳見せてよ」
「訳してないの?」
「ちゃんとやってあるよー」ほら、と氷見谷は自分のノートを開いて見せる。「かくにんかくにん」
「そうだね、答え合わせしようか」
断る理由もなく俺は頷いた。
クラスメイトと、顔を突き合わせて一緒に勉強する――。
ああなんと高校生らしいシチュエーションだろう。感動すら覚えるようだ。
俺は、そんな風に考えていた。
互いに訳文を確認していると、ふと氷見谷が顔を上げて俺に訊ねてきた。
「末吉くんさー」
「ん?」
「昨日カラオケ来なかったけど、何か予定合ったの?」
「……あー」
と俺は答えに詰まる。
そういえば、氷見谷もカラオケに行った組だったのか、と。
しかし何故そんなことを訊くのだろう。よもや大して予定などなかったことがばれているのだろうか。
顔には出さず、しかし確かに狼狽していた俺へ、氷見谷は手の中で消しゴムを弄びながら言う。
「残念だなー。末吉くんの歌、聞いてみたかったんだけどー」
どうやらただの雑談らしい。俺は胸を撫で下ろした。
よかった。教室に居残るために断ったなどと知れたら、入学早々《付き合いの悪い男》というレッテルを張られてしまう。それは避けたかった。
本当に避けたければ、素直に行けばよかったのだが。
我ながら何をしているのか、というか何がしたいのか。自分でも、よくわからなかった。
そんな内心とはまったく無関係に、舌の方は滑らかに動く。
「俺、別に歌は大してうまくないぞ」
「謙遜?」
「事実。――そういや、氷見谷は歌が上手いらしいな」
「ひゃー。誰から聞いたの、そんなこと」
「中藤。同じ中学なんだろ?」
「あ、中くんかー。いや、別にそんなに上手くないんだよ? 歌うのは好きなんだけど」
「なるほど。それは聴いてみたいな」
「わちゃー、なんかハードル上がってますやーん」
妙な訛りを加えて話す氷見谷だったが、その表情は楽しげだ。
歌うことが好き、というのは本当なのだろう。
俺はと言えば、上手く話題を逸らせたことを喜んでいたが。
と、また教室の扉ががらりと開く。
位置関係上、人の出入りがよく見えるため、今回もそれを視界の端でと捉えていた。
――いや。あるいは俺は心のどこかで、その姿を探していたのかもしれない。
入って来たのが森瀬だと判った途端、視線がそちらへ吸い寄せられるように向いてしまったのだから。
「……!」
驚いたのは、森瀬もまたこちらを向いたことだった。
それは驚くことではないのかもしれない。彼女の席は俺の隣側なのだから、彼女の視線がこちら方面を向くのは自然だろう。
「――――」「――――」
視線が交錯する。
それは偶然だったのだろうか。それとも違ったのだろうか。
わからないが、いずれにせよ目があったことは事実だ。
一秒か、二秒だったか。とにかく本当に短い時間だけだったけれど、俺は森瀬を見て、森瀬はまた俺を見ていた。
それだけのことが、何故か心臓を揺り動かした。
森瀬はふっと視線を逸らす。俺もまた、すぐに手許へ視界を移した。
「……末吉くん?」
会話の間に、いきなり俺が静止したからだろう。氷見谷が怪訝そうに首を傾げた。
俺は「なんでもない」と即答し、氷見谷に次の文章を確認しようと促した。
その間に、森瀬が近くまでやって来ていた。
氷見谷が頭を上げ、森瀬に向かって挨拶を投げる。
「あっ、ふたちゃんおはよー!」
「おはよッス」
ふたちゃん、の呼び名で吹きそうになったのは全霊で堪えた。
双里、だから、ふたちゃん。それはわかるが、しかし森瀬には似合わない。
と、横目に窺う森瀬の口元が、一瞬だけ引き攣ったのが俺には見えた。――笑いそうになったこと、たぶんばれている。
森瀬は困ったようで氷見谷へ頼む。
「ふたちゃんは、できればやめてほしいんスけど……」
「ええっ……かわいいのに」
「やめてくれなきゃ、そっちのコト、かなちゃんって呼ぶッスよ?」
「いいよー」
「あ、あれっ、嫌じゃないんスか!?」
「どうして?」
「……………………ぼ、墓穴を掘ったッス」
「――く、ふ……っ!?」
堪え切れず、俺はそこで吹き出してしまった。
本気で意気消沈する森瀬が面白すぎて、俺は肩を震わせることをやめられない。
「……何笑ってんスか、末吉」
刺すようなジト目で、森瀬がこちらを睨んでくる。
俺はまだ若干笑いつつも、
「ごめんごめん」
と森瀬に謝意を告げる。
「まったく誠意が見られないッス」
「だから悪かったって、――ふたちゃん」
「ぐあ、やめるッスぅ……末吉に言われると怖気が走るッス……!!」
「地味に酷い反応だな!?」
無駄に傷つけられた俺は叫んだ。お互い様だが。
すると、何故だか氷見谷が驚いたような表情で言う。
「……あれ? ふたりって、そんなに仲良かったっけ……?」
鋭い、と俺は若干びびった。
別に何があるわけでもないのだが。どうも心臓が小市民的で困る。
誤魔化すように首を振り、
「別に、普通だよ」と俺は言う。
「そうッスね、普通ッス」と森瀬も言った。
「ふうん……?」
ただひとり、氷見谷だけは、納得がいかないとばかりに首を傾げていたのだが。
まあ、そんな朝の顛末であった。